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幕明・■■■/天狐の瑠璃之丞

――目を開いた。
真暗な空には雲が轟々とうねっている。白浪が打ち付ける崖にどぷどぷ大きな音をたてて寄せては返し寄せては返し、その身を大きく跳ねあげては遊んでいる。木々は風に強く押されてすっかり項垂れ、折られた腕を悲しげにぶらぶらさせていた。
嵐の夜だ。
天狐の贄になったはずの自分は、どうしてか冷たい地面に横たわっているらしい。指の腹にしけった土がざりりと擦れて、爪が細かな砂を噛んで異物感をうったえてくる。右手を地面に擦り付けながら腹に引き寄せ、肘をついてぐっと体を持ち上げると、ついでに持ちあがった頭からぞろりと長い白髪がついてきた。
白い。真白だ。髪の房を掌で掬ってみると、さらさら零れて落ちていく。
驚きがくっと喉を絞める。息をしようとはくはく口を開いて閉めて、思いもかけず掠れた声が漏れていく。鼓膜を震わせた音がようやく世界を思い出したように、途端に世界の何もかもが一斉に声をあげはじめた。
うねる雲の奥で獣が喉を鳴らしている。猫を巨大にしたような声でごろろと鳴いている。波は崖に打って寄せて壊れるたびに岩を裂く轟音を響かせている。木々は葉を擦れさせ何百何十ものささやき声でもって男に語り掛けている。
ただの嵐の日。普段であればなんの問題もなく聞き取れる音は、しかし今の男にはひどく耳触りなものだった。
顔を顰める。音が強く耳に飛び込んでくる。聞こえるはずのない雲上の化物が楽しげに鳴く声が聞こえ、崖岩に砕け散る水滴の悲鳴が反響し、そうして梢の囁き声ひとつひとつさえはっきりと聞き分けられる。
音が大きすぎるのだ。いったい自分の耳はどうしてしまったのだろうか、不快感に苛まれて頭に手をやればなんぞ毛羽立ったものに手が触れた。毛羽立って、うすい。触れられている感覚がある。輪郭をなぞれば斜度をつけて上へ、天辺はつんと尖り、そうして下がり自分の頭に繋がっている。獣の、耳であるようだ。
兎にも角にも音が大きすぎて不快である。なんとかしてこの大きな耳を塞がねばならない。両手で耳を前にくんにゃりと倒せば少しはましなようで、男は両手で耳を抑えつけその場から立ち上がった。
里に帰ろう、その思いがわけがわからないなりに男の足を動かす。ほんの小さな島の、ほんの小さな里だ。髪が白くなったとて、里人が自分を厭うなどあるわけがない。
びょうびょう行く風がけけけと笑い声をたてながら男の傍を通り抜ける。みはるかす背丈の低い草むらを踏んで、ごつりと刺々しい石に転げそうになりながら男はひたすらに里へ里へ歩いた。ぼつぼつ暗がりに影を落とす掘立小屋が見える。炊くような火などありはせず、誰もが早々に静けさを保っている。ごう、といっそう強く風が鳴って、見知った顔が家からひょっこり顔を出した。外はどうであろうかと覗いているらしい彼に、男はおうい、と声をかけた。
声をかけて、近寄って、しかしぼうぼうの髭を伸ばしっぱなしにした彼はちいとも男に気付く気配はない。変わらず辺りをきょろきょろと見渡して、風がまだひどく吹いているのを見て、くわばらくわばらと家の中に引っ込んでしまった。
ばしり。閉められた戸にひどく拒絶された気になって男はその場に立ち竦んだ。伸ばした指は木の板戸に阻まれて家の中に届かない。確かにこちらを見たはずの髭面は、しかし男とは一度も視線を合わせることはなかった。これはどうしたことだろう。茫然とした頭で考える。ふらりと体が傾いで戸に肩がぶつかる。ごとん、確かに音がした。
誰かおるんか、そんな声に慌てて寄りかかった体を離す。ごとごと上下に突っかかりながら開いた扉の奥から、同じ顔が出てくる。それがもう一度辺りをきょろりと見渡して、そうしてなんにもないじゃないかなどと呟きながら怪訝な顔をしている。
手を。嫌な予感に苛まれながら髭男の目前で手を振る。はたはたと。そこで自分の爪さえ長く血色に変わっているのが見える。獣の耳に、白く長い髪。紅を塗りたくった色の爪。だというのに髭面はそれらに一切気が付かぬそぶりで、首を傾げながら遠くを近くを見ている。よもや、と手を伸ばす。すっかり色の抜けた肌で髭面の腕をがっしと掴むと、男はまんまるに目を見開いてひえぇと悲鳴をあげた。
「な、なんじゃなんじゃあ!」
それは正しく、自分が腕を掴まれているということをさっぱりわかっていない狂乱ぶりである。掴まれた腕を大きく振ってよくわからないものから逃れようと奇声を上げる姿に、男は思わずその手を離し後ずさった。
「ひっ、ひいぃ」
手足をばたばたさせる髭男にはこちらのことなどほんの少しも見えていないらしく、ただ恐怖に慄いてほんの数歩の距離にある戸にも手をかけられない。
その背をとん、と押してやればますます大仰に悲鳴を上げて男の前で木戸がぴしゃりと閉じられた。白い長い髪を勢いで軽く舞い上げて、戸は固く閉ざされている。
男は薄い唇を僅か震わせて、自分の手をじっと見た。女でもあるまいに、紅を塗りたくった爪と、長く日に当たっていなかったように白く色のない肌。そこから繋がる腕と、肩と、胴と、そうして首。ひとつひとつ、触れて確かめる。どこも変わらぬ自分であるというのに、何かが決定的に違うような。
伏せるのをすっかり忘れていた耳が痛いほどにごうごうと鳴る風の声を拾う。海ではその身を砕く波が大蛇のようにうねり体をくねらせて笑っている。
固く閉じこもる家の戸の脇に、水を入れた甕が据えてある。なんとなしにそれを覗きこんで、男はぐしゃりと顔を顰めた。
予想はしていた。
それでも、あんまりではないか。
甕の縁を掴む細い指。そこから繋がる腕。肩。背。胴。そして首の、頭蓋を据えた上に、どう見ても異形である真白な獣の耳が一対、すらりと生えていたのだ。
目玉は闇にも煌々と輝く金の色。左の目下には朱の文様が浮かんでおり、擦ったところで滲みもしなければ掠れもしない。髪もそうだ。老人のものより鮮やかな白。一切の色を抜いた、輝かんまでの白髪が男の背を覆って足元までぞろりと伸びている。
人ではない、このようなもの。
うっかり力を籠めすぎてしまったのか掴んだ掌の下から甕がひび割れてぐちゃりと水やら土くれやらを吐き出し崩れた。またひぃっと家から悲鳴が聞こえた。
自分はどうしてしまったのだろうか。うろつく視線が空を見上げる。呼吸をひとさじふたさじ、そうして息を終える。ごろろと鳴く雲上の獣が戯れに地上へ落ちてきて、金色の体を地面に弾けさせた。
ばぁん、鳴る音に耳を塞ぐ。しゃがんで嫌嫌と頭を振る。ぽつぽつ落ちてくる雨水がぬるく男の肩を濡らしていく。何かが決定的にずれてしまっている。ばぁん、もう一度おそろしい音がして強い光に目を閉じた。
雨は叩き付けるように降ってくる。男の髪をべったり地面に貼り付けてどんどんと水は流れ落ちる。嵐が来るのだ、わかっていた。
雨と、風と、雷がどんどんと音を鳴らす。獣の耳をした男は、しかしふとその中に妙なものを感じて顔を上げた。びょう、雨が叩き付けられる。目にじくりと滲む。
雨風を連れる雲の中に、鬼がいるように思えたのだ。
黒い小さな鬼が雲の上でどんちゃん騒ぎをしている。男は天にそっと手を伸べて、届くはずもない高みにある鬼の細い首をぐっと掴んだ。
それは、水に手を差し入れれば汲み上げられると、すっかり理解しているのと同じ感覚だった。
見えないはずの雲の上、届かぬはずの鬼の首を、男は違わず掴み潰して、塵も残らず砕いて捨ててしまう。途端に雨は勢いを弱め、風は舞い狂うのを止め、雷も静かに去っていく。
男は茫然と自らの手を見つめた。これは神通力なるものではなかろうか。神の持つ力。神こそふるうを許される力。男は、自分こそが捧げられた神そのものになっていることにようやく気付いたのだった。


天狐とは、つまり島の神であるようだった。できることをひとつひとつやって数えてみる間に、男はすっかりその位置に収まってしまっていた。ひとつ、遠くまで物事が見渡せる。ひとつ、ものを触れずに動かすことができる。ひとつ、天地のあらゆるものに働きかけることができる。
人であった時よりもずっと鋭敏な感覚に初めこそ戸惑ったものの、それにもすっかり慣れた。人は天狐が誰であるかにはとんと無頓着で、獣は静かに男を崇めた。
島の人は、少しづつ少しづつ増えていった。死ぬ親より生まれる子の方がずっと多いそのさまは、事戸の盟約をはっきり体現していた。
山に入る者が増えれば、木々に惑う。海に入る者が増えれば、水に落ちる。それをひとつひとつ救っていくには、男の手はあまりに少なかった。二本しかない腕では、ひとり掬う間にひとりが零れる。
「瑠璃様」
前足をきちんと揃えた狐が呼ぶ。人であった時には、すけ、とばかり呼ばれていた自分にその名はいかがなものかと言ってきたのがこの白狐であった。弱りきり、捧げられた人間一人取り込めず死んでいった神を遠く見ていた狐は、一人途方に暮れていた男に頭を垂れて主と呼んだ。
「瑠璃という名はいかがでしょう。七宝のひとつである吠瑠璃なる宝石がございます。赤や青や紫の、様々な色をしたうつくしいものでございます」
ほんの小さなもののけが、差し出がましいとは思いますがと言ったその名を男は有難く受け取って、古い名と共に瑠璃之丞と名乗ることとしたのだ。
その狐が両の足をちょこんと揃えて、くりくりした目をこちらに向けている。そうしてもう一度、瑠璃様と声を発して頭を下げた。
「何かお悩みのようでございますね」
何を悩んでいらっしゃるのでしょう。ふわふわとした毛で覆われた頭を傾げて狐が問う。男の下につく、とはっきり言ったのはこの狐が初めてで、以来何かと気にかけてくれている。そういえば、彼以外に自分に従者と呼べるようなものはいないのだと気が付く。
「手を増やす頃合いかと思うてな」
そうだ、人のことは人に。それが一番よい。白狐もそれはよい考えでございますと頷き、ご神託を授けることで人に力を与えてはいかがでしょうと進言した。只人にこの神の姿は見えない。只人にこの神の声は聞こえない。それでも人を救いたいと願う神は、人に力を貸し与えることで自らの声を届かせることとした。
千里の遠くまで見晴らす力、天地のものに働きかける力、思うままにものを動かす力を瑠璃之丞は自らが餞別した人それぞれに一つずつ貸し与え、その神通力をもって島を助くるがよい、と彼らに言った。人は善良であった。瑠璃之丞もそれをわかっていて神通力を与え、しかし人が善良であれたのは、邪悪となるほどの力を持っていないからだということには、気付くことができなかった。



瑠璃之丞は神宿りの地を持っていなかった。島全てが彼の支配下であり、宿るべき場所であったので必要がなかったし、元は人間である彼には具象化された神の形というものの必要性をよく理解してはいなかったのだ。例えばそれは本土において巨石であったり、また古木であったりするもので、後世においては偶像として姿を持つものだった。そういった神宿りの象徴として人々が自然と崇める対象を、彼は持っていなかったのである。
それが災いとなったのは、神通力を与えた者達が、自分は神であると名乗りをあげはじめたことであった。
「私こそが神である。人の世に肉をもって現れた、現人神である」
私を称えよ、崇めよと言いはじめた若い男の姿を、瑠璃之丞は千里眼であっという間に捉え、そうして愕然とした。何故そのようなことを言いだしたのか、全くわからなかったのだ。彼は確かに善良な人間であった。漁に出る父が気まぐれに変わる天候に困っているのだと、この島に神がおるならば、それをなんとかしておくれと、必死に訴えかける姿はただの善人であり、その心があるならばと瑠璃之丞は彼に天地に働きかける力を与えたのだ。
横に立つ女は、今こそ千里眼で何もかもを見通すが元は盲いの病にかかっていた。どうしてもこの世を我が目で見たいのだという姿に全てを見通す力を貸し、彼女が喜び勇んで外を駆け回っていたのは記憶に新しい。
そうしてその背後に用心棒のようにしてぬっと立つ熊のような男は、自分自身を強くするのだと、守れる力を得るのだと一心に祈り自らを研鑽していた男だった。そのひたむきな姿勢に感動さえ覚え、触れることなくものを動かす力を、人を守るための力を、確かに渡した男だった。
何れも善良な、ただの善良な人であったのだ。
若者が天へ手を翳すと見る間に雲が集ってくる。そうしてどうっと雨を降らせたと思えば、あっという間に散り散りになってお天道様が強い陽射しで照り付けてくる。正しく神の通力である。瑠璃之丞が与えた神の通力を、若者は得意げに自分のものだと胸を張っている。ぞっとするほど凶悪な日光を島中に降り注がせて、若者は自分こそ神であると人の口で言い募る。ふと襲った怖気に瑠璃之丞は体を震わせて、白い腕で肩を抱き、そうしてぎゃあんと一声、獣に似た声で鳴いた。
若者には声が届いたらしい。ぴくりと耳をそばだてるふりをして、しかしそのほんの僅かな差を見分けられる愚昧の民などいはしない。
瑠璃之丞の声に応えて雲が集まる。黒い、どす黒い、雷雲が積み重なり折り重なり島に暗い影を落としている。俄かに強さを増した風が、びょうっと誰も彼もの間を駆け抜けていく。瑠璃之丞の長い髪をも千切らんばかりに吹き流して、雲上でどろどろどろ、と太鼓を叩く鬼どもに出番であると呼びかける。
その男らは神などではないと知らしめるために。怒りのままに。しかし
「見よ、この島には悪鬼が取り憑いておる!」
その言葉で瑠璃之丞の全てが崩れた。
瑠璃之丞は神宿りの象徴を持ってはおらぬ。神であると誰もが認める、目に見える宿りの場を持ってはおらぬ。だからこそ、人は、その風をあっという間に悪鬼怨霊の仕業であると信じ込んだ。
変わる。変わってしまう。風巻く命はただ人を傷つけるためだけに。轟く雷鳴は悪鬼の戯れに。転じていく。変わっていく。人のためのなにもかもが、人に仇なすなにもかもに。鎌鼬の鋭い爪が人の肌を切り裂いて笑っている。血が噴き出るのを喜んでいる。雲上の鬼がどの子をとろうか、ひそひそ囁いている。逃げ惑う人、人、人。小さな島の中全てに吹き荒れる風と轟く雷鳴を止めることもできず、瑠璃之丞は茫然と立ち尽くした。
自らを神と名乗った人々は、声を荒げ天を収めようと必死に祈りを翳している。天に働きかける、千里の先まで見通し、何もかもを振り絞り、自分こそ神だと証明しようと、躍起になって。
鎌鼬が楽しげに棍棒を振り上げる。女の細い首が折れ曲がってぶつりと言ってそのまま首から崩れ落ちた。
鬼が地に惑う人を一口でぱくりと飲み込んでいる。楽しげに雷を落とし轟かせ、そのうちの一条が熊に似た男の頭から爪先までを貫き輝いた。焦げ臭い匂いが辺りに漂う。生焼けの肉の匂いだ。
天への祈りなどほんの少しも通じぬ。風はごうと鳴り、黒雲はおそろしい光をびかびかと放っている。
男の顔がようやく恐怖に彩られ始めた。仲間の二人を失って、尚止まらぬこの世のなにもかもにやっとおそろしさを思い出したらしい。しにたくない、たすけてくれ、どうかどうか。そんな都合のいい言葉を吐き出して小さく動く口を、もう聞きたくないと瑠璃之丞は耳を塞いだ。
鎌鼬が吹き荒れる。いくつもの刃を渦巻かせて男の周りを通っていく。通るたびに肌は裂け、血が噴き上がり、細かな傷口がだんだんと裂傷を大きく開いていく。
たすけて、いやだ、言う声に耳を塞いで拒絶する。瑠璃之丞がひとつ首を横にふるたびに男の腕に足に赤い筋が走る。くっぱり開いた赤い口からどろどろと中身が零れ出て、もう口もきけない男の薄く弱った体がぐちゃりと土の上に倒れて落ちた。
どろどろと赤い命が零れ落ちて動かない。塞いでいた耳を開いて、おそるおそる顔を上げれば風も雲も満足げに散っていくところだった。
男はぴくりとも動かない。動けない。とうに命は流れ出して戻りはしない。
瑠璃之丞は声もなく膝をついた。人は弱いものだと、彼は初めて知ったのだ。
「瑠璃之丞様」
いつの間に来たのか、それとも最初から控えておったのか、あの白い毛並みの狐が楚々としてそこにあった。悲しげに目を伏せて、無残にも人が散らばった草原にしっかと足をつけている。
「我は怨霊となってしもうた」
紡ぐ言葉に首を垂れて、狐は確かに瑠璃之丞の言葉を聞いている。
「人は、弱いな」
地面に散らばる肉片を抓んで、瑠璃之丞はその金目を閉じた。もうこの島には居られぬ。立ち入ることもできぬだろう。島民が瑠璃之丞を悪鬼の類、怨霊のそれと信じるならば、瑠璃之丞がいくら島を守ろうとその力は島民に悪いものとして降りかかる。稲を作るための雨は豪雨となり家を押し流し、心地よく吹く風は荒々しく戸を叩く。
「もう行かねばならぬ」
狐はきゅうんと喉を鳴らして、瑠璃之丞に擦り寄った。白いふかふかとした毛並みがしょんぼりと萎んでいる。
「この島から出ていかなければならずとも、我はここが好きであった」
ぼそりと、言葉。できるならばずっとずっとここを守っていたかった。そう言外に込められた想いを余すところなく汲み取って、白狐は瑠璃之丞とお揃いの尾をぴいんと立てた。
「狐よ、ここを守ってはくれまいか」
願い。白狐は瑠璃之丞の澄ました横顔を見つめた。なんの感情も浮かんではいないかのような金泥を塗りたくった目は、しかし吹けば飛ぶよな静かの想いに満たされている。
「お前を我の後任とする。どうか、島を守るよう」
ほつり、雨が男の頬に落ちた。まるで島が泣いているようだと狐は思う。夕暮れの陽に照らされた薄い雲から落ちる雨粒がきらきらと海へ入る陽光を弾き返しては地を濡らしていく。仕方ないことだと狐はその黒目がちな目をぱしりとさせて、静かに首を垂れた。
「瑠璃之丞様のお言いつけとあらば」
金雨がさらさら降ってくる。落ち行く茜の陽を受けた祝いの雨が瑠璃之丞の行く先に降り注ぐ。
「真木柱、ほめて造れる殿のごと」
五、七、五の言葉。神の句に続く声に少しの思考をやった後、
「いませ小値賀よ、面変はりせず」
瑠璃之丞はそう歌を締めた。
「どうぞ、お達者で」
雨はしとしとと大気を黄金に満たしている。それに白い尾を振って、二匹の狐は互いの道行を祈った。行かねばならぬ、黄昏時が来る前に。
海に突き出る崖へ、白い衣の袖をはためかせて行く瑠璃之丞を白狐は見送る。離れ難いと目をしぱしぱさせて、白い尾をゆらゆら振って。
山吹色の半ば溶けた海を背に、最後の最後、瑠璃之丞は
「人はなんと、力を持たぬがよい生き物であることか」
言い残して地を蹴った。
力がなければ我欲に憑かれることもなく、力がなければ愚行に走ることもない。
一人残された白き天狐は、けぇん、と。けぇん、と泣いた。

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