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おにになった話紅輔:鬼

左肩を押さえた少年は暗い山道をただひたすら走っていた。肩を刺し貫いた矢傷がじくじく痛む。染められてもいない薄茶の衣に鮮血の赤が染みて、くそっと毒づく。後ろから追う人の気配がないことに気が付いて、一度立ち止まって辺りを窺った。
夜はひたすらに静かである。ここがどこなのかもわからないまま、少年はただ逃げるというそれだけを頭に置いて走り、走って、ここまで来た。細枝でできた矢を握る。今のうちに抜いておかなければ肉が盛り上がり矢尻を飲み込んで後々厄介なことになるのはわかっていた。
水場を探す。ようく耳を澄ませて、土に顔を近付けて水の匂いを嗅ぐ。ぜいぜいと荒い息をつきながら湿った土に手を当てて、多分こっちだとのろのろ歩けば、岩の隙間からほんの少量、ちゃぷちゃぷ出る水が月下に煌めいていた。
岩に肩を押し当てて血塊を流す。それから腰袋にあった緑の実粒を二つばかり口に放り込んで、食いこんだ矢尻近くに手をやった。ずきりと痛む。心臓が絞られるようだ。喉を閉めながら力を籠め、肉が引き攣れるのも構わず思い切り引き抜いた。
「っああ!」
痛みにちかちかする視界。意識が薄れる、判断した瞬間に口に入れておいた実を噛む。途端に目の前をはっきりさせるほどの辛さが舌を襲って、少年は倒れそうになる体をなんとか手をつき支えることができた。
「っ、はっ、はーっ」
肺を絞り上げるような痛み。どく、どく、と溢れる血を流そうと水に撫でられつるりとした岩肌に肩を擦りつける。赤い血水が清らの流れに混じって地面に吸い込まれていくのを朦朧とした目で見ていた。
木々は暗い影を柔らかい地面に落としている。月の細い視線が木々の間を縫って白く浮かび上がるので、少年は岩肌からの湧き水で喉を潤すと、なるべく暗がりへ暗がりへと身を隠した。きっとこちらの方が見つからない。
冷たい土肌に身を寄せる。やっと息を吐いてぼろぼろになった自分の掌を眺めた。あちらこちら擦り傷だらけ、肉刺だらけだ。
どうしてこんなことに、思い返すも委細はわからない。ただ日も暮れた頃に突然表が騒がしくなって、外に出ていた両親が慌てて家に飛び込んできたのだ。何が起きているのかわからぬまま母の胸から太刀の切っ先が顔を出して少年の方へと倒れこんでくる。まだこと切れてはいない母が呻きながら逃げてと言うのに、その真横で輪頭の大刀を横薙ぎにされて血水を噴出している父がこちらをかばうように棒立ちになっている。真横に裂かれた胸がぱっくり赤黒い肉を見出して、ぼとりぼとりと肉塊が足元に落ちていく。
「逃げて」
ごぼ、血の泡を噴きながら母が言う。もうすぐただの皮袋になってしまう母が、ぷつぷつと口の端から赤黒いものを絶え間なく垂れ流して目がやけにきらきらとしている。
「逃げて、紅輔」
父の体がぐらりと傾ぐ。胸からは金属の棒が立ち上がっていて、倒れ行く彼はなにかよくわからないものになっていく。
今の今まで父の体に遮られて見えなかった相手の姿が見えた途端、少年――紅輔は弾かれたように逃げ出した。茅で葺かれた低い屋根の奥にある抜け穴をするりと抜けて、家の裏手に出る。後ろですごい怒声と断末魔とが聞こえて一瞬肩を竦めた。
外はとっくに夜だ。だというのにあちらこちらが赤々としている。空にまで色が映るほどの赤さ。むっと熱気が肌について、燃えて弾ける茅から立ち上る炎が見える。焦げた肉の匂いに吐き気すら覚えながら紅輔は炎でゆらめく影の中を上手いこと駆け抜けた。
人が殺されている。人が殺している。赤錆に塗れた長物を突き出して短甲の男らが無暗な虐殺を行っている。逃げる、それだけを考えてとにかく追手のつきにくい森へと駆け込む。直前どこから飛んできたかもわからない矢に左の肩を刺し貫かれ、声をあげてしまったのが悪かったのだろう。なんとか逃げ込んだ山中にも数人の追手が迫ってきて、紅輔は必死になって駆けたのだった。
熱にあてられた村とは違い、森の中は冷たく静かだ。
気が抜けていたのだろう、僅か微睡んだ意識に、男らの怒声が割り込んできて紅輔ははっと起き上がった。まだ左肩は痛むが、動けないというほどではない。逃げなければ。途端に浮上した意識に体がつられ動いた。
落ち葉を踏む音に気取られたのか、それともたまたまか。声のうち一つがどんどんこちらへ近づいているようでおそろしい。暗がりもまたおぞましい。遠くで獣が吠えた。
がさがさと音をたてていくうちにどんどんと足音が近づいてくる。相手も走っているのだ。そうして確実にこちらの音を辿っているらしい。
ああ、どうしようどうすれば。とにかく隠れなければ。逃げなければ。さもなくば自分も殺されてしまう。父母のように身を裂かれ、村のように炎に巻かれ。
桂の木の太い幹に姿を隠す。苔の多く生い茂ったぐねぐねの幹は、子供一人くらいならば簡単にその影に飲み込んでいってしまう。自分の息すら煩わしくなるほどの静けさの中、ざくりと土を踏む音がした。
思わず口を手で押さえる。押さえたうえで息も殺す。肺が伸び縮みを繰り返しながら、心臓が拍動を繰り返しながらただ足音に耳を澄ます。一歩、また一歩。確かに踏みしめる足取りが徐々に距離をつめてきて、あまりのおそろしさに紅輔は木の影から飛び出した。
「うあああああっ」
獣もかくやという動きですぐ傍までやってきていた男に躍りかかる。輪頭の、短い刀剣を抜き身で携えていた男は、しかし紅輔のことを獣かもののけかと勘違いしたらしい。一瞬目を見開き棒立ちになった隙を見逃さず、紅輔は金属片を継ぎ合せた胸当てに体いっぱいを使って当たりを仕掛けた。
はずみで兜が飛ぶ。ごろごろ転がっていった青銅のそれには一瞥もくれず、男は膝をついて体勢を立て直すとすぐに剣を構え紅輔に切っ先を向けた。
剣先はぎらぎら光っている。ところにより赤く錆びついている。
よく聞き取れない奇声をあげて男が剣を突き出した。それを間一髪で避けて、紅輔はまた逃げる。立ち上がる男も追いかける。子供の足と大人のそれはどうしたって大人に分があって、じきに追いつかれてしまうだろう。
全身に着込んだ伽和羅の重みがあるといえど、子供ひとり捉えるのは容易い。がしゃんがしゃんと金属の強い音をさせながら走りくる男は思った通りにあっという間に紅輔との距離を詰めた。
「やめろ、離せ、離せえ!」
大人の力で腕を掴まれてしまえばもうそこで逃げることは絶望的だ。
男は無言でそれを拒否した。剣を振り上げる。紅輔ははっと息をのむ。殺される、嫌だ、殺さないで、一瞬の考えのうちに、がむしゃらに手足をばたつかせれば、それが偶然男の振り上げた右腕を叩いた。
剣が飛ぶ。それを追いかけようと男が右腕を伸ばす。逃げようと紅輔がもがく。うちに、ずるり。男が足を滑らせた。
あとは一瞬のうちになにもかもが終わってしまった。鈍い音がする。一瞬だけの悲鳴が上がる。男は背後の岩場に頭をひどく打ち付けて、目をかっと見開いたまま後頭部から赤黒い血をだくだくと流していた。
「ひっ……」
ぎょろぎょろした目玉が紅輔を見る。虫のように手足を不器用にばたばたさせるのが気持ち悪い。じきに、それもだらりとぶら下げて動かなくなった。
奇怪な肉の塑像と化した男を、おそるおそる覗きこむ。ほんのちっとも動きはしない体にほっと息を吐いた。
遠くでまだ足音がさかさかと音をさせている。男の一声ばかりの悲鳴が届いていたのだろう。遠くに投げ捨てられていた青銅の剣を拾い上げ、紅輔はなまぬるいその温度に腹を決めると、死んで横たわる男の胸に剣を突き立て、そうして引き抜いた。どぶどぶ血が流れていく。噴き出しはしない。よかった。きちんと死んでいる。ただ重力に従って落ちていくばかりのそれに安堵の息を漏らしながら、紅輔は自らの腕にくくってあった布を掌に巻きなおした。

夜はざらりと黒曜石の色をしている。

ざくり、ざくり。音がする。声を潜めたまま耳をそばだて、誰かの足音にだけ心を寄せていくと自分がどこにもなくなったような錯覚にとらわれる。石になったような、木になったような。
むっと漂う臭気に気が付いたのか足音は一度消え去って、ひと呼吸の間を置いておそるおそるまた歩き出したらしい。
さくり、さくり。先ほどより軽くなった足音が怯えている。獣でもいるのではなかろうかと辺りを窺って、しかし一歩一歩をしっかり進めている。
来い、紅輔は念じる。こちらへ来い。自分が為っている石に来い、木に来い。夜に紛れる吐息に来い。
だんだんと近づく足音が紅輔を通り過ぎる、刹那。紅輔はほんの少し息をする間に石や木の衣装を脱ぎ捨てて剣を振り上げた。
ぐしゅ。
型も何もあったものじゃない、硬く先の尖った棒っきれを振り上げて下ろすだけの単純な行為が男の薄っぺらな体を貫いた。骨と骨の間にちょうど突き刺さった青銅の剣を引き抜けば、びしゃびしゃと血飛沫が舞い散った。
引き抜いて、もう一度肉塊に押し込む。今度はがつんと固いものにぶち当たって、また引き抜く。血がぱたたっと頬に飛んで、何か喚いているらしい男の声がうるさいので兜の下辺りを狙ってまた貫いた。
半分ばっかり繋がった首の肉が自らの重さにぶら下がる。断面から血泡が噴き出してくろぐろとした生臭さが泡になって月光をまだらに照り返している。もう一度、と剣を振り下ろせば白い塊がごろごろ落ちた。歯の白い骨片が肉を伴って落ちている。口蓋が引きちぎれたらしい。
無感動な黒曜石の目で引き抜く。突き刺す。引き抜く。そのたんびにびちゃびちゃ生温い液体が降りかかって、しかしそれがだんだんと噴き出さなくなっていく。血が上から下に流れていくばかりになってようやく紅輔はその目に人を取り戻した。
息を吸う。吐く。自分の体にかかるおびただしい血がひどい匂いを発していて、それがわかっていながらも少年はその場に留まった。
まだ、いるから。
落ちた剣を拾い上げ、これで二つと腰紐に挿す。なかなかの重さが左腰にかかって、よろけそうになりながら紅輔は地に倒れ伏しすっかり血を吐き出してしまった男の体を持ち上げた。いや、持ち上げたのではない。とっくにばらばらに切り刻まれていた肉片を拾い上げたと言った方が正しかろう。
白と赤との斑でぬめる肉塊を月光も射さない暗がりに投げ入れる。投げ入れた途端に獣の唸り声と咀嚼音とが遠慮なしに響いてくる。もうひとつ、半ば臓腑の見えたような胴を蹴り転がすと灰褐色の毛皮は喜び勇んで姿を見せた。
人に慣れることのない獣だ。神である獣だ。その姿をぼんやり見つめて、紅輔は血濡れの顔で深々と頭を下げた。獣はそれにちらと視線を遣ると、やがて腹が満ちたのか散々喰い散らかした男の胴体を捨てていってしまった。
神でさえ肉を食う。いわんや人間をや。
美味いものなのだろうか。手にへばりついていた肉の切れっ端を咥えると、どこか甘い、鉄錆の味がした。
まったく美味しくない。
血臭のする腕でぐいっと口元を拭う。先ほどの水場はどこだったか。考えるも闇雲に走ってきたのでわからない。同じ場所には戻れないと考えて差し支えないので紅輔はそこらに転がる二つの肉塊の懐でも探ってみた。干し飯も芋蔓もなんにもなかった。
肉塊はそのまま置いていくこととする。紅輔にはちっとも必要ないものだからだ。
紅輔を追って山に入った兵はあとどれだけいるだろうか。青銅の鎧をかっちり着込んだような兵を率いるのは遠く大和だとか呼ばれる人々くらいしかいない。大和を治めるは神の子であるという。であるから神の子に全て明け渡せと兵が進むのだという。
少年は足を引き摺って歩く。体をまるく屈めた姿は傍から見れば幽鬼のようであろう。歩くうちに聞こえた叫び声にはっとそちらに目を向ければ、低い唸り声と兵の野太い声とが絡み合いおそろしい怨鬼の様相を呈している。
腰に挿した二本の剣ががちゃりと音をたてた。
灰褐色の毛をした、先ほどのものより一回りほど小さな大神が剣を振り回す男相手に牙をむいている。男は剣でただ威嚇し怯えているばかりで、この小さな獣がよほど恐ろしいらしい。
紅輔の気配にも気付かず、男はただ棒っきれのような剣を滅茶苦茶に振り回している。その恐怖に引き攣った顔がひどく滑稽で、物陰から近づいた紅輔は無造作に剣を両手で振り下ろした。
ぱ、っと血水が飛ぶ。骨まで切り取ることができなかった左腕は、代わりに肉を削いで抉って緋色の水を垂れ流した。
剣が落ちる。男は目をぎりぎりまで見開いてこちらを見る。信じられないものを見る顔だ。紅輔はそれに頓着せず一度剣を上げて、それから今度は左から右へ、男の腹を真直ぐ横に裂いた。
その男でも紅輔でもいい、肉を食わせろとびゃんびゃん吠える狼をちらと見る。まずはこいつの飢えを満たしてやるが先だろう。肉壁も皮もなくなった隙間に左腕を差し込んで柔らかくぐにゃりとしたものを引き摺り出す。喜び勇んで飛びつく獣にそれは譲ってやろうと一歩身を引けば、男は眦が裂けるほどに見開いた目で紅輔に背を向け逃げ出した。が、それもほんの少しで終わりを告げる。
「げっ」
獣に咥えられた腸が胃や喉を引っ張ったのか、男は押し潰した蛙の鳴き声でその場に倒れこんだ。体を引っ張ろうと地面に手を付くが内側から引っ張られた喉がぎちぎち軋んでいる。紅輔はゆうゆうと地面に落ちた赤黒いものを辿って歩く。獣は男の内腑をぎちぎち噛みしめて離さない。折角の馳走を逃してたまるかと強い顎を万力の力で締め、地面に四肢を突っ張らせて踏み止まった。
なるほど裸虫だ、紅輔は思う。人のことを裸虫とも言うことは知っていたが、その意味が今になってよくわかる。地に四つん這いになって獣から紅輔から逃れようと手足をばたつかせている様は死にかけの虫が足掻く様によく似ている。毛のない虫。羽もない虫。裸虫。
裸虫の後ろに立って剣を振り上げる。振り上げて振り下ろす。虫の背のやわらかい皮膚を突き破った剣は骨をごりごり削り、裸虫はそれにえもいわれぬ鳴き声を上げる。引き抜くのに骨が引っかかるのか少し手間がかかったので、虫の背を踏みつけて力を込める。ぶちゅぶちゅ、と赤黒い血だまりが音をたてた。相も変わらぬ単純作業は、小さな羽虫を潰すよりは骨が折れ、だが蠢く毛虫を仕留めるよりは楽な作業だった。
刺す。何度も何度も刺して抜いて刺してを繰り返す。そのうち手も足もほんの少しだって動かなくなって、そこでようやくこの裸虫が死んだことを悟る。獣は嬉しそうに細長い臓物に食らいついて、口の周りを血で彩りながら一心不乱に痩せた腹いっぱいに肉を詰め込んでいた。
夜はまだ長い。ようやく月が傾き始めて、これから朝へ向かいだす。

炎にまかれた村には、多くの兵が詰めていた。彼らが出した死肉は火に巻かれていやに甘い匂いを発しながら焼かれていく。男も女も、老いも若きもなんら区別せず等しく焼かれていく光景にはなんの感動もない。天子たる貴人はとうに室の中に引っ込んで床についている。東の空が白みはじめて、ようやく朝を迎える頃、火の番に立つ男が奇妙な声を聞いた。
呻いているような、畏れているような、獣とも人ともつかぬ声。声が聞こえていたのは男ひとりではないらしく、隣の男もなんだなんだと怪訝な顔をして声がしたらしき山裾の崖に視線を遣っている。人に削られた小高い崖は村にごくごく近しい場所にあり、男らが立っている火の傍から十歩もない。
火を焚いているというのに獣でも来たか。穂先の短い槍を構えて崖に向き合うと、ごろん、鞠にも似た球が唐突に転げ落ちてきた。
球はいびつな形をしているらしく、ぼとりと崖から落ちると勢いを殺して左右に振れながら男らの方へと転がった。
火に炙られて陰影ばかりはっきりとした黒い塊が近づくにつれ、その仔細がはっきりとする。ひだのある肉片が球についている。小高く盛り上がった三角錐と、半開きになった空洞と。短く刈り込まれた黒髪が地面を叩きながら転がって、男らは間違いなくその姿を人の生首であると認識した。
劈く悲鳴が小さな村に響き渡る。何事かとざわつく人々の中、崖の上にその身を真っ赤に染めた人影を見た。衣も、髪も、肌も染料をかぶったように真っ赤だ。その染料がいったい何であるかなどは言うに及ばず、目ばかりが沈み込んだように黒い。
「鬼じゃ」
誰かが言うと、兵の間にざわつきが広がった。
鬼じゃ、鬼が出た。天子様をお守りしろ、寝所の守りを固めろ。
「や、矢を射掛けい!」
髭を蓄えた挂甲の爺が剣を振り上げ叫ぶ。一列に並び引き絞る弓がひょう、と矢を放ち、赤い人影目指して飛んでゆく。とたんに身を翻した影はあっという間に山中へ姿を消し、追おうとする兵に老兵は止めいと制止した。
「我らが目的は熊襲。あれも確かにまつろわぬ民であるが、無暗に兵を損なうは得策ではない」
鬼を飲み込んだ山は沈黙している。その腹に抱えたものを明かさぬまま、表面ばかり朝日に晒されて清浄な振りをしている。それを苦々しく思いながら、兵は小さくなりゆく炎を見つめていた。

今も、三郡の山には鬼が出るという。返り血で真っ赤に染まった、鬼が出ると。
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