牡羊座・水牢殺人事件Novel
「──テオ・シリル・アリエス。お前を逮捕する」 耳に落ちた言葉は、がちゃりとかけられた重い銀の輪は、暗くテオの脳裏に響いた。 2021年、8月28日。うだるような暑さがようやく和らぎ始めたロンドンの片隅で、テオ・シリル・アリエス、マジシャンと探偵を兼業としている男性の緊急逮捕が決まったのは。その事件が発生した、僅かに30分後のことだった。 彼の背後ではゆらゆらと赤く金魚のように血がけぶる水槽が鎮座しており、命を失った人型の塊がぼんやりとテオを見つめていた。 8月20日。 こんこんこん、と軽やかなノックが三度テオの耳を擽る。勤勉な郵便局員が多忙なテオに郵便が届いたことを知らせる音を聞き、テオはドアの内側、床に滑り落ちた手紙やら新聞やらを取り上げる。 本日のロンドンは晴れ。霧の街と呼ばれるこの場所も、晴れ渡る青空を拝むことができる日も少なくはない。べったりと纏わりつく湿度だけが不快指数を上げてくるが。 太陽に愛される褐色肌をした青年は窓際のロッキングチェアに腰かけ、ぺらりぺらりと面白そうな情報がないかからチェックする。ロンドンタイムズはいつも通りの退屈さ。こちらは先日の請求書、こちらはポスティングされたチラシ。 寝起きの頭に、紅茶を1杯。開けたカーテンの向こうに、そよぐ新緑。 ひとつひとつ捲っていった先に、ぱたりと上質な封筒が目に入る。彼の瞳の色と同じ真っ赤な封蝋のされた、少しばかり時代錯誤なお手紙。それだけでテオの興味はそそられた。面白い手紙だ、その認識は牡羊座の心臓を擽るに値する。 そうっと破った封蝋と、隅に書かれた『ハイエンド魔術団』との文字を眺めながら。 開いた便箋に視線を移し、手袋の間に封筒を挟み。 中身をじっくりと検分した彼は、白い髪をおかしそうにさらさらと揺らして軽く手元のスマートフォンから目的の電話番号を呼び出した。 ワンコール、ツーコール。 出た相手に、はっきりと笑みを乗せた声で呼びかけて。 「Hi、ダイアナ」 その8日後。稀代のマジシャンにして、邪道のトリックブレイカー。ルビーの瞳とミルクチョレートの肌を持つ探偵。テオ・シリル・アリエス。彼自身がとてつもない事件に巻き込まれることを、まだ誰も知らなかった。 長き夜の探偵たちの事件簿 ─牡羊座・水牢殺人事件─ 8月27日。 ロンドンから電車でしばらく。首都ロンドンのベッドタウン、穏やかなワトフォードに二人の人影が靴音を鳴らして降り立った。 片方はぴかぴかに磨かれた革靴。もう片方はこちらもぴかぴかと光を照り返す赤のエナメルヒール。コンクリートの上で音を立てた靴底が、その横に大きなボストンバッグとスーツケースをどかりと置いたのを認め、ぴーっと甲高い警笛が鳴り響いた。 「長旅お疲れ様、ダイアナ」 流れていく電車をバックに、赤い巻き髪を揺らす女性と白い短髪の男性が向き合う。軽くタイトスカートの裾を払った年若い女性は、その薄い皮膚をふわっと紅潮させながら、声をかけてきた男性に向かってにっこりと微笑んだ。 「いいえ、こちらこそ。ダイアナをお招きいただきありがとうございます、テオ様」 華のある女性だ。やや目立ちすぎるほどに赤く燃え上がる髪はきちんとセットされ、コルセットをつけているのかきゅっと絞られたウエストの上に豊満なふたつのふくらみが乗っている。傍目に見ても美人であると評される女性の名は、ダイアナ・V・キャンサー。テオのご同業、彼の知る13人の探偵のうちのひとりだった。 ワトフォードの駅はやや手狭だ。屋根もないホームをさっさと抜けようと足元の点字ブロックを軽く蹴って、ふたりは通り過ぎる電車を横目にごろりとスーツケースを転がした。 むっとした空気が喉を焼く。先ほどまでの冷房が効いた車内とは大違いだ。 「それにしても」 ぱた、とテオは手扇で首元を仰ぐ。褐色の首元をたらりと汗が伝い、吐き出した吐息がひどくぬるい。 「キミが主人を定めていたとは驚きだったよ」 シャツの赤いタイを緩めて言えば、すぐさまにつんと拗ねたような声が飛んできた。 「ノルン様はただダイアナを雇用してくれただけです。決してご主人様と認めたわけではぁ…っ!」 「ふふ、はいはい」 「それに、今そのお話は関係ありません。今日のお仕事の話が先です!」 本心なのか強がりなのか。ダイアナはきゃんきゃんと甲高く鳴き、彼女の声にテオは軽く記憶を巡らせた。 7日前、1通の手紙を受け取った日のことを。 受け取った手紙は、ここワトフォードで催される魔術団……手品を中心とした興行を行っている団体からの、ゲスト出演のお誘いだった。 なんでも魔術団の主要メンバーのひとりが、どうしても最終日に都合がつかず、興行に穴が開いてしまうというのだ。そこでロンドンでも高名なマジシャンであるテオに、最終日の特別ゲストとして是非力を貸してほしいという。 8月28日。依頼を受けるにはギリギリの期日だ。もし受けるのならマジックの準備も、それに先方との打ち合わせの時間も急ぎ行わなければならない。 都合がつかないよ、の一言で一蹴しても誰も文句を言わないだろう期日に、しかしなんの気まぐれか。テオはスマートフォンに手を伸ばしていた。舞台で行うマジックなら、大がかりなトリックが必要だ。そしてそんな大がかりな舞台には、華があり、かつテオのマジックをよく知っている助手も必要だと。 ──Hi、ダイアナ。 一度舞台を手伝ってくれたことのある、彼女の名前がすらりと口から飛び出していた。 そこからはとんとん拍子。主人からお休みをもらってきますね、といきいきと話す彼女の答えは最初から決まり切っているようで、テオとしてもやりやすいの一言に尽きる。 魔術団にOKの連絡をし、公演会場の図面をもらい、マジックを考え荷物を手配し。ダイアナからカナダ発、イギリスへの飛行機に飛び乗ったとの連絡を受けた時には。とっくに時間は通り過ぎ、本番前日となっていた。 空港に降り立ったダイアナといったら、以前と変わらずお転婆なタイトスカートで思いっきり跳ねまわり。どこの国を駆けまわろうとも変わらないなとの感想を抱いたものだ。 ロンドン・ヒースロー空港からパディントンへ。ウィルズデンで乗り換えてようやくワトフォードへ。複雑なロンドン市街地の乗り換えを過ぎて、ようやくここ、ワトフォードジャンクションに到着したのはお昼も回った時間だった。 「聞いてますか? テオ様のマジック、今回は何をされるのでしょう。ダイアナはどんなお手伝いをすればいいんですか?」 不満げな顔がずい、とこちらに寄ってくる。 ごめんごめん、と軽く流し、なだらかに傾斜する長いスロープを歩きながらテオは改めて口を開いた。 「明日のマジックには、ウォーターマジックの最高峰、水中脱出マジックを考えているのさ」 「すいちゅう……と言いますと、鎖でぐるぐる巻きになってお水に沈められる、あれですか!」 「そう。ダイアナにはその助手、今回は革ベルトを使うんだけれど、その鍵をかけたり、マジック演出の手伝いをしてもらったりする。できそう?」 ぱちんっとウィンクを投げつつ問いかければ、彼女の答えは明白だ。できない、なんて言葉を吐きたくない性質の負けず嫌いな蟹ちゃんは、もちろんできますとも、と自信たっぷりに胸を張った。 「しかしテオ様、水中脱出マジックは、その……事故も大変多いマジックと聞きます。テオ様の身に何かあったら、ダイアナはショックです」 いつ何時たりとも感情表現が素直な彼女は、自分自身の恥じらいや葛藤は別として、誰かへの気持ちは言いにくいことでもはっきりと言ってしまう。 困り眉の眉間をきゅっとつついて、明らかにテンションが下がったらしい彼女を安心させるようにテオは笑ってみせた。 「心配いらない、ダイアナ。ほらボクの指先を見て?」 こっ、と靴を鳴らして立ち止まる。彼女のグリーンの瞳が素直にテオが差し出した右手の人差し指に向けられ、むむむ、とでも音が出そうなほどに睨みつけてくる。 「ワン、ツー、はいっ」 パキン。 軽やかなフィンガースナップ。一瞬で右手に現れた薔薇の花。ぽかんと呆気にとられたダイアナの小さく開いた唇。 それらに満足げに微笑んで、テオは彼女に真っ赤な薔薇を差し出した。 「ボクは最高のマジシャンだからな」 思わずといった様子で両手で受け取られる一輪の薔薇と、何故か悔しそうに頬を染める彼女はいずれも違う赤色をして。 「今回はそういうことにしておいてさしあげます」 むう、と言わんばかりのグリーンの瞳にさえも、鮮やかなテオの紅玉が映っていた。 ワトフォードの駅を抜ける。ジャンクションと名がつくだけあって、どちらかといえば乗り換えに使われることが多いらしいこの駅周辺にはレストランも多くはない。 ふたりしてスーパーのミールディールを片手に、バスの待ち時間をランチにする。チーズのたっぷり挟まれたサンドイッチを頬張るダイアナは、久々のイギリス料理に良くも悪くも懐かしさを覚えているらしかった。 「テオ様、それでテオ様のマジックはわかりましたけれど、今回お誘いがあった魔術団とはどのようなところなのでしょう」 ぱくり。少しぱさついたライ麦のサンドイッチを飲み込む。眼前には薄っすらと広がる雲があり、少しばかり低い空が熱気をじわじわと伝えてくる。冷房もない外のバス停で軽く汗で張り付いた前髪をなぞり、テオはひとくち。エルダーフラワーの炭酸水で喉を潤してから口を開いた。 「ハイエンド魔術団かい。そうだね、国内でもそれなりに知名度が高くて、自分たちでこうして劇場を貸し切って公演をしたり、他にもイベントに呼ばれたりしているようだね」 思い出し思い出し言葉を紡ぐ。 テオは誰かとグループを組んで活動をしているわけではないが、マジシャンの中には奇術だけでなくピエロやアクロバットといったエンターテイメント全般を扱う団体に属してマジックを披露する者も多い。今回声をかけられたのも、そういった団体のひとつだった。 「団長と副団長がマジシャンだから、マジックの比率が高い総合エンターテイメントという感じかな。ボクが呼ばれるのも納得の顔ぶれだ」 「まあ! テオ様をお呼びするなんてお目が高い。なかなか見る目のある魔術団でございますね」 「それはもう、ボクだからね。彼らの目にも留まってしまうのさ。今回は最終日だけ副団長の都合がつかないんだって」 中身を食べきった包装紙をくしゃくしゃっと小さく潰して、近くのゴミ箱に投げ入れる。見事な手先のコントロールで入り込んだ紙くずが、ゴミ箱の暗がりに落ちていった。 「他にもアクロバットの兄弟、リングマジックの名手、見習いマジシャンとパントマイマーが1人づつ。計7人で公演を回しているみたいだ」 「なるほど。それは確かに、誰かひとり出演できなくなったら……とても大変そうです」 「今日は挨拶と道具の点検、それから舞台でのリハーサルだ。ダイアナの仕事もたくさんある」 「はいっ! ダイアナ、お役にたってみせますとも」 気合を入れなおす彼女の赤毛の向こうに真っ赤な車体のバスが見え、テオはよし、と頷いた。 「頼りにしているぜ」 ひび割れたアスファルトの上をごとごと走るバスは、揺れをさほど気にしない豪胆な運転手により多少の乗り心地を犠牲に定刻ぴったりに劇場近くへと到着する。 衣装の入ったスーツケースを引っ張り下ろし、ふたりは移動だけで使ってしまった体力に溜息を吐いた。 「やれやれ、遠出する仕事はこれがなければなあ」 「同感です」 普段コンサートなどでも使われているのであろう劇場はぱっと見二階だてほどの高さがあり、ホールがいくつか備えられているのか、正面には案内板がかけられている。 その中に『ハイエンド魔術団』の名前を確かめて歩き出す。時間としては間もなく終幕だろう。 受付に明日出演のテオ・シリル・アリエスですとの声をかければ、すっかり承知していたらしい女性はそっと劇場の重い扉を開けてくれた。 照明の落とされた観客席にダイアナを連れて滑り込む。足元に気を付けてね、と声をかけ、軽く手を引けば。きゃっとかわいらしい小さな悲鳴が返ってきた。 「急に手を引かれるとびっくりしてしまいます」 ひそひそ声。真剣に舞台を見ているお客様がたの後ろでそっと立って、まるで密談でもしているかのように顔を寄せ合う。 「転んだら危ないだろう?」 「そうですけれど、でも」 くすくすと、こそこそと。吐息が耳に触れる。囁き声が耳朶を擽る。 「ほら、それはいいから正面をごらん」 指さす先につられたダイアナの視線を追って、テオもまた舞台に目を向けた。 「明日、ボクたちが立つ場所だ」 舞台の上には、恰幅のいいにこやかな男性が立っている。コミカルな動きで客席に向かって手を振る男性は、挨拶代わりに軽く自分の帽子を取る……と、帽子の中にいたらしい、頭の上に座っていたハトに驚き慌てふためく。しっしっとハトを追い払い、改めて帽子を被ればまたハトがぴょこりと帽子から顔を出す。 わ、っと笑いが起きる観客席の向こうで、追い払っても追い払っても出てくる新しいハトにわざとらしく舞台上で飛んだり跳ねたりして怒りを露にする男性。 舞台上を羽ばたいていたハトたちもちゃあんとわかっていますとばかりに男性の肩に身を寄せて止まり、ついには男性も困ったように肩を竦めるジェスチャーをした。 「まあ」 隣から軽く笑い声が漏れる。先ほどまでの文句はどこへやら、すっかりハットマジックの虜になっているらしい。 男性はハトを両肩に乗せたまま、ぽんぽんと手の中からいくつもいくつも花を出し空中に撒く。色彩も華やかな花をハトが咥え、ばっとステージ上で羽ばたき。と同時に観客席の上から花びらがうわっと降ってきた。 湧き上がる拍手と歓声、今度こそ深々と帽子をとって行われた挨拶に、これが公演の大トリだとはっきり理解させる構成。 きゃあきゃあと興奮するダイアナに、テオはそっと囁いた。 「あれが副団長。ボクたちは彼に負けず劣らず、観客を魅了しなければならない」 ぱっと暗闇でも浮かび上がるエメラルドグリーンがテオを見る。紅潮した頬は何を言うだろうか。ふたりの間に落ちる呼吸は、いかにも楽しいとばかりの色をして。 「やってやりましょう、テオ様!」 跳ねる声に、テオも微笑みを返した。 ぞろぞろと出ていく観客の浮き立つ笑顔を横目に、テオはダイアナを連れ立って劇場の通路を進む。関係者入口と張り紙がされた扉を無遠慮に開けば、少しばかり剥げた塗料と褪せた壁の色がふたりを出迎えた。 控室に通じる通路は控えめな電球の色がゆらゆらしており、くっきりとした明るさを備えていない。ただ切れかけの電球なだけなのか、この通路から直接繋がる舞台袖のためにわざと明度を落としているのかははっきりしなかった。 ぽかりと口を開ける戸口がぽつりぽつり、三つ並ぶ。開け放たれた扉の向こう側からは強い控室の光が筋のように伸びて、歩くテオとダイアナの足元で影を作った。 横目に通り過ぎたひとつめは道具だらけの部屋。積まれた段ボール、大きなアクリルの水槽、フープ、鏡、模造刀。ごちゃごちゃとした道具が積まれたそこはまさしくマジシャンの舞台裏で、わくわくという表情を隠せないダイアナを微笑ましく見ながら、テオは意識を前に向けた。 「ほら、足元気を付けて」 剥がれかけの蓄光テープがぺたりとヒールの爪先をひっかけていることに声をかけて、そうして彼女の手を取ろうとして。 「冗談じゃねえ!」 飛んできた怒声に、思わずふたりして動きが止まった。 「テオ様、今のは」 「喧嘩かな」 ぽかん、とした表情の彼女は、しかし周囲には誰もいないことからその怒声はこちらに向けられていないことにすぐに気が付いたのだろう。少しばかり遠くから聞こえるそれに、訝し気に首を傾げるに留まった。 「明日のステージにヨソ者を、それもトリだと⁉ オヤジは何を寝ぼけてんだ!」 「おいおいダン、落ち着けよ。腕は確かなんだ。明日副団長がいないのは事実だし」 「そのくらい俺たちでなんとかできるだろ! ジョー兄、あんたアマすぎんだよ!」 「ちょっとォふたりともうるさい。今からプログラム変えるのムリだしー、諦めなってばァ」 「俺は最初から言ってた!」 「最初からでも団長がそうするって言ってんだからァ。アタシらしがないパフォーマーは従うしかないでしょォ?」 間が悪かった。そうとしか表現しようがない。 「歓迎されていないようですね」 「まあ……そんなこともあるさ」 突然のトラブルで招いた外部の人間が、そのままトリを飾る。話から察するに、恐らく団長の独断で行われたであろうプログラム変更に反発する人間がいてもおかしくはない状況だった。 「ダイアナがキュッと成敗いたしましょうか」 キュッの擬音を口に出しながらまるで鶏を絞めるような動きをする彼女をどうどうとなだめ、テオは苦笑した。 やりにくい空気だ。とはいえ、長い付き合いになるわけでもない。相手もただ内輪で愚痴を言っているだけに過ぎず、ここは穏当に受け流すのは大人の処世術というものだろう。 一歩、明かりに向かって踏み出す。歓迎されていないとわかって相手の懐に飛び込むのは、奇術を疑いの目で見る人々の視線で慣れていた。 要は、実力で黙らせればいい。 控室の開け放たれた扉の正面に立つ。中にいるレオタードの男性ふたりと、鏡に向かう女性ひとりを確認する。 まだこちらに気が付いていないらしい男性が、我慢しきれず口を開く。その瞬間。 こんこん、と壁をノックしてテオは声を張った。 「ショーの直後にすまないね」 快活な声が、ぱぁん、と控室の中にこだまする。はっと三人の視線が向けられる。褐色の肌を、白銀の髪を、はっきりと意思を宿す紅玉の瞳を認識する。急速に集まった意識を、視線をひとつひとつ確認してから。テオは続けて口を開いた。 「明日キミたちのショーにご一緒させてもらう、テオ・シリル・アリエスだ。挨拶をさせてもらいに来たよ。ところで、団長はどちらかな?」 もご、と。彼らの唇が名状しがたい形に歪む。そうしてはくり、はくり。数回呼吸をした後。 「この先の、舞台袖、に」 筋骨逞しい、レオタードの男性が恐る恐るといった調子で声を絞り出した。 「そうかい。どうもありがとう。また寄らせてもらうよ」 明らかに口論が聞こえていたろうにという戸惑いの視線を受けながら、 「ダイアナ、行くよ」 さっと踵を返す。キミたちの罵詈雑言など、意にも介しはしないとの意思表示をもって。 もちろん追従するダイアナは、勝ち誇ったような笑みを浮かべて控室の中ににっこり視線を向けてから小走りでテオの後を追っていたが。 薄暗い通路を真っ直ぐ進む。位置関係から考えるに、ここは客席の側面部分だろう。通路は唐突に暗い小部屋に突き当り、袖幕や引き幕がぶら下がっているのが遠目からでもちらと見えた。 ゴムタイルの床が途切れ、よく磨かれた木材に変わる。ここからもう舞台袖なのだ、そう思うと舞台人の性か、気が引き締まるようだった。 「やあ! よく来てくれたね」 はっと視線を上げる。シルクハットに燕尾服。どこからどう見てもショーマンとわかる服装の男性ふたりが、にこやかにこちらへ手を振った。 「初めまして。この度はご招待にあずかり光栄です。ボクがテオ、そして隣が助手のダイアナ。どうぞお見知りおきを」 軽く腰を折ると、男性らはああそんなにしなくてもと穏やかな声でこちらへ投げかけた。 「私がハイエンド魔術団の団長、エイブラム。こちらは副団長のユージーンだ。急な話で本当に申し訳ないけれど、助かったよ」 「こちらこそ。初めまして、ユージーンさん。先ほどの舞台、見せていただきました」 軽く握手を交わし、言葉を交わす。ぐ、っと握った手のひらの硬さが間違いない彼らの練習量を思わせ、確かにプロたる実力があるのだと感じられた。 「ああ、来てくれて本当にほっとしています。私は明日の舞台が始まる前にここを発つのですが……。舞台の成功を陰ながら祈っています、Mr.アリエス」 「不躾な質問ですが、一体どんなご用で?」 「ええ、ちょっとした手続きで。どうしても明日向かわなければならなくってね。いや困りました」 少し丸っこい体を揺らしながら、男性は苦く笑う。舞台上でもそうだったが、コミカルな動作がすっかり板についているらしかった。 団長のエイブラムの方はというと、迷惑をかけたねと言わんばかりにやせ型の肩を竦め、手元のステッキを弄っている。今日のステージでは見れなかったが、ステッキマジックが得意なのだろうか。 「控室を見たかい? 荷物は届いている。早速だけれど、明日のショーの打ち合わせに入ってもいいかな」 「もちろんです。ダイアナ、いけるかい?」 「はい、テオ様。ダイアナになんでもお申し付けくださいませ」 最初に見た控室の大道具の山を思い返しながら、テオはぱっとダイアナに振り向いた。 「それじゃあ、リハーサルにかかろうか」 8月28日。 昨夜のリハーサルを終え、近くのホテルに着いたのは23時も回った頃だった。 なにせ手配しておいた水槽の設置、舞台の位置確認、目印のテープの貼り直し、ダイアナとの打ち合わせと数度のリハーサル。 イリュージョンという種類に分類される大がかりなマジックなだけに入念な打ち合わせを終え、倒れ込むような眠りの後。本番当日に目が覚めたのは朝9時を回った、リズミカルなノックの音でだった。 「おはようございます、テオ様。朝食はいかがされますか?」 扉越しにもわかる、柔らかな女性の声。ダイアナに起こしてもらったらしい、と大きくあくびをしたテオは、すぐに行くよ、と部屋の中から声を軽く上げた。 イギリスのホテルは比較的安価であってもブレックファーストを楽しめることが多い。三食とも朝食を食べたいと観光客から揶揄されるほどに、イギリスの朝食は美味だと有名だ。 ベッドから起き上がりシャワールームへ。軽く水で顔を洗い前を向く。鏡に映るテオ・シリル・アリエスは今日も凛とした自信に満ちており、テオは自分自身を正面から見つめてにっと笑って見せた。 「おはよう、テオ」 本番は、本日16時の開演、そのちょうど1時間30分後。 「おはようダイアナ。よく眠れたかい?」 「テオ様こそ。ぐっすり眠れたようでなによりです」 レディを10分ほど待たせて扉を開けたテオは、開口一番そう言ったダイアナに手厳しいねと軽く肩を竦めた。もっとも、そう言われるだけの理由はあるのでそれ以上の声はない。テオの部屋をノックした時にはすっかり支度を終えてしまっていたらしい彼女は今日も燃え盛らんばかりの美しさを備え、セットされた巻き髪からふわりと瑞々しい花の香りが弾けた。 「テオ様? ぼうっとしてないで。急がねば朝食の時間に遅れてしまいますよ」 だというのに、彼女は今や美味しい朝食を食べ損ねないことで頭がいっぱいであるようで。どこかアンバランスな様子にテオは思わず破顔する。 「はいはい」 「はいはいじゃあありません。今日の朝食はチーズオムレツとワッフルですって! これはいただかなければ損というものでしょう」 チーズが好きなのか、きらっと目を輝かせて言うダイアナの一歩は大きい。ニューヨークやカナダにもありそうな朝食のメニューだが、本場は違うということか。 しとしとと窓を濡らす霧雨を眺めながら、テオはのんびりとホテルの絨毯の上を歩いた。やや湿気た空気はいつものこと。昨日の寝ぐせが残ったままの髪をひとまず手櫛で整えて、今日の舞台に思いを馳せる。 前を行くダイアナがエレベーターのボタンを押して、今か今かとそわそわ足踏みをしている。その足に履かせるヒールは、やはり赤がいい。性分のせいもあって彼女の靴のサイズから爽やかな朝に言うのが憚られるようなサイズまで熟知してしまっているテオは、鞄に入れていた数足に思考を巡らせていた。 開いたエレベーターは、スポットライトのようにぱっと明るい。靴元の影が濃く見えて、その影はちらちらと反射する舞台用のスパンコールが映えるだろう。 一緒に乗り込んだエレベーターで、ダイアナのつんと尖った鼻筋を見る。彫りの深い、ともすればキツすぎるとも言われかねない顔立ちはころころと変わる表情のおかげで強すぎる印象からは程遠い。とはいえ、舞台では強い顔立ちであればあるほどお客の目を引くのは確かだ。煌めく新緑の宝石、赤毛の睫毛を彩るのは深紅のアイメイクか。 グランドフロアに着いたらしい小さな籠がちん、と音を鳴らす。ぱっと頬が輝く。大きなアンティークガラスの窓から降り注ぐ日光の粒がダイアナのまなこの中で跳ねて、この表情に手を入れるのは勿体ない、とテオが感嘆の息を漏らすのもつかの間。 「テオ様! 参りましょう」 ぐい、と。想像よりも少し硬い手のひらがこちらの腕を掴んだ。 「朝食の時間が終わってしまいます!」 嬉しそうに弧を描くベビーピンクの唇。だというのに拗ねたような眉。 エレベーターから引っ張り出されたテオの背後で、ちん、と。軽く扉が閉まる音がした。 本日のメニューは、ダイアナも言った通りのワッフルとチーズオムレツ。それにサラダと、サーモンが数切れ。目の前でチーズオムレツを美味しそうに頬張っているダイアナに、頬にチーズがついているよと指摘しながら、テオはのんびりワッフルを手に取った。 「今日のタイムスケジュールは覚えているかい?」 端がかりかりに焼けたワッフルは、クロテッドクリームをべったりと付けるのが定番だ。今日はベリーの代わりにライムを絞り、ぱくり、と一口爽やかな甘さを味わいながら尋ねる。 「ふぁい、えっと」 「おっと、口の中を空っぽにしてからな」 口元を手で押さえながら、ごっくん、と喉を鳴らしたダイアナは、そのまま上品に軽く手を添えて答える。 「12時から通しのリハーサル、15時開場、17時30分からダイアナたちのステージです。着替えはリハーサル後になりますので、会場へはゆっくり行けますね」 「その通りだ。よく覚えていたね」 「もちろんです。ダイアナはテオ様の助手でございますもの」 そこで言葉を切り、ふとダイアナがその長い睫毛で頬に影を落とした。 でも、という形に唇が動く。 「ダイアナ、ステージでちゃんとできるか……」 不安の色が小さく声に乗って、軽いリップ音がする。不安を口にしたことが恥ずかしいとばかりにくっと噛みしめた唇があかく色づいて、自分自身の言葉を後悔しているようにも見えた。 「不安かい?」 言葉にしたくなかったであろう感情を、わざと音に乗せる。 僅かな逡巡の後、こくりと首が縦に振れた。手にしていたナイフとフォークがかちゃり、音をたててプレートに下ろされる。 ぱた、ぱたたた、いつの間にか窓の外の雨は粒を大きくし、ガラスを叩いている。冷たい青が透明度高く空気を滴り落ちて、ダイアナとテオの間に青灰色に澱んでいた。 「ダイアナ」 左手に手を添える。白い手の甲は少しばかり冷えて、青い色をしていた。 「大丈夫。キミならできるさ。ボクが教えてあげる」 「でも」 「横にはボクもいる。難しいことはなんにもない」 「……はい」 「キミの魅力で、少しの間お客さんの目くらましをしてくれればいいんだ」 「目くらましを」 「そう」 すり、と指の腹で手の甲を撫ぜる。温めるように、ゆっくりと弧を描いて。 「マジックの基本は目くらましだ。お客さんが見ていない間にハトを仕込み、お客さんが見ている方でハトを飛ばす」 白く霞んでいた爪先が、ふうわり桜貝の色に色づいていく。じんわり温められた皮膚が、やわらかな朱をさした。 「そういえば、他の誰かとショーをするのは初めてだったね」 助手という名がついてはおれど、テオは基本的にひとりでなんでもこなしてしまう。誰かと混ざって、好意や観察、はたまた敵視の視線に晒されながらのショーはダイアナにとっては初めての体験だろう。 「大丈夫だ。ボクがついているよ」 「……はい」 ぎこちなく動く手は、ゆっくりとフォークを持ち上げる。そうしていくぶん冷めてしまったチーズオムレツを口に運ぶと、ダイアナはぽつりと零した。 「ダイアナはメイドですが、テオ様のようなプロフェッショナルではございません。今日ステージに上がると改めて考えたら、間違えてしまったらどうしようと急に怖くなったのです」 「ボクもはじめはそうだったな。でも、舞台に上がってしまえばそんなことは感じなくなるもんだ」 お皿の中をフォークでつつくダイアナは、本当ですかとでも言いたげな視線を向けてくる。その視線がもはや不安げなものではなく、心底信じられないといった不服げなものだから、テオは思わず声を上げて笑ってしまった。 「ふふふ、本当だよ。いつしかすっかり慣れてしまったけれどね」 「いつかじゃ困ります! 今緊張しなくなる方法が知りたいのに」 ぱっと頬に花弁が散るように赤く色づいたのは、笑われた恥ずかしさのあまりか。すっかり先ほどの不安げな表情を吹き飛ばしてしまったダイアナは、もういいです、大丈夫ですと最後のひときれに真上からフォークをぶっ刺した。 「テオ様は、ダイアナの方が拍手喝采を浴びるのを見ていればいいのです」 ばくり。 垂れたチーズソースを舌で舐めとって、先ほどの弱弱し気な様子はどこへやら。彼女の挑発的なエメラルドがぎらりと輝いていた。 朝食を終え、ホテルを後にする。枕の下に5ポンド紙幣を一枚忍ばせて、テオは表に出た。 しとしと降っていた雨は上がり、しかし澱んだ雲が空を占めている。降りだす前に劇場に到着したいところだ。 昨日と同じバス停で、昨日と同じふたりだけの時間。こんなに長くふたりっきりでいることも珍しく、しかし沈黙が苦痛になるほどの仲でもない。 またしとしとと降りだした雨に傘をさして、テオは軽くダイアナの方へと傾けた。ロンドン市民なら傘をささない程度の雨だ。 こぶしひとつほどの隙間を開けて、ダイアナは大人しくこうもり傘に入っている。さらさら流れる雨音が、テオの片方の肩を濡らした。 沈黙だけがその場にあった。誰もいない、雨の昼前のワトフォード駅。 昨日と同じように真っ赤なバスが水煙にけぶる視界を掻き分けてやってくる。ざ、とアスファルトの水たまりを踏みしめたバスのブレーキ音が、ふたりの沈黙を裂いた。 「それじゃあ、行こうかダイアナ」 「はい、参りましょうテオ様」 今日の戦場へ。 *** 「Ladies and Gentlemen! お集りの紳士淑女の皆様、大変長らくお待たせいたしました!」 16時。特に大きな問題もなくリハーサルを終え、テオとダイアナは舞台袖から団長の前口上を聞いていた。お決まりの文句、お決まりの合図。軽いマジックとひと笑い。 それでは最初はリングマジックの貴公子の出番です、との声と共に二人の横からちょび髭の男性が堂々と歩いていった。 両手を大きく振る。ふたつの銀の輪を軽く交錯させたり放したり。観客席に向かって、さあ手拍子を! なんて声が聞こえ、そちらからリズミカルな手拍子が鳴り。 「……チッ。あんたらの出番はまだ先だろ」 耳障りな雑音は、すぐ近くから聞こえてきた。 レオタードの男性。ダンと言ったか。アクロバットの出し物をしているとは団長から紹介されていたが、良くも悪くもその知識しかこちらにはなかった。もうひとりのアクロバット担当であるジョーの弟で、ついでにずっとテオらに風当たりが強いくらいしか。 困ったな、とテオは腕を組む。あの時だけならまだ見逃しようもあったが、こうも全面的につっかかられると対処せざるを得ない。 キミ、と口を開こうとした、それを遮ったのはダイアナの長い手だった。 グリーンのチャイナドレス。体のラインをぴっちりと見せるシルエットに、孔雀の意匠があしらわれた豪華なデザイン。カフスだけつけた手はすらりと長く、それだけで見事な迫力がある。 「あら、確か……ダン様。ここで見学させていただくくらい構わないじゃないですか」 テオが出るまでもない、というのだ。ぱたりと口元を隠す中華扇子の下で、好戦的な唇がにやりと笑みを形どっているのが見ずともわかる。 「ああクソ、邪魔なんだようろちょろと。部外者なんだからスっこんでろよ!」 「まあなんてお口の利き方。こちらは招待されているのです。いわば賓客なのですよ」 「客なら客らしく奥の控室で大人しくしてろ。目障りっつってるんだ」 あからさまな敵意。これにはテオもむ、っと眉根を寄せる。いくら今日だけの付き合いとはいえ、不愉快なことに変わりはない。にわかに機嫌を悪くしたテオに気が付いたのか、ダンはダイアナごとびっとテオに人差し指をつきつけた。 「だいたい、女にばっかり言わせてお前は出てこないつもりか? 卑怯者が!」 「まあっ、ダイアナじゃ役者不足だとでもいうつもりですの⁉」 ついに言い合いが喧嘩に発展するか、と思われたその時。ぱっとにらみ合うふたりの間に白手袋が割って入った。 「おふたりともそのくらいに」 演技がかった口調は、昨日もよく聞いたもの。他の団員とは違い、ぱりっとしたスーツを身に着けた恰幅のよい男性がやれやれと首を振った。 「まあ、副団長様」 「ユージーン……クソっ」 「ダン、頼むから出かける前にそんな不安ごとをさせないでくれ」 「……チッ」 軽くお辞儀をしたダイアナとテオを横目に、ダンと呼ばれた男性はひどく悔しそうに歯噛みをすると、そのままろくに謝罪の言葉もなく床板を蹴りつけ、大股で歩いて逃げてしまった。 「ダイアナ、追わなくていい」 生来の性か、その背を追おうと一瞬重心を下げたダイアナに声をかける。ぴくり、と肩が揺れ、それから楚々とした動きでテオの背後に控えるのはメイドとしての動きが備わっているからか。 「Mr.アリエス。まことに申し訳ない。最初の挨拶を見届けてから出ようと思っていたのに、まさかこんな現場に出くわしてしまうとは」 「いいえ、ユージーン殿。彼も気が立っているのだろう。犬に噛まれたと思って許してあげますよ。それより、時間に遅れるのでは?」 「そうでした。いやありがたいことです」 ただただ腰を低くして恐縮する。遠くではわあっと歓声が上がり、舞台上で4つ繋がった銀の輪が一瞬でばらばらになった様子が見えた。 「では、私はこれで」 癖になっているのだろう、ないはずの帽子を取ってお辞儀するような動作を見届けてから、テオはようやく溜息を吐いた。厄介な絡まれ方をしたものだ。 「悪いね、ダイアナ」 「とんでもない。あのダンとかいう悪者、もっと懲らしめてやろうかと思ったくらいですわ」 ふふんと腕を組んで鼻を鳴らすダイアナはちっとも堪えた様子がなく、連れてきたのがダイアナでよかったとテオは苦笑した。万が一ここにジムなどいようものなら、本番後には突っかかってきた青年が哀れな姿で見つかるだろうことは想像に難くない。どのような哀れな姿か、はジムの気分によって様々であろうが。 「ごめんねェ。ダン、最近ぴりぴりしてるのよォ」 舞台衣装にしては野暮ったい、ベストとパンツスーツ姿の女性が横から話しかけてくるのに視線を向ける。自己紹介は初日に軽くしていた。確かパントマイムのパフォーマーだったか。 「名前忘れちゃった? ロザリーだよォ。ほんとごめんねェ。いつもはあんな感じじゃないんだけどさァ」 「それは、ダイアナたちが急に出演することになったからではなくて、ですか?」 「ンー、ここ1カ月くらいずっとああだから違うかなァ。練習でもよくミスってるしィ、あ、もしかしてふたりのこと嫌いなの、自分が追い出される! とか思ってるからかもォ? わかんないけど!」 きゃはは、と笑う彼女は快活な見た目に反してなかなか厳しいことを言う。手にしたステッキをくるくるっと回して、ラメをたっぷりつけたアイメイクでにこっと微笑んだ。 「ダンは団長のオキニなんだからさァ、そんなことあるわけないのにねェ」 「オキニ?」 「そだよォ。団長がスカウトしてきたの。お兄ちゃんのジョーと一緒にねェ。それまでうちってマジックとかばっかでさァ、ロザリーもマジックを交えながらのパントマイムしてたのォ」 のんびり言うロザリーは、視線を舞台の方へ向けている。人ひとりくぐれそうなほどのリングを操る魔術師は、ステージの上できらきらと観客へ笑顔を向けていた。 ちらちらとステージから光が零れる、薄暗い舞台袖。リングから反射した光で、ふと気になるものがテオの目に入った。 ロザリーの耳に輝く、小さなローズピンクの薔薇のピアス。それは舞台用というにはあまりにも小さく慎ましやかで、恐らく普段から身に着けているだろうことが伺えた。 「それは誰かからの贈り物かい?」 「あー、そう、これはダンから。結構かわいいところあるんだよォ。だから許してやってっては言わないけどねェ」 ころころ笑う彼女は、じゃあ出番だからまた後でねェ、と袖幕の際まで寄っていく。 華やかな世界はこうして幕を開け、そしておよそ1時間後に幕を閉じる。テオ・シリル・アリエスの逮捕と共に。 *** プログラムは順調に進んでいった。リングマジック、パントマイマーが参加してのパントマイムとカードマジックの組み合わせ。見習いマジシャンが水晶玉を宙に浮かせて見せ、団長が剣を飲み込む古典マジックを披露する。観客からの歓声が絶えず湧き上がり、笑い声と拍手とが漏れ聞こえる。 出番は間もなくだ。本番前のルーティン。手袋を擦り、指の感触を確かめる。視線を下ろし、呼吸を入れる。 ステージではアクロバットの兄弟が軽やかにステージを舞い、兄弟特有の息の合った演技を見せている。副団長に見つかったせいか、あのひどい敵意も先ほどすれ違った時はすっかり鳴りを潜め、ただ演技に集中しているように見えた。 袖幕に少し肩を預ける。ふわりと幕が揺れ、テオを包むように戻る。視線はステージをじっと見つめ、自分たちの出番が来ることを、ただ心臓の鼓動のままに待っていた。 飛ぶ、跳ねる、走る、止まる。 人間の体を限界にまで使った演技が続けられ、一瞬ふらついたダンに観客からきゃあっと微かに声が上がる。すぐに持ち直したらしく、その後の拍手は大きかった。 「ダン様、あまり調子がよろしくないようですね」 ぽつりとダイアナが零す。練習でも失敗続きだと聞いていた。思うように成功しないプレッシャーから他人に当たり散らしているのであれば、一介の他人であるこちらとしては交通事故にあったと思う他ない。 生きている以上、様々に事情はある。人間関係も、体調も。それで他人に迷惑をかけていいとはならないが、何も知らない時よりは少しばかり気の毒に思う気持ちがあるのも確かだった。 ひと際大きな音楽が流れ、ふたりの動きがステージ上でぴたりと止まる。スポットライトにきらきらと汗が光り、そうして拍手に背中を押されるように舞台袖へとはけてくる。 すれ違うように一歩前へ出たテオの顔をちらりと睨みつけてきた視線を振り払い、眩しい舞台へと進んでいく。 彼の顔色が悪いように見えたのは、気のせいだっただろうか。 ダイアナを連れて足を踏み入れた舞台上はただただ光に溢れ、きらきらとした人の目がびっしりと、ふたりを見つめていた。 靴音を鳴らす。しっかとステージの床を踏む。何もないステージ上の中央に立ち、観客に視線を向ける。 一瞬静まり返るステージ。期待と興奮の視線。弧を形どる唇。そうして、 『お次は本日限りのゲスト出演! 稀代にして孤高のマジシャン。世紀の大魔術師。その奇術の腕には誰もが目を見張る。瞬き厳禁! 彼の大魔術をどうぞお楽しみください!』 そのアナウンスが流れた瞬間、テオはばっ、とマントを翻し声を張った。 「皆様、初めまして! やあ、それともどこかでボクのマジックを見たことがある方もいらっしゃるかな? 改めまして、ボクはテオ。そして彼女は助手のダイアナ」 左手を胸に当て、右手を大仰に広げる。広げた先でダイアナが優雅に腰を折り、きらきらとスパンコールのちりばめられたピーコックグリーンのチャイナドレスが照明に揺れた。 「さあ、本日お見せいたしますのは、世にも驚くべきイリュージョン」 こつ、わざとらしくテオは靴を鳴らす。悠然と歩く。テオを追いかけるスポットライトに視線をくれ、胸を張って立つダイアナの肩にそっと手を置く。 「皆さんは今日、忘れられない思い出と共にお帰りになるだろう」 言いながらマントで一瞬姿を隠し、勢いよく脱ぎ捨てる。観客がおおっとどよめく。それもそのはず、マントの紳士がいた場所には、横のチャイナドレスの女性と全く同じ顔、全く同じ体つきの、双子かと見まがわんばかりの女性が立っていたのだから。 テオの変装技術は世界に類を見ないものだ。服装だけでなく、顔立ち、体つきまで見事に再現をする能力は、きちんと下準備さえしておけばたった一瞬で早着替え、早変わりもお手の物。 ざわざわとさわつく観客に、テオは満足気に頷いた。この一瞬で間違いなく彼らはテオの実力を実感しただろう。 ぱ、っとダイアナの肩から手を離す。落としたマントを拾い、ヒールを鳴らしてステージを歩く。 「世界で最も危険なイリュージョンとは何か、皆様はご存知だろうか」 くるり、マントを肩にひっかけ一瞬顔ごと隠した、次の瞬間にはチャイナドレスを着た赤毛の女性の姿はどこにもなく。ぱりっとしたスーツを着こなす白髪の男性。見事な早着替えに次ぐ早着替えに、観客席から自然と拍手が沸き上がる。 「そう。それは水中脱出。これより、こちらの水槽にこのボクが拘束された状態で入り。見事脱出してみせましょう!」 パチン! 指を鳴らす。と同時に背面の幕がざっと左右に割れ、巨大な水槽がステージに現れるのを、観客たちは目撃する。人間の身長を越えるほどの高さの四角い水槽だ。四隅と上下に黒い金属の縁がつけられ、いかにも頑強だと言わんばかり。 水槽にはひらひらと魚が泳ぎ、優美なヒレを漂わせている。たっぷりと全て、水に満たされているのは明らかだった。 ダイアナが承知していますという顔でしずしず近寄る。水槽の脇にはテーブルが1つ。革ベルトの拘束具と、それから観客全員に見えるほどの大きなタイマー。 テオは羽織っていたマントをばさりと脱ぎ、ダイアナに手渡す。そうしてふわりとした髪をピンでいくつか留めていくと、ダイアナがその手を、そして胴体をとベルトでぐるぐる巻きにしはじめた。 「なあに心配いらない。なんてったってボクは世界一のマジシャンだ。こんな拘束ひとつ……おいおいダイアナ、ふたつみっつはやりすぎじゃあないかい?」 「まあ、テオ様はベルトひとつじゃすぐに抜け出してしまうでしょう?」 軽やかなやりとりを続けながらも行われていく拘束は、曲げた両手を前でまとめ、上から更にベルトをかける。観客にもはっきり見えるような大きく無骨な南京錠と無機質な革の色がきっちりとテオを固めて、これではどうやったって背丈よりも高い場所にある水槽から出られそうには見えなかった。 ごくり、と観客の喉が鳴るのを感じる。彼らはこれから起きるであろう出来事に心臓を高鳴らせている。 「それでは、テオ様が水槽に入られましたらタイマーをおつけいたします。人間が水中で耐えられるのは一般的に3分と言われておりますので、こちらの3分のタイマーを」 とん、とダイアナがタイマーのスイッチを入れる。3:00と表示されただけのタイマーは赤々と光を放っており、誰の目にもその時間ははっきりと見えた。 「タイマーをつけたらダイアナが水槽をこちらの布で目隠しいたします。皆様は3分の間、テオ様が脱出できることをお祈りください!」 舞台中央には巨大な、魚が泳ぐ水槽。水槽の背後にある階段をテオが登り、水槽の下ではダイアナが朗々とその美しい声を張り上げている。 すぅ、とテオはひとつ深呼吸をした。打ち合わせ通りだ、なにも問題ない。 「皆様、スリーカウントを共にお願いいたします! スリー!」 ぱ、とダイアナの細い指が3の数字をカウントする。つられて観客も声を上げ、わ、と俄に会場は大きなうねりを生み始めた。 「ツー!」 ぎらぎらとスポットライトが熱視線を浴びせてくる。会場中の全てがテオを見つめている。様々な色の瞳が、じいとこちらを見ている。 「ワン!」 ダイアナの甘やかな声が高らかに宣言すると同時に、テオは水槽の縁をとん、と蹴った。なみなみと水が入っている。魚たちの隙間に潜り込むようにして、 「ゼロ!」 ど、ぼぉん……と。鈍く水面を叩く音がはっきりと響いた。きゃあと悲鳴とも歓声ともつかぬ声が上がり、ダイアナのタイマーが動き出す。跳ねたしぶきがステージを軽く濡らし、慌てたように魚たちがうろついた。 水槽の中で軽く手を振る。少し膝を曲げるようにすれば、水面が遠く、高く在るのが見えた。 「それでは、これよりテオ様には見事拘束を解いていただきましょう。皆様はこのカーテンの向こうで、テオ様が無事に脱出するのをお祈りください!」 水槽の四方を覆うカーテンを、ダイアナが下から引き上げる。かちゃり、かちゃりと器具を取り付ける音。観客からはとっくにテオの姿は見えず、ただ水中でゆらゆらと手を振る赤い瞳だけが焼き付いていたことだろう。 タイマーは無情に進んでいく。あと2分、さあそろそろ呼吸が苦しくなってまいりましたでしょうか。あと1分。テオ様は果たして脱出できるのか、観客の不安を煽るような言葉が甘い唇から発せられ、タイマーの刻々と減っていく時間に、空間全体の焦燥が募っていく。 まさかという恐怖と、いやもしかしてという期待、演出に違いない、という願い。いずれも飲み込みながら、タイマーの数字は10を切り。まだ音沙汰のないカーテンの向こうに願いをかけ。 ファイブ、と柔らかくも無情な唇がカウントを告げ。 フォウ、カーテンはぴくりともせず、溺れる声さえ聞こえない。 スリィ、タイマーはただ時間だけを刻んでいく。 トゥ、リップ音だけが響くステージ。 ワン、そうして終わりの時が来る。 時間を告げるタイマーが高らかに機械音を投げかける。ステージ上で堂々と立つダイアナはちいとも心配した素振りを見せず、ぱちんっとタイマーを押して音を鳴りやませた。 「さあ、皆様。テオ様は果たして脱出に失敗したのか──?」 ステージ上の照明が全て落とされる。ドラムロールが鳴り響く。ありきたりの演出、だがなによりも緊張感をかきたてる音。 ごくり、と鳴った誰かの喉の音と共に、それは、現れた。 がしゃーーーーーーん! ガラスをたたき割るような音。まだ暗がりの中で響いた軽い悲鳴。演出の一環なのだろうか。いやそうに違いないとどよめく観客たちをあざ笑うかのように。 ぱ、とつけられた灯りの中で。止んだドラムロールと、脱出成功を知らせるファンファーレの中で。 誰もが、見た。 水槽の中をゆらゆらと揺らめく、赤い血を。どろりと力なく沈んだ、男の姿を。 そうして、まるで彼を突き飛ばしたかのように水槽の上に立ち、目の前の光景に唇をわななかせ。紅玉の瞳で水槽の中を見つめる。どこも拘束されてなどいない、テオ・シリル・アリエスの姿を。 沈黙は、一瞬。 「きゃあああああああああああーーーーっ!」 誰かの劈く悲鳴が聞こえた、と同時に観客のひとりが席を立つ。ひとりが恐怖に怯えれば、伝播する混乱が、恐怖が。波のように人々を動かした。 「まっ、皆様、落ち着い、どうして、テオ様⁉」 混乱に満ちたダイアナの声。裏手から走ってくる団員たちの足音。押しとどめられない観客席。水中でぐったりと体を横たえ、水底に沈んでいく男。 それは確かに、昨日からテオにつっかかってきていたあのいけすかない団員、ダンの顔で。 水槽の中に揺蕩う彼の体は、まるでゴムのようにぐんにゃりと鈍く揺らめき。呼吸など、ほんの少しもしてはいなかった。 死んでいる。 救急車、警察、呼ぶ声を思考の片隅に聞きながら、テオは逸る鼓動を止めることができない。殺人事件を見たのは初めてじゃない。それでもほとんどの探偵がそうであるように、目の前で人が死んだことはどうしたって経験がなくて。 テオ様、というダイアナの声にびくりとそちらを向く。 「ダン様、ですよね」 青白い頬が、あさい呼吸が。彼女もまた動揺していることを告げていた。 「ダイアナ、」 「──ど、」 「あんたがやったのォ⁉」 ダイアナが口を開く前に、きん、と声が飛んでくる。ロザリーだ。そうだ、思考停止している場合ではない。誰がどう見たって、この状況はまずい。 警察は車をすっとばしてくるだろう。近くに派出所があったから、想像よりもずっと早いかもしれない。テオは違う、と言いかけた唇を、しかし動かすことができなかった。 わかっていたからだ。 舞台の上には、テオとダイアナしかいなかった。そしてダイアナはずっと観客に向かって話しかけ続けており、姿が見えなくなったのは照明が落ちた数秒だけ。照明が再びついた時、水槽にいたのはテオと、死んだダン。 自分がやったのではないことはテオには、テオにだけははっきりと理解できていて、それでも状況証拠は全てテオを指している。なまじっか理解力の早い頭脳が、ただ警鐘だけを鳴らして。 詰まった喉から、声が発せられることはなかった。 遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。事件現場に急行する勤勉な警察官たちが雪崩れ込んでくる。 そうして現場の状況を見て、声を上げるロザリーや、団員たちの言葉を聞いて。 「──テオ・シリル・アリエス。お前を逮捕する」 耳に落ちた言葉は、がちゃりとかけられた重い銀の輪は、暗くテオの脳裏に響いた。 到着した警察が、テオの逮捕を決めたのも。なにも、不思議なことではなかった。 *** 8月29日、午前8時。 テオがワトフォード警察署に連行されてから半日が経とうとしていた。 事件のあらましを軽く聞いただけの警察は、そのままろくにテオの言い分も聞かずに拘置所にぶちこんできたのだ。テオとしては遺憾としか言いようのない状況が続いているが、今のところ打開の目が見えないのも事実だった。 「ボクじゃない」 取調室の椅子にどっかと座った開口一番、テオはそう言った。几帳面な警察官がそれを調書にとるべくかたかたとパソコンのキーを叩いている。 まるで信用されていない。そんなじっとりとした空気が、テオの真向かいに座った年老いた警察官に刻まれた皺の数からも感じ取れた。 「もう一度確認するが、被害者のダンとの関係性は」 「昨日会ったばかりだよ。ボクは仕事であそこに呼ばれてっただけで、それ以前になんてありようもないさ」 眉間の皺を揉み込む警察官を強い視線で睨みつけてやるが、状況は変わらない。昨日から堂々巡りだ。凶器や手段の話がほとんど出ないところをみるに、恐らくテオを救っているのは動機が薄いの一点だけであろう。 「……ボクはやってない。だいたい、ダンがどうやって死んだかもボクにはほとんどわかっていないんだぜ? ボクには殺害不可能な手段かもしれないだろう」 む、とした声にも警察官が動じることはない。ぺらりと捲った資料はダンの捜査資料か。紙っぺら数枚で終わってしまう程度の情報でテオを逮捕するとは、ひどく単純な殺人事件としか思われていないのだろうか。 「首に刺さっていた凶器は舞台にも使われていた釘だ。誰にでも入手が可能だった。直接の死因は水槽で水を飲んだことによる溺死だが、それこそお前にしかできないのはわかりきってるだろう」 ダンの死因を聞いてますますテオは渋面になる。人をひとり溺れさせるほどの水は、ステージ一帯どこを見ても例の水槽にしかない。いよいよ不利な状況か。 なおも言葉を続けようとして、 「テオ様!」 大きく開いた扉の音と、それからよく知った声にこの場の誰もが出入口に視線を向けた。サマーニットの赤髪の女性が、息をきらして立っている。 「おま、こらここは関係者以外立ち入り禁止、」 「ダイアナは関係者です! テオ様が殺人なんてなさるはずありません!」 「いや、しかしお嬢さん。今は取り調べ中でね」 「しかしもでももありません。テオ様は探偵なのですよ? こんなすぐにバレる殺人なんてするはずがないじゃあありませんか。もっとトリックを練ってですね……」 「現実の殺人にそんなトリックがそうそう使われることがあるか!」 胸を張るダイアナに、今までの緊張した空気がふと緩むのを感じる。空気を変えてくれる人材というのはこういう人のことを言うのだろう。 トリック。 人をだます手段、たくらみ、手品のタネ。突然現れた死体に思考が硬直していたが、そうだ。トリックが使われたというのなら、テオに罪を着せようとしている何者かがいるのだ。 テオは知らず知らずのうちに固まってしまっていた自分の心臓から、ようやく血が流れるのを感じた。 目の前ではダイアナが取り調べを行っていた警察官とぎゃあぎゃあ言い争いをしていて、調書を取るもうひとりが呆れた目で見ている。彼とぱちりと目を合わせ、テオは微かに微笑んで見せた。 「なあ、取調官さん」 声をかける。 きーっと両のこぶしを握ってテオの無実に声を上げるダイアナと言い争っていた警察官がはっとテオを見る。そうだ、目の前にいるのはひとりの人間。であれば、その心を掌握するのもテオの十八番だ。 「現実の殺人にトリックは使われない。それはどうしてだろう?」 むぐ、と言葉に詰まる音がする。とん、とん、とテオは爪先で机を叩き、臙脂色の瞳で瞬いた。ぶん、と取調室の暗い照明が一瞬明度を落とし、それがテオの瞳にゆらりと影を作る。 「衝動殺人にトリックは使われない……それに、ほとんどの殺人罪では死体をどう隠すか、どう事故死に見せるかの方が現実的だ。死体が見つからなければ見つからないほど捜査が困難になる。わざわざ死体に対してどうこうするトリックを考えて実行する必要はない」 気圧されたように警察官は半ばどもりながら言葉を続ける。それは確かに事実だ。死体がなければ殺人事件は成立せず、ただの行方不明、失踪として扱われる。また見つかるまでの時間が長ければ長いほど証拠や犯人の痕跡も失われていき、迷宮入りする可能性のほうが高い。 いうなれば、死体というのは発見されないことが最も殺人者にとって都合がいい。 確かに、とテオは頷いた。薄暗い取調室で白い髪色がいっそ銀に思えるほどほの明るく浮かび上がって見える。 「では、こう考えてみてはどうだろう。ダンを殺した犯人は、死体を発見させる必要があった」 「り、理由は」 ごろり、と生唾を飲み込む音がする。食い気味に重ねられた言葉に、テオはにいと口の端を持ち上げた。 かかった。 「さあ。だが、ありもしないボクとダンの関係性を探るよりはよっぽど建設的じゃないかな」 警察官の心情はテオをこの取調室へ連れてきた時から一変してしまっている。テオが間違いなく犯人であると頭っから考えていたのはすっかり抜けて、第三の可能性にぐるぐると思考を呻かせている。 「そこにいるダイアナもボクも、それなりに名の知れた探偵でね」 とん、と肘を机につき、組んだ手を頬に添える。自分の魅せ方をようくわかっているピンクチョコレートの唇が薄く開いて、毒のように言葉を吐き出した。 「どうだろう。ボクたちを捜査に加えてみないかい」 「ば、馬鹿な」 「おや、事件を迷宮入りさせたいなら無理にとは言わないよ」 「容疑者を捜査に加えるなど、できるはずが」 もうひと押しか。正論を最後のよすがにする警察官のぐらぐらとした心臓を握りつぶす言葉を探そうとして、 「おや」 飛び込んできたハイトーンな男性の声に、テオはぱちりと大きな目を瞬かせた。 「まあ、アレン様に、ルーサー様ではありませんか」 取調室の扉の向こうで、ダイアナが両手をかわいらしく唇に添えて声をかける。 アレン、ルーサー。聞こえた名前は間違いなく自分も知るもので。どうしてここに、という思いと今が好機という思いが一瞬で脳裏を駆けた。 「やあ、アレン。ルーサー。仕事中かい?」 わざと取調室から声を上げる。慌てて扉を閉めようとした警察官を遮るように。 ひょこりと顔を出したピンクブロンドの髪と灰色の髭面に、テオはいつもの調子でひらりと手を振った。 「テオくんじゃないか。……何かやらかした?」 開口一番、なかなかに厳しいお言葉をかけたピンクブロンドの彼のことを、テオは、いやダイアナもようく知っていた。 アレン=フレデリック・ライブラ。弁護士であり、また私立探偵でもある男。 ああ、と項垂れた警察官は、それでもなんとか気を持ち直したのか。 「お知り合いですか、ライブラ弁護士」 疲れたため息とともに声を吐き出した。 「彼には昨日起きた殺人事件の殺人容疑がかかっています」 へぇ、と漏れた声はルーサーからだ。元刑事だけあって、やはり殺人などの単語には思うところがあるらしい。 「テオくんがやったの?」 すらっとした立ち姿でアレンが問う。空気さえも淀んでいる錯覚に陥るようなくすんだ色をした取調室の中でも、彼の周りばかりは凛と澄み切った気配が漂っている。 「テオ様が殺人などするわけがございません。ダイアナも見ていましたが、これは立派な冤罪でございますっ!」 両手を豊かな胸の前に組んで言うダイアナは、いっそ警察官に噛みつかんばかりの迫力だ。悲壮感よりも威圧感が漂う気迫に、近くにいたルーサーのほうが苦笑してしまっている。 「お聞きの通り。ボクは冤罪だと言っているんだけれどね。彼らが離してくれないのさ」 ふうん、とアレンは自分の毛先を軽くつまんで弄る。ローズクォーツの石を嵌め込んだような柔らかい視線がすこうし右上に傾いて、何事か考えこんでいる様子が見て取れた。 ひと呼吸。 手袋をした指先がするりと髪の間をくぐって通り抜けて、彼は端整な細面を警察官の方に向けた。 「簡単に事件を教えてくれるかな」 「は、はっ! 事件は昨日、この男がマジックショーを行っている最中に起きました。水中脱出のマジックだと伺っていますが、演出でライトが消え、大きなガラスの破砕音と共に点いた直後にショーに使用した水槽に被害者が首を刺された状態で見つかり、水槽の上に被疑者が立っていました。現場の状況から殺害はこの男がやったとしか……」 「つまり、物的証拠はないんだね?」 真っ直ぐな視線が相手を射抜く。答えぬことは許されないとばかりに。法の秤を持つ男がこの場の空気を支配していた。 「それは……」 ぐ、と警察官が言葉に詰まる。それだけで是と言っているようなもの。はぁん、とどこか訳知り顔で髭をさするルーサーが、さては早まったかぁ、とのんびり声を出し。ただでさえ重い気配がますます肺を押しつぶし。 「……なあんだ、やっぱりボクは無実じゃないか」 ぱちん。呑気に叩いた手のひらが、重い空気をシャボン玉でも割るような気軽さでもって霧散させた。 ぱらぱらと灰がちた重い空気の断片を払い落としながらテオは笑う。軽く犬歯を見せて。 「まだ無実と決まったわけでは」 思わずつっかかる警察官の鼻先にずいと人差し指を突き付ける。すっかりいつもの調子のテオを前に言葉を飲み込む警察官と、微かに肩を揺らして笑うアレンとが対照的に見えた。 「なあ、ここはボクの提案を飲んだ方が身のためじゃないかな? あくまでもボクは事件の容疑者であって、犯人じゃない。いつまでも拘置所に置いておくわけにもいかないだろう」 「それは、だが。容疑者ならますます捜査に加えるわけには」 よしきた。捜査に加えない理由が容疑者であることしかなくなったことを確認して、テオは笑みを深くする。 ぱちり、とアレンに向かってウインクをひとつ落とせば、彼は仕方がないなとでも言わんばかりに揺らした肩を軽く竦めた。上等なスーツが彼の細腰に沿って柔らかな輪郭線を描いている。 「そうだね、テオくん。あまり無茶を言ってはいけないよ」 右手を軽く口元に沿え、まだどこか笑みを含んだ声は内容こそ警察官の救いとなる様子ではあったが、そのトーンは明らかにテオに向かって暖かく投げかけている。 「けれど、自分に容疑がかかったのをそのままにしておくのも、探偵として悔しいのはよくわかる。どうだろう、僕の手伝いをしてくれている彼を見張りにつけて捜査させるというのは」 す、と細い指が指したのは背後でのんびりこちらの様子を伺っていた灰緑色の瞳で、その指先の意味を知った途端に。彼の隣に立っていたダイアナが嬉しそうにぴょんっと体を揺らした。 「ルーサー様でしたら適任です! なんていったって、元刑事様ですものね!」 「まぁ、そうだな」 思わぬ肩書に揺れる警察官は、気圧されたようによろめく。壁についた手が動揺をあらわし、わなわなと指先が震えていた。 「拘束しておくことも、野放しもしたくないんでしょう」 どうかな、と微笑んだ彼の言葉は、もはや提案ではなく現状への回答。間違いなく最適解を叩きだすその才にテオはぴゅう、と口笛を吹き。5秒後には頭を垂れるであろう警察官に心の中で十字をきった。 警察官の頭は2秒後には垂れていた。 かわいそうなくらい肩を落とした背中を見送って、テオはダイアナを連れて警察署の外へと出る。やあ、半日ぶりのシャバの空気だ。 「助かった。このまま犯人にされるところだったよ」 アレンにそう言ってやれやれと肩を回す。後ろでは呼びつけたタクシーを待たせていたらしいダイアナがルーサーを後部座席に押し込んでいて、やいのやいのと子犬たちがじゃれている声が聞こえた。 イギリスの今日は、曇りだ。分厚い雲がどろりと空を覆い、いつまた雨が降るか知れたもんじゃない。肺に湿度の高い空気が入り込み、どこか嫌な気持ちになる。 「助けが間に合ったようでよかった。とはいえ、とても驚いたよ」 小さく笑うピンクブロンドがさらさらと空に揺れる。分厚い書類が入った鞄を片手にぴんと伸びた背筋は、恥じるものなど何一つないと言わんばかりの圧倒的な正しさを備えていた。 「驚いたのはボクもさ。まったく、犯人にはオキュウとやらを据えてやらなくちゃいけないな」 オキュウなるものが何かは知らないが、日本の刑事ドラマにあるらしい言い回しを真似してみせる。少しおどけた様子で言った言葉に、アレンは鈴を転がすように声を返した。 「約束してね。必ず真犯人を見つけると」 「もちろんさ。きみのところの助手クンも借り受けるよ」 「うん、そのうち返してくれればいい。それじゃあ、僕は仕事があるから」 なにもかもガラス細工でできているかのような華奢で硬質な笑みを浮かべたアレンは、頑張ってね、とだけ口にして。颯爽とワトフォード警察署の中へと戻っていった。 「テオ様! お車の用意ができました!」 ようやくごねるおじじを車の後部座席に押し込められたらしいダイアナが呼ぶままに、テオも後部座席に滑り込む。 荷物はほとんどない。昨日劇場に置きっぱなしにしたままだ。ダイアナは長い脚を小さく折りたたみながら助手席に座って、こちらの劇場までとタクシーの運転手に指示を出していた。 「──で」 灰色の髭を擦り、男が口を開く。ルーサー・ウィリアム・ジェミニ。ふたご座の名を冠する彼もまた、テオが信頼する探偵のうちのひとり。 「その水中脱出マジックってのはどんなトリックなんだい、ご両人」 身も蓋もないことをあっさりと口にされて、テオは苦笑した。警察署でアレンと別れてものの1分も経っていない。 「おいおい、せっかちだなルーサー。でも仕方ないか。トリックのタネはボクが使った水槽を見ればわかる……と言いたいところだけれど、すっかり割れちゃっているしな」 いつものくたびれた雰囲気はどこへやら、綺麗にスーツを着込んだ初老の男性は、いかにもデキる男といった雰囲気で手帳を開いている。刑事時代のクセが、ここにきて正しく役に立っているらしい。 「今回のマジックは簡単だ。あの水槽は最初から回の形の二重構造になっていてね。真ん中の空間には水が入っていなかったのさ」 こう、と空中で指を滑らせる。水族館でもたまにある展示だ。人間がガラスの中に入り、周囲が魚に囲まれているように見せるもの。 「だがそれじゃ、お客にすぐバレちまわねぇか? 水の中にいるようには見えねえだろ」 「それがテオ様のすごいところなのです!」 えへん、と助手席で胸を突き出すダイアナは、何故か自分の手柄であるかのように誇らしげにローズピンクの唇を開いた。 「テオ様は、一番外側を囲むガラスと内側を囲むガラスの種類を変えて水槽をご用意されました。外側のガラスは厚く、はっきりガラスとわかるように薄い色がついています」 「正確にはガラスじゃないぜ、ダイアナ。あれは今回のために特別に発注した特殊樹脂だ。ルーサー、どうしてガラスだと向こうに人がいるってバレるかわかるかい?」 「ん? そりゃあ……ええと」 考え込むように車の窓ガラスを指先でこつこつ鳴らす。えほん、と運転手の嫌そうな咳払いが聞こえた。 「あれだろ、景色が歪む」 返ってきた答えに、テオは正解だ、と満足気に頷く。 「水とガラスでは光の屈折率が違うからだ。簡単に言うと、屈折率が違うものふたつが重なっていると景色が歪んで見える。では、屈折率が同じもの同士を通して見れば」 「はい! まったく歪みがなく、そこにはガラス、いいえ水と全く同じ屈折率を持つ特殊樹脂が存在しないように錯覚させることができるのです」 「ほお。それじゃあテオは最初からその空間で、水の中にいる演技をしてたってわけかい」 「その通りさ。そのためにボクはわざとステージ上でマントを取り髪を留め、出来る限り水中で揺らぐものを減らした。お客さんが違和感を抱かないようにね」 「はい。そのうえテオ様は、水槽の上部に仕掛けをほどこし、自分が中に飛び込むと同時に先ほどの特殊樹脂と同じ素材のボールが水槽内に落ちるようにもしておりました。水しぶきを演出するために」 「細かいな」 感心したような声が横から上がり、すらすらと手帳に図が書き込まれていく。 「で、その後は? ダイアナが水槽を布で覆い隠して……だっけか」 「ええ。お客様にテオ様が水槽に入られたことを確認していただきましたら、ダイアナが横のタイマーのボタンを押しますの。3分きっちり計れるタイマーです」 人間の呼吸は3分が限界だという。その3分の間に脱出しなければ、テオのマジックは失敗、直接死に繋がるというハラハラ感のある仕掛けだ。 もっとも、当のテオは呼吸を止める演技をしているだけだったが。 「ダイアナに3分間の口上をしてもらっている間に、ボクはすぐさまベルトの拘束を外し舞台の奈落を開けてステージ下に潜り込んだ。ステージ下に準備していた衣装を着て、ステージの舞台幕裏に続く階段を駆け上がり、あとはダイアナの声の合図とステージ全体の暗転を待てばいい」 「その後は皆様ご存知の通り、テオ様が暗転の間に水槽の上まで登壇し、華やかに脱出ショーの成功、となる手はずだったのですが」 ふと彼女の言葉が重くなる。もちろん成功するはずだったのだ。いや、していた。あの死体の出現さえなければ。 「そこで突然大きな音と共に死体が水槽に現れて、電気が点いた時にゃ……か」 「そうだ。確かに舞台幕の裏でボクが待機する時間は少しあった。ただの拘束脱出なら1分とかからないし、舞台幕裏で何かモメごとがあってそのまま彼を刺し、逃げようとした彼が暗転の混乱で水槽に落ちた……筋が通らないわけじゃない」 テオは視線を落とし、手元でくるくるとコインを弄る。どうしたって説明のつかない部分がまだあって、現状彼を殺害できる機会があったのはテオしかいないというのも事実だった。 「だが、ひとつ確実に筋が通らないことがある」 ふと、落ち込んだ視線に声が落ちてきた。ルーサーの少ししわがれた、だが確かに真実を見つめるピーコックグリーンの視線。 「お前さんは誰も殺していない。そうだろう?」 車内がしん、と。水を打ったように静まり返る。車の排気音と、互いの呼吸音とばかりがこの場を満たし、そうしてその中にルーサーの声が波紋を広げ染みていった。 「そうだ。……そうだとも」 その通りだ。ぐらつきかけた自分自身の唇を持ち上げ、テオは口の端で笑みの芽を食んだ。 「このテオ・シリル・アリエスは誰も殺していない。それが──真実だ」 上出来だ、と。目の前の灰色の男が、その両目を優しく緩めた。 午前10時。 劇場に寄せたタクシーにお代を支払って、三人は正面入り口の前に降り立った。大きな劇場だ、とひとりごちるルーサーはすっかりおのぼりさんの様相を呈していて、ダイアナがその脇腹をつん、と肘でつついた。 「現場ってぇのはどこだい」 「ダイアナがご案内します。団員の皆さんも今日は撤収のためにいらしてましたから、お話も聞けるはずです」 タイルの上を、靴音が行く。 こつこつ、かつかつ。革靴、ステージ靴、ハイヒール。てんでばらばらの靴音がリズムをたてて歩んでいく。 階段を上がり、正面のガラス扉を押し開ける。Keepoutの黄色テープが張られた受付を通り過ぎて劇場の扉を開けば、がらんとした座席たちの向こうに、ぐしゃぐしゃに割れた乾いたガラスの箱があった。 「……」 思わず険しく眉根を寄せる。白いテープが人間の形に貼られ、そこで人が死んだことを示していた。 「ダン様……」 どれほど喧嘩していても、ダイアナはその悪意をけろりと忘れたかのように彼の名前を呼んで肩を落とす。激情家だが、あまり引きずることはないのが彼女のいいところだった。 「……どうせなら、まぎらわしい死に方をしないでくださればよかったのに!」 あまり引きずることはないのが、彼女の本当にいいところだった。 改めてステージへと近寄る。事件発生時から全く動かしていないらしい水槽は、左右の舞台袖からの位置も遠い。 「ステージにいたのはダイアナとテオだけで間違いねぇんだな?」 「間違いないな。舞台幕の後ろに潜むことはできたかもしれないが、それなら間違いなくボクが見ている」 テオは舞台が暗転する前から舞台幕の裏で待機していた。舞台幕の裏は演出の関係上、照明が取り付けられていない。だがステージから入る光で、薄暗くはあるものの行動に支障があるほどではない。もちろん、人間がいれば見逃すはずもなかった。 「ですが、ステージが暗転していればテオ様にもお姿を見られることなく動くことはできました」 舞台幕をぺらりと捲ってダイアナが言う。幕の裏は完全に物置に近い状態になっている。今回の魔術団が使った大道具以外にも、汎用性のある書き割りや資材、ペンキの空き缶に突っ込まれた釘、どう使いようもなくなったであろう木箱。 人が潜むことができるかどうかで考えれば、できたかもしれない、としか言いようがない。 「ステージが暗転していたのはごく短時間だ。ドラムロールの間だから、5秒から6秒」 「この階段からお前さんが上がるのはわかってるんだから、横をすり抜けて死体をぶち込み、また舞台幕の中へ。シビアだが、できないわけじゃなさそうなのがまた」 ぺらり、と音が耳につく。視線を音に向ければ、ぺらぺらとルーサーが何かの紙を捲っていた。どこかで見たような気もする、数枚のレポート。 「ルーサー、何を見ているんだい?」 写真がいくらか張り付けられた紙。もしかして、という予感を胸に尋ねれば、彼はこともなげに一枚の写真をこちらに寄越してきた。 「アレンが持たせてくれたよ。機密事項だと」 慣れていない者であれば、その写真を見ただけで悲鳴を上げたかもしれない。そこに映っていたのは、水の中から引き上げられ、ぐったりと体を割れたガラス片の上に横たえた男。事件発生直後の現場写真だった。 さしものテオも、む、と眉間に皺を寄せる。見たことがないわけではないが、見慣れるものでもない。 「借りても?」 「あぁ」 写真の中にある死体は、目の前にある白いテープ跡の中に生々しく彼が存在していたことを改めて印象付けてくるよう。 眉間の皺を揉み込んで、テオは改めて水槽に向き直った。 「写真はこの位置から撮られている。死体を調べることはできないが、シミュレーションしてみよう。ダイアナ、協力してくれるかい?」 「もちろんです。なんでもお言いつけください」 「よし」 写真と現状を見比べる。確かに現場は彼が死んだそのままにされているらしく、死体がない他はほとんど写真そのままだ。 「まず、頭の位置は……舞台奥から見て左側。水から引き上げられた後の写真ではあるけれど、確かにボクも彼が自分の左手に頭を向けていたことを覚えているから間違いないだろう」 冷たくなった男は、顔を伏せて写真に写っている。どのような表情で死んでいったかを、テオはもう思い出せない。 だがそれよりも、彼の奇妙な死にざまの方が大事なのは事実だった。 「首の左側に釘が刺さっている。流れた血はこの傷跡から出ていたな」 「はい、お水の中に流れていたのをダイアナもよく覚えております」 「だけど、直接の死因は溺死だった……」 「刺したけど死ななかったので、水槽に放り込んでなんとかしようとしたのでしょうか」 「ちょっと間抜けすぎるね、その犯人は」 写真から読み取れるのは、釘が刺さっていたという事実だけだ。ぐっと肉に食い込んでいる様子から、明らかに長い釘であることは間違いなさそうだが、どうしてこんな状況になっているのかはまだわからない。 「……ん、」 ふと、首の下に小さな黒い影があるのをテオは見逃さなかった。 「ダイアナ。そこのガラスの下。何か落ちていたりはしないかい?」 「少々お待ちください」 指さして大まかな位置を示す。すっかり割れてしまったガラスをヒールで踏みつけ、ダイアナは指を切らないようにそうっとガラスを選り分けた。 「こちらでしょうか」 拾い上げたのは、小さな金属の輪。ネジを止めるための部品としてあまりにもありふれた材料。ナットだ。それが小さなガラスの破片に交じって落ちていた。 「ステージの落とし物かな」 「いえ、ダイアナはガラスの中から拾いました。少なくとも水槽の中に落ちていたものと思われます」 水槽の中に。その事実に、テオは考え込んだ。水槽は間違いなくテオが手配したものだ。ナットを使うような部分はなかったし、水を入れた時にも見た覚えはない。 「それは……気になるな」 もう一度写真をようく見る。血のほとんど出ていない傷口、落ちていたナット、ずぶ濡れのステージ衣装……。 そこまで見て、テオはおや、と声を上げた。 「絆創膏」 ダンの右手の平に、小さな絆創膏が剥がれかけながらくっついていた。 「ダイアナ、彼は絆創膏をしていたっけ」 テオの記憶にはない。注目していなかっただけという可能性もあるが。ダイアナはどうだったかと視線を向ければ、鮮やかな緑色のまなこがはっきりとテオを見つめて口を開いた。 「ダイアナが売られた喧嘩を返り討ちにした時にはつけておりませんでした」 「間違いないかい?」 「ええ。もし絆創膏なんてしていましたら、ダイアナ、アクロバットのパフォーマーなのにご自分の手も大事にできませんのって言ってやりましたもの」 威張れない内容に見事に胸を張り、ダイアナはふふんっと得意げに鼻を鳴らした。大きく突き出した胸がぽよんっと揺れ、彼女の自信を表している。 「ダイアナがそう言うのなら間違いないね」 少々好戦的に過ぎるところのあるメイド探偵のことだ。だがそのぶん相手への観察眼は確かなもので、信頼できると断言できた。 「公演が始まってから死ぬまでの間にできた傷、か」 剥がれた絆創膏に隠されていたであろう皮膚には小さな赤い点が浮かび、大した傷ではないことは確かだった。絆創膏があるということは、ダン自身か誰かが手当をしたということでもある。 どうも決定打に欠ける、気持ちの悪い断片ばかりだ。そういえばルーサーは、と視線を上げたところで、彼が舞台幕を持ち上げてこちらに近寄ってくるのが見えた。どうやら舞台裏を調べていたらしい。 「現場は舞台幕の裏側で間違いなさそうだ」 「で、でも舞台幕の裏にはテオ様しかいらっしゃいませんでした。テオ様もそうだと証言しておられますし、そんなの、ますますテオ様が犯人扱いされてしまいます!」 「ルーサー、証拠でもあった?」 「ん」 持ち上げられた舞台幕に視線を落とす。薄暗い通路をルーサーが懐中電灯で照らし、見せたい一点だけが明るく照らし出された。 「血痕だ。まだ新しい」 鮮やかな赤はとっくに乾いているらしく、かさついた表面を空気に晒している。 ほんの数滴程度の赤が、しかし確かにここで血が流れたことを示していた。 「大道具が放ったらかしになってんだ。凶器の釘と似たもんもそこに放置されてたぜ」 親指で指した先には、確かにかなり大振りの釘が適当に入れられている。劇場の危機管理の薄さゆえか、ある意味誰でも釘を使って人を殺せる状況ではあったらしい。 現場にあった凶器。不可能ではない犯行。となれば、次に調べるべきは。 「……事件発生当時のアリバイ、かな」 テオ以外の人間、いや。ステージ上にいなかった人間で犯行可能だった人物を絞る。それが最も近道であるように思われた。 「ダイアナ。ボクが連れていかれた後ってどうだった?」 ステージから降りながら問いかける。あの場には副団長以外の全員が揃っていて、予定であれば公演終了後の打ち上げに参加するはずだった副団長もじきに帰ってきていただろう。 「はい、あの後控室で警察からひとりづつ事情聴取をされて、その日は何も手をつけず解散となりました。副団長様もすぐ戻られて……。皆様、真っ青なお顔を」 事情聴取で何が聞き取られたかは気になるところだったが、碌な話を聞いたとは思えない。それほどまでにあの状況では、テオ以外に犯人はいないかのように見えた。 「聞き込む相手は何人だ?」 「5人。団員4人と団長だけ」 「あら、副団長様はよろしいのですか?」 「彼はショーの最中、この場を離れていた。アリバイの聞き込みをする必要もないさ」 ぽんぽんと会話を弾ませながら、客席の絨毯を踏む。控室で荷物でも纏めているであろう彼らから素直に話を聞き出せればいいが、明らかに犯人扱いをされていた部外者にどこまで話してもらえるものか。 歩きながら視線が落ちる。重い鉄扉を開け、薄暗い廊下に入る。暗い蛍光灯の下で、かいぶつのように影が伸びている。少しばかり落ちた気分に、しかしぽん、と背中に温かさが加わってテオははっと視線を上げた。 「そう気落ちしなさんな。そのために俺が貸し出されてんだ」 じじじと音を立てる蛍光灯が小さく明滅する。くすんだ緑色の瞳が、煌めく新緑の瞳がこちらを見、心配な思いがテオを包んでいるというのが嫌でも伝わってくる。軽く叩かれた背中にルーサーの手のぬくもりが広がり、テオはまた一歩を踏み出した。 「ああ。行こう」 こつ、と靴音が響く。かいぶつのようだった影は、よく見ればただの影でしかなかった。 こんこんこん、と。扉が開け放たれた控室の入り口をこの前と同じように壁ノックして、テオは室内を見回した。めいめい言葉少なくバッグに物を詰め込んでいる彼らが一斉にテオの方を見て、それから目を見開く。何を考えているかはおおかた予想がついたので、テオは誰よりも先に口を開いた。 「やあ、昨日ぶり」 固まった彼らの間に、優雅な足取りで入り込む。腫れぼったい瞼、崩れたメイク、真っ青な顔色。それらをひとつひとつ確認し、テオはくるりと部屋の中心でターンする。ふうわり広がったマントが誰もを睨めつけ、そうしてゆっくり重力のまま落ちていった。 「きみたちに話を聞きたくて帰ってきてしまったよ」 無言、無音。続いて控室に足を踏み入れたダイアナとルーサーの足音だけがゴムタイルの床に響く。 「とっ、取り調べはどうなったんですか、なんでお外にいるんですか」 慌てたような声がおかっぱ頭の若い女性、見習いマジシャンの彼女から上がり、団長がまあまあとなだめる様に手をあげた。もっともな疑問だ。そしてそれに対する答えを出すならば、テオではない方が 都合がいい。 「それについては、彼から」 のそりと部屋の中央まで歩いてきた猫背に視線を譲って下がる。必要な話は、必要な人間から。 「ルーサー・ウィリアム・ジェミニ。(元)刑事だ。昨日の話を聞きたくてな」 穏やかだが、有無を言わせぬ声に室内の誰もが押し黙る。まあ、とおかしそうに声を上げたダイアナは、読み上げられなかったカッコの中を想っているのだろう。 刑事と聞いて顔を顰める人間、ほっとする人間。様々な温度感の中心にルーサーは立つ。誰がどう口を開くのか。確かめるように言葉を選ぶ。 「まず、事件が起きた時に全員がどこにいたかだが、」 「それはっ、昨日も警察の方に言いました。私たちみんな、ステージであんなことが起きた時……舞台袖にいたって!」 は、と。呼吸が止まった音がした。 ルーサーの視線が鋭くおかっぱ頭の彼女を見る。 「確かか」 声もまた切れ味鋭く、微かに詰問する口調を孕んでいた。 「あ、当たり前です! だっておふたりのプログラムが終わったらすぐにクライマックスなんです。全員舞台に上がらなくちゃいけないんですよ」 言っていることは間違っていない。確かにプログラムにはそうあった、とテオはルーサーに向かって頷いた。 「その時、被害者はどこにいたかわかるかい」 「それもわからないって、もう何回だって言いました! 具合が悪そうにしていたからトイレじゃないかってジョーが言って、私たちも出番の前には来るだろうって思ってて、だから私たち、できっこないんです。もうそこの人が犯人で間違いないじゃないですかぁ……」 ぽろぽろと堰を切ったようにおかっぱ頭の女性から涙が流れ出す。昨日から続く緊張状態についに耐え切れなくなったのだろう。しまったな、と軽く頬を掻くルーサーは少し困った顔をして、近くにいたスーツの男性が彼女を宥めるのを見ていることしかできない。 「……アリバイはわかった。だが他にも聞きたいことがあるんでね、もう少し頼むぜ」 年季物の手帳をぺらりと捲る。万年筆の青インクが踊り、ルーサーは視線を前に向けながら問いかけた。 「このダンって男だが、最後に見かけたのはアクロバットのショーが終わった時で間違いないか」 「間違いない。俺が弟に声をかけて、気分が悪いなら次の出番まで休んどけって言ったのが最後だと思う」 「なるほど。じゃあ聞くが、ダンが絆創膏を貼っていたのは見たかい」 「絆創膏?」 相対するジョーの目を見る。視線が逸れるのを追う。どこにも彷徨えない視線に彼は知らないらしいということがはっきり見てとれ。同時に、ちら、と。ひっつめ髪の女性が嫌そうに顔を顰めたのをルーサーは見逃さなかった。 「どうやら絆創膏の件はそっちのお嬢ちゃんが知ってるらしいなぁ」 ロザリーだ。視線が泳ぐ。急激に口ごもる。わたしは、とか、でも、だとかの単語がぽろぽろと零れて、それからしぶしぶと言わんばかりの様子で唇をもごもご動かした。 「それ、関係ないもん……私が絆創膏したけどォ、ダンのステージの前だったしィ、ダンは生きてたしィ」 胸の前でいじいじと爪を弄る。耳のピアスに指を向け、凹凸を触って確かめようとする。 舞台袖で彼女が言った言葉を、テオは思い出していた。ダンから貰ったものだと。ひどく不安げに弄るピアス。そちらの方に向けられた視線。 「手から血が出てたから絆創膏あげただけだもん……。それだけだよォ。なに? 今それ関係なくない?」 不安定になっている。絆創膏があったこと、知らない傷があったこと。些細な気になる点を解決するのにはじゅうぶんな言葉だ。そうテオが謝罪の言葉を口にしようとした、その時だった。 「関係ねぇとは言わせねえぞ」 光を反射しない、どろりとしたピーコックグリーンが彼女を睥睨した。 「ルーサー?」 「今、考えて喋っただろう、お前さん」 「な、なに、私別に」 「何かを隠そうと考えながら、口先で辻褄を合わせようとしただろう」 仕立てのよいスーツの胸元を崩し、老人めいた髪色で、青年めいたぎらつきを視線に込めてルーサーは言う。 「人間はウソをつく」 ルーサーの唇が凶悪に引きあがる。どれほど小綺麗な恰好をしていても隠し切れない、滲み出る堕落した人間のにおい。だからこそ、その言葉には強い説得力があった。 「ついたウソは、行動に滲み出る。今ピアスを触った、視線が触った手に向いたな? 頬が赤くなった、緊張が隠せていない。図星をつかれたか?」 つらつらと流れる言葉に、周囲はしん、と静まり返る。恐怖の色がはっきりと目の中に滲んで、相対するロザリーはひどく顔を歪めていた。ひゅ、と呼吸が鳴る。堂々と立つルーサーは最早、ただの酒好きの好々爺らしい雰囲気はどこにもなく。ただ真実を追求するだけの一本の矢。 音のない空間。動けば切れてしまいそうな沈黙を破ったのは、ルーサーでもテオでもなく。メイド然としてその場に控えていた、赤毛の彼女だった。 「ルーサー様、ロザリー様を怖がらせてしまっていますよ」 ぴんと伸ばした背筋で、ダイアナは口を開く。艶やかなピンクの唇が笑みの形に彩られ、まるで不器用なルーサーの言葉を引き継ぐように声がすらりと流れ出た。 「ロザリー様」 びくり、と彼女の肩が跳ねる。 「もしロザリー様が本当に関係ないというのなら、全て話してくれませんか。それがテオ様の、ひいてはロザリー様の身の潔白を証明することになると思うのです」 視線がおろつく。明らかな動揺が透けて見えて、それでも先ほどよりいくらか軽くなった空気に押されたのか、彼女の肺からぼろりと言葉が溢れ出た。 「だ、ダンが言ってたの、傷口がなんか変に痒いってェ。その時は、ぜんぜん気にしてなかったんだけどォ、それからどんどん具合悪くなってくし、死んじゃうし、もしかしたらそのせいでダン死んじゃった? って思ったら、怖くてェ」 「ダン様とはどちらでお話を?」 「あっちの、物置にしてる控室の廊下だよォ。そこから出てきて、何してんのォって声をかけて、でもそれだけ、本当にそれだけなの!」 ちらりとダイアナがルーサーに視線を寄越す。嘘は言っていない、と緑色同士が一瞬交わり、 「それは……怖いことを思い出させてしまって申し訳ございません」 いやいやするように首を振る彼女の肩を抱き、ダイアナが言葉を紡いだ。ここが限界だろう。 「私たちも疲れている。すまないが、聞き取りはまた後でもいいかな」 ぽつり、と落ちた団長の言葉に、誰ともなく頷く。続いた緊張にひたすら声が出ず、女性のすすり泣く声が控室に落ちていった。 「ルーサー、いじめすぎだぜ、ありゃ」 ぽふりと隣を歩く男に適当な帽子を被せてテオは言う。10cmほど上に向けた視線の先で、灰色の猫が申し訳程度にすまなそうに背を丸めていた。 「やー、つい刑事時代の血がなぁ」 「もしかして、ルーサー様、女性の扱いが苦手ですかぁ?」 嬉しそうににまにま笑みを浮かべてダイアナが近寄ってくるのに、ルーサーはうるせぇ、と吐き捨てた。苦手らしい。 「あらぁ、それならこのダイアナをエスコートの練習相手にしてくださっても構いませんよ?」 「ア?」 嬢ちゃんじゃなあ、といかにもやる気のなさそうな、それでいて滾る血を持っている目ではははと彼は笑う。控室の薄暗い廊下で、だがテオは溜息を吐いた。 誰も舞台裏にはいなかった。オリエント急行じゃあるまいし、全員が共謀でもしていなければこの証言は崩せない。 テオは自分の唇に軽く触れる。先ほどの言葉を思い返し思い返し、脳内で反芻させていく。 最後にダンを見たのはステージ。その時には既に具合が悪そうにしていた。ステージの前、ロザリーが怪我をしたダンを見た時にはまだ具合が悪い様子がなく、ロザリーは怪我が原因でダンが体調を崩したと思っていた……。 「……ダンはどうして怪我をしたんだろう」 ぽつりと零した言葉に、軽くふたりがテオを振り向く気配がした。ひさひさと埃の舞う細く暗い廊下。この廊下でダンとロザリーは会話をした。怪我をしたのは恐らくロザリーに会う直前だ。どこから出てきたかと言ったか。そうだ、物置に使っている控室から出てきたと彼女は言った。物置で何かが起きたことは間違いなく、しかしそれが今回の殺人と繋がっているかといえば何もわからないとしか言いようがない。 「気になるのであれば、調べてみましょうテオ様! なにせ今ならオールフリーです!」 ぐ、っとこぶしを握ったダイアナが、そのままの手でするりと控室の扉を指さした。相変わらず三つある扉はどれも開きっぱなしになっていて、不用心ささえ感じられる。 「気になる理由でもあるのか」 「そうだね、理由というには弱いんだけれど」 ぽつ、ぽつ、とテオは考え考え言葉を落とす。最初から気にかかっていた部分。 「ダンの死因がずっと気になっていてね。溺死、とあったけれど。ボクが見たダンは既に死んでいるように見えた」 溺死であるならば、水の中に少なくとも3分はいる必要がある。水槽の大きさもあってダンの死体が引き上げられたのは結局警察が到着してからで、それだけ聞けば溺死でもおかしくはないが。彼は発見時、明らかにぐったりと弛緩していた。 だからこそ、その場にいた誰もがダンはとっくに死んでいると疑わなかったのだ。 もしあの時彼がまだ生きていたのなら、と内心歯噛みする。 「生きていたにも関わらず、彼が助けを呼べない、水に落ちても藻掻くこともできず沈むような状態だったのなら。具合が悪くなったことに関係があるんじゃないかと考えているよ」 「で、その原因があの倉庫にある可能性か」 「本当にあるかはわからないけれど、だな」 見えない何かを探す。砂漠から砂金の粒を拾い上げるような作業だ。それが一体何かさえもわかっていないというのに。 「……ダンの手のひらを傷つけるようなものがあれば、早いんだが」 「写真、もらってもいいか」 「ん」 軽いやりとりの後に、ルーサーに写真を返す。手のひらの絆創膏。どれほど画質のいいカメラを使っても、そこを写すという意思のないただの写り込みでは何によって傷つけられたものなのかを判別することも難しい。 「多分だが、……針、だな」 「針?」 「ああ。皮膚が裂けてる感じじゃねえ。赤い点が皮膚の下にある。ごくわずかな内出血ってとこだ。傷口自体は見えないから、裁縫針かなんか……」 「針……」 改めて戸口に立つ。あれこれと積まれた大道具の部屋から、そんな小さなものを探せるのか。 「こういう時こそ、テオ様。何故ダン様が針を刺されたのかを考えるべきではございませんか?」 一歩先に部屋の中に入っていたダイアナが、ぱちんと手を打ち鳴らしテオを見た。 「というと?」 「はい、ダイアナはメイド探偵でございますから。お針子仕事だってお手の物です。つまり、どういう時に手のひらに針が刺さるかも熟知しているということです」 「なるほどな、例えばどんな時だい?」 「そうですねえ」 こつ、と彼女のヒールが鳴る。部屋の中を歩き回りながら、腕を組み首を傾げ。ひとつひとつ可能性を思い出そうとするかのように視線を右上に向ける。 「まずひとつ、お針子仕事をしていた。ふたつ、針が置かれていた場所にうっかり手をついてしまった」 こんな本番中に縫物をするのはよほどの理由がなければ考え難い。針が置かれていた場所というのなら、テーブルやもしくはある程度平らな部分と考えられる。 「みっつ、針の刺さった壁、もしくは……ささくれで手を刺してしまった」 ふに、と彼女は自らの薔薇色の頬を指先でかわいらしくつついて小首をかしげる。真っ赤な髪がふわふわと揺れた。 意識的にか無意識にか、歩き回った足取りはそれらしい場所へと向かっている。こまごまとした小道具が置かれたテーブルの上、ささくれだった木箱、雑多なファイルを収めた金属の棚。 「いずれかで、……あら」 歩き回る彼女は、ふと言葉を切る。そうして金属の棚に近づきまじまじと下から棚を見上げ。 「テオ様、血痕が」 一点を指さした。 「どこだい」 「あそこです。少し高い段の、角になっているところ」 見ればぎっしりと荷物が詰められたスチール棚の一部がぽかりと穴をあけ、その下に小さくぽつりと赤がこびりついている。 「誰かが出血した、か」 「状況から見て、ダン様である可能性が高いかと。それに、ほら! 何かが張り付けてあったようなテープの痕跡もございます」 棚の裏側に残された、小さなテープの破片は間違いなく剥がしきれなかったものだろう。怪我をするようなものが何もないこの場所に針が取り付けられていたのだとすれば、誰かが剥がして捨てたとしか思えなかった。 ひゅう、とルーサーが軽く口笛を吹く。やるじゃねぇか、とまるで犬を褒めるようにダイアナに声をかければ、 「ダイアナ、お掃除は隙間までできますからね」 自慢げに彼女は胸を張って答えた。 「ダイアナ、ダンはきみとそんなに変わらない身長だったね」 「はい、ダイアナはそのように記憶しております」 「そうか……」 何かが抜き取られた棚は、ダイアナが手を伸ばしてぎりぎり届く程度の高さに設定されていた。昨今の組み立て家具と同じく、棚の高さをある程度調節することができるタイプだ。 長方形の空間に収められていたのは、同じ棚の並びを見る限りファイルか、本か。隣に並んでいるファイルと同じ種類であれば、硬い背表紙の分厚い事務ファイルが置かれていただろうことが容易に予測できた。 「ダンがここで怪我をしたことは間違いない。そしてその怪我は、仕組まれたものだ」 ぱきん、とテオは指を鳴らす。 「自分の身長よりも高い、ぎりぎり届くファイルを取ろうとすると、右利きの人であれば自然と右手を上に上げ、手のひらを、そうだ。手のひらを棚の側面につけてファイルの下を持つ。その位置にピンの先端が来るように設置すれば……」 ぐさり。小さな傷に軽く痛みこそ感じすれ、ダンはさほど気にしなかったのだろう。血が滲む程度の怪我ではトゲが刺さった、その程度の認識だ。 そのままファイルを持ち、外に出る。ちょうどそこでロザリーに出会い、絆創膏をもらってステージへ向かった。 「ファイルのことに関して供述がなかったのは、ダンが隠したからかそれとも彼女が見逃したか」 彼女が嘘を言う可能性は低い。あそこまで動揺した人間に、嘘をつくだけのエネルギーも余裕もない。それに、ファイルを見ていようがいまいが、ひとつだけはっきりしたことがあった。 「テープが剥がされていたということは、何者かがダンがここで怪我をしたことを隠そうとしたということだ」 もしも偶然の怪我であれば、針はまだここに残っているはずだ。それがないとすれば、その針はダンに怪我をさせた犯人にとって都合の悪いものだということ。 「やはり、誰かが悪意を持ってダンがあの場所で死ぬよう仕掛けた可能性が高い。それも恐らく、魔術団の誰かによって」 犯人は、6人の中にいる。 戻ってきたステージは、変わらず無情に光が降り注いでいた。 水の抜かれた水槽、白いテープ。そればかりが目に付く、殺風景な事件現場。控室で怪我をしていようが、ダンが死んだのがここだということは間違いないのだ。 テオは観客席の椅子にゆっくりと腰かけ、改めてステージを見上げた。深い臙脂のベロア素材が、体重をかけるテオを包み込むように潰れる。 「しかし、殺害方法も動機もわからないとなるとちと厳しかねぇか」 行儀悪く観客席の背もたれに体重をかけ、テオに背を向けるような恰好をした男が枯れた声で言う。シルバーアッシュのまとめ髪がやけに艶よく首筋にかかり、どうにも据わり悪そうに首の後ろに節くれだった手を回して。 「厳しくともなんとかせねばなりません。テオ様の自由と名誉のためにも」 ノースリーブのサマーニットを着こなした赤毛の女性は、ルーサーの反対側。テオのすぐ傍に控えるようにきっちり踵を揃えて立っている。今のご主人様はテオ様ですからと、決して侍従である態度を崩しはしない。 ふたりの声を聞きながら、テオの思考は紅いベロアの中にゆっくりと埋もれていく。紅玉の瞳がステージを割れた水槽を見つめながら、手はするりとトランプの束を取り出していた。 しゅ、とトランプを手先で遊ばせる。落とした視線が慣れた手つきでシャッフルされるトランプの背を見て、白銀の睫毛が彼の浅黒い頬に透明な影を落としていた。 突然現れた死体、ガラスに叩きつけられた音、死因にはならなかった首の傷、舞台幕の裏に落ちていた血痕、手のひらの絆創膏、持ち出されたファイル、剥がされたテープ痕、プログラムの直後に消えたダン。 トランプを切る音だけがテオの思考に響く。単調なリズムの中で単語と単語を繋げていく。 ダンはファイルを持ち出そうとして怪我をした。ロザリーから素直に絆創膏を受け取ったのを考えると彼にとってはどうでもいい怪我、意識の埒外にあった怪我だ。声をかけられた後のことをロザリーは語らなかった。ふたりはすぐに別れたと考えられる。だがそれも少しおかしい。恐らくダンはロザリーに好意を抱いていたはずだ。彼女の名前にかけた、ローズのピアスを贈るほどには。ロザリーより優先すべき何かがあった。となれば考えられるのは持ち出したファイル。もちろんすぐ後に出番だ。ダンの荷物からそれらしいものは発見されていない。ファイルを人目につかない場所に隠したか誰かに渡したか。ともあれダンは自分の手でファイルを移動させる必要があったらしい。そのすぐ後の出番から先はボクも見た。ふらついて調子の悪い、いや今思えばあの時のダンはひどく息もあがって顔色も悪いように見えた。急激に体調を崩したダン、手のひらの傷、消えた針、誰かの悪意。 「……毒」 ぴ、と。抜いたカードはスペードのクイーン。無機質な人の顔が暗い観客席にほの白く浮かび上がる。 「ルーサー、ひとつ頼まれてくれるかな」 「ん?」 落とした視線を、伏せた睫毛をゆるりと上げてテオは喉を震わせた。 「ダンの死体に、毒を摂取した痕跡がないか。ワトフォード警察署に化学検査をするよう要請してほしい。きっとボクが電話をかけるよりスムーズにいくだろう」 「構わんが、理由を聞いても?」 「ダンは死ぬ前に毒で動けなくなっていた可能性が高い。症状は呼吸困難、めまい……もしかしたら運動能力も低下していたかもしれない。恐らく、神経毒だ」 ふぅんと鼻を鳴らしてポケットからスマートフォンを取り出したルーサーは、それ以上何も聞かなかった。それだけで言うべきこと、伝えるべき言葉がすっかりわかってしまったかのように。 電話をはじめた彼にちらりと視線を向け、ひそり。背を屈めたダイアナの声が内緒話をするようにテオの耳に届く。 「ダン様が具合を悪くされていたのは、毒を盛られたからだということですか?」 「まだ可能性だけれどね」 「でも、それじゃあどうして最初から毒のお話が出なかったのでしょう。溺死と釘による外傷ばかり警察ではお話しされていました」 怠慢です、と憤慨するダイアナに、ちょうど電話が終わったらしいルーサーが、悪いが、とスマートフォン片手に言葉を被せた。 「毒ってのは頭っから毒を疑ってかからなきゃわからねぇのさ。ぱっと見の所見だけでわかる毒なんざほとんどない。青酸カリみたいに独特のにおいがするならともかく、血液に直接混じった毒なんざ、血液をとって化学検査をするまでは毒を盛られていたことも警察側にゃ気づかない。今回みたいにわかりやすい死因があるならなおさら、検査なんてするはずもねぇ」 するりとポケットに両手を仕舞い、座席の横に立つ。テオの真横からその顔を見下ろし、ルーサーは灰がちた視線をただ落とした。 「毒が盛られていたとして、何が変わる?」 「決まっています。テオ様以外の誰かがダン様を殺そうとしていたという証明に──」 「いや、まだ弱い」 スペードのクイーンを戻し、手元でトランプを混ぜた。そう、誰かがダンを殺そうとしていたのは事実だ。だがそれがテオではないという証明にはならない。 「その毒を使ったのがボクだと主張されれば終わりだ。仕掛けはいつでも、誰でもできたわけだしね」 引いたジョーカーのカードを見つめる。道化師が音もなく笑っている。そうだ、誰でもできた。バックヤードに入ることができる人物であれば。 「悪魔の証明は殺人犯を示さない。ボクたちは起きたことの証明をし続ける必要がある」 トランプに手を乗せる。全てのマジックにはタネがあり、全ての物事には真実がある。覆い隠した虚偽がどのような色をしていたとしても、その下には鈍色の事実だけが存在しているのだ。 「ダンには毒が盛られていたという過程で話を進めよう。血液に注入された毒は、その後ダンが激しい運動……アクロバットのステージをこなしたことで急激に牙を剥いたと考えられる」 ステージに立つ前はほんの少しの不調だったが、演技中にふらつくほどダンは急速に毒に蝕まれたはずだ。だがそれでもダンはやりきった。恐らくプロとしての意地で。 ジョーと共にステージを降りた後、死体となって発見されるまでダンを見た者はいない。その間に何があったか。 直接の死因は溺死、つまりダンはステージが暗転している間は生きていた。にもかかわらず首に傷を負っても悲鳴も上げられない状況。意識も朦朧としているほどの状態だったと考えられる。舞台幕の裏で血痕が見つかったことから彼がその場で首に傷を負ったことは事実。だがテオは彼の姿も血痕も見ていない。とすれば彼が傷を負ったのはテオが舞台幕から出た後、暗転中のほんの数秒間。だが団員は全員舞台袖におり、ダン自身も身動きがとれなかったと考えられる。 どうやっても、ダンが舞台幕の裏から水槽へと移動することができない。 唇を親指でふにと触り、テオは深く思考の海へ落ちる。首を刺されたダンが逃げ、誤って水槽に落ちた線はダンに毒が盛られていたことにより限りなく薄くなる。では動けなくなったダンを刺し、水槽に放り込むとして。邪魔になるのは観客の視線だ。観客に見られずに水槽に放り込むのであればテオが使った舞台下からせり上がる仕掛けが使えるだろうが、それでは舞台幕裏の血痕がいつ落ちたかの説明がつかない。 存在している事実が矛盾している。 テオがすっかり黙り込んでしまったのに退屈したのか、ぱたぱたぱた、と軽い羽音が静かな場内に響いた。 「まあ、ロワイエ様」 いつもなら大人しくテオの荷物に収まっているはずの白鳩が軽く翼をはためかせテオの膝に乗る。 くるる、と軽く喉を鳴らして覗き込み、それでも動かない主人をどう思ったのか。鳩はぱっと羽をもぞつかせながらダイアナの腕の上に飛び乗った。 「テオ様の邪魔をしてはいけませんよ。今とっても大事なお仕事をされているのです」 唇の前でしぃー、と人差し指を立てる。女の子同士でお話しましょうと微笑めば、応えるように白鳩はばたばたその場で羽をばたつかせた。 かわいらしいやりとりが、テオの頭上を通り過ぎる。 「あら、……? そういえばダイアナ、ステージの上で似た音を聞いたような」 ふと考え込むような声色。沈んだテオの思考の隅で、それに反応したのはルーサーの方だった。 「そりゃあマジックなんだろ? ハトくらいどこにでもいるもんじゃないのかい」 「あの時はロワイエ様もステージにおりませんでした。ハトのマジックは演目にございません」 「じゃあ外の鳥の羽ばたきが……いや、もっとねぇな」 「流石にお外の音はダイアナでも聞こえませんよ。それに、あれはなんだか、何羽も一斉にばたばたしたような音だったかと」 「舞台裏にハトの籠でも置いていたんじゃねぇのか?」 「いえ、それが……。よく考えたら、天井から聞こえてきたような」 天井。 ぱち、と。テオは観客席に座ったまま、ステージの上方を見上げる。いくつもいくつも照明がぶら下がり、ステージ上を余すところなく照らし出している。そして、ステージに詳しいテオは知っていた。 こういった舞台の天井は、演出のためのすのこが敷かれ。人間が渡って歩けるようになっているのだということを。 プログラムにないハトのマジック。天井から聞こえた羽ばたき。動けないダンが水槽へ移動した方法。舞台幕の裏に落ちていた血痕。 「まさか」 椅子から立ち上がる。羽をもぞつかせたロワイエがぱっとダイアナの手の中から飛び立って、心配げにテオの肩に重みをかけた。 「ロワイエ、ありがとう。きみのおかげでひとつ謎が解けそうだ」 小さなまろい頭がすり寄ってくるのを指の腹で撫でて、テオはダイアナとルーサーに振り向く。行き詰まっていた思考の終着点が見えてきた心地で。 「確認しに行こう。──天井だ」 ステージに上がり、控室とは反対の舞台袖へ向かう。舞台袖と舞台袖は舞台幕の裏で行き来できるようになっており、控室とは反対側の袖は、言ってしまえばどん詰まりになっていた。ろくに機材も置かれていない、こちら側から人が出るためだけのもの。 そしてそのどん詰まりの隅に銀の梯子が下ろされ、設置されたライトの更に上の空間まで伸びていることをテオは知っていた。どこの大劇場でもこういった設備があるのだ。 「こんなところから上に行けるのかい」 ルーサーが顎を撫でながら感心したように言う。もちろん劇場に詳しくない人間は、まさか天井と聞いて人間が通れる空間があるとは思わないだろう。 「すのこと言ってね。上から紙吹雪を撒いたりマジックのトリックに使ったりする空間だ。今回のプログラムでは誰も使う予定がなかったからすっかり頭から外れていたよ」 誰も使う予定がなかった。すなわち、誰も立ち入ることのない空間。 梯子を登り切れば、そこは細い足場が組まれただけの簡素なすのこが設置されていた。 立派な劇場であれば金網状の足場が広く広がり、転落防止の柵もしっかり作りつけられているものだが地方ではそうもいかない。すかすかの手すりと細い金網で作られたすのこはなんとも頼りなく、気を付けていなければ足を踏み外してしまいそうな心もとなさだった。 足元に気を付けて、とハイヒールに気を遣う。細い踵では、万が一ふらつけばそのままバランスを崩して落ちてしまう危険性さえあった。 誰かとすれ違うこともできないくらいの幅しかないすのこを歩く。網状になった足場から下が透けて見えて、空中を歩いている感覚を際立たせた。高所恐怖症にはよほどつらい場所だろう。 幸いにして、ここにいる三人の誰もがさほど重篤な高所恐怖症を患っているわけではなかった。 硬質な足音が響き、ちょうどステージの中央付近までやってきた時に軽くあっという声が上がる。 ただ一本の鉄棒が渡されているだけの手すりに身をもたれさせ、下を覗く。そうしてなるほど、と彼らは頷いた。 すのこの左右に広がる、なんにもない空間。ここから突き飛ばされたらそのままステージへ真っ逆さまに落ちるであろう虚空の下に、あの水槽がぱかりと割れたガラスの断面をぎらつかせて口を開けていた。 「すのこはちょうどボクが上がってきた階段の真上のようだね」 右手に落ちればそのまま水槽に一直線。左手に落ちれば舞台幕の方へ。 「わかりました! ダン様が移動した方法は、ここからの落下ということですね。それでテオ様も見ていない血痕が舞台幕の裏へ」 暗転した瞬間にダンに釘を刺し、そのまま右手に突き落とせば真下の水槽へ一直線。血痕は刺した方向に飛ぶため左手へ。 「そう考えれば辻褄が合う。だけどそうなると、今度はもっと大きな問題が出てくる」 どういうことですか、と首を傾げるダイアナの後ろで、左右を見まわしていたルーサーがぼそりと低い声で言った。 「……犯人がいねぇな」 そうだ。今度は犯行可能な人間がいなくなってしまう。 「例えボクが犯人だったとしても、必ず照明が落ちるまでこの場に潜んでいなくちゃいけないことになる。照明が落ちた真っ暗闇の中でダンを刺し、突き落とし、水槽の上まで戻ってくる。照明がついていれば飛び降りてもいいが、真っ暗闇の中では無茶だ。返り血の問題もあるしな」 「では、不可能犯罪ということになるのでは」 「まだわからない。ダンの自殺の線もあるけれど、それならわざわざ自分に釘を刺した意味が……」 高所恐怖症の人間が見ていれば気絶してしまいそうな光景を易々と見つめて、ふとテオの目端にすのこについた小さな傷跡が見えた。金属同士を擦ったような。 腰を屈め、手袋を取って金網を指先で擦る。ほんの僅かな凹凸。す、と傷跡をなぞっていけば、それがちょうど四角く切り取られているのがわかった。 傷跡の縁に指を滑らせる。正しく90度の角になった傷に指の腹が触れ、微かにささくれだった金属片が鋭敏な指先で感じ取られた。 金網がほんの少し削られ、広げられている。まるで無理矢理ネジを入れこんだように。 「……ナットはここから落ちたものみたいだね」 ダイアナが持っている、あの小さなナットを思い浮かべる。ここに何かが留めてあった。それも、人ひとりが通れるほどの通路の端から端までの大きさだ。誰かが持ち去っていることを含めても、今回の事件に関わりがあることは間違いない。 視線を下に向ける。影が邪魔をしないようすのこの下部に取り付けられた照明は、下から上で何が起きているか把握することを邪魔してくる。誰も理由なく眩しい太陽を直視しようとはしない。 「……殺人現場はここで間違いないだろう」 見たところ血痕はない。だが、何かがこの場から持ち去られている以上、血痕は既に拭き取られていると考えられた。判別するにはルミノール試薬でも持ってこなければならない。 ちら、とルーサーが観客席の方を親指で指す。視線で追った先には、引っ掻いたような、凹んだような傷がついた金属の梁。恐らくすのこや照明を取り付けるためにあるものだということは想像に難くない。何度も何度も引っ掻いたような筋が通ったその梁は、すのこからでは手が届かないほどの空間があり。しかし確かにこの場にある傷だ。関連があるとみて間違いはない。 犯人はいない、と言った。だが証拠たちは語っている。ここに犯人が手を入れた、と。そしてテオはまた、ダンが死ぬに至った経緯を、偽装工作の可能性を正しく導いていた。 姿のないハトの羽音、傷のついたすのこと観客席側の梁、落ちたナット、舞台幕にまで飛ぶことができた血痕、暗転したタイミングで水槽へ落下したダン。 す、とテオの唇の間に息が通る。可能性が脳裏に過る。 「だが……理由がわからない。ボクが考えた通りならこの殺人、こんなことをする必要なんてどこにもないんだ」 この考えが間違っていないのなら、こんなにもリスクの高い行動をする必要はない。殺人という事実がある以上、隠し立てするために人間は必要以上に安全な行動をとりたがるはずだ。 整合性のない事実。理由のわからない行動。計算の合わない心理。それらを推し測ろうとして、 「必要だったんじゃないのか?」 ぱちん、と。混迷に落ちかけたテオの意識の表層を割るようなルーサーの声が、彼の耳にはっきりと届いた。 「どういうことだい?」 「言ってたらしいじゃねぇか。ダンを殺した犯人は死体を発見させる必要があった、ってな」 ワトフォード警察署で確かにそう言った記憶がある。半ばその場しのぎの言葉。 「なら、これもそうだろう。犯人は必要だったからやった。そこから逆算すりゃいい」 「必要だったから……」 ぱたぱた、とロワイエの羽音が耳元で聞こえる。もしここで羽音がしていなければ、ダイアナが天井の羽音に気が付くこともなく、誰も捜査に入ることもなかっただろう。 誰かに気づかれる危険性をおしてでも必要だった理由。 「……ダイアナ、気が付いちゃったんですけれど」 手すりに片手をついたダイアナが、軽く足元のすのこを蹴りながら言う。こんこん、と硬質な音が小さく聞こえ、彼女が考え考え言葉を選んでいるのが見て取れた。 「ダン様はここに来る理由なんてなかったんですよね? この公演ではすのこを使う予定もありませんでしたし」 それは事実だ。そうだ、そもそもそこもわかっていない。ダンがここにいた時点ではまだ死んでいなかった以上、自分でわざわざあの梯子を登って行かなければならないのだ。 「それなら、ダン様が何かを企んでいて、ハトをここに連れてきたというのはどうでしょう。例えば、テオ様のマジックを邪魔してやろうとか! テオ様のことをずっと敵視してらっしゃいましたし。ちょうどハトのマジックもプログラムにありませんでしたからね」 「ダンの目的はハト、か。それは……考えられるかもしれない」 ハトの羽音がしたのなら、この場にハトはいたのだろう。そしてそのハトも、必要だったから存在していた。 テオはその場からす、と立ち上がった。すかすかの頼りない手すりに手をついて、頼もしい探偵たちへと振り向く。 「最後の証拠が必要だ。手伝ってくれるかい。ダイアナ、ルーサー」 に、と笑って頷いたふたりの笑顔はどちらも自信に溢れたもので。三者三様に真実に近づいていることを予感させた。 梯子を下りた一同は、舞台裏を通り揃った足音をさせていた。 落ちていた血痕も、放置されていた釘も。犯人が意図したものではなかったのだろうと今なら言える。 「それで、ダイアナは何を探せばよろしいのでしょう」 「ダンが抜き取ったファイル、荷物……物はわからないけれど、ダンが隠した何かだ」 ここまで誰も言及していないそれ。ダンの生前の道筋を辿れば、彼の行動もひどく不自然だ。本番中にも関わらずひとりで大道具を置いている控室に入り、何か抜き取って隠す。ステージが終わってから、誰も立ち入らないはずのすのこに上がる。 「だが、どこにあるかもまだわかってねぇシロモノだ。当てはあるのかい」 「目途ならついている。控室は3つ用意されていた。ひとつは大道具置き、ひとつは団員たちの控室、最後のひとつは……」 「確か、団長様の控室とお聞きしました」 「ああ。本番中にダンが外に出たとも考えにくい以上、まだボクたちが足を踏み入れていないのはそこだけだ」 ちらりと舞台袖に視線を向ける。誰もいない。恐らくはまだ、団員たちの控室に全員で集まり荷物を片付けているはずだ。 唯一扉の閉まっている控室にそろり、と忍び寄る。一度も開かなかった扉のノブをダイアナがひねり、少しだけ中を覗き見て。 「いません。今ならいけます」 誰の目もない廊下をいいことに三人は部屋の中に滑り込んだ。 公共施設の内扉で鍵がかかるようになっている場所はそうそうない。幸いにもこの劇場も防犯意識の高い方ではなかったらしい。 難なく入り込んだ室内はきっちり整頓されて、団長の人間性を物語っているようだった。 「思っていたよりも広くねぇな」 トーンを落としたルーサーの声が小さく響く。そうですね、と廊下に漏れないようにこちらも小声で同意したダイアナも同じ感想を抱いているようだった。 机と棚、そして衣装かけと鏡がせいぜいのこじんまりとした部屋。数週間借りっぱなしであることが前提のせいか団長の私物もそこかしこに見られる。 その中でも特に目に付くのは、 「アレ、だよなあ」 誰がどう見ても気になる、両手に抱えるほどの黒っぽい金庫だった。 「鍵のかからないお部屋に大切なものを置いておくなら、金庫は間違いありません。ダイアナだって見られたくないものがあればあそこに入れます」 「真っ先に調べるべきだろうね。とはいえ、だ」 テオはちらりと視線をルーサーに向ける。薄く青みがかかった視線が金庫をまじまじと見るふたりに向けられて、自分に注目されたとわかるや否や薄く濁った皮肉っぽい笑みが唇から零れていった。 「元刑事としては、金庫破りはどう思う?」 「……ま、物盗り目的じゃなし。黙ってりゃバレはしねぇさ」 へらり、と笑ったルーサーの笑顔にテオは悪者め、と肩を竦める。 とはいえ、見て見ぬふりを取り付けたのは大きい。他人の秘密を暴くのが探偵の性と言い聞かせながら、改めてテオは黒っぽい箱に向き直った。 ダイヤルはない。取っ手がひとつと、カメラのついたパネルがひとつ、鍵穴がひとつ。 「いくらダイアナでも、鍵開けの才能は持っておりません。テオ様はいかがでしょう」 「そうだね。鍵はなんとかなるとして、こっちのパネルは」 手袋越しにパネルに触れる。機械音と共に起動したパネルにはカメラで認識したらしいテオの顔が映っており、だがそれ以上の反応はない。 「……へえ」 く、と喉の奥で笑む。思わず込み上げる笑いが肩を揺らし、細めた紅玉がカメラをまじまじと見つめた。小さく犬歯が唇の隙間から見え、テオはおっとと自分の笑いを引っ込める。なんて都合がいいのだろう。 「これはいわゆる生体認証というやつだね」 「生体認証ですか?」 「そう。最近流行りの、登録者本人でなければ開かないというシステムさ」 「まあ。では、団長様に理由を話して開けてもらわなければならないのでしょうか」 「普通ならそうだろう。だが、ここにはボクがいる」 テオはそう言うと、マントの端をそっと摘まみ上げた。 「やあ、観客がただのAIというのは少しつまらないけれど」 ば、っと翻った布の向こうに白銀の髪が消えていく。姿が見えなくなったのは一瞬。けれども才能溢れる彼にとっては十分すぎるほどの時間。 顔の形、筋肉の動き、皮膚の色。そんなもの、アナログな鍵よりも簡単に突破してしまえる。 「AIがボクに挑もうなんて、百年早い」 落ちたマントの向こうから現れた団長と同じ顔、同じ表情がテオの声で言葉を紡ぎ。あっさりと現代科学は彼の前に頭を垂れた。 「テオ様、相変わらず素晴らしい才能です」 控えめな拍手がぱたぱたと音をさせる。 鍵が開いたことを示す軽い認証音。壁際で静観していたルーサーもやはり気になるのかあっさりと金庫破りの片棒を担ぎにのこのことやってきていた。 「そうだろう。なにせボクの変装技術だからね。それじゃあ御開帳といこうじゃないか」 不要とばかりに投げ捨てた変装の下からいつもの大胆不敵な表情をお披露目して、テオはハンドルに手をかけた。さほど大きくない金庫だ。覗き見るように腰を屈めて少し重い扉を引き、 「──!」 初めに聞いたのは、ひゅ、という空気を裂く音。引き絞られた弦がたわむ音。それから低い誰かの叫ぶ声と、左肩への重い衝撃。 スローモーションのように世界が動いていく。ぐらつく視界、慣性に流される自分の腕、手、指先。そしてその向こうでテオを押しのけた灰の髪色。その髪色に向かって、ぎらりと光る何かが飛んできている。風で流された前髪の下、すりガラスめいた翡翠の瞳に尖った先端が映り込んでいる。呼吸と呼吸の隙間でみる間に死が、痛みがそのまなこに迫り。彼のくたびれた視線を切り裂いて。 ぎょろ、と。ルーサーの右目が、時が止まったようなスローモーションの中で。明らかに彼の意思とは関係なく脅威を見つめるのを、見た。 がたーん、と音が戻ってくる。倒れ込んだテオの肩をダイアナが抱き、よろけた靴が足元の荷物を蹴っ飛ばした音。 彼らの前でルーサーは顔を俯け、じいと視線を落とし。そうして独り言のように口からだらと言葉を垂れ流した。 「危ないじゃないか、ルーサー」 ルーサー自身の口から流れる声が静かな空間を打つ。そうしてまた、 「助かったぜ、アッシュ」 彼の口から落ちるもうひとつの名前も。 タルパ。一概にそう呼ばれる、彼自身の双子の兄であり、守護者であり、副人格。危険を察知するとルーサーの体を勝手に操り、彼への脅威を排除する存在だということを、テオは知っていた。そうして彼が出てきたということはルーサーの身に危険が迫ったということであり。その一瞬前にルーサーによって突き飛ばされていたらしい、テオが危険に晒されていたということでもあった。 ルーサーの左手から、がらり、と金属製の棒が落ちる。鋭い先端、扁平な頭。それはまさしくダンの首に刺さっていたものと同じ釘。 「なっ……、テオ様、ルーサー様、お怪我は!」 言う彼女の、そして全員の目の前で。 きぃ、と音をたて。開いたはずの金庫が自然と閉まった。 「……」 声もなく見守る。かちゃりと錠が下りる音がする。誰もが絶句する中、ぴりりりり、と。ルーサーのスマートフォンが鳴り響いた。 電話に応答する彼の声が低く聞こえる。回り切っていない頭を立て直すのに十分な時間の後。スマートフォンを切ったルーサーは、ただ結果だけを端的に伝えた。 「……やはり、ダンの死体から毒物の反応が出たそうだ。神経毒系の……恐らくアンボイナ毒だと」 薬局にこそ取り扱ってはいないが、アンボイナと呼ばれる毒貝を採取さえしてしまえばいくらでも手に入る毒。 まだ騒ぐ心臓を落ち着かせる。ダン殺害に使用された釘と、今金庫から飛んできた釘は同じものだった。であれば、同じ犯人が仕掛けたものである可能性は高い。そしてここは団長の控室で、ダンが隠匿したファイルもここにある可能性が。 「だ、ダイアナ……納得いきません! どうしてテオ様が殺されかけるのですか!」 ようやく頭が追い付いてきたらしい声がする。誰もが一瞬の攻防に意識をもっていかれかけたのだ、無理はない。 「……ま、確かに侵入者撃退の仕組みにしたって、やりすぎなのは事実だ」 溜息を吐く。アッシュがいなければ間違いなくルーサーも死んでいた。これが特別な才能もなにもない一般人だったらと思えば、ぞっとする。 だが重苦しい空気の中、ひとり。テオは視線を上げた。不可解な事象の先には必ず起きるべくして起きたという事実があり、絡まった紐は解けることを知っている目で。 「ありがとう、ルーサー、アッシュ。でも、今ので全ての謎が解けた」 今金庫を開けた人物が殺されかけた。その事実が、犯人をはっきりと示していた。 「間違いない。犯人は……最初からボクに罪を着せるつもりだったんだ」 *** 靴音が響く。煌めく舞台の上で。ステージに立つテオの影だけが三方に長く伸び、上からの光を全身で浴びていた。 「Ladies and Gentlemen. お集りの皆様、大変長らくお待たせいたしました」 観客席に向けてマントを広げ、悠々と一礼。向けた視線の先には無人の観客席、ではない。魔術団の6人と連絡を受けたワトフォード警察、それに仕事を終えたらしいアレンの姿があった。 魔術団のメンバーは誰もがそわそわと落ち着かなげな、不安な表情で。警察官の不審そうな視線と、その後ろで悠然と構えるアレンの表情が対照的に見える。 「これよりテオ・シリル・アリエスが、ダン殺害事件……そして、ルーサー・ウィリアム・ジェミニ殺害未遂事件の謎を解きあかしてみせましょう。アシスタントはダイアナ、そしてルーサー」 ぱきん、と指が鳴ると共に、客席後方へスポットライトが当たる。サマーニットに身を包んだジーンズの女性が、少し大きいモニターを両手で抱え持って微笑んだ。 「はい。ルーサー様はただいま舞台の上方にいらっしゃいますので、モニター越しで皆様とご対面させていただきます」 堂々とした足取りで客席から舞台へと歩く。客席の横を通り、ステージに上がり。そうして昨日と全く同じようにテオの横に並び立った。 「やあ、ルーサー。こちらの声は聞こえているかい?」 『問題ねぇよ。いつでも始められる』 「よろしい。……さて、皆様にお集まりいただいたのは他でもない。皆様が今回の関係者であり……そして、皆様の中に犯人がいるからさ」 微かなどよめきとざわめきが聞こえる。犯人、と呼ばれたのだから無理もない。 「テオ殿、その。急に犯人扱いされても困りますな。警察の方も確認してくださったように、ここにいる皆はダンが死んだ時確かにアリバイがありました。誰にもそんな恐ろしいこと」 「まあまあ団長殿。そう結論を焦らないことだ」 「いや焦りもしますよ。だって殺人事件の犯人だと言われて。そもそも、こんなショー紛いなことをする理由がありますか!」 両手をわななかせる紳士を前に、テオは鷹揚に頷いてみせる。 「何事にも遊びと余裕は必要さ。ボクたちマジシャンはそれがなければ生きていけないし……今回の犯人もそう。遊びも余裕もないマジックを仕掛けてしまったからこそ、今からボクに全てを暴かれてしまうんだ」 ひとり、ひとり。視線を巡らせていく。今にも泣きそうな見習いの女性、顔を真っ青にして唇を噛むロザリー、いつになくそわそわと視線をうろつかせているマジシャン、重い溜息を吐くジョー、おろおろと首を左右に振って困り眉をしている副団長に、今にも噛みついてきそうな勢いの団長。 彼らの全てに酷薄な笑みを浮かべて、テオはそ、っとルビーチョコレートの甘い唇を開いた。 「まずはおさらいからいこう。ダイアナ」 「はい。事件は昨日の18時頃に起きました。ダイアナとテオ様がステージで水中脱出のショーを披露していたところ、演出のための舞台暗転の直後に水槽に沈んだダン様が発見されました。死因は溺死、目立った外傷は頸部の刺し傷のみと見られていました」 「警察は状況からボクが舞台裏でダンを刺し、逃げたダンが誤って水槽へ転落したと最初は考えた。確かに辻褄は合っている。舞台裏にはダンの血痕も落ちていた」 ね、と客席に座る警察官にウインクをひとつ。ぎょっとしたような表情で身を強張らせる彼は、しかし否定する言葉を持たない。横に座りゆったりと足を組むアレンばかりが、はるのような笑みを湛えていた。 「ああ、辻褄が合うとも! だがきみたちは事実から目を瞑って辻褄合わせをしたに過ぎない」 ルビーブラッドの瞳がスポットライトにぎらぎらと輝き、大仰に弧を描いた指先が割れた水槽を指し示す。水の抜かれた事件現場。ぐしゃぐしゃに壊れたガラスの箱。 「階段から人間が落ちたぐらいで割れるような素材じゃ、マジックのタネにできはしない」 外側のガラスが割られたのは、ダンを救出するためだ。だが、そも。内側に仕込んでいた樹脂の壁が割れなければ、狙った通りに溺死などできようはずもないのだ。 「はい。いくら特殊樹脂といえども、テオ様もまたこちらのガラスに飛び込むショーでございました。人間がえいっとジャンプして飛び乗った程度ではこのように無残な割れ方をするはずもございません」 「だがダンは全てをぶち破って水の底に沈んでいた。背中にあったんじゃないのかな? かなり強烈な打撲痕が。それもボクが彼を突き落としたから、だとでも言うつもりだったのだろうが」 こつ、こつ、と靴音を鳴らす。薄暗い観客席に向かって顔を傾け、視線をすうと細める。 「生憎、ボクはショーマンでね。こういった舞台には天井裏にギミックがあることを知っているのさ」 すう、と伸ばしたテオの指先は、真っすぐに天井を指している。巨大な舞台の天井。客席から見える範囲でさえゆうに6メートルは超えるであろう高さの、更に上。もしもそこから落ちたとすれば。 ぐしゃり、と人体が潰れる未来は目に見えるようだった。 「墜落時に重症になりやすい高さの下限は何mだっけ?」 薄い桜色の唇が観客席で開く。ごく当たり前に、ただの確認と言わんばかりに隣に座る警察官に問うアレンの口調は単調で、しかし問われた警察官はひどく緊張した面持ちでそれに答えるしかない。 「お、およそ5mから6mだったかと」 「そう。だいたいそれくらいに見えるね、あのステージ」 続けて、と先を促す弁護士は、幾度となく警察の資料に目を通してきたということを伺わせるフラットな視線でステージを見る。万が一にもミスなどしようものなら、たちまちに指摘が飛んでくるだろう。 「割れた水槽が示しているのはただひとつ。ダンは落ちた。それもかなりの高さから、だ。となれば次に調べるべきは階段の上でも舞台幕の裏でもないことはきみたちにもおわかりだろう」 堂々とした風体でダイアナがモニターを抱え前に立つ。そこに立つくたびれた灰髪の男性を指して、いかにも嬉しそうに自慢げに。 『このすのこの上、ってわけだ。ああ、俺が今どこにいるかってぇと。ちょうど水槽の真上にあたるな。見えるかい』 画面がちらと下を向き、金網状の足場を映し出す。金網の奥に見える白銀と赤銅の髪は確かに現在の光景と一致しており、リアルタイムで映像が流れていることを示していた。 『ここで見せたいもんは多くねぇよ。すぐに済む。待ってな』 映像ががたごと動く。おいおい、そんなに上下にカメラを動かすんじゃあないよとテオが茶化すほどに。 『こっちぁこういうのに慣れてねぇんだ、仕方ねぇだろ。映ったか?』 少し前方に傾けられたカメラは変わらず足場を映していて、しかしテオはそれに満足気に頷いた。 「ああ、よく見えている。説明を頼めるかい?」 『まずひとつ。足場に擦ったような四角形の痕跡がある。結構でかいな。一辺30cmってところだ。すのこの足場を塞ぐくらいにあるやつだ。隅には金具を留めていた痕跡があって、そのうちのひとつは水を抜き終わった水槽から見つかってる』 こいつな、と映像の前に小さなナットが差し出される。新品であることを示さんとするかのようにやたらとぴかぴか光るナットだ。 『で、次だ。これはそこにいる警官にチョイと拝借させてもらったものなんだが。血痕の痕跡を浮かび上がらせるルミノール試薬とブラックライトな。これを俺の左側の手すりにふきつけてやれば』 霧吹きかが小さく映像に映る。片手じゃ難しいな、との呟きまで入って、自撮りに慣れていない40代の不器用さがどうにも出ているように見える。 『見ろ。血痕だ』 ふ、と浮かび上がる淡い青の光。それが足場に、手すりに。小さな飛沫として血痕があった事実を示していた。 『かなり低い位置でやられたらしいな。手すりの下には痕跡があるが、上には少しも飛んでない』 「じゃァ、ダンはそこで犯人に殺されて、突き落とされたってことォ⁉」 沈黙に耐えきれなくなったのか、観客席から声が上がる。モニターの中で薄玻璃の緑玉を観客席に向けたルーサーが小さく頷いて、ざわつく観客から続いて声が上がった。 「それなら、あ、アリバイがあります! 全員! ま、まさか先に殺してた、とかそういうの、ないですよね! だってそうしてたら足場はスケスケなんだから、血が下に落ちちゃう」 「それはない。ルーサー、血痕は足場にどれくらい残っているかい」 『左手にほんの少しだ。足元に溜まった様子はない。刺されてそのままドボン、で間違いねぇな』 じゃあやっぱり私たちには不可能、と言いかけたおかっぱの彼女に微笑みを返し、テオは無慈悲に言葉を紡ぐ。 「もしこの場に犯人がいたのなら」 吊り上がる唇。大きく開いた口腔から覗く犬歯。逆らってはいけないと本能的に思わせる絵姿。もしこのばにはんにんがいたのなら。その言い方はまるでいるはずがなかったのだと言っているようで。ひゅう、と観客席から息を呑む音が聞こえる。 「──手すりと足場に血痕が残るためには、犯人の手が邪魔だとは思わないかい?」 なあ、ルーサー。そう彼は嗤って言った。 『キレイな霧状になって広がってる。何かが邪魔をしていた痕跡はない』 「舞台幕の裏にも血痕が残ることができたのはそのせいだろう。つまりこの場所には、最初から犯人なんていなかったんだよ」 しん、と。観客席が静まり返る。続ける言葉はより鋭く。 「推理小説を読んだことがある人間なら、一度は自動殺人という単語を見かけたことがあるだろう。ダン殺害に使われたのはまさにそれで、……ルーサー。あれを映してくれないかい」 『ああ、アレか。物自体はとっくになかったが、痕跡はあったぜ』 画面が映し出したのは観客席側に渡された金属製の梁。小さく新しい傷がいくつもいくつもついたそれを痕跡と呼ぶのなら、確かにそこには何かがぶつかったような痕があると言えるだろう。 『金属同士が擦れた傷だ。凹んでるモンもある。こっからじゃ少し遠いが、まあ判別には十分だろ』 「ありがとう。もうおわかりだね? 自動的に釘を飛ばす仕掛けがあったとして、だが設置してハイ終わりなんてことはできはしない。梁の傷は、犯人が試し打ちをした痕だと考えられる。そしてこれこそが、ダンに打ち込まれた釘は自動的に飛ばされたものだという証拠さ」 カメラが傷から視線を離して、のんびり逆方向を映し出す。ただ黒だけがある舞台の天井奥には、今は何もない。 「ちょっと待て。自動的に釘が飛んでくる仕掛けがしてあった、それはわかるが。飛んできたとしても、死ぬとは限らないんじゃないか?」 「そっ、そうよォ。だって釘が刺さっても、左右に手すりがあるのよ? 掴まればいいだけじゃない!」 思わず立ち上がったジョーに、ロザリーがはっと言葉を続ける。確かにそうだ。すのこには転落防止の手すりが胸の辺りを通るように一本通されており、そうそう外れるようなつくりにもなっていない。 だが、その質問も予想済だと言わんばかりにテオの笑みは崩れなかった。 「ダイアナ。釘が首に刺さった、と聞いたら。きみはなんのために釘を刺したと思うかい」 助手然とした顔でつんと澄ました女性に問う。方向性は違えど、同じ探偵である彼女が答えに詰まるはずもないと知っている声で。 「それはもちろん、お相手を殺害するために釘を刺したと考えられます」 「そうだね。だが、それが間違いだったんだよ」 む、と一瞬ばら色の唇がとんがるのが見えて、テオは苦笑する。今でこそ助手として役に徹してくれてはいるが、彼女は生来とても負けず嫌いなのだ。 「あの釘は、首に刺さらなくてもよかったんだ。ダンの体に当たりさえすれば、肩であろうが腕であろうが頭であろうが」 自動殺人装置なんて言葉はあまりにも仰々しく恐ろしいが、その実これほど運が左右するものもない。狙った場所に人間がいなかったら、もしも狙いがほんの少し外れたら。 それらの不確定要素をどれだけ許容できるか。そしてどれほど不確定要素があろうが、最低限のねらいさえ達成できればいいという諦念を知っているかどうかだけが自動殺人装置で何かを成すことのできる人間の資格だった。 「マジックを嗜む皆様ならもちろん知っているはずだ。マジシャンは観客の死角でタネを仕込む。そうして本当に見せたくないものをそうっと見えているものの中に隠してしまう」 そう、あの一見凶器にしか見えない凶悪なとんがりやは。 「あの場に蹲って動けないダンを、舞台が暗転したその瞬間にそうっと右側に押しのけるためだけにあったのさ」 すのこに渡された手すりは1本。蹲っていれば、左右に掴めるような場所はない。それが、暗闇の中ならなおさら。釘を飛ばした装置は犯人が持ち去ってしまったが、恐らく光に反応する仕組みがされていたはずだ。今日ステージが暗転する瞬間がテオの脱出マジックの際だけだったことは、プログラムを知る者なら誰でもわかっていた。 「ま、待ってよォ。どうして蹲ってたって」 「わかるかって? わかるさ。ルーサーが照らしてくれた血痕を見たかい。血しぶきは全て、手すりの下についていた。手すりよりもずいぶん低い位置で刺されなければああはならない」 ぐ、と言葉に詰まる人々を前に、ゆるりとテオは両手を広げる。すっかりテオの言葉に気圧されてしまったらしい彼らに、では次へ、と言葉を続けようとして。 「それじゃあテオくん、僕からもいいかな」 観客席の後方。優美な白手袋が胸の前で指を組んだ。ゆったりとかけた椅子からすこうし背を離して、紅水晶の澄んだ瞳がそうっとテオの紅玉を見つめる。 「被害者が蹲ることを、犯人はどうして知っていたんだい」 それこそ、運ではないかと。 「もうひとつ。被害者は今回の殺害現場。すのこだったかな。どうしてそこに行ったんだい。彼にそこに行く理由はあったのかな」 凛と伸びた背筋。ひとつきりの曇りさえ許さないと言いたげな。 それに呼吸をひとつ吸いこんでみせて、テオは彼に向けて真っすぐに手袋をした指先を向ける。 「ダンは運悪く蹲ったわけじゃないぜ、アレン。ダンはハトへ会いに行ったのさ」 ハト。誰もがカメラに視線を向けるが、天井裏を映しているカメラにはハトの姿などありはしない。一体なんのことだと首を傾げる、彼らに対して言葉を続けたのはダイアナだった。 「ショーの最中、天井から羽ばたき音がいたしました。当日のプログラムには、ハトのマジックはありませんでしたのに」 ばたばた、と音をさせた天井をダイアナは思い返す。小鳥のようなかわいらしい舌が紡ぐのは、淡々とした事実と断定的な言葉。 「羽ばたき音がしたのであれば、当然その時その場所にハトがいたと考えられます。今いないのは誰かが持ち去ったから、ただそれだけです」 「ございません。しかし、予想はついております。副団長様はハトのマジックのために何羽もハトを飼っておられましたよね? そのハトの籠は今どちらに」 「そ、それは控室だが、まさか私のハトたちがいたというのか」 「副団長様はその日お出かけになっていらっしゃいました。誰かがこっそりハトを持ち出しても、咎められることはありません。すのこにできた傷はちょうどハトを入れておく檻と近い大きさですね」 言葉を継げなくなった男性に向けて、ダイアナは淡々と声を落とす。時に冷酷に、時に情熱的に。二面性を持つディアナの視線で。 「ハトのためにダン様がすのこに登ったのであれば、蹲るのは当然です。ハトの籠は膝よりも低い位置にしかございません。どのような用事であれ、ダン様は屈む必要がございました」 「そう。そしてその頃には、哀れなダンは既に屈んだ位置から動けなくなっていたと考えられる」 それが、自動殺人の成功率を限りなく上げるために仕込んだもの。 「ほんのちょっぴり、彼に仕込まれた毒によってね」 すのこで起きたことはわかった。次はどうしてそこに至ったかで、テオにとってはここが肝要と言えた。ダンの行動の理由を知るのは目の前の観客たちしかおらず、誰にも言い逃れできない状況で言葉を発させる必要がある。そのためにこんなショー仕立てにしたのだ。 「毒⁉ ダンに毒が盛られていたっていうのか! くそ、デリバリーの弁当屋か? それともあの日昼飯を作った……」 過剰反応したのは団長だった。おや、とテオは目を細める。ここで団長が反応するのか。 「まあ落ち着きたまえよ。毒が仕込まれていたのは食べ物にじゃあない。ダンはその日、手のひらに小さな怪我をしたんだ」 自分の手を指して観客席に見せる。心当たりがある者も多いだろう。なにせつい先ほど、絆創膏の話をしたばかりだ。 「怪我をしたのは倉庫だった。それはロザリーの話から証明されていたね。実は、倉庫の中で小さな血痕を見つけてね。犯人も見逃していたのだろう。血痕の傍には何かが仕込まれていた痕跡もあった」 血痕と、小さなテープの破片。犯人から言わせればこれがどうなるわけでもないだろうという慢心と見逃し。だが探偵はそれらを見逃すことはない。 「彼が毒を仕込んだ針で手を怪我するように誰かが仕向けたとボクたちはみているが、その過程でひとつ。なくなってしまったものがあるのさ。なあ、団長殿。ボクたちの推理が間違っていなければダンは怪我をした後……つまりロザリーと別れたその直後に団長に会いに行き。手に持った何かを渡したと考えているんだが」 いかがかな。問う視線の先で、変わらず青い顔の団長はしかし何かを思い出したかのようにはっと目を見張った。 「……しゃ、借用書です。彼はその、半年ほど前に慣れないギャンブルに手を出してしまいまして。ひとりでは返済できない額を、それも法外な金利で借りてしまっていました。魔術団の名義で肩代わりして、金利はなくていいから少しづつ返済するようにと……。あの日ダンが持ってきたファイルは確かにその関連書類を挟んだものでした」 「受け取ったあなたはそれをどうしました?」 「え、ええ。ダンをステージまで見送ってからすぐに金庫に仕舞おうと思ったのですが、ステージからの道中に運悪く他の団員に捕まってしまいまして」 「それは私ですっ! 今日のパフォーマンスの話をさせてもらってました」 おかっぱ頭の女性が髪を揺らして主張する。団長も異論がないところをみるに、それは事実であったらしい。 「それで、結局。あなたは金庫を開けなかった?」 「はい。その後あの事件が起きて、昨日からずっと控室でゆっくりする暇がなくて。だ、だからファイルはまだ机の上に」 微かにダイアナの眉間に皺が寄る。彼が金庫を開けなかったという事実にはっきり思うところのありますという顔をする彼女はひどく素直だ。 「実はつい先ほど、捜査のために金庫を調べさせてもらったんだがね」 多少ずるい言い方をさせてもらうが、これくらいなら許されるだろう。嘘は言っていない。ほんの少しも。 「あの金庫は生体認証を採用しているみたいだ。登録された人間以外の認証では開かないように。もちろん登録されているのは団長の顔だろう」 視線を向けた先で、こくこく頷いている団長を確認する。そりゃあそうだ。本人が開けられない金庫になんの意味がある。 「調べるついでにちょっとしたテストをしてみたのさ。この生体認証とやらはどこまで正確に顔を認識するのだろう、と。そうしたら、ボクが団長に変装した途端、素直なAIはあっさり鍵を開けてくれたよ」 だがその頑強なシステムは、人間の限界値にはまだ届かない。うっそりと笑むテオの微笑みはひどく無邪気で、同時にこの場の誰もが感じるほどに才能という狂気を孕んでいた。 屈するのが当たり前だとでもいうように。 「ああ心配しなくてもいい。AIを騙せるほどの変装技術の持ち主は世界のどこを探してもボクだけだからね」 ひとり当たり前に突破できるだけで、セキュリティの存在価値はぐっと下がる。恐らく彼が探偵という職でなければ、この世のあらゆる金庫は根こそぎ破られていたことだろう。 「ここからが本題さ。金庫を開けた途端、中からコイツが飛び出してきたんだ。開けた人間の脳天を貫くみたいにね」 掲げた透明な袋に入ったのは、15cmはありそうな長い釘。そのぴかぴかの釘頭は誰もが見覚えのあるもの。ダン殺害に使われた、凶器と同じ。 「幸いこちらはルーサーがボクを庇ってくれてね。誰も怪我をしなかったけれど。もしボクひとりであればどんな大惨事が起きたかは想像に難くないだろう」 人間の頭蓋骨は意外と薄い。突き破った釘の先端が脳まで傷つけてしまえば、よくて重篤な後遺症、最悪死が待っている。誰もがちらと団長を見て、無言の圧力に耐えかねたのか青い顔をしたままその男はがたん、と音を立てて立ち上がった。 「わっ、私は知らん! そんな危険なもの!」 「まあ、知らないだなんて! テオ様とルーサー様を殺しかけておいて、よくもそんな口がきけますね」 「知らないのは事実だ。まさかそんなもので、私がなにもかもやったっていうつもりじゃないだろうね!」 興奮のあまりぜいぜいと息を荒くする男の傍へ、テオは優雅にステージを降りていく。その口の端には笑みの芽を食んだまま、その瞳は真実を見つめてぎらぎらと輝いたまま。 そう、っと興奮する男の肩に手を添える。誰もが固唾をのんで見守る中、うすい唇から犬歯がちらと白く見えた。 「きみじゃあない」 甘ったるく喉が上下する。白銀に包まれた視線はゆるりと獲物を知るように横へ向けられる。そう、彼の隣に小さく座り、いかにも関係などないといった表情を浮かべる。 「やったのはきみだね、ユージーン副団長」 恰幅のよい体躯がびくりと震えて、まなこが見開かれた。 「……いやぁ、そんな。私はその時間帯、そのすのこの上どころか、この劇場にいなかったんですよ。ちょっとそれで犯人は無理があるんじゃないですかねえ」 へら、と笑う表情に強い動揺は見られない。自分は絶対的に安心と檻の中の牡羊を見ている視線。 「それは確かにそうだね。だがね副団長殿。逆に考えれば、この中で唯一あんなことをして人を殺す必要があったのはきみだけということになる」 人のよさそうな笑みが、小さく凍った。 「ダンが殺害された時に全員が揃っていたのは偶然だ。次の出番だからという理由で集まりやすくはあっただろう。だが、いないダンを誰も探しに行かない程度には切羽詰まった時間じゃなかった。あの場で全員のアリバイが成立するかどうかわからない以上、劇場にいた人物がわざわざ自動殺人を考え出す必要はないのさ。そう、毒でぐったりしているダンをすのこの上から突き落とせばいい。それから何食わぬ顔ですのこを降り、近くの舞台袖から出てくるだけで済む」 そもそも、テオに疑いが向くよう仕組んでいるのだ。アリバイの有無は些事だったのだろう。結果的に成立してしまった、というだけで。 「痕跡も残る、成功するかどうかも博打、狙い通りダンが水槽に落ちなければ全てがおじゃん。だがそうまでして自動殺人に拘ったのは、そもそも自分の手で殺害することが不可能だったからだ」 「しょ、証拠は」 恰幅の良い体がぷるりと震えた。 「そこまで人を犯人扱いするのなら、証拠はあるんだろうな。それに動機もだ!」 がばりと立ち上がる動作もどこかコミカルで小さくまとまっている。すっかり体に染みついたショーの癖。 「物的証拠はここにはない、としか言いようがない。すのこの上にハトを設置できたのはそもそもの管理者がきみだから。自動殺人装置を拵えたのはその場にいなかったから。誰でも手に入る毒を使ったのは毒物への伝手がなかったから──」 「ほ、ほら! 私がやったという証拠はどこにも」 「まあ慌てるなよ」 指先を男の鼻に突き付けてやる。それだけで男はむぐっと口をつぐむ。真っ赤な顔がまるで風船のように膨らんで、道化回しのように見えた。 「ここには、と言っただろう。もちろん回収する予定だった道具は指紋ひとつだって残しはしないだろうさ。だが回収することができなかった道具はどうだい」 テオの瞳がちらりと後方に座る警察官を見た。隣に座るアレンは瞳を閉じて微笑んだまま。 「例えば……ダンのスマートフォン、とかね」 この場にあったダンの荷物は遺留品として警察が持っていっているはずだ。副団長が劇場に戻った時には既に手を出せるはずもない。 「スマートフォンに何の関係があるというんだ」 「ダンに毒を盛るタイミングはシビアだ。ダンから検出されたアンボイナ貝の毒はおおよそ30分程度で呼吸困難や手足のしびれが出る。もしダンがステージ前にそんな症状を訴えたらすぐに病院に運ばれてしまうだろう。だから毒のある場所に誘導するために、直前に彼と話をする必要があった。違うかい?」 答えない。答えられようはずもない。否認以外は全て是であり、しかし否認することもまた是に繋がる問いかけだ。 「話を続けよう。離れた場所にいたきみがダンと直接会話をする方法はひとつ。電話しかない。通話の時間を調べればダンが倉庫にいた時間にきみと電話をしていたことがわかるだろう。そしてダンが倉庫にいたということは、彼の借金についての話をしていたとみて間違いない。そうでなければ、彼がわざわざ本番中に倉庫まで行ってファイルを抜き取る理由がないからね」 視線を外す。いくら問い詰めたところで首肯することはないだろう。であれば、関係者から話を聞くだけだ。 「なあ団長殿。副団長があんな時間に出かけていた理由、それは彼の借金と関係があるんじゃないのかい?」 それに、と唇を歪ませる。魔術団の借金の話が出てきたことで、テオにはひとつ思い当たることがあった。 「もしこの借金が全ての動機なら、ボクが犯人でなくてはならなかった理由もはっきりするのさ」 とん、と副団長の鼻の頭を小突いてテオは颯爽とマントを翻す。再び煌びやかなステージに続く階段を上がっていき、ようやっとすのこから降りてきたらしいルーサーにご苦労、とにこやかに手を振った。 「全部聞いていたね?」 「もちろんさ。まあ確かにちぃとばかりおかしいな」 必要なくなった画面を端に置くダイアナにご苦労さんと声をかけた彼は、胸の前で腕を組む。 「あんた言ったな。魔術団が奴さんの借金を肩代わりしたと」 灰色の髪がゆらりと揺れて、下から除くくすんだ色の目がどろりと団長を見た。 「何故、魔術団が肩代わりをした? あんた個人ではなく」 「そ、それは……あまりにも高額だったものだから、私ひとりでは無理だと思って」 「無理だと思って、会社の金を使い込んだってのかい」 「大切な団員を守るためだ! それに運営には問題ない程度で」 「そうかい。それを知っていたのは?」 「私と副団長くらいだ。このことは私たちで話し合って決めた。だから返済日に副団長に行ってもらって」 苦々しく答える団長の横で、副団長がぐっと歯噛みしているのが見える。事実らしい、と軽くテオとルーサーは視線をかち合わせる。だが、ルーサーには心当たりがあった。これは事実だが、これだけじゃないだろう。 「それはよっぽどまともじゃねぇ金貸しだったと見える」 「そ、そうだ。彼はこういうことに慣れていなくて……」 なおも言い募る団長に、 「あんた、初めてじゃないな」 ど、っと。一言。ルーサーが放った言葉のナイフが彼を抉った。 「初めて金を借りる奴ってのはそんな高利貸しに助けを求めることはねぇ。そんなもんに手を出すのは、街金で金を借りられなくなるほどに追い詰められたやつだけだ」 それは、だとかその、だとか。唇を震わせ二の句が継げないところを見るに、ルーサーの見立ては間違っていない。金は人を狂わせる。どんな時代でもだ。刑事時代にも、探偵になってからもそういった人間を数多く見てきた。 「あんた、何度あの男に用立てした? 自分の金を使い尽くして、次は団の金に手を付けて。その次もカモられるとわかっていたろうに」 今度こそ、間違いなく団長は項垂れた。ひどく身内に甘い男だったのだろう。何度も繰り返す愚行。それが被害者に利用されていたのは想像に難くなく、また副団長からの殺意に繋がったことは容易に考えられた。 ふん、と自分の出番は終わりだとでも言いたげに鼻を鳴らすルーサーに、テオは軽く会釈を渡す。彼はこういった尋問に関してはプロフェッショナルと言えた。 「なるほど。金庫に凶器が仕掛けられるわけだね。おそらく筋書きはこうだ。ダンが借用書を団長に渡し、そのままステージへ上がる。魔術団のメンバーには秘密にしていた借用書だ。団長であるきみはすぐに金庫に入れるだろう。だが金庫を開ければ脳天に釘が刺さる仕組み。ちらっと見えたが、恐らくクロスボウじゃないかな。ダンのステージ中、つまり誰もアリバイのない時間帯。金庫は自動で閉まる仕組みで、犯人の姿はそこにない。団長はその時間に誰かに殺されて、続いてダンも殺害される。ステージにいたボクに容疑がかかって、そのまま連行されて終わり……」 団長の控室には鍵こそかかっていないが、いつも扉が閉められていた。よほど用向きのある者でない限り開くことはなかっただろう。 「金庫は団長が亡くなってから回収するつもりだったんだろう。魔術団の所有物だから、とかなんとか言ってね。生体認証の金庫だけれど、だいたいは本人が亡くなった時のためパスワードも準備されているもんだ。そのアテもあったんだろう?」 それどころか、知っていたのではなかろうか。釘の仕掛けを仕込むことができたということは、どこかで盗み見ていた可能性が高い。 だが、そこまで突き付けられてもなお。副団長はじっとりと反抗的に視線を投げつけてくる。 「まさかそれを動機だと?」 「おや、違うのかい」 不敵にテオは笑む。何を言われても返してみせると。 「当たり前だ! それなら余計にダンを殺害する動機がない。ダンから金を返してもらえばいいだけの話じゃないか。殺したらその金も」 「アテがあったんだろう?」 赤い瞳が、す、と恰幅の良い男を見据えた。 「さあ、最後のピースだ。どうしてボクが殺人者でなければならなかったのか、その理由がここにある」 部外者に罪がなすりつけられた理由。ただ殺害するだけであれば、もっと自然な事故死や失踪扱いにもできたはずだ。それが成功するかどうかは置いておいて、わざわざ他殺死体を派手に見せつけた理由はたったひとつ。 「ダンは事故や自殺で死んではいけない。かつ、殺人者が魔術団のメンバーであってはいけないから。そう、ダンにかけられた保険金を受け取るためにはね」 確証はない。だが、ルーサーが突き止めたようにダンが借金を繰り返す男であれば、回収手段をかけられていること確率はかなり高い。刑が先、判決は後。我ながら理不尽な言葉を投げかけているとばかりに、ハートの女王めいた微笑みで高らかにテオは宣言する。 「ユージーン副団長。もう一度言おう」 す、とテオの指がステージ上から真っすぐに伸ばされる。左右に侍る赤毛の女性が、灰髪の男が。それぞれ強い視線でもって小太りの男を見ていた。 「ダン殺害、そしてルーサー殺害未遂の真犯人は、あなただ」 誰も声が出せない。落ちた沈黙。静寂を破ったのは、声もなく泡を食って逃げ出した男の足音だけ。 逃げる、逃げる。最前列の観客席から、後方の扉へ。慌てて立ち上がろうとする警察官を横に座っていたアレンが手で制し、必要ないよと言ったであろう唇の動きが読めた。 必要ないだろうと言わんばかりのローズピンクがステージを見る。アレンの座る座席の隣を男が走っていく。交錯すらしない逃亡者への視線に、 「ダイアナ」 一言だけ。テオはそう声をかけた。 「はい、お任せください!」 声をかけた瞬間、ぱっと彼女がステージを蹴ったのがわかった。 あかがねの髪が揺れる。ふわと風が通り抜ける。 動きやすいジーンズで思いっきり階段を跳ねて、ヒールだというのに彼女は転びもしない。 ひとっとびに客席を乗り越えた彼女はパニックになって逃げようとする小男の襟首をぐっと掴むと、鮮やかな動きで階段に押し付け、そのままどすんっと背中に体重をかけた。 「うちのメイドは優秀でね」 のんびりとステージを降りる、体重の軽い足音がどれほどの恐怖を誘っただろうか。 毛足の長い毛氈を踏んで歩く。まだ手足をばたつかせるモグラのような背中にふふんと勝ち誇った顔でまあるいお尻を乗せる彼女にご苦労と声をかけて、それからただ冷たい視線だけがその場に落ちた。 「話してくれるね? 全部」 「……食い物にされるのが許せなかった。何度もギャンブルで借金を作るダンも、毎度肩代わりする団長も。ふたりの間だけであれば納得できないが、仕方ないと割り切っていられたが。ついに魔術団の運営資金から金を出すと聞いて」 暴れることもなくなった手足が、ぽつぽつと萎れた言葉を落とす。 ロザリーが言った、ダンは団長のオキニだからという声が脳裏に蘇る。オキニだっただけなのか、引っ込みや後戻りができなくなっただけなのかは金が絡んでいる以上、何も言えなかった。 「ダンが金を返してくれたことが今までに一度だってあったか? 確かに彼は素晴らしいパフォーマーだった、だがそれはこの魔術団を傾かせていい理由にはならないだろう!」 ちら、と視線を投げかけた先の団長はひどく憔悴した様子で、だがそうせざるを得ないと言わんばかりに声をかける。本音で話すことのできなかったこれまでを悲しむように。 「ユージーン。金は戻ってくる。でも人は戻ってこないんだ」 「あんたはっ! あんたは、金で苦労したことがないから……」 そこには明確な育ちの違いが透けて見えた。どんなに話し合ったとしても平行線を辿るしかない言葉たちを置き去りに、テオはお疲れ、と悠然と一部始終を見守るアレンに声をかける。 「物証は?」 「クロスボウには製造番号がふられている。金庫に残っているものだ。製造番号で問い合わせれば、誰が購入したかもわかるだろう」 「そう、抜かりないね」 目の前の悲劇は、探偵であれば何度だって目にしたものだ。世界で一番の不幸だという顔をどれほどしようが、やったことに変わりはない。テオを陥れようとしたことも、ルーサーを害しようとしたことも。 警察官に連行されていく背中はひどく丸く、小さく。彼のこれからを表しているように見えた。 さてと、と背後でルーサーがのびをする。 「なかなかいい仕事だった。久しぶりに楽しめたぜ」 ぽん、とひとつ肩に手を置いて、灰色の男は椅子から立ち上がる雇用主の背に付き従った。ゆっくりとお茶をする時間もなかったことばかり残念に感じながら、彼らに手を振る。 「いい検事を手配しておくよ。それじゃあ」 「ああ、よろしく頼んだ! またな、アレン。ルーサー」 劇場の扉を開く。うすぐらい観客席から見た外は、晴れ渡る夏の青空で眩しいほどに澄み切っていた。 8月30日、午前10時。 ヒースロー空港にふたりぶんの靴音が響く。かわいらしいヒール音と、しっかりとした革靴の音。 Aラインのスカートをふうわりと揺らめかせて歩く女性は片手にカートを引いて、一歩後をついてくる青年に微笑みを見せた。 「それにしても、よかったです。テオ様の無実が証明されて」 「ああ、一時期はどうなるかと思ったけれどね。ダイアナにもお世話になった」 ぴかぴかに磨かれた空港のタイルに映る彼女は、黒いハイネックのノースリーブにまるで勲章のように真っ赤なブローチをつけて胸を張って歩いている。艶やかな唇に塗られたルージュも紅に発色して、彼女の相貌を華やかな赤が縁取っていた。 銀細工の睫毛に縁取られた柘榴石が彼女のあかがね色を柔らかく目に入れる。ガラス張りの眩しい空に、ごうっと一本雲を引いて飛んでいく飛行機の鳥めいたシルエット。 「はい、ダイアナはいつでもお手伝いいたします。国は離れてしまいますけれど、なんだってお申し付けください」 ちょきちょき、とおどけて両手を蟹のハサミのように動かして彼女は笑った。太陽よりも強い熱で。 さようならではなく、またねの言葉で空港のロビーで別れを告げる。彼らとの別れはいつだって最後ではないと知っているからこそ。 空港を一歩出る。高い高い空に鉄の鳥が飛んでいく。世界はどこまでも繋がっている。この空の、この宇宙の下で。 ──Ladies and Gentlemen! お集りの紳士淑女の皆様。老いも若きもすべからく、企む悪意も謀も。皆等しく暴いて曝け出してしんぜましょう。 それが稀代のマジシャンにして、邪道のトリックブレイカー。テオ・シリル・アリエスの舞台であるのだから。 Fin. special thanks:PL唐辛子さん*りべらさん*つんさん*966さん |