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ひとにころされた話/橙矢:座敷童

橙矢はただの子供だった。ただの死んだ子供だった。福をもたらしますようにと念じながら殺されて家の中心にでんと構えている大黒柱のすぐ傍にまだ微かにあたたかい体を埋められた、ただそれだけの子供だった。
殺されたばかりの意識はふらふらと中空を漂って、父親のぶくぶく太った胴体がせっせと土を掘っているのを眺めている。なにをしているのかわからない。何故死んでいるのかもわからない。子供は八つまでは神様の子供だから、神様にとられないように大事に大事にするのだと母が言っていたことが思い起こされる。自分の齢を指折り数えてみた。ひと、ふた、みぃ、よ……ぴったりやっつ。自分は神様にとられてしまったのだなあ、とぼんやり感じた。
とうさま、と呼んでみる。声は届かないのか振り向きもしない。
柱のすぐ傍の床板を引っぺがして、鍬だとか鋤だとか一度だって握ったことのない道具を持ち出して夢中で土を掘り返している。
どうしたのかなあと畳の縁からのぞき込む。やたらと装飾に金をかけたこの家は、珍しく部屋の全部を畳敷きにして、きらきら輝くしろがねだとかくがねだとかの細工物を有難そうに飾っている。それを見るたんびに橙矢はなんであんなものあるのかなあと不思議に思っていたものだが、それも今となってはどうでもよいことだった。
ざくざく音がする。たった一人でそこそこの大きさの穴を掘りあげた男は、額に落ちた脂汗を拭って鍬をごろりと手放した。
それからいそいそと体の脇に置いておいた布袋に手をかけて、中身をぼとりと穴の中に落とした。
あっ、と声をあげる。その声すらも男にはこれっぽっちも聞こえてはいない様子だったが。
瞼を固く閉じて胎児がするように小さく体を丸めた体は間違いなく自分だ。こんなに小さかったっけなあと首を傾げながらそれを見る。男は死んだばかりのぐんにゃりとした血袋を抱えて、先ほど掘ったばかりの穴にその遺骸を投げ入れた。墓を作るのだろうか。こんな床の下に。
ひょいとのぞき込んでみる。自分の死体が埋められていく。ざくりざくり。着物を着たままで。生白い腕に足にくろぐろとした土が被さっていく。ひとつひとつ埋められていくたびに、なんだかこの場所に縫いとめられてしまうような気がして橙矢は自らの肩をそっと撫でた。
ざくりざくり。ざくりざくり。
脂汗をふうふう流しながら男が子供の亡骸を埋めていく。それをじっと見ている。青白い頬に土くれが引っかかる。ひやりとする地面の温度が肌に触れた。瞼を閉じてすっかりされるがままになっている自分の顎がくっと上を向くと青紫色の痣が喉をぐるりと取り囲んでいるのが見えて、自分はどうして死んだのだっけなあというくだらないことを考えた。
埋葬されていく。橙矢が埋葬されていく。地面に埋まった手足は持ち上げるのも重苦しく、頭まですっかり土をかぶせられてしまったので呼吸もままならない。そういう死骸の目の前で、男は念仏でも唱えるみたいに同じことを繰り返していた。
「どうか儂を恨まないでおくれどうか家に祟らないでおくれ代わりに福をもたらしておくれ金を呼び込んでおくれ」
ふぅん、と橙矢は思う。自分は死んだのだけれども、どうにもここから出れそうにないのだけれども、祟ることや恨むのことの代わりに福を呼び込むらしい。どうやってそれを為すのかはさっぱりわからないが、大事そうに飾られている金銀細工を見ていたらさして難しいことでもないような気がしたのだった。

それから何年経ったのかはよくわからない。死んだ身というのは思いのほか自由で、腹も減らなければ眠くもならない。あんまり暇だったものだから座敷で鞠をついていたら奉公人からえらく怖がられてしまったのでもう止めようと思う。よく可愛がってくれていた年嵩の下男が心臓でも止めかねない形相で自分を見るのにはこたえてしまったもので。
日が昇る。沈む。昇る。そればっかりが過ぎていくと、自分が死んで床下でぐずぐず腐っていったのがいつだったのかも判然としなくなっていく。
屋敷で一番太い梁の上で足をぶらぶらさせながらただひたすらに恐ろしいほどの死せる日々を過ごしていく。晦日の騒がしさが十二を数え、ようやく同じ季節が巡ってきた頃には日が昇る回数を数えるのにもすっかり飽き飽きしてしまっていた。
あのぶくぶくと肥った男は自分のことなどすっかり忘れてしまったようにあくせく金を集めて、それで龍だとか鳳凰だとかの金細工を作らせて、ひとつひとつ自室の飾り棚に並べては満足そうにぶよぶよとした腹を揺すっている。そうして時折自分の部屋からこそこそと夜中に出ていってはあの大黒柱の前にじっと端坐をして橙矢を見張るようにぶつぶつと何か唱えるのだった。
橙矢はなんにもしていない。それは確かに言えることで、ここにいるだけで福を呼ぶというのも半信半疑だ。
そうこうしているうちにずいぶんと時間が経っていく。どれくらいかはさっぱりわからない。ただぶくぶくとした腹が病か何かだろう、だんだんだん痩せ細っていくのを見るうちに、黒々とした髷に白髪がぽつぽつ見え始めるのを知るうちに、それだけの年数は経ているのだという夢うつつな実感を得るのみ。
脂肪を蓄え富の証としていた体はゆっくりと老いて皺だらけ骨ばかりになっていく。歩くのが難儀だと言いはじめ、次第に寝床から起きる時間が短くなり、ついには寝床から出てこなくなる。頑強だった父の命の火が消えるのが目に見えてわかるようだ。
橙矢はそれを梁の上からずっと見ていた。もうすぐ死ぬのだなあ、死んだらどうなるのだろうなあ、そういう詮無いことを考えながら明るく暗くなる日々に意識を漂わせる。
この家で人が死ぬのは自分以来初めてのことだったので、橙矢は不謹慎ながらもふわふわとした気持ちを両の掌で上手に包んで仕舞い込んでいた。野良猫の怪訝なものを見る視線以外何もない退屈の日々。猫さえ死ぬ退屈も橙矢は殺さない。変わらずあの床下の冷たい地面にまどろんでいる。
父親が寝込んでちょうど五十日目に、家の中が突然騒がしくなった。まず番頭がけたたましい声を上げ、次いで帳場の下男らが口々に何か言い合っている。最後は下女やら橙矢の兄弟やらも起きだしてそれに加わり、小石でもぶちまけたかのように皆してぎゃあぎゃあやりはじめた。誰もが青い顔をしておる。何かとんでもないことがあったことだけは明白だ。そういえば今日でちょうど五十日。橙矢はそれだけは日が昇るのを忘れぬよう数えておったので、ようやく何かが変わるのかもしれないと僅かな期待を持ちながら父親の寝所をそろりと覗きこんだ。真新しい畳と、その上に薄い綿を入れた布団を敷いて、衾を被って眼を閉じておる。死んでいるわけではなさそうで、橙矢はなあんだと首を傾げた。ではあの騒ぎは何であろうか。
しばらくすると廊下の奥からどたどた足音をさせながら男が歩いてくる。でっぷりとした腹は父から譲り受けたのだろう、橙矢の一番上の兄だった。
顔色は蒼白を通り越して紙のようである。唇もかさついて白い。そうして橙矢がそうっと中を窺い見ていた隙間に遠慮なく指をかけると、失礼の声もなく一気に開け放ち、老いた父が眠る布団の枕元へ近よった。
何を話しているのだろうか。声は小さく聞き取れない。ただ話しているうちに寝たきりで瞼さえ閉ざしていた老人が起き上がり、わなわなと唇を震わせだした。
「みぃんなか」
こっくり兄が頷く。ぶよぶよの顎肉を意気消沈したように揺らして。
「みぃんなか……」
兄が退室しようとする隙間を縫って、橙矢は父親の寝所に滑り込んだ。何が起きているのかはさっぱりわからないが、ひどく不安になってくる。ぶつぶつと何事か呟いている男の口元に耳を寄せてみる。
「のうなってしもうた」
「儂が集めに集めたものぜんぶ」
「彼奴が盗んで逃げていった」
「目をかけてやっておったのに恩知らずが」
「下男の分際で恩知らずが」
下男の誰かが何かを盗んで逃げた。父親の口振りからそれを読み取って、橙矢は部屋の中を見回した。なくなったもの、あっただろうか。広い寝所で何かもわからないそれらを探すのはとても骨が折れるものかとも思ったが、存外それはあっけなく見つかった。
座敷の奥、一番目立つ場所にあった金細工の龍が影も形もなくなっている。その横にある楽茶碗には見向きもせず、部屋のあちらこちらに置いてあった金や銀の細工物全てが一つ残らずなくなっていた。
金目のものを奪え。蓄えた財を奪え。それだけの安直で切羽詰まった思考が伺い知れて、橙矢はなんとも言えぬ心を持て余した。そんなにも金を欲してなんとするのだろう。
橙矢にはわからない。足るを知って生き、不足すら持ちえぬ死を過ごしてきた橙矢には飢えの恐ろしさがわからない。やわらかい裸足の裏で畳の上をぺたぺたと歩き、数日ぶりかに布団から起き上がった父親にもう一度近づいた。口が細かに動いている。口腔でぶつぶつと呟いていた声をぷっつり切るとがりがりに痩せこけ皺だらけの瞼を瞑って、次の瞬間かっと目玉を見開いた。
「橙矢ぁ」
どろり、松脂を煮詰めたようなおぞましい声が橙矢のすぐ傍から聞こえて、橙矢は初めてこの死にかけの老人が心底恐ろしいとその場から飛び退いた。
「なんで家から金が逃げたぁ」
家のどこにもこの男が自慢していた金銀の細工はない。なんでもなにも下男の一人が盗み出して逃げたのだというそれっきりしか橙矢は知らない。知っていたとして橙矢がどうしてそれを止められようか。姿も見えず声も届かぬただ梁の上にいるだけの自分に何ができたとも思えない。しかし老いた男は血走った眼で橙矢を探すようにあちらこちらに視線を遣る。一瞬だけかちあった目が橙矢をしっかと捕えたように見えて、橙矢はその場からほんの少しも動けなくなる。
「橙矢ぁ」
何年も前に死んだ我が子の名を呼ぶ。絶対にそこにいるんだと確信した声だ。窪んだ眼窩に目玉だけが嵌っている。それが橙矢の方をじいっと見ている。見えていないものを見ている。
「つとめを果たさんかぁ」
ひぃっ、喉がしゃくりあげて声が出る。誰にも聞こえない声だ。誰にもわかってもらえない声だ。がりがりにこけた頬でたるんだ皮をぶら下げた腕で地獄絵図の餓鬼さながらに怨嗟を吐く。吐く。ぎょろりと目玉が部屋中を睨め回して、黄ばんで歯のぬけた口が肺から声を垂れ流した。
「橙矢ぁあ」
弱った足腰を引きずるように布団から骨だけの腕が突き出された。犬か猫か。獣じみた動きで胴体がずるりと引っ張られる。小枝のような指が正確に橙矢に向かって伸ばされて、虚空を掴まんとわなないた。
べたり、宙をすかした手が畳に落ちる。その畳を割れて不健康な色をした爪が掴んで握って、畳表をささくれさせるほどの力で爪をたてた。ぎぎぎ音がする。真新しい草色が人の爪の形に剥がれて赤錆色の中身をむき出しにした。
這う。人の形をしただけの何かが目だけぎらぎらとさせながら畳に細い手を打ち付けて這いずる。
逃れようと空しく畳を蹴る幼子は、それでもなんとか手を床について開け放しだった襖から逃げ出した。と、た、たん。板張りの床に音がする。ないはずの足音がやたら大きく響いてびくりと体を竦める。おそるおそる後ろを向けば、骨ばった腕が板の継ぎ目にすら爪をかけ、骸骨に皮を張り付けただけの頭を廊下に出そうともがいていた。
もはやその様相は獣と呼ぶのもおこがましい。蟲だ。巨大な虫が死にかけの体を引き摺っている。逃げなければ。本能的にそう悟って、こけつころびつしながら橙矢は走り出した。足音がする。床板の上を橙矢が走る音がする。それに耳を澄ませるようにおそろしい眼がぎょろぎょろと辺りを見回しているのに気付かないまま、橙矢はその場から逃げおおせた。
恐ろしい恐ろしい。明り取りの窓もない奥まった部屋の前は無暗に暗くて薄ぼんやりとした明暗が辛うじて暗い床と白い壁とを分けていた。一つ目の角を右に。それからしばらく真直ぐ。左手に現れる小さな木の扉をそっと開けて納戸に滑り込む。埃っぽい長持に足跡もつけず飛び越えて、天井裏へ繋がる小さな階段を駆け上がる。そうして家の真ん中に渡された大きな梁に飛び乗ると、そこでようやく安心したように大きな溜息を吐いた。
とうやぁ、と言う粘ついた声が鼓膜にまだ残っている。あれが血を分けた父親だということが信じられなくなって、途端に死にかけた男があのまま絶命することに恐怖を覚えた。
かたかた震える肩を抱く。掌で腕をごし、と擦ると震えも少しはましになったようだ。
とうやぁ、とぉうやぁ……
びくり、背を伸ばす。今度は幻聴でもなんでもなく、確かに耳を打つ音だ。
おそるおそる下を見る。太い梁でもって体を隠しながらそうっと頭だけを覗かせてみた。
べたり、掌が板張りの廊下を叩く音。ずるり、上等な着物を引っ掛けただけの胴体が引きずられる音。枯れ木の枝より細くなった足はほんの少しも動くことなく、針金虫に食われる蟷螂よりもひどい動きでひたすらに冷たい廊下を這っている。落ち窪んだ眼をぎょろぎょろさせ、餓鬼か何かと見紛う体を両の腕でもって引き摺るのは十数年前のでっぷり肥えた富の象徴からは考えもつかない。
一歩一歩、確実に男は前を見る。常人よりずっと低い視界をもってほんの少しでもと前を向く。その行先に思い当たるふしを見受け、橙矢はさっと顔色を白くさせた。
「やめて」
薄い唇がわななく。今日という日まで橙矢を包んでいた死の薄膜が、あの男が一歩進む毎にほろほろ剥がれ落ちていく。
「やだぁ」
ぎぃし軋む。一歩。べたりと手を突く。また一歩。
「とうさま」
家の中心。大黒柱の真横。痩せ細った男はそこで体を持ち上げると上手く足を広げて動かない体を座らせた。大きく見開かれた瞳孔がぎらぎらとした光を湛えている。と、男はおもむろに両手を大黒柱の根本に突き刺した。橙矢はもう声も出せず梁の上でまんまるの目を見開いている。
めぎり、音がして無理矢理床板が剥がされていく。血走った目玉。閉じることも忘れ涎を垂らす口。割れてみすぼらしい爪。いっそ血が滲むほどに力の込められた両の手。それらのどれにも頓着することなく、男は一心不乱に板を剥ぐ。あまりの力に板が割れ、ささくれが皮膚を裂いても。たわんだ背をもっと小さく折り曲げて、腕も掌も全部使って。
そうしてようやく露出した地肌に、待ち望んでいたとばかりに男はその身を投げ出した。
大人の腰ほどの深さがある床下はじっとりと湿っている。白っぽい体躯の母蜘蛛がこそこそとか細い脚を動かして男から逃げる。苔などはほんのひとつまみも生えてはおらず、湿った土と腐った露の匂いがその一角に満ちている。
たすけて、知らず口が動く。たすけて。若苗色の瞳は愕然として男を見つめるしかできない。
地面に横たわる鍬を男が手に取る。十何年も放置されていたせいで錆びてぼろぼろ、柄は腐り落ちて、元の面影などどこにもない。ただの鉄板と化したそれを思い切り振り上げる。
「だめえっ」
反射のように叫んだ声。誰の耳にも届かないはずのそれに、しかし男はバネ仕掛けの人形よろしくぐるりと目をひん剥いた。
地の底から真ん丸に見開いた目玉が梁の上の橙矢を見る。見つける。眦が裂けるほどに見開かれた目は真円。二つの目玉だけが真っ暗な地の底で爛々と輝く。
もうこれは人間じゃない。怪異だ。
人の形をしただけの何かは、ぼろぼろになった歯と歯茎を剥き出しにして、

笑った。

ぶっつり。振り下ろされた鍬の穂先が柔らかい土に突き刺さる。掘り返された地面がぼろりと崩れた。
もう一度。もう一度。もう一度。ざくり、ざくり。土を掘り返す。掘り返す。何度も何度も鉄の切れ端を突き立てては掘り返す。げらげらと、げらげらと笑いながら。
くろぐろとした地面に、唐突に白っぽいものが現れる。米粒より白く青磁より黒ずんで、土の黒さに塗れながら横たわっている。鞠より大きな丸。真上を向いた二つの空洞。土という虚空を食んだすかすかの体が薄汚れたぼろきれを辛うじて引っ掛けている。
男の笑みが、更に深まった。
梁の上にいる橙矢に見せつけるように笑う。皮しかない皺だらけの顔を左右に引っ張って、口が裂けるほどに醜悪な表情を浮かべた。手にした穂先に力を込めて。今にも息を引き取る病身の身とは思えないほどの凄味をもって。刃を頭上に掲げた。
「殺さないでえぇぇぇええええぇぇぇえ」
ごきり、錆びた鍬が叫ぶ子供の白い首元を貫いた。
衝撃に崩れ落ちるように梁の上の子供の頭が揺れて、そのままふらと傾いで落ちる。ぐしゃり、ぐちゃり。落ちながら断続的に聞こえる音に目を遣る。白い骨片が土に交じって跳ねた。骨と皮ばかりになったおぞましい男の頭が静かに見えなくなって、振り上げる枯れ枝の腕さえ床板に消えて、その間にも胸は潰れて頭は割られて肩は砕かれて。梁の子供はごとんと頭から床に落ちた。潰れた人形のように声すら失くしながら。
剥がれた床の間際に視線を遣る。何度も何度も振り上げては潰す男の手で白い芯を晒した橙矢が壊されていく。ぼきりと音がすれば大腿の、太い骨が真っ二つに割れて裂けてすかすかの中身を晒している。それを何度も何度も執拗に砕くと、もう橙矢は自分の足がどこにもない気がしている。
喉もそうだ。ひゅー、とか細い空気しか通さない喉は砕けて割れて、もう頭蓋すら支えられない。その頭蓋も半分は形をなくして、やわらかい肌をよれさせて目玉を頭蓋の奥に飲み込んでいる。支えがなくなりぺちゃりと潰れた半身は床に投げ出されるままになっていた。
殺されていく。殺されていく。
役立たずの子供が殺されていく。お前は用済みだと捨てられていく。鈍い痛みに瞼が落ちるのを止められず、橙矢は静かにその場に横たわった。
半分だけの視界に誰かが慌てて走ってくるのが見える。廊下をどしどし蹴って、親父殿と叫んでいる。
何度も鉄片を振り上げ振り下ろす男の狂気のさまに一瞬たじろぐも、何をなさっているのかとますます大きな声を張り上げようと、
「にいさま」
聞こえた一言にふくよかな腹の男の目が、大きく見開かれた。いつの間にか死んだ子供の姿でも見てしまったかのように一歩下がって、そんな馬鹿なと目を逸らしたついでに痩身の男が何度も何度もぼろぼろの衣を纏った遺骨に鍬を振り下ろしているのを見て、歌舞伎役者でも今時やらないほどに口の両端をくっと下げて引き結んだ。
骨と皮ばかりの男は楽しげに笑う。我が子がまだおるではないかと笑って、重い鉄の切れを砕けて土ともつかなくなった遺骨の上にぼとりと落とした。そうして今にも折れそうな腕を天に伸ばして、足先から口腔まで真直ぐなうろを抱えた樹木のようになった姿ですかすかになった歯の隙間から呪いにも似た声を吐き出した。
「儂が、儂がの、作ったものはみぃんなお前にやろう」
みんな。この何十坪もある広大な商家であるとか、その昔に土豪と呼ばれていたようなこの家の名声であるとか。奪われはしたもののまだ莫大である富だとか。それらを全てくれてやると死に瀕しながらもまだ奥底に残る命の目が言う。
「そこな童もな」
とっくに命を失くし息もせず生きもせぬ子供を枯れ枝の指がしっかと指して言う。
「儂が作ったものだ」
最早我が子とはこれっぽっちも思っていない幽鬼の表情で口をはくはく動かす。しゃがれた声だけがこの場で命あるものだった。
「儂が作った、座敷童子よ」
その言葉を最後に橙矢の意識は途切れた。暗くなりゆく視界に老木の男が崩れ落ちていくのを横目で見ながら、ああこれでお終いなのだなと理解して。
尽きた。


真暗な夢に記憶が揺蕩う。ゆらゆら、ふらふら。橙矢がまだ五つとか六つとか、そこらの時分。
裸足の肌に触れる枯れた草木。乾いた風が橙矢の赤みかかったくせっ毛をびょうと揺らして、枯草と熟れすぎた果実の甘い香りを運んだ。風上に、山の奥に。向かってさくさく子供は地面を踏む。大きな嘴を開いて烏がカァ、と鳴いた。天辺が細くなった真直ぐな木の枝で一度だけ羽を広げてばたばたやる。そうして、カァと。
子供の誰もがやる遊び。誰が山の天辺まで行って一番多く果実やら山菜やらを持って帰ってこれるか。橙矢も兄達とよく山に入っては誰よりも果物をとって帰ったのだ。どうしてか橙矢はそういうものを見つけるのが得意で、よく近所の子らと分け合ってあけびやら山桃やらを頬張っていた。お前は運の良い子だねと何度言われたか知らない。
ある時に誰かが言った。果物や茸や山菜ばっかりじゃつまんない。月をとれた奴が一等だと。それはいつも競争に負けていた奴の苦し紛れな言葉だったのかもしれないし、本当にとれると信じ込んでいた誰かの声だったのかもしれない。どちらにせよその言葉は橙矢にはひどくきらきらしく聞こえた。空の天辺にぽっかり浮いた月を取れたら確かに一等だろう。太陽はどうしたって火の塊だから無理だけど、月ならきっと取れるだろう。
大人に言えば強く窘められるだろうことは簡単に想像がついて、利口な子供らは誰ともなく口を噤んだ。それが余計にいけなかったのだろう。子供らは誰もが利口であったから、本当に月を取りに行こうなんて思ってもいなかったのだ。
そうして子供らは愚昧でもあったから、たった五歳の幼子の心に月を取るなんて空想がきらきらと居座るなんて誰も思ってはいなかったのだ。
カァ。先ほどとは違う烏がどこからか飛んできて、橙矢の頭上でカァと羽ばたく。濁った声だ。
西日はだんだんと山の端を紫に染めていっている。さくり、道を行くごとにすすきの穂が首を垂れた。山の天辺よりもう少し高いところに白く煤けた月が見える。山の天辺へ天辺へ。お月様を取りに。
枯れてしわりと萎んだ蔦を掴んで険しい山道をよいしょと昇る。田舎の小僧っこにこんなことはお手の物だ。生きた草を踏んで、赤い実を千切り、橙矢はもっと奥へもっと天辺へと歩いていく。じくじく沈んでいく夕陽を横目に、いつ終わるとも知れない道程をひたすらに。
夜はおそろしい。物の怪が出る、獣が出る。どうか陽が沈んでしまいませんように。僕がお月様に手を伸ばすまで沈んでしまいませんように。
滲む陽は、しかしあっさりと死を迎えた。
さっと辺りが色を変えていく。夜の薄絹が一秒ごとに一枚づつかかっていくようで、瞬きひとつの間に辺りはだんだん暗さを増していく。この時になって初めて、橙矢はどうしようと泣きべそをかきはじめた。おそろしい。おそろしい。一寸先の闇がじっとこちらを見つめておる。右も左も前も後ろもどころか上にも下にも何かが潜んでおるような気がして、カァ、と鳴く烏の声にさえびくりと首を竦める。
帰り道もわからなくなった暗がりに、周囲の全てがざわめいておそろしくて夜に怯える心がひょっと表に顔を出した頃に、こそりと音がした。
獣だ、咄嗟に身を固くする。かさこそ枯れた下草を掻き分けて歩く音がする。静かな夜は遠くの音もよく届いた。こちらの居所がわからないようにと小さく身を縮めて、草むらの中に潜もうとする。自分の吐息ばかりがくぐもって耳に届いた。
びょうびょう吹く風に梢がざわめく。それにすら静かにして、と願いながら橙矢は小さく小さくなって聞こえる足音に耳を澄ました。
「おい」
だものだから、突然の声に橙矢は心臓を竦み上がらせた。
「ひゃいっ!?」
思わず立ち上がって辺りを見回す。山師でもいるのだろうか。しゃがれた男性的な声はどこからどう聞いても獣のそれとは程遠く、しかし人の姿などどこにもない。
金細工の光を放つ月が煌々と光を放って、樹木の影を黒々と見せている。こそりとも気配のしなくなった繁みがかえって不安をかきたて、薄藍の闇は静まり返っているだけだ。
「小僧、ここに何用か」
再び声が聞こえた。どうも頭の上から聞こえたような気がして、橙矢は首をぐうっと反りかえして木々の影しか見えないはずの空を見上げた。
真暗。
と思えば、その真暗な表面がぞるりとざわめいていかにも生きもののように脈打った。
「わ」
のっぺりとした黒かと思った天井が、濃く薄く陰影をつけながら下りてくる。ふさふさとしたそれはまるで動物の毛皮だ。
視界の遠くでそれは曲線を描きながら途切れて、真っ赤な月が橙矢を見下ろしていた。薄青い闇に爛々と燃える真っ赤な月。月って二つあるものだっけ。手も届かない遠くにある金細工の月と、すぐ傍で燃える赤月の灯り。
手を伸ばす。さふり、少し硬い毛並みが指先を擽って、くるると軽く鳴った。
「触るな。むず痒い」
やはり頭上から声がする。うぞうぞと蠢くこれが喋っているのは明白で、ただあまりに巨大すぎるこれが何なのかさっぱりわからない。月ほどに巨大な円はきっと目玉だろう。真っ赤な目玉。それが毛玉の塊の端っこにくっついて橙矢を見下ろしている。わけがわからない。
「おい、小僧」
どこから出ているのかもさっぱりわからない声が重苦しく耳を撫でて、なんだか泣きそうになってくる。
「何の用だと問うた」
ざらざらした声が耳朶を舐める。月の浅はかな光が一瞬ぎらりと目玉の下に生えそろった白い獣の牙を照らして、ついに橙矢の鶯色の目玉から涙がほろりと零れだした。
「ぼ、ぼく……っ」
しゃくりあげる。胸の奥が引き攣れて痛い。空気が上手く飲み込めなくなって、吐き出そうとするついでにまたぼろぼろりと大粒の涙が袖を汚した。
「っく、だってっ」
しゃっくりの合間に出る言葉は意味を成さず、答えにもならない。それでも一度堰を切った涙は体の奥から湧き出よう湧き出ようと押し合いへしあいしながら零れ落ちていく。透明な粒ばかりいくつもいくつも。
それに慌てたのは異形の獣の方だった。
先ほどまでの威厳はどこへやら、突然泣き出した子供にどうしたらいいかおろおろと辺りを見回すと、ようやく自分の体躯の巨大さ恐ろしさに気が付いたようで、すまないと一言告げるとたちまちのうちに小さく小さくその身を屈めた。
「すまん、泣かせるつもりじゃなかったんだ」
涙に霞む視界にあったのは、もう異形の巨躯などではなく、見知らぬ少年だけであった。
ぱちり、瞬く。まだしゃっくりが止まらないまま、ほたほた涙を流すままに、どこの誰とも知らぬ少年を見上げる。橙矢より随分年上に見える彼は、濃紫の髪を短く切って、真っ赤な瞳を木々の暗がりに浮かべていた。
「さっ、さっきのっ、ひと?」
ひっくひっくと上擦る喉からようやく言葉を絞り出して問う。毛むくじゃらの体躯は人とは到底思えない容姿だったが、それでも五歳児の言葉では他に何と言いようもない。
それにさほどの違和感を感じることもなく、少年は然うだと頷く。浅黒い掌が降ってくるのに体をびくりと竦ませるも、泣くなと優しげに髪を撫でられてはますます涙は止まらなくなった。
「……泣くな。困る」
幼子の大きな目玉からころころころころ涙が溢れている。泣くなと言いながらもどうしたらいいのかさっぱりわからない様子で、赤眼の少年はこどもと視線を合わせてゆっくりゆっくりその背を撫ぜた。
山中は思ったより、ひっそりとしている。背を撫でる人の手が温かい。自分の中に響いていた泣き声がだんだんと静かになっていくと、梢の擦れる微かな音も意識に入ってくるようになった。りりん、りりりん。甘い虫の声がする。ほたほた地面に落ちる水の粒は一瞬だけぷっくりと表面を丸くして染みて消える。
ややあって、ようやくしゃっくりも収まったらしい。すぅ、はぁ。深呼吸を何度か。そうしながら一音一音、丁寧に子供は言葉を吐き出した。
「ぼく、お月様、取りにきたんです」
目を涙でしとどに濡らして、擦って赤くなったまんまるほっぺで、橙矢は自分の真ん前で膝をつく少年に訴えかけた。
月は二人の真上でうつくしく佇んでいる。つきか、と少年が首を傾げる。真ん丸ではないが、半分よりはふっくらとしたふくよかな月。山の天辺まで行けばきっと月に届くと確かに信ずる幼子を諭すように少年は優しく首を振った。
「月はやれん。あれは一つしかない……そうだな、代わりに星をやろう」
そう言った少年は跪いたまま手を天に翳す。固くなった掌を大きく左から右へ。そうするだけで彼の手が動いた後には夜空にさんざめく光がなんにもなくなって、わあっと橙矢は歓声をあげた。下ろした少年の手は何かを握りこむ形に閉ざされていて、それが宝物を掬い取った形なのだということがなんとなくわかった。
大きな手がそろそろと開かれる。見事な月の下で、きらきら輝く白っぽい粒がしゃらり音をたてた。
「コンフェトだ」
「こんぺと?」
こんぺと、と呼ばれたそれをひとつ、貰う。掌の上で小さく冷たくなった星は、地上では生きていけないもののようにほんの少しも身動きしない。
瞬きもせず掌を見つめる橙矢に何を思ったのか、ふと少年の手がもう一つこんぺとを抓んだ。
「ほら、あーん」
星の粒を差し出され、慌てて口を開ける。雛鳥みたい。銀の星を舌の上に落とされると目もくらむほどの甘さが溶けて広がって儚く消えた。
「あまい」
甘葛とは比べものにならない甘さだ。ぱちぱち目を瞬かせて、空から掬い取った銀飾りを見つめる。これはきっと天の神様の食べ物だ。
「……かみさまなの?」
こんなことできるのは神様としか思えない。だって橙矢の知る誰もが夜空の星を取ってきらきらした砂糖菓子にするなんてことできやしないのだもの。
少年は真っ赤な目玉をぱちぱちとさせて、それからてらいなく頷いた。うん、まあ、そうだな、くらいの自然さで。
それから懐をごそごそやると、綺麗な端切れでできた巾着袋を取り出して、片手に握ってたこんぺとをしゃらしゃら音をさせながら閉じ込めてしまった。そうしてその巾着を橙矢に持たせると、行こうか、と片手を差し出した。
どこへ行くのだろうか。神様が行くところだから、やっぱり神様の国だろうか。ぼんやりその手を取ると、思ったより強い力に橙矢はぱちり、と瞬いた。
「家まで送る」
クルルル、仏法僧が道を外れることのないようにと鳴く。優しい夜だ。なんだか橙矢を包む全てが優しく穏やかで、誰も自分を傷つけることがないような。羊水に包まれた胎児の気分で橙矢はふわふわと道なき道をゆく。自分よりずっと背の高い、だがまだ少年といった様子の神様に手を引かれて山を降りる。
人里の灯がぽつりぽつりと見えてきたところで、少年はふと手を離した。
「ここからならもう大丈夫だろう」
人里には大勢の人が集まって皆が皆火を焚いている。もしかして心配させてしまったかも、と橙矢は急に駆け出したい気持ちになる。
「あ、あの、ありがとうございます」
お礼だけ言って斜面を降りようとする。少年の真直ぐな背を追い越したところで柔らかい声がかけられた。
「もう迷うなよ」
ざっと音がしたと思ったら大人より大きな狼がこちらに背を向けて走っていくところだった。狼だ。狼の神様だ。
ぶわ、と一瞬舞い上がった草葉が鎮まる頃には姿形なんてどこにもなくて、しっかと握った綺麗な布の巾着だけが唯一の証拠とばかりに橙矢の手に収まっている。たった一人の夜はもうどっこも恐ろしくなんてなくて生ぬるい空気が水気を孕んで下から上へと呼吸している。
「ぼく……かみさまに会っちゃった」
手の中のこんぺとは、誰にも言えない橙矢の宝物になった。
もうどれほど前の出来事だったろう。
会いたいなあ、何十年も前の郷愁が今更ぽつりと心に波紋を落とす。わざと山に迷っては自分しか知らない神様に会いに行った。他の誰も山には神様が住んでるなんて知らなかったし、お祭りで聞いた産土神の名前だってあの赤目の神様とは違っていた。ああ、会いたいなあ。ようやく思い出した切なさが意識を引き上げていく。
白んでいく瞼の裏を薄ら開くと、そこにあったのは橙矢が期待していたものでもなんでもない。何も変わらない景色だけだった。
きょろ、と辺りを見回す。明り取りの窓から差し込む日がやたらと強い。くっきり陰影のついた廊下、大黒柱のすぐ傍にひとり倒れていたらしい橙矢は、しかし一部だけやたらと新しい床板にぞっと身を震わせた。
夢中の郷愁に追いやられていた恐怖がさっと身を掠める。そうだ、あの人はどうなったろう。
地獄の餓鬼もさながらの様相でくしゃくしゃ崩れ落ちていったのは確かに見た。
だがその後のことはなんにも知らない。
慌てて身を起こす。床板がぎぃと鳴るのにもなんだかおそろしい気配を感じて、おっかなびっくり立ち上がった。
真直ぐ。左に角を曲がって。しばらく真直ぐ。そうして右手の黄ばみひとつない襖の前で立ち止まって、漆塗りの引手にそっと手をかけた。
手を、かけたはいいものの。
ぴったり閉じられた襖を開けるのが恐ろしい。肺の底にひたひた溜まる恐怖を吐き出そうと大きく息を吸う。吐く。吸う。固まってしまってちいとも動かない右手を叱咤して、ほんの少し。
思ったよりも大きい音でずり、と桟が億劫げに擦れる。それにすら体を竦ませて、何も物音がしないのを確認してから、もう少しと隙間を広げた。
ずるり。重い音の隙間から格子窓が見える。薄い朽葉色の土壁に陽がかかって白っぽくなっている。そのまますっと下にいくと黄色っぽく褪せた畳。目を追ってそろりそろりと部屋の真ん中へ視線を動かすと、そこには、
何もない。
今までの緊張はなんだったのか、拍子抜けしてへたり込んでしまう。ついで襖に力が入ったのか、するっとその身を滑らせた。
あけっぴろげになった明るい室内には、あの病身の男の影などほんの少しもない。薄く埃の積もる床は、しばらくの間誰も立ち入っていないようだった。
なんにもない部屋で埃ひとつ動かせない子供は頭を垂れて、この部屋の主が死に逝ったことを悟った。
外は素晴らしくよい天気だ。陽光が燦々と照り付けて、雀やら鳩やらの声が呑気に響いている。けれどそんな日光の中に、橙矢はとうてい出ていける気がしなかった。
のろのろと立ち上がる。いつもの通り道で、いつも通りに梁の上へ。湿った水の匂いがふと橙矢を出迎えた。
「橙矢」
呼ばれなくなって久しい名が聞こえる。あんまり久しいので、それが自分の名前だということに気付くのが遅れるほどだ。下を見る。開け放たれた板間に背を屈めて座る男が見えた。兄だ。あの日一度だけ橙矢を見た兄が、まるまるとした腹を抱えて御仏の掛け軸に向かい縮こまって端座している。
「親父殿がのうなって四十九日」
やっぱり、と橙矢は頭を俯ける。あの痩せた男はとうにあの世に行ったらしい。綺麗さっぱり遺恨も残さずに、代わりにと朽ちぬ欲望と呪いの言葉を家に残して。四十九日目の祭事も終わったところなのか、暑そうな黒の羽織を脱いでよく肥えた男はぽつりぽつり言葉を落とす。
「あん時くっきり見えたお前はまだそこにおるんかいのう」
橙矢は声を出すこともできなかった。今一度呼びかけた声が兄に届くのも怖かったし、聞こえないとばかりにそっぽを向いたままであることも耐えられなかった。ので、ふらりと足を振って、だいぶん古くなった梁をきぃと軋ませることで返事とした。
きぃ、ぎぃ。きぃ、ぎぃ……


福を呼ぶというのがどのようなものなのかを橙矢はよく知らなかったが、それが金のことらしいというのは見当がついていた。悪鬼の如き形相をした男が金だ、金だと儂を富ませよ家を富ませよと繰り返し繰り返し言っていたので。
橙矢はとにかく家を富ませることに執心した。あの悲惨な最期を遂げた男が死の際まで望んでいたそれを叶えなければ、という思いが付き纏う。でなければ、また殺されるかもしれない。役立たずと呼ばれるかもしれない。
いっそ強迫観念にも近いそれらに潰されるように橙矢は在り、その願いの通りに家は次第次第に富んでいった。盗まれた金銀の細工など些末なことだと誰もが思えるまでに膨れ上がった富は、しかし橙矢を少しも癒しはしなかった。
とうに死んだ男の声がもっとだもっと金を富をと急かす。際限のない人の思いが真綿のように心臓を締め上げて、もっともっとと橙矢も願う。そうしなければ棄てられる。今度こそ自分がなんにもなくなってしまう。
こそこそ囁かれる人の声が煩わしい。この家には座敷童がおるのだ、だからこんなにも家が富み栄えておるのだと。ひそひそこそこそ声が飛び交うたびに橙矢は耳を塞ぎたくなる。
富み栄えなければ座敷童の意味などない、役立たずだ。
日が昇る。暮れる。昇る。何度繰り返したかも定かでない日々の中、橙矢はふと開け放たれた戸から外を見た。紫の宵がうつくしい夜だった。
ぺたぺた音をさせて板張りの廊下を歩く。暗い色の雲が流れていくのに誘われて、久方ぶりに家の外へと意識を向けた。
虫の音がする。お世辞にも綺麗だとは言えない声だが、それもまた風流だ。もう家人は皆寝入ってしまって、暗い通りには灯りひとつ点っていない。内から外へ向かってびょうと吹く風が、ふと橙矢の足元を掬って、押されるままに橙矢は庭に転げた。待宵草の黄色い花弁が風に気持ちよさげに吹かれている。その葉に手をついて、露の降りた地面がしっとりとしている。それを感じていることに橙矢はひどく驚いて、思わず辺りをきょろきょろと見回した。
軒を通りに張り出した家が後ろにある。天上には白っぽい月が鎮座している。
「外だあ」
外だ。紛うことなき、正真正銘の外だ。家から出られるなんて、考えてみたこともなかった。
そっと立ち上がってみる。両足はしっかと地面についていて、草を踏むとさふさふ音がした。夕立の名残か薄ら湿った土を踏みしめて、ついでに目の前に聳える高い土塀を見上げる。外からやってくるものも内から出ていくものも通さぬという姿勢でどっかと腰を落ち着ける塗壁は、橙矢にはどうしようもない高さに思えた。
「……外に出たいなあ」
人間の想いにすっかり疲れた橙矢にとって、何十年かぶりの外は一筋の光明に違いなかった。
金鳳花の糖蜜みたいな花が風に頭を下げる。庭に植えられた細い山桜はもう青々とした葉を茂らせて、うっすらとした闇に翡翠色の露を落としている。もそりと裸足の爪先に何か這うのを見てみれば、具足虫の灰甲冑がまごつきながら沢山の足を動かしている。木戸の前に立って大欠伸をしている門番も、時々手水に起きてくる奉公人も、誰も橙矢を見咎めない。
あの門が閂まで挿した頑丈なつくりでなければよかったのに。そうしたら誰にも知られずに橙矢はそっと門番の横をすり抜けただろう。
だんだん白んでいく空に、橙矢はそっと息を吐いた。願うともない悲しみを、ここにひとつ落として。

誰にも気付かれないことはわかっていても橙矢は人目をひどく恐れた。折檻を怖がる子供のように、火を嫌う獣のように、家人の誰もが寝静まってから橙矢はようやくそろそろと庭に降りて、それだけは許されたことだと言わんばかりに夜風に微睡む。
風に流れて野犬の声がする。すぐそこらしい、門番が追い立てる声に橙矢はそちらへ目を向けた。ふと。
潜り戸がふらふらと夜に揺蕩っていた。
篝火に照らされた通りが見える。薄ら赤い火の熱の傍。わん、わんと鳴く犬は何が気に食わないのか門番につっかかって、門番は長い棒をもってそいつを追い払おうと苦心している。戸が開いている。
橙矢は乾いた土をたっと蹴った。いくらおさない体躯といえど、ほんの少しの距離しかない潜り戸へ到着するのはとても簡単だ。
頼むから、もう少しそのままで。犬の声がきゃうんきゃうんと悲しげになってくる。男が苛立たしげに地面を打つ音が二、三度。じきに戻ってきてしまう。
潜り戸の外は、薄ら曇っている。灰色の夜。朧になった月が妙に明るい日。ぼんやり浮かぶ通り向かいの平屋。それを右に曲がれば大きな通りがしばらく続いて、それから急に田畑になる。そうすればなんだか自由になれる気がして、橙矢はそっと外を覗いた。
赤月の目が、真正面に見えた。
あっ、と声を出す。当然誰にも聞こえない声だ。そのはずだ。だが真っ赤な目玉は一度瞬いて、それから橙矢をしっかりと見て、そちらも息を呑んだ。
犬がひゃんひゃん鳴いて赤目の人型に近寄っていく。それを窘めるように鼻面を弾き、頭を撫でる――ところで、門番の男がやれやれといった様子で帰ってきた。
あっ、と思う間もなく潜り戸の新しい木目は閉められる。蝶番の軋みの音さえ無情にも静かだ。
橙矢はそこに茫然と取り残された。
呑気に欠伸なんてしている門番を恨めしく見上げて唇を噛む。扉はすっかり閉ざされて、あかあかと通りを照らす炎の残滓さえ見えない。この扉をくぐることもできなかった子供がたった一人、塀の内側に取り残されているだけだ。
薄暗い空からかなしみがほたほた降ってくる。朧月が綿布団に包まれて益々辺りが静かになる。けけけけ、蛙の声が響くと虫らはさっと密やかになった。温い風と、蛙の声と、ほろりほろり降る悲しみが地面に染みる音ばかりが塀の内側を満たしている。
「おい」
ふと、波がたった。
いやにはっきり聞こえる声。門の前で腰を下ろしている無精ひげの門番のものではない、少年じみたどこか幼いものだ。
きょろりと辺りを見回す。家人に見つかってしまったのかも、という考えはなんでか出てこなかった。もう一度「おい」と呼びかけられ、今度はその出所を見つけられる。自分が何よりも高いと思っていた白く漆喰が塗られた土塀の瓦の上、少年めいた影が腰を落ち着けていたのだ。
「いつも泣いているな、お前は」
悲しみが滑り落ちる頬に呆れ顔。真っ赤な双つ月が優しげに歪んで、どこか仄明るい夜に息をする。
「孝、紫、さん?」
何十年呼んでいなかっただろうか。意外にもその名はするりと喉から滑り落ちて、橙矢の目玉からまたころんと真珠粒が流れ落ちた。
「やっぱり橙矢か」
対する少年はどこか苦々しげな、労しげな視線を投げかけて口を開く。やっぱりってどういう意味なんだろう、だとかどうしてここにいるのだろう、だとかそういう些細な疑問はどうやっても胸につっかえて喉から先に出てきはしない。引き攣れた喉から零れ落ちた言葉は、血を吐くような一言こっきりだった。
「くるしい」
ぞる、と何かが変わったようだった。
仄明るい夜になにかおぞましいものが這っている。家という箱の中に今の今まで大人しく収まっていたものが子供の言葉ひとつと共に溢れ出さんとしている。
ぐじゅぐじゅに腐った肉の匂い。蝿のうわんと集る音。それらが子供に纏わりついて離れない。ひどい腐臭に息を呑む。
もうそれ以上に酷い言葉はなくて、孝紫は強く唇を噛みしめる。強く目を瞑って幻覚を振り払うとおさないこどもは痩せても肥えてもおらず、ほそっこい手足を闇に放り投げているだけだった。家人が寝入ったこの家で、泣くことしかできない子供はひどく哀れに見えた。
「橙矢」
だから、
「一つ、願いを叶えてやろう」
それが恨みでも復讐でも構わないと。手を貸してやろうと。とっくに血濡れの眼をした神は言う。草木の青々とした中、獣臭さがふと辺りに立ち込めた。
こどもは静かに呼吸している。胸の辺りを皺になるほど握りしめて、涙をくっと飲み込んで、人喰いの血色眼を真正面に
「もう、殺されたくない……」
そう、泣いた。
孝紫はなんにも知らない。この家にどんな人間が住んでいるのかどんなことをしてきたのかなんにも知らない。善行にも悪行にも興味さえない。だが子供の悲愴に満ちた声に悲惨な末期を感じ取って、烈火の如き感情が腹の底でふつふつ煮えたぎるのを感じる。それだけで充分だった。
「……助けてやる」
だから、泣くな。困る。
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