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ひとをいさめる話/葵:水神

辛皮っちゅうのを知らん奴もおるかもしれんが、あれは魚には毒だが人にはなんにもないもんだ。もうすっかり廃れてしまったが、昔は辛皮流しっちゅう漁法があってな。山椒の木の皮をすりつぶしてとった汁を川に流して、浮いてきた魚を獲るってえもんだ。楽なもんだろ。魚を一匹一匹釣り上げるよりずっと楽なもんだ。餌もいらねえ。魚が逃げることもねえ。だがすっかり廃れてしまった。今じゃやるもんは誰もおらん。
辛皮の汁を作るのが難しいわけでも、人が死んだわけでもない。ただな、もう誰もやりはせん。蛇神様が皆おそろしいんだ。

その蛇は清らかな淵にひっそりと住んでいた。滔々と流れる滝と、若い草の匂いが充満する生気に満ちた場所。水面近くを行き交う魚は蛇のことなど気にも留めず、ゆうゆうと冷たい水の中を泳ぎ回っている。
蛇はこの場所が気に入っていた。冷たく澄んだ水と、生命に満ち溢れたこの場所でまどろんでいると、少し前に負った怪我も徐々に癒えるようだった。
今思い出しても腹がたつ。分別のつかない坊主のせいで打ち据えられた体は、動くようにはなったもののまだ完全ではない。だがそのおかげで面白い鬼と知り合えたことには感謝してやらないこともない、と蛇は水底でぷくり泡を吐いた。
白い鱗が滑らかな肌に規則正しく並び、金の目玉は日よりもはっきりと煌めく。誰が名付けたか、それとも自ら名乗ったか。蛇はその名を葵といった。
半ば傷が癒えた頃、何やら水面が騒がしいことに気が付いた。何かあったのだろうか。思うがふと鎌首をもたげた興味も泡が消える瞬間になくなってしまう。人が地の上で何をしていようと関係のないことだ。自分はただ猟場を守り、生きるだけの糧を得ることができればそれでいい。
葵は一度もたげた首をとぐろの上に置いて、いつまでもざわざわとしている水面の上に背を向けた。人が多くうるさくしているせいで魚や沢蟹がすっかり怯えて逃げ隠れしていることだけが不快であった。
透けた瞼で視界に蓋をする。無遠慮に足を突っ込む人の群れにはすっかり無視を決め込んで、蛇はただただ朝と夜とを過ごし続けた。騒がしいばかりで何事もないのなら、それでよい。
やたらと騒がしい五度目の昼、妙な匂いが蛇の鼻腔に突き刺さった。つんと頭に抜ける嫌な匂い。それまでただ横たわっていた水底から体をぐうと上に伸ばし、金の両目で陸を見る。変わらずがやがやと人はいて、手にした魚籠に魚を入れている。しかしどうも様子がおかしい。魚がぴくりとも動かないのだ。
腹を剥き出しにして水に浮いている。どれもこれも、ぷうかと。それを男らは楽しそうに愉快そうに掌で掴んでは魚籠に詰め込んでいる。
蛇は物陰で人のかたちをとると、いかにもたまたま通りがかったような顔をして若者らに「もし」と声をかけた。
「こちらで何をしているので」
生憎と、蛇は変化があまり得意ではなかったので同じような背格好の、同じような顔しか持つことはできなかった。薄青の髪を流した、色白の少年。それが蛇のとれるたったひとつの姿である。線の細い少年が女にでも見えたのかもしれない。そう思うと胃の腑に酸がわだかまるようだが、突然のことにも男らは気を悪くすることもなくやにさがった顔をして自慢げに魚いっぱいの魚籠を見せびらかした。
「からかわ流しさあ。毒を流しゃ魚なんていくらでも獲れるってえのに、爺婆どもはいかんいかんって言うんだぜ」
下卑た声がげらげら笑う。それに蛇の目をした少年は「魚が憐れだとは思わないのか」と苦言を呈した。
「魚みてえな畜生に、憐れもなんにもなあ」
そう言ってまた笑う男らがひどく醜悪であるようで、葵は「臭い」と自らの口元を押さえ顔を背けた。
「獣の匂いがする」
男らはそれに少々気分を害したらしい。眉を顰め、しかしまだ腹を見せる魚の方が大事と再び魚籠に魚を放り込みはじめた。
銀色の腹が日の光にきらきらと反射している。だがその瞳は濁り、じっと男らを見ているようだった。
「からかわ流しはこれきりにしてくれ」
濁った目すら男らに抓まれ、そろそろ行くぞと川から上がった男らに、蛇の子は重苦しく言葉をかけた。
「魚が憐れだからってかあ?」
「私が不愉快だからだ」
はっきりとした言葉は、しかし男らには届くことなく一笑に付されて終わった。

葵はまた水底へ沈む。嫌な匂いはしだいに水から薄まっていくようだ。魚もそれどころか蟹や貝すらすっかり姿を消した淵にたった一人で住む。水ばかり澄んでいる。
水から匂いがすっかり消えた頃に、ようやく魚がちらほらと戻ってきたようだった。
体の小さな、他から追い出されたような魚が尾ひれをくねらせながら渓流の中を泳ぐ。縄張りを持てなかった魚たちだ。黒い魚影を水底で感じながら、葵はひたすら沈黙を守っていた。
小魚ばかりだった中に、だんだんと大きな姿が混ざっていく。小魚につられてきたのだろう。それにくっついて沢蟹や沙蚕やらが川底の石を這い回る。
一年ばかりの年月をかけて、ようやく元と変わらぬ活気を取り戻した水底で、蛇は静かに体を横たえていた。すっかり傷は癒えている。もぞもぞ動き回る沙蚕の尾をぱくりと咥えて、ひとのみにしては体をくねらせた。
水の中はひたすらに静かだ。蛇の耳があまり良くないというのもあるだろうが、陸に上がればありとあらゆる音が飛び込んでくるのに比べればないと言っても過言ではない。
浅瀬に身を寄せれば白い鱗に水流がさらさら流れる。もののけにしては小さいとはいえ普通の蛇よりは大きなこの体を収めるような隙間はなかなかなく、無暗に動けば魚らも驚いていってしまう。静かに暮らしていたい葵にとっては難儀する点でもあった。
浅瀬の石の隙間に入り込む。中にいた蟹が驚いて外へ飛び出していくのにやれやれと溜息を吐きながら、たまにはここもよかろうとその身を落ち着けた。うるさいほどの虫の声、風の笛、木々の梢がざわめく音が混然一体となっている。あまい水と日の匂いにまどろめば、石影のくらさが葵を落ち着かせた。
ゆるりと日が落ちていく。
落ちていくうちに、遠くから騒がしい声が近づいてくるのがわかった。ちろり、舌を出して空気を食むと人の匂いがする。また人間か、とどこか諦念の思いが蛇の脳裏に過った。
人らは面白可笑しく大きな身振り手振りをしながら近づいてくる。四人ばっかりの若い男らは、いずれもどこかで見覚えのある姿だった。
先頭の男が持つ手桶には柄杓が突き刺さっている。たぷんと濁った水が揺れる。どこか妙だなと蛇は岩穴をすり抜け、滝の裏手に姿を隠す。金色の真ん丸目玉が男らをじ、っと見つめていることにも気付かぬまま、男らは機嫌よく歩いてきて、そうして。

手桶の濁った液体をぼちゃりと川に落とした。

じきに魚がぴくぴくと痙攣を起こしながらなんにもできなくなって浮かび上がってくる。銀色の腹をぴかぴかさせて、まともに息のできなくなった鰓をぱくぱくさせて。そこで葵はすっかり思い出した。この若い男らは、一年ほど前にこの淵にからかわを流した者ではないか。
「からかわ流しは止めろと言うたはず」
気付けばまた人のかたちをとって、葵はしゃん、と大地を踏みしめていた。薄青の睫にふちどられた金の目玉が人の真似事をして、男らは一瞬きょとんとしてから一年前のことを思い出したらしい。またこいつかと口々に言い合って、お前には関係ないだの向うへ行ってしまえだのと言い募った。
魚は憐れにも腹をみせてなんにもできなくなっている。それを素手でむんずと掴みながら、男らは淵の際に立つ少年に思い切り投げつけ、そうして笑った。
「っ」
それなりの大きさがある魚をぶつけられた少年はよろけ、足を踏み外したのか体を傾かせて淵の冷たい水面に落ちていく。どぶり、水音がするのに男らはまた笑って、どうれ落ちた奴を見てやろうとやわらかい土に足を踏み出した。途端、
「口で言うてもわからぬその性根、叩き直してやろう」
ど、っと水柱がたったと思えば、白く巨大な蛇の姿が滝壺から立ち上がった。
金色の目をぎらぎらさせて、男が両手を広げても足りないほどの太い胴をもって、それから音の出ないはずの蛇の喉から無理に声を出させたようながらがら声が低く男らを叱責した。
魚を入れた魚籠も放り投げ、悲鳴を上げて逃げ惑う男らの背を追う。その途中で雨を呼ぶとみるみるうちに空は曇り厳つ霊が雲の中で暴れまわりはじめる。最初こそ何が起きたとうろたえる男らも、稲妻がその威光を発し始めるとあれは蛇が呼んだのだ、淵に棲む蛇神が怒りを表したのだと恐れおののき自分の村へと逃げ込んだ。
木々をなぎ倒しながら太い胴をくねらせる蛇神は、男らが逃げ込んだ村の端で体を落ち着けるとよりいっそう激しく雷を鳴らした。ひどい音と光とが辺りを支配し、一拍遅れて地面を掘り起こすほどの雨粒が村を襲った。
「愚か者を差し出せ!」
耳がおかしくなるほどの雷鳴と雨音の隙間を縫って蛇の声が轟く。太い胴体がぐうっと一度しなるだけで、押しつぶされた木々がべきべきと悲痛な音をさせて倒れていった。
誰もかれもがおそろしがって戸を閉めている。雨混じりの風がびょうと吹けば、つっかえをした木戸ががたがた鳴いた。
「お、お止めください」
風雨の激しくなる中に、顔をしわくちゃにした老爺が飛び出し小さな喉できんきん鳴いた。
「どうか怒りをお鎮めください」
継ぎ当てもない着物姿を見るに、名主らしい。その声に僅かばかり雨を弱めた蛇は、巨大な目玉を爺の顔の前に突き出して舌をちろちろと出し入れした。
「お前の村のものが、私の忠告も聞かずからかわ流しをした。これがどのようなことか、わかっておろう」
それは、と口ごもる名主の顔をべろりと二股の舌で舐め上げる。ひいぃと情けない声がして着物が汚れるのも構わず老爺はべちゃべちゃの地面に座り込んだ。
「私の棲家を毒でもって汚した罰は相応に受けてもらう」
申し訳ございません、申し訳ございませんと何度も何度も繰り返す爺に葵はふんと鼻を鳴らした。この爺はともかく、若者の方は本当にわかっているのか怪しいものだ。丈夫な木戸からちらと顔を出した若者に視線を遣ると、さっと引っ込んでしまう。なるほど、と合点がいっていっそう強く雷鳴を辺りに轟かせた。
雷獣が暴れまわってごろごろと喉を鳴らしている。今にも得物に食らいついてやりたいと猛々しく吠える。かわいそうに、すっかりおびえ切ってしまった老爺は頭を下げたまま白蛇に向かって謝罪の言葉ばかりを繰り返している。さて、ここらが落としどころか。
「この先にある淵に神殿を建て私を守り神として祀るがいい。ぬしのところの馬鹿息子を見張っておくには、それが一番よかろう」
言った途端に待ちきれず雷獣が地上へ落ちてくる。青白い閃光を身に纏い、村の外れにあった大きな楠の木をばりばり真っ二つに切り裂いて遊んではあらん限りの叫びを放つ。土砂降りの雨だというのに楠の木は裂かれた断面からあっという間に炎をあげて、橙色が暗い空に映えた。
「はい、はい必ず仰せのままに」
最早この蛇が神であると疑いもない事実として平伏した老爺は、必ずと確かに約束をし、蛇がその巨体を引き摺りながら淵へと身を沈めたその後、一年足らずで神殿を作り上げた。そうしてその後何百の年月を、蛇神は確かに信仰を集めながら人々を監視し、守護していくこととなる。

文書が正しければ、承元の、辛未の年のことであった。
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