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トビコミタイNovelize

探索者

HO1:堤航平(ツツミ コウヘイ)
HO2:皆葉紡(ミナバ ツムグ)
たたん、たたん。

軽い振動が靴の裏から伝わる。
ぴーっと甲高い警笛が鼓膜に突き刺さる。
かんかんかんかん、空気を打ち鳴らす警報音が脳をやわく揺らす。
警笛、警告、警報、警、警、警、警。
危険危険危険と告げる音が、非合理と多少の危険度を脇へ投げ捨てた人工の鉄くれが、地面を揺らしてやってくる。
電車が通過します。電車が通過します。この特急は止まりません。電車が通過します。
革靴はするりと脱げる。背中に誰かの手が触れる。揺れる、揺らぐスポンジ状の海馬に誰かが囁いた。
「ト  コ ミ タ イ」


────ぷぁーーーーーーーーーーーーん


くちゃっ。



クトゥルフ神話TRPG   堤航平と皆葉紡の怪奇事件簿
【トビコミタイ】



晴れやかな、春の日。
入学式を迎えた高校生がまだ新品の制服に腕を通して、零れる桜並木の下を走って行く。その様子を見ながら、堤航平はふぅと息を吐いた。40も半ばにさしかかった、くたびれた背中を軽く曲げる。腕時計を見る。まだ朝の8時だというのにこんな麗らかな日光の下に出てきているのには理由があった。
「堤さん、ちょっと付き合って欲しいんですが」
一週間ほど前だったろうか。緊張した面持ちでそう堤を誘ったのは、同じ13課に所属する皆葉紡だった。話を聞いてみれば付き合って欲しい、の意味はもちろん一緒に外出して欲しい、といった旨であり堤はふたつ返事で了承した。
男女交際でもあるまいし、先輩を誘うことにもがちがちになってしまうようなこの初々しい後輩のことを堤は存外気に入っている。仕事上のパートナーとして、共に奇妙奇天烈な事件を解決してきた仲でもあるし、なにより若々しくも危なっかしい皆葉のこととなると、つい保護者のように手をかけてしまいたくなるのだ。
親子ほども年が離れているせいだろうか。子犬によく似た足取りでこちらの背中をとてとてと追いかけてくるのが何よりも微笑ましい。成人男性だというのについからかってやりたくなるかわいらしさを備えている。
この暖かな春の陽射しにもよく似合う笑顔で今日もやってくるのだろう。視線を落とした時計は8時5分を指しており、そろそろかと顔を上げれば、道向こうから慌てて走ってくる姿がよく見えた。
「堤さん、早い、ですねっ」
ぜい、と息をきらし目の前までやってきた、ぴんと背筋を伸ばした実直な立ち姿。相も変わらぬ真面目ぶった皆葉の姿に、堤は苦笑をひとつ落とした。
「約束より早いんだから、走ってこなくったっていいだろ」
「つ、つみさんを待たせるのも申し訳なく……っ」
はひはひ言う呼吸が整うのを待ってやる。運動には暑いくらいの気温で、額から落ちた汗がアスファルトにぱたっと黒丸を描いた。
「はー。お待たせしました」
「ん、どうも。で、つむちゃんいきなりどうしたのよ。おじさんとお出かけとか楽しい?」
首を傾げてみせる。そうすれば試すような言葉を意に介することなく、よくぞ聞いてくれましたとばかりに皆葉はぱっとスマホを取り出した。表示された画面には、白と青が印象的な爽やかな画像が浮かんでいる。
「たまには堤さんを誘って出掛けてみたいなって思いまして。今日から公開のこの映画、前から気になってたんですよね」
なるほど、映画だったらしい。まじまじ見ると、自然皆葉の体に寄る恰好になる。
「話題の感動映画! なんですって」
嬉しそうに画面をスワイプする皆葉の汗がふわと揮発して、どこか新緑を思わせる爽やかな香りが立つ。それが制汗剤なのか、整髪料なのか、それとももっと別の何かなのかは堤にはわからない。
ただ目の前の後輩に軽く目を細める。
「へぇ…映画ね…。デートの練習ならちゃんと言ってよ~。おじさんも頑張るからさぁ~」
この、と肘でつついてやれば皆葉は照れ臭そうに笑った。続く言葉を封じるようにわざとらしく畳みかける。
「かわいい子誘いなさいって」
「有名な女優さんも出てるみたいですよ……って別にそういうのじゃないですから。誘えるような可愛い女の子の知り合いがいたらよかったんですけどね」
「そこそこいい線行ってるのに彼女できないねぇつむちゃん。まぁ行きたいなら行くかな」
視線を上げる。のんびり歩きだす。慌ててついてくる皆葉が、言葉を追いかけさせるのがまたかわいらしい。
「とにかく! 今日は堤さんと行きたいんです!」
と、っと追いついた言葉が歩幅が、ぱっと堤を追い越して木陰に入った。振り向いた笑顔にあさい梢の影が差して淡い明暗のコントラストをつける。
「こんなに天気もいいですし、外に出てちょっとは体を動かしてください」
「はいはい」
「あ、あとそろそろちゃんと禁煙もしてくださいね」
答えの代わりに肩を竦める。数歩先を行く皆葉の影が、並木の木陰に紛れてちらちら動いて見える。
のんびり歩く視線の先には、地元のひなびた駅があった。
ごうごう音をたてる車は、季節など素知らぬ顔で走って行く。赤に変わった横断歩道の信号待ちに皆葉が足を止め、先に足を止めた皆葉の革靴がことんと歩道に靴音をたてた。
その足元を見た瞬間、堤は目を細めた。
在る。
皆葉のすぐ隣、歩道の縁石。ごうごう走る車に向かって綺麗に揃えられたスニーカーが、皆葉と並ぶように。まるで今にも車道に向かってふたりで飛び込んでいくように。
かちり、と脳の後ろでチャンネルが合った音がした。ひやりと首筋を撫でる冷たい指先の予感は仕事でもよく体感したもの。合わせてはいけないチャンネルに、無理矢理誰かがスイッチを入れた違和感と異質さが堤を襲い、
「ト、ビコ、ミ、タイ」
男とも女ともつかぬざらざら声が鼓膜を震わせた途端、思わず強く目を閉じる。
チャンネルを切り替える。怪異を追い払う。気のせいだと振り払った、開いた目の先にはただ赤信号を待っている皆葉だけがいた。
「確か映画館があるのはこの駅ですよね」
指差した先で信号はぱっと青に変わる。
「あ?あぁ」
適当にうった相槌。流れてくる人波。逆らうこともなくふたりで吸い込まれていく駅は、どこからどう見ても休日の賑やかさを備えた一介の駅でしかなく。
縁石の上には、一点の曇りなく陽光が降り注いでいるだけだった。

風通しのやたらといい駅のホームには、誰が捨てたのか紙屑がかさかさ転がっていく。お知らせの紙が剥がれかけのセロハンテープで辛うじて柱にへばりついて、誰の注目も引かない様子が見て取れた。
無関心の海がざあざあ言わし、氾濫する情報の網の中で少女たちが、壮年の男性が、腰を曲げた老人が、ベビーカーを押す夫婦が、てんでばらばらの方向を見ながら澱み、流れ、ふたりをも飲み込んでいく。
「堤さん、どうぞ」
皆葉から差し出された切符を受け取れば、行先の駅名が書いてある。電光掲示板はあと5分で電車が到着すると告げ、しげしげと見比べれば、早くホームへ行きましょうとせかす声がかかった。
「ん?あぁ。いくか」
「堤さんって映画はよく見る方ですか?」
ひっきりなしに開いては閉じる改札に、皆葉に続いて切符を通す。かしゃんと鳴る音はどこか郷愁を誘い、


   ト
  ビ
     コ
   ミ
      タ
 ィ




世界が、大きく斜めにずれた。
声がした、そう認識した時には遅かった。じりりりりりと鳴る警報、軋む音をたてて下ろされる、いや落ちてくるシャッター。改札の向こう側とこちら側を隔てるように地面に強くぶつかった、その音と共に世界の全てが変貌した。
目の前の女子高生の姿が掻き消える。サラリーマンの馬鹿笑いが消える。駅員の視線がどこにもぶつからなくなり、走る子供の足音が、ざわつく喧噪が、人間のいかなる存在もが消失していた。
「ったくいつもこんなんだねぇ……」
消失した後に残ったのは、耳に痛いほどの静寂。切れかけた蛍光灯のフィラメントが焼け付く音。薄汚れた床と、人っこひとりいない空間。いや、ひとりだけ例外がいた。
「だ、誰もいない……ですね、さっきまで普通だったのに……」
皆葉紡。堤航平の後輩であり、同じ怪異を専門とする警察のはみ出し部署の同僚の姿だけは、くっきりと堤の目に映っていた。
ふたりきりだ。それに一体どんな意味があるのか、怪異は恣意的なのか無差別なのか、またこんな展開だと頭を掻く。ひどく煙草が恋しかった。
「みたいだな。しまっちまったが出られるかどうか……」
「また13課的な出来事……ですかね」
皆葉も同じことを考えていたらしい。否応ながら怪異慣れしてしまったこの脳味噌では、残念ながら他の回答を導き出すのは難しい。背後のシャッターを開けて出られるのならそれに越したことはないのだが、恐らくそんな単純な話ではないのだろう。
考え込む皆葉を置き去りに堤はシャッターに手をかけた。見たところ、歪みもなければ異常な箇所も見当たらない。
「困ったねぇ。開くかな?」
ただのシャッターだ。勝手に落ちたことを除けば、全く怪異なんて関わっていないと断言してもいいほどに。ただ、それなりの重量がありそうな予感があり、堤はまた腰に爆弾を抱える身でもあったので、
「おじさんこれ持ちあげると腰が逝く気がするよつむちゃん」
あっさりと背後の若者に肉体労働を任せることにしたのだった。
「俺が試してみますよ」
「よろしくぅ」
皆葉は嫌な顔ひとつせず肉体労働を任される。冷えた空気が体を冷やし、じっとりと嫌な汗をかく。春先だというのに、昼間だというのに、どこか晩夏の冷たい闇がひたひたと迫ってくるようだった。
よいしょ、とシャッターを持ち上げる。瞬間、
どろり。
真っ赤な液体が床とシャッターの隙間から溢れ出した。タイルの隙間をつたって、蜘蛛の巣状に網目状にだくだくと零れ床を汚し溢れ靴底を染めぷくぷくと泡を吐きただ溢れ溢れ、
「わ」
思わず皆葉が手を離したのも無理からぬ話だった。
がしゃ、とその場に落ちたシャッターはそのまま静まり返る。黙して語らぬその姿は向こう側に在るなにがしかをせき止めているかのようにも、堤と皆葉を逃がさないかのようにも見えた。
いや、それともただの言葉を持たぬ愉快犯であろうか。
「思ってたよりやべぇぞこれ……」
呟きの隙間に、シャッターの上部からぬるりと白い蛆めいたものが顔を覗かせてはかりこりと金属の板を引っ掻いていた。
「な、な、なっ……」
「こ…れは…。かなり13課向けの怪奇な現象だねぇ……つむちゃん大丈夫?」
「……大丈夫、じゃないですが、今そんなこと言ってる場合じゃないですよね」
どろりと赤黒い存在が床に広がる。一見してペンキにも見えるそれは、しかしむっと鼻につく異臭で自らの正体を誇示していた。
「血、だよなぁこれ」
腐りかけたはらわたの臭い。吐き気を催す鉄の臭い。
どうなっているかなど想像したくもない、シャッターの向こうの存在が仄めかされる。しゃがんで確認した液体は、どう足掻いても血液以外には見えそうになかった。
「つむちゃんさぁ」
「あ、はい!」
立ち上がりざまに堤は問う。答える皆葉のしゃんと伸びた背筋はいかにも生真面目だ。
「さっきこうなる前に声、聞こえなかった?」
「まさか堤さんにも聞こえたんですか」
横目で撫ぜる皆葉の顔が、唇が微かに震えた気がした。何かを言おうともごつく唇が、血色の悪いふくらみが、どこか苦しいような諦念のような感情を舌上に乗せていた。
「トビコミタイ」
窄める、横に広がる、開く。一音一音がスローモーションのように堤の目にき付いて見える。幻だと信じたかった音が、目の前でみるみる形をとっていく。
「……、ですよね」
「うん」
確認するように問うた皆葉に頷く。トビコミタイ、の6文字。聞いた噂だ。話半分に聞いて、そうして次の瞬間には忘れてしまったくらいの。
「これもう半分いつもの仕事だろ。だから調査としていうんだが……」
聞いた噂でも、形をとってしまえば思い出さざるを得ない。
ちかちか明滅する蛍光灯に、薄汚れた壁に、人身事故を防止しましょうというチープで日に焼けたポスターに目を遣って、堤は記憶を手繰るように言葉を続けた。

「『トビコミタイ』っていう都市伝説があるらしい」

ひゅ、と喉が鳴ったのは、誰かの空耳か。
「都市伝説ですか?聞いたことないんですが。……どんな話なんですか?」
「まぁ都市伝説なんてもん嘘っぱちだと思って生きてたんだがどうにもな。人が身投げしそうな場所に靴がそろえておいてあって、耳元で『トビコミタイ』という声が聞こえる」
つらつら喉から出てきたのは、ありがちな三文ホラー。今時小学生でも怖がらない、洒落怖まとめのページを開けば、いくらでもよくできた作り話が出てくるだろうことは想像に難くないほどに。
「そんで続きがあってよ、その続きは……」
吐き出す息がふと止まる。呼吸の切れ間に、ひたりと冷たい静寂が落ちた。心臓さえ鼓動を止めたかと思うほどの。
視線がうろとさ迷って、薄い唇が閉じて、開いて。
「まぁどうせ嘘だろ」
それきり、舌は乾いた。
拍子抜けしたのは皆葉の方だ。え、なんて間抜けな声を上げて、それから「ここまで来たら話してくださいよ!」との真っ当な抗議の声を上げている。
「それが嘘だとしても、今の状況を打開する手掛かりになるかもしれないなら、知っておくべきじゃないですか!?」
「それはまたおいおい話すわ」
「えぇ……」
渇いた舌はそれきりそっぽを向く。古ぼけた駅員室のプレートに視線を向けて、どこか不満げな皆葉から背を向けて。ポケットに冷たさで震えた指先を突っ込んだ。
「とにかく他のとこも見てみないことにはわかんねぇしな」
「……わかりました、なら今は他に何かないか調べるのが先ですかね」
いかにも不承不承といった声が堤の背中にかかって、それには振り向くことなく老いた掌を駅員室のドアノブにかけた。
「正直この状況で何があるかわからないんで、一緒に行動した方がいいと思うんですが」
「もちろんそうするよ。一人にするとつむちゃん怖くてないちゃいそうだしなぁ」
「はい! ……いや泣かないですよ!!」
はは、と空気を軽くするように上げた笑い声は開いた無人の扉の中で滑稽に木霊していた。
ぐるりと見渡す、壁には飛び込み防止のポスター、セロハンテープが日に焼けて剥がれかけ。奥には色あせた道具箱、いや遺失物の預かりスペースか、傘立てには古ぼけた傘が何本も。正面には時刻表、専門家にしかわからないダイヤ線がびっしり引かれた真新しい紙と、配線のきれたスイッチ盤。左手のステンレス製デスクにはぺらぺらのビニールマット、昔懐かしの黒電話。それに、──
ふと、堤は視線を皆葉に戻した。慣れた状況把握の横で、このよくできた後輩がデスクの一点を凝視したまま動かない。
デスクの上には薄っぺらい業務ノートがひとつ。筆箱がひとつ。なんの変哲もない。いっそ面白みもない。
「なぁに見てんのよ、おじさん気になるなぁ」
声をかける。体をねじ込むように皆葉の視界を覗き込む。それでもそこにはうっすら皆葉の蒼白な顔を映すぼやけたプラスチックの鏡面しかなく。ぽたり、と冷や汗が白くまろい肌を伝って。
開いた瞳孔に、
「わ!」
「わぁぁぁぁぁぁぁ!?」
ぽん、と強く叩かれた肩に皆葉はその場で飛び上がった。
「ちょ!? 堤さん! こんな時にやめてくださいよ!」
「しゃきっとしろつむぐ~~~そんなんだから可愛い彼女できないんだぞぉ~~」
まだ冷たい頬を茶化して堤は皆葉のよく伸びるほっぺをむにいっとつまむ。怪異に呑まれたら最後だ、そのことを13課所属の職員はよくわかっていた。人の手及ばざる領域だからこそ、人でなしになったならあとは怪異の養分となるのを待つばかりだ。
「それは大きなお世話ですっ!」
「そうそうその調子その調子」
いつもの調子を取り戻した皆葉がのばされたほっぺをむいむい元に戻しているのを見届けて、堤は大きく息をした。机の上には相変わらず何もない。こちらをのっぺり照り返すビニールカバーだけだった。
証拠品、手がかり、となれば動作する可能性もなさそうなスイッチ盤より、アナログな物品の方が有力だということは今までの経験上、ふたりともよくわかっている。
傘たての傘を掻き分け、棚に手をかける。乗客が遺していった品に怪異に繋がる物があることは充分に考えられた。駅を丸ごと取り込んでいるのだ、内部に存在するものが原因と考えられる。
置いてけぼりのキッズケータイ、しわくちゃの千円札、スナックのマッチ、プラスチックの電車の玩具……。ぐちゃぐちゃに放り込まれた箱の中には碌なものが入っていない。忘れ去られ置き去られた存在の中、いやに綺麗なたからものがふたつ、堤の目についた。
本と、瓶。
ぐちゃぐちゃに入れられた遺失物の中で、わざと隅に避けるようにして存在していたそれらに、自然と手を伸ばす。
瓶は細かい装飾がなされた香水瓶のようだった。いかにも女性が好むような、繊細だがあまり品のないごてごてとした。中の液体はくろぐろと波打ち、墨よりもてらりと艶っぽく見える。つけられたタグの文章は悪趣味極まりない、『ゆうしゃのどく』という文字。触れた指先には油っぽい黒の塗料がざらつき、甘ったるい蝋の匂いが辺りに漂った。
ゆうしゃのどく。こうか、そのゆうきをたたえて まえの人と一回だけこうたいする。
脳裏で復唱した、背後をちらと見る。
皆葉はきょろきょろと辺りを見回し、ちょうどこちらに視線を向けるところだった。
「堤さん、何かありました?」
「ん? まぁ落とし物だな」
小指を曲げてガラスの首を持ち、掌の中に小瓶を隠す。そのままするりとズボンのポケットに手を突っ込めば、皆葉は堤の脇を通りもうガラクタしか入っていない遺失物入れにちょいと指をかけた。
「つむちゃん捜査で同じとこ見るのはナンセンスでしょ。時間がないかもしれないんだから他見てよねぇもう」
以前の事件ではひどく限られた時間の中の捜査だった。指摘すれば眉がしょげたように下がる。どうにも愛嬌のある仕草に、大型犬がうろうろしている姿を重ねてしまうのは仕方がないことだろう。
「この部屋の安全は確保できてんだからさ。こっちはおじさんに任しといて」
「まぁ変わったことがないならいいんですけど……」
「変わったことしかないでしょこんな場所じゃあ~」
けら、と気楽そうに堤は言った。こんなにも暗く、重い空気の中で。
それがつくりものなのか、それとも心の底からなのかがわからないほどには、まだ皆葉は堤と出会って日が浅い、ただの後輩だった。

「この状況で言われても説得力のかけらもないですよ」
皆葉の目の前で、堤は笑っている。かさかさに乾いてへらりとした、気の抜けた笑顔だ。こんな生死がかかった場所でも変わらない、揺さぶられることのない一本の線が堤の中心を通って、天と地にひぃんと張りつめているように皆葉には見えていた。
いや、それとも知らないからかもしれない。
この怪異が殺意をもって握り潰そうとしているのは、堤だけだと。皆葉の未来はもうとっくに怪異に塗りつぶされているのだと。
死、し。そのひらがな一文字が先程から皆葉の後頭部にじわりと焼き付いていた。
横目でデスクを見る。デスクの上に、薄っぺらいビニールの上に。白い画用紙がある。大きな画用紙だ。サイズなんてわかりっこないが、少なくともこれを見落とすなんてことは誰にもできないほどに。本当に存在しているのだとしたら、堤航平が言葉にしないことなんてあり得ないほどに。
堤が口にしないのであれば、手を伸ばさないのであれば。それは堤の視界には存在しないのだ。皆葉は本能でそう感じ取っていた。ざらついた紙面にはぐちゃぐちゃに塗りつぶされた黒い電車と、電車の周囲にまき散らされた黒い何かの破片と、カラフルなクレヨンの文字。

でんしゃはつよい。でんしゃはすごい。ぶつかったらみんなしんじゃう。ぼくもしんじゃう。

しんじゃう。幼気で無邪気な文字が皆葉の脳へ網膜を通して赤くそう告げる。死ぬ、電車にぶつかって死ぬ。それは、つい三日前に電車に衝突して死んだ皆葉紡にとってはあまりにも生々しい痛みの言葉だった。
皆葉紡は死んだ。一週間前、堤航平との約束をとりつけて。その四日後にあっけなく死んだ。理由は覚えていない。気が付けば皆葉は幽霊のような存在になって、眠ることも食事をすることも忘れたまま職場を歩いていた。
誰も自分を認識しない、誰とも触れ合わない。世界から隔絶されて、忘れられていくのだという諦念の中、ただひとり声をかけてきたのは堤だった。
三日後の約束は堤の中ではまだ生きていて、それを知った時。皆葉にとってはその約束だけが最後のよすがになっていた。約束を果たすために、ここにいるのだと。未練にならぬように、ここにいるのだと。
今朝まではそう考えていたのに。
黒電話に指を滑らせる。いっそ今こうしているのは、堤をこの怪異から守るためだとすら皆葉には感じられた。受話器を持ち上げる。携帯電話の電波も圏外になっているこの場所で外へとつながる手段が用意されているとは思えなかったが、今はどんなに細い藁にも縋るしかなかった。
「電話の方は俺が見ますね」
耳に当てる。指をダイヤルに引っ掛ける。1の文字をぐるり回そうとして、気が付いた。受話器の向こうで話し声がする。かさかさ、こそこそと。よもやどこかに繋がっているのか、はっとした瞬間に、声は声として認知され。

『トビコミタイトビコミタイトビコミタイトビコメトビコミタイトビコミタイ』

ぞろ、っと唇の形をした悪意が鼓膜へ流れ込んだ。
がちゃんっ、と思わず受話器を叩きつける。呪詛が皆葉の耳からぞわりと百足の様相をして忍び込み、言葉の脚をもってぞろぞろ耳孔を這い回る。
切れた電話線がふらりとデスクの下で揺れている。脳をぞわぞわ擽る声らを掴み千切るように耳を掻き、がりりと爪痕を頬に残して皆葉は呼吸を落ち着けた。手元に視線を落とす堤に気取られないように。
「どこかにつながるかと思ったんですが、電話のコードが切られてますね……」
「こっちは本があるだけだ」
「本? 時刻表とかですか?」
声が震えないように、話題をわざと反らす。恐怖を気取られないように、動揺を気取られないように。
「いやぁ…なんかそうじゃなさそうよ。はい。」
幸いにして、堤に皆葉の心臓の鼓動は聞こえていないらしかった。
手渡されたのはダニッチの怪、そう印刷されたおどろおどろしい表紙のハードカバー本。漢字にひとつひとつルビが振られた児童書は、最後のページに万年筆の文字が書かれている以外はなにひとつ変わったところはない。誰かから誰かへの贈り物といったところか、そう結論づける。
ハワード・フィリップ・ラブクラフト。ダークファンタジーと精神病理の申し子、架空神話の偉大なる父。近代神話ホラーの定義者。
ぱらりと目を通せば、なるほどホラーだと言わざるを得ない、ひどくおどろおどろしい恐怖を煽る執拗な文章。
「作者の名前に反して怖い内容ですか……」
薄目で見た、主人公が邪神の子を打ち滅ぼすシーン。ハッピーエンドで終わる珍しいホラーの最後は、村は平和になりました、で締めくくられている。
だが、本はどこまでも本だ。いくら物語の中で平和が戻ろうと、このじっとりとした空気が変わるわけもない。ぱたりと閉じたハードカバーから視線を上げると、堤の真剣な視線と目が合った。
「ところでつむちゃん」
ふ、と息が詰まる。
「はい?」
詰まった息を一声ぶんだけ押し出す。
「いつものノリに戻ったから聞くけどさ、机がどうかしたの?」
押し出した息は、そこで掻き消えた。
胸が詰まる。喉が閉まる。答えようとする声は出てこず、掠れた息がひゅうと鳴った。
「どう、もしてないですけど」
「嘘つくのへたくそだよね」
じじ、とフィラメントが焦げる音がする。辛うじて張り付けた薄膜の表情が剥がれ落ちそうになる。
「嘘なんてついてないですよ、ほら、早く次のところを探しましょうよ」
剥がれ落ちる前に逃げ出そうと、皆葉は早口で言う。逃げる口実を探して扉を開く。宙をさ迷った腕は、しかし逃げる前にぐっと強い力で掴まれた。
軽くよろける。引っ張られる腕に、焦る心に、不意をつかれた顔はただ前だけを見るしかできない。
「俺そんな頼りない?」
扉のガラス越しに、痩せた壮年男性の、ひどく乾いた熱と目が合う。反射する光でじっと皆葉を見つめている。
「まぁそれもそうか」
自嘲するように唇が歪む。ふ、と目元が寂しそうに眇められる。
「仕事しねぇで全部つむちゃんに任せる駄目おやじだしなぁ」
「そ、そんなことないですっ! ……ないんですが……」
勢いよく跳ね上げた顔は、しかし声と共に俯いていく。もうちょっとだけ時間をください、とぽそりと呟いた声が、ふたりきりの部屋に小さく響いた。
水面に一滴の水が落ちるように、堤の渇いた視線が外れる。ゆるりと睫毛が伏せられ、胸がかるく上下し、掴んだ指がほろりと解け、
「そう。ま、いいや! はいはいおしまい!」
ばしん、と代わりに背中に衝撃が走った。一気に解けた緊張感に皆葉もほっと息を吐く。
「堤さん」
小さく口の中で続けた言葉は、

「俺が堤さんを守るんで」俺みたいに死なないで。

聞こえていなくてもよかった。


***


「ここに書類が貼ってありますよ。さっきの都市伝説とちょっと似ている点がありませんか?」
小さな、小さな皆葉の声に気を取られたのも束の間。次の瞬間には、皆葉はいつもの調子で壁の掲示物を指さしていた。
「紡」
思わず口についた名前に、目の前の青年は律儀にはいと答える。
「……なんでもない。で、書類が何?」
「これですよこれ」
示された書類は7歳の少年の人身事故の報告書。靴を揃え、ホームの端から落ちた少年。ただの事故にしては違和感が拭えない書類は、しかしどこまでも淡々と事実だけを伝えている。
「なるほどねぇ。確かに似てることあるね」
「小さな子どもが転落したとして……靴を脱いで、しかも綺麗に揃えて、なんておかしいですよ」
かさついた紙を手に取る。まだ黄ばんでもいない、最近印字されたらしい画一的な文字の並び。人間の生死を報告するには軽すぎる数グラムのインクが、事故のあった事実を証明していた。
「おじさんねぇ見ちゃったんだよね」
ふ、と笑う。そういえば朝からあったのだ。駅に来る前から、聞こえていた。意識しようとしていなかっただけで、この事故に符合する異常はとっくに起きていた。
「今朝。揃えられたスニーカー。見間違いかもしんないけど」
「どこでですか? あれ、この駅にありました……?」
「駅着く前ね。でも一瞬で消えた。またいつものおかしな現象だろうな」
「そうだったんですか……」
「気にしたって仕方ないだろ」
「何事もないといいんですが」
「それにどんな怪奇現象があっても覆せないわけじゃないとおじさんは思ってるからね。色々あったし」
「そうですね、色々ありましたからね」
俯く皆葉をくしゃりと撫ぜる。ふたりでコンビを組んでからというものの、本当に色々なことがあった。事件に関わることも、そうでないことも。
今度こそふたりで出た駅員室の正面、電光掲示板はぴかぴかと異様に明るいオレンジ色を照らし、次の列車が来ることを知らせていた。

『次の電車は あの世行き 特急 26両 2つ扉』

もう、乾いた笑みすら出ない。起きる事象が、存在する全てが、怪異の悪意が、全て死を指している。ふたりへこちらへ来いと言って嗤っている。
「これまた物騒だねぇ」
空気が歪んでいるような心地さえする。直接的な手出しは何もないことがかえってきさらぎ駅にも似て不気味だった。
「このままおじさんと心中とかつむちゃんむくわれなさすぎておじさんが泣けてくる」
「堤さんと死ぬのは嫌なんで、生きて帰りましょう」
「いうよねぇ! こっちもお断りよぉ生きて帰んぞ」
「そうですねっ」
わざとらしい涙ぐむジェスチャーに、嫌だという言葉。自分たちを元気づけるための空元気だとわかっていて、それでもやらざるを得ないのは。
ひたひたと、抗えぬ死が近づいているせいかもしれない。

トイレにもまた、赤文字に割れた鏡。お化け屋敷めいたホラー演出が出迎える。死を誘われた誰かの悲鳴が書き連ねられ、堤は顔を顰めるだけの結果に終わった。ここから出られなかった誰かの言葉だ。ここから出るための言葉ではない。
隣に立つ皆葉といえば、床をじっと見たまま、硬直した笑顔を貼り付けている。
何かを見ている。そうしてそれを誤魔化すようにぱっと顔を上げたと思えば、鏡の赤文字に興味を抱くフリをしている。
思えば、ずっとおかしかった。駅員室での冷や汗も、ひどく悲壮な覚悟の声も。
──俺が堤さんを守るんで
聞こえた、小さな声も。
「この文字……血、ですかね?」
皆葉が驚いた表情を無理矢理くっつけて鏡をしげしげ見る。その表情を見ていられなくなって、堤はおもむろに皆葉の襟首を掴んだ。
「え」
伸ばした手を避けることもなく、今度こそ真実の表情で目を見開く。
「いいか紡。よく聞け」
見開かれた大きなまなこが堤を真っ直ぐ見つめて、まなこの真ん中に厳しい顔をした堤自身が映っているのが見えた。
「さっきから一人で何考えてんのか知らんがもう全部筒抜けだ。お前は本当に嘘をつくのが下手で困るよな。まるで悪いことしてるみてぇな気分だ」
「な、」
視線が惑う。合わせ鏡がふいと逸らされて、嫌がるように下を向いた。
「俺は今から全部話す。全部話した上でそれを全部覆してやるからよく聞け。俺を信じないならそれでもいい。俺はお前を信じてる」
ぐ、っと襟首を掴む腕に力を籠める。目を反らしてもいい、ただこの信頼が伝えられるようにと語気を強める。正面から見つめた目が、吐息が、押し付けた腕が、近ければ近いほどその心臓に伝わると信じて。
ふる、と皆葉の睫毛が震えた。下を向いた瞼がぎゅうと強く閉じられる。だめか、と思った瞬間。ぱちんっとかわいらしい音がした。
「堤さん」
自分で自分の頬をぴしゃりと叩いたらしい、こどもめいたふくふくした手がもう二度、三度と自分に気合を入れていた。
「……俺、堤さんのこと信じてますから」
開いた黒の鏡が、再び堤を正面から見つめていた。
刑事の顔だ。事実を事実として受け入れ、真実を詳らかにするための。しゃんと伸びた背筋に、襟首を掴んだ手を離し、堤はひとつづつ話し始めた。
それは、都市伝説の続き。濁した言葉の続き。言えなかった続きの物語。
「あの都市伝説の続きはこうだ。都市伝説『トビコミタイ』について話を聞いた人間は次のターゲットになる。俺にこの話を教えたやつは三日前に投身自殺をはかって意識不明のまま入院してるらしい」
堤の記憶の中には、ベッドで眠る意識不明の青年の姿がある。夕暮れの中、逆光になってベッドの上はよく見えない。それでも、親しい人間がただこんこんと眠り続けている姿は得も言われぬ空虚があったと覚えている。
「このうわさが本当なら次に死ぬのは俺だな。そして俺はお前にこの都市伝説を話した。次のターゲットは紡、お前だ。おれはお前を殺すことになったわけだ。だが今までの経験からこれが覆らないなんてことはないと思っている」
一息に言う。皆葉は息を殺して、つらつらと流れる堤の言葉を聞いている。
「状況が状況だ。都市伝説どうのこうの言う前に全滅するかもしれねぇから全部言った。恨んでくれて構わない」
それで、
「お前は何を隠している?」
言い放った、問いへの答えは。

嗚咽だった。

正面から見る皆葉の目が大きく見開き、唇がわななく。す、っと音がするかのように白くなる頬が、彼の強い動揺をひどく表していた。
「あっ……あぁっ……!」
決意をもった瞳孔がぐらぐらと揺らぐ。絞り出した声が自らの脳を揺さぶり、小刻みに体を震わせているのがわかる。何かを知っている。皆葉の態度に確証が得られる。いや知っているだけではない、強い何かがそこにあった。
「紡。俺たちは警察だ」
ぐっと顔を近づける。冷たいタイルに彼の背中を押し付ける。わななく体を抑え込む。一言一言を刷り込むように、はっきりと言い放つ。
「覆せない窮地はねぇっつってんだろ」
恐怖よりも何よりも、ここにある信頼に目を向けられるように。
だがそれでも皆葉はただ震えているだけだった。かたかたと歯をうまく噛み合わせられない微かな音が聞こえてくる。
「堤さん」
逃げる肩を掴む。縋り付く指が堤のシャツに皺を作って、ぐしゃりと強く胸元へ寄せられた。
「おじさんになんでもいってみ」
吐息のように声を落とす。目の前のこどもを安心させるための優しい声が、暗いふたりっきりの空間にじわりと染みて落ちていった。
薄い唇が開く。閉じる。はくり、と空気だけを食んで、声にならない唇がもごりと動いて、たっぷり数分の時間をかけた逡巡の後にようやく皆葉は苦しい言葉を吐き出した。
「……それを、誰から聞いたのか……覚えていますか?」
それが何よりも苦しい事実だということは、正面から見たその表情でわかった。人が死ぬ噂。聞いたのであれば、話した誰かがいる。話した誰かは、数日前に飛び込み自殺を図って。
ふ、と。堤はそこまで考えて目を閉じた。茜色の病室には青年が寝ている。顔は影になって見えない。ネームプレートは夕日に反射して読み取れない。見舞いをしているのなら当然親しい間柄のはずだった。それでもその青年のことを、自分の知り合いだという自覚以外なんら思い出せない。薄青の靄がかかった記憶に、思い出せないという事実に、全てが理解できたような心地になって、口の端が薄っすらと引き上げられた。
「覚えてない……けどわかったって言ったほうが良いか?」
掴んだ肩を引き寄せる。
ぐ、と頭を逞しい後輩の胸に押し付けて、胸の奥から苦い息を吐露する。ほんの僅かな、弱った音。
「もうやなんだよそういうの。お前の口から聞かせてくれよ。安心させてくれ、頼む」
「なんで、なんでそんな優しくしてくれるんですか、なんで……堤さん」
俯き震える顔は、ゆっくり上げた堤の視線から逃げられずにいる。透明な球が皆葉の眦にぷっくり浮かんで、ひとつ、ふたつと深く呼吸をした。
つられて深くなる呼気の、そのゆっくりと吐き出していくねがいと共に。堤は力強い腕のまま相好を崩して見せた。
「おう、その顔その顔。ゆっくりでいいから話してみ」
ぐ、っと皆葉の瞼が強く閉じられ、開き、もう一度潰される。そうしてひどく不規則に、深く、大きく肩を揺らめかせたと思えば。もうその眦にはほんの少しの水気も残ってはいなかった。
「今から全部話します。……俺の事を許さないでください、恨んでください、もう優しくしないでください」
でも、絶対に俺が堤さん守るから。こわばった頬がそう動いて、堤はその悲愴なまでの決意に眉を寄せる。自分より一回りも年下のこどもに言わせているのだと思うと、腹の底で蛇が蠢く心地になった。
「な~んで勝手に決めちゃうかなぁ。よ~しお話してみ」
「俺は」
言葉を遮るように食いつくように、堤にそれ以上言わせないように。重ねて、俺は、と唇をもぞり動かす。
俺は。
「三日前に、飛び込んでるんですよ」
ぽつ、と。飲み込んだはずの雫が眦に一滴浮かんだ。
「俺はもう死んでるんです」
感情が形をとるのなら、それはきっと心臓からの湧き水だ。
「そして、堤さんに都市伝説の話をしたのも、ここに連れてきたのも」
は、っと息を切る。胸を押さえる。爪でぎりとシャツを掻きむしる。
「っ、俺なんですっ……! 全部、俺が悪いんですっ……!」
でなければ、こんなにも心臓が痛いわけがない。湧き出た水があふれそうになるわけがない。
蓮の葉を転がる雫のように、一度ころりと転がってしまえば。頬をいくつもいくつも水が伝って落ちていく。ぼろりと崩れた涙に、喉の奥からしゃくりあげる嗚咽に、打ち崩されるように皆葉の顔が歪む。口を引き下げ、耐えられなかった目尻からもぼたぼた感情があふれていく。
「だから、だからっ……」
ああぁ、と上げた声は最早悲鳴に近かった。
「よしよしよく言えましたぁ。最後に泣いちゃったのが惜しいなぁ」
ぼろぼろと落ちる涙はぬぐわずに、こどものまろい頭を老いた男の掌が撫でる。ざらついた指先が頬を滑り、肩を優しく叩き、そうしてことんとおでこ同士をくっつけた。おまじないにも似た仕草で。
「でもちょっと納得いかねーのおじさん」
低い体温が伝わってくる。目を伏せて、皆葉の耳に染み込ませるために一言一言を静かに、確かに言葉にする。
「俺に都市伝説を教えたやつは三日前に投身自殺をはかって意識不明のまま入院してる」
わかる?
「お前は死んでない」 「俺もまだ死んでない」
「死んで、ない」
オウム返しの言葉に、堤は額を離す。ぽかんとしたまんまるの目玉が中心に堤を映していた。
「知ったことすぐ教えたくなっちゃうのはつむちゃんのかわいいとこだからね。そりゃおじさんも絆されちゃうわけよ」
赦すも赦さないもない。そも、例え皆葉が噂を軽率に話したのが原因とはいえ、そこに悪意なんてひとかけらもないことは堤がよく知っていた。
頬を零れる涙の線を、人差し指でそっと拭ってやる。呆けたような大きな黒い飴玉の瞳から、最後の甘露がころりと転げ落ちた。
「誰が恨んでやるかよって話。一緒に出るぞ。ここから」
「一緒に、出れるんですか……?」
「そこで疑問形とか~! おれのこと信じてよ、紡」
手をとる。冷たい指だ。脈動のない掌だ。自分の熱を分け与えるようにぐっと包んだ掌で、堤ははっきり前を見た。
「……出ましょう!」
するり、堤の手から抜け出した指が、皆葉自身の頬をぱちんと叩く。そうして乱暴にごしごしと涙をぬぐうと、今度こそ皆葉はきちんと顔を上げる。
「こんなところで堤さんと一緒に死ぬなんて御免です!」
ふ、と微笑んだ堤の顔は、仕方ない子だとでも言うかのように「んな叩くと赤くなっちゃうでしょ」と柔らかく皆葉を見つめていた。
「堤さん」
「あいよ」
こつん、と拳を合わせる。俯いていた皆葉の目には、クレヨンで描かれた電車と轢死体と、階段を指す矢印が映っている。
「これ終わったら映画と宅飲みもしましょうね」
クレヨンの轢死体を靴底で擦る。踏み出したのは、階段を上がるためだった。


 ***


かつん、
靴音が鳴る。
こつん。
つま先から、踵へ。
かつん……。
ふたりで歩く、音がする。
蛍光灯さえ死に絶えた階段を上がる。記憶が確かなら今はお昼で、太陽が晴れ晴れと空に輝いている時間だというのに。
目の前に見えたのは、闇。
空はただ暗く、それどころか真っ赤な血染めの満月らしきものが屋根の隙間にあり、ぽつりぽつりと立った電灯の真下くらいしかまともな灯りはない。
放射線状に広がる灯りの下に立てば、その身を焦がす火取り虫のひさひさとした羽が、ぱちりと灯りにぶつかって爆ぜるのが見えた。
ホームドアすらない、だだっぴろいホームの向こうには、どこまでも続く線路がある。気が狂いそうなほどに長い、長い、闇の奥からやってきて目の前を通りまた闇の向こうへと続いていく鉄のレール。
言葉さえ失う、ただただ人を押しつぶさんとする黒の中。
ざざ、と。スピーカーが擦れる音が。

『ピーん ぽーん パーン ポーン』
『マモナク、ホームに電車が参ります』
『危険デスノデ、靴を脱いで、黄色い線の外側マデ オススミクダサイ』

外側まで。ふと向けた視線の先には、ずらりと靴が並べられ。進んだ人間の末路を示しているかのように見える。
飛び込んだのだ、ここから。皆。子供の小さな靴、ハイヒール、革靴、スニーカー、ブーツ。それらに交じって、皆葉の視界に見覚えのある靴が飛び込んできた。
思わずひゅっと呑んだ息は堤には聞こえなかっただろうか。聞こえずにいてほしい。一番端に並んだ靴は、最後にトビコんだ靴は、皆葉自身のものだと。気が付かずにいてほしい。
ひゅう、と風が吹く。先頭の空き瓶に抑えられていた子供の絵がふたりを嘲るようにあおられて飛び、手を繋ぐ人間たちのクレヨン画が、ぽかりと空いた白い目玉が、こちらを見ているような気にさえさせた。
ちらと見た堤も声さえなく、いつものからかう調子も鳴りを潜め。ぐっと口を真一文字に結び。ただ前を見て、やってくる悪意と怪異に立ち向かおうと。いや、既に。
ふぅ、と吐息が聞こえる。
それは耳の後ろ、肩に手を置いているほどに近く。
はぁ、ふーっ……
湿った吐息が皆葉の横を通る。獲物をじっとり見つめる視線が、吐息が、首筋にねっとり吹きかかり。ただ硬直するしかできない。
通り過ぎるのを待つ、一瞬だった。

ぬう、

っと白い手が堤の頬に伸ばされる。両手を鉤爪型にまるめ、欲しい欲しいと欲しがる動きで頬を引っ掻く。
「────!」
声にならない声で皆葉は手を伸ばす。一瞬動きが遅れた堤が必死に逃げようと体を反転させて、白い手にがりりと頬を引っ掻かれながらもホームの内側へとよろける。
宙を掻いた手、バランスを崩した足、スーツの腕、ぎこちない動き。革靴。よれたスラックス、アイロンのきいていないシャツ、ぶら下がったネクタイ。
それを見た瞬間、皆葉はその場から逃げ出したい気持ちにさえなる。堤の目を塞ぎたい気分にすらなる。あれは自分だ。死んだ、自分自身の。
「トビ コ ミ タイ」
自分自身の──呪いだ。

プルルルルルルルルルルル、

ホームに電子音が鳴り響く。手を伸ばす自分自身から逃れようとする、その背後から全く別の存在が追って来る。肉だ。肉が、捏ねて伸ばされて団子になった肉、肉、肉、そのゼラチン質でぐちゃぐちゃに懲り固めたような皮膚さえない手が足が目が鼻が口が歯がてんでばらばらに生えた、ああそうだ轢死体を繋ぎ合わせて融解させて作った作り上げてしまった人間の、靴のない人間の脚が突き出た肉塊が皆葉を掴みあげた。

ピーーーーーーーー、っと甲高い警笛が耳に響く。こちらを見ている堤の表情が驚いて、伸ばそうとした手は虚空を掴んで。その裾をくっと引く顔色の悪い子供が、子供がいる。いつからいるのかわからないが、表情の見えない、小学校低学年くらいの、靴にマジックで名前が書かれた。
正田あつし、が。

「「「「「いっシょにトビコモウよおぉぉお」」」」」

ぐぱり、裂けるほどに開いた口から、うろのような皆葉を掴む肉から、ホームに設置されたスピーカーから、そして皆葉自身の口からも。
声が、声が、声が反響する。堤を掴んで離さない。あれが欲しいと皆が言う。次はあいつだ、追い込め、一緒に飛ぼう、仲間になろう、そうやって骨さえない手を伸ばし、伸ばし。

『……電車が到着しまス。電車ガ電車電車到着クククシマススス』

「……堤さんっ!」
ごう、と電車のヘッドライトが一直線にやってくる。迫る。迫る。形を持った死がやってくる。一瞬目を丸くして、ほんの数秒だけの猶予に唇を動かし。
「駄目だったらあの世で一緒に飲むかぁ」
堤は、自分の服を掴む子供を。振り払いホームから。
突き落とした。
「こういうことするのは俺だけでいい」
ぱぁーーーーーーーーーーーん、
がたがた音をたてる。びしゃ、っと血液が飛び散る。暗い視線の真ん前で何かが肉塊になった音。むっと鼻につく血の匂い。伸ばされた一瞬の、こどもの手。驚く表情。それらが無碍にも通過する電車によって粉々に、ばらばらにされ。
やがて電車が闇から闇へと通過した後には、元が何だったかもわからない赤い水溜まりがくちゅくちゅと線路から枕木へ滴りながら広がっていくだけだった。

ぐしゅ、と肉が崩れる。
死んだ皆葉の顔はもうどこにもなく、肉塊らも結合する力を失ったかのようにとろけ、ぼろぼろと落ちていく。同時に掴みあげられていた皆葉も支えを失い、ひゅ、っと落下し。
その下で両手を広げていた堤に向かって落ちた。
人間ひとりが落下する衝撃は恐ろしいものだ。こと、成人男性であれば元々調子のおもわしくない堤の腰がそのままごっきり言ってしまってもおかしくはない。
だというのに、受け止めた皆葉紡には思ったような衝撃はなく。
「……紡?」
一枚の羽よりも軽く、堤の腕の中に納まった。
あまりにも冷たい。そうして、軽い。まるでたった21グラムしか重さがないかのように彼は軽く、軽く。そうしてどこか諦めたかのような笑みを堤に向けていた。
「堤さん、やっぱり堤さんは……すごいですね」
握りしめても、抱きしめても。それは実感を伴わない。ふわふわとした存在を掴んでいる心地にさえなる。諦めたような言葉は、微笑みは、彼が今自分の遺言を残そうとしているのだということを察知するのには想像して余りあるほど。
叩こうと思っていた軽口は、自分を害する子供に向けた暗い目は、もう何もかもが霧散しきってしまった。
「待てよ! 一緒に帰るんだよ! ふざけんな!」
年甲斐もない。こんなに必死になって。一緒に帰ろうと堤は言う。だが、皆葉にはきっと無理なのだということがすっかりわかってしまった。だって見てください、もう指先から透けているんです。元々死んでいた皆葉紡という人間が、元の場所に帰るだけなんです。
言葉にはせずに、ただ抱きしめられた体温に微笑む。ごめんなさいも、さようならも、ふたりの間には似つかわしくない気がした。
13課に配属された。かったるそうな先輩に、それでも芯をぴんと持って立っている先輩に憧れて、一緒に走り抜けた。30にも満たない生だったけれど、最後の1年足らずを堤と共に歩けてよかったと思う。
だから、皆葉紡と堤航平の別れには。この言葉だけが必要だ。
じわりと感覚が消え失せていく、唇をゆるりと動かして。皆葉は堤を正面から見た。
「ありがとう、堤先輩」
薄い茶色の瞳孔に皆葉が映って、光の紡ぐ糸になって解けていく自分の体に安堵にも似た納得をして、そうしてぐしゃりと鏡面が揺らぐ。
「俺だけ帰っても意味ねぇだろ……!」
言葉は嗚咽になり、嗚咽は慟哭になり、ただひとりきりの狼の遠吠えがその場に響き渡る。群れをなくした獣の叫びを宥めるように、ふ、と皆葉は微笑んだ。
力は入らない。手があるのか、腕があるのかもわからない。それでも。
「大丈夫ですよ、もう終わりましたから」
抱きしめて、大きな子供をあやして、背中を優しく柔らかく叩いて。
それが最後だった。
ざ、っと風が通る。掻き抱いた腕に冷たい風が通り抜ける。たったそれだけで、もう腕の中には何もないのだと。誰もいないのだとわかり。
見上げた視界に、くるくる螺旋を描き紡がれる光の糸が空に零れて消えていった。


 ***


空が青い。
チャンネルが切り替わったかのように雑踏のざわめきが堤の耳に飛び込んできた。
鳥の声がする。ホームに電車が参ります、というなんの変哲もないアナウンスが流れる。
駅員が雑談しながら歩いている。煙草を吸うおじさんの煙が目に染みて、堤はその場で立ち上がった。
腕の中はとっくの昔に空っぽだった。
空は青い。世界はひどく平和で、噂話に恋話に会社の愚痴に花咲きこぼれるほどには平穏で、どうしようもなくくだらない。
眩しい。
スマホを見れば、時間は昼を回った頃。映画はとっくに始まって、チケットは無駄になったろう。
ぼう、っと画面に目を落とす。しばらくの間大人しく光っていたスマートフォンが光を失うまでそうして、それから堤はようやく歩き出す。
どこへ行くともない、ふらついた足取りの中。
ぴりりりり、と。スマホの着信音が鳴り響いた。
画面は見ない。
聞きたい声が聞けるかもしれないから。
聞けなかったとしても、ぎりぎりまで希望を抱いていたかったから。
「……もしもし」

──つつみさん、

『航平ちゃん? 俺俺』
聞こえてきた声は、わかりきっていた事実。一瞬の夢想をかき消す、同僚の安堂のもの。
『なんだ元気ないな? まあいいや、あのさ』
答える力も残っていない。ただ奴の声を右から左に流すだけのスピーカー。
『警察病院行ってきたんだけどさ。ほら、航平ちゃんとこの子犬くん。つむちゃんだっけ』
「ああ」
聞きたくない。聞きたくない。それでも今切るのはどうしたって不自然で、取り繕う気力すらなく、堤はただ音を流しっぱなしにして聞いていた。
『そんな声出すなって。あのさ、あいつ』
『*********』
その言葉を聞いた瞬間、堤はその場から駆け出していた。改札を抜ける。駅員に頭を下げて外へと飛び出す。日の強い午後のアスファルトを駆ける。心臓がばくばく音をたて、呼吸が大きく喉を通る。噴き出した汗がばたたっと黒い円を描き、後ろへ後ろへと置いて行かれた。
道路を曲がる。しばらく真っ直ぐ。次の三差路を左。横断歩道を渡って、カーブした歩道を道なりに。
走る、走る、駆ける。
警察病院の玄関に飛び込み、ぶつかりそうになる看護師に手を合わせて階段を駆け上がる。エレベーターなんて待っていられなかった。
長いリノリウムの廊下を蹴って、引き扉を開けて。
そうしてベッドから身を起こす──

「え!? ちょ、堤さっ……!」

皆葉紡に向かってトビコんだ。
勢いでふたりしてベッドに倒れ込む。ぜひゅー、と通る息が、体力の限界まで走ってきたことを告げ。しばらく堤は言葉もなく皆葉を抱きしめていた。
「今更起きやがって」
ひどく、あたたかい。ずしりと、重い。
それを何度も確かめるように、両腕に力を籠める。
皆葉もまた、驚きはしたものの
「……一緒に、帰ってきましたね」
天井を見て、そう呟いた。
「堤さん」
ぽん、と背中に手を添える。大きな赤子をあやすように、あの時別れにした続きのように。抱きしめられる手もそのままに。見合わせた目と目には互いが映る。合わせ鏡になった瞳には、ただ安堵で綻ぶ互いの顔があった。
はるの甘い香りがする。
陽射しの当たる窓辺はひどく暖かく、白いシーツが光を照り返して明るい。ふたりきりの病室で、堤の汗がぽたりとシーツに落ち。静かに上気する肌が赤らんで見えた。
あの冷たい駅で一度別れたのなら、こうやってはじめよう。

「ただいま。それと、おかえりなさい」
「ただいま。おはよう、紡」


special thanks:PL鯵さん*ふしこさん
鯵'sBOOTH:https://chattonella.booth.pm/

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