Novel
翠の棲み処は、阿蘇の山の中腹にある。 土地を治めるのだから山頂に住めばよかろう、と同胞はしきりに言ってくるのだが、それはちょっとなあ、と翠は言葉を濁している。 富士には敵わないが、阿蘇とて立派な霊峰である。英気を養うにはこれほどいい場所もないのだが、いかんせん阿蘇は富士と違って気が短い。 くつくつ煮えたぎる天辺は、深呼吸するにはちょうどいいが住むには適さない。なにせ虫の居所が悪いというだけで火を吐いてくるのだ。 貞観の頃に大きく裂けたっきり平静を保っている富士ならば、天辺に居を構えても社が崩れることなど考えなくてよかろうが、阿蘇ではなあと翠は毎度溜息を吐く。 だからこそ真中くらいの場所に、社を建ててもらっているのだ。それも、そう立派でなくていいと言ってある。二間ばかりの広さで鳥居もない。土間を上がって観音開きの板戸を外せば、簡素な板間と御神体と称した板きれがぺろりと祀ってあるだけである。 「あーあ、暇だなー」 火の気のない屋根の下で、翠はごろりと横になった。ここのところ日照りもなければ虫害もない。作物は青々と両手を広げていて、陽光も申し分ない。 暇だ。大層暇だ。 「こーすけもあおいも忙しいって言ってたしなあ」 大陸や秋津島との要所である鎮西は、なにかとものの出入りが多い。良いものも悪いものも遠慮なくずけずけ踏み込んでくるので大変だ、と二本角の鬼が嘯いていたのを思い出してぶるると首を振った。そういうややっこしいことには首をつっこみたくない。 なりそこないの蛇神は蛇神で、そろそろ神事があるとかいって嫌な顔をしていた。毎年毎年面倒で仕方ないのだが、逃げるわけにもいかないらしい。 暇である。大層暇である。しかし言いかえれば気楽だということなので、翠は大きく欠伸をして、お供え物の水菓子にかぶりついた。 風はさやさやそよいでいる。とろりと生温い温度の空気にまどろむ。 どれくらい経っただろうか。なぉん、ふと猫の鳴き声が聞こえて、翠はそちらに目をやった。少し開いた扉の向うから、真っ白な毛並みが覗いている。 しばらく見ていると、器用に扉を押し開けて入ってきた。しなやかに伸びた尻尾がなんともお行儀が良い。真黒な瞳が翠のまん前に。 ふくふくと愛らしい猫が、翠の鼻の上に柔らかな前足を置いて、もう一度鳴いた。 首には舶来ものの首輪。ちりりと愛らしく鳴る鈴もつるつるとして、仕立てのよいものだ。 ところどころに枯れ葉が引っ掛かった白い毛並みを軽く梳いてやると、にぁ、笑うように鳴いた。 「なんだお前、迷子かー?」 にぃ。 「どっから来たんだ?」 短めの髭をぴくぴくさせて、ふと青目の猫は視線を外した。ぱちぱち瞬きをして、それから、心細そうになーぅ、とだけ言う。 「わかんないのか。しょーがねえなあ、探してやるよ」 暇してたとこだし。にっかり笑うと、猫も嬉しそうにくるると喉を鳴らした。なんだかかわいい。 ぎぃ、と重苦しい音をたてて社の扉を開ける。空っぽの賽銭箱を元気よく飛び越えて、ついでにひょいと迷い猫を頭に乗せてやる。そうした方が、また迷うこともなかろうと思うのだ。 迷い猫はしばらくああでもないこうでもないと落ち着ける場所を探していたが、そのうちでろりと柔らかい腹で体重を預けて、額当てに爪をたてることでちょうどいい具合を見つけたようだった。 「んじゃ、とりあえず麓の……猫又界隈にでも行ってみるか」 言って、裸足で地面を踏む。むっと強い草の匂い。あちらこちらで鳴きだす蝉の音。梢から降る強い陽射しに、そろそろ夏だなあとひとりごちながら、なおざりに立っている境石の頭をするりと撫でて出ていってしまった。 朽ちた木看板にはうっすら、楼、という字だけが読めるほどとなっている。さて猫又がここにたむろするようになったのはどれほど昔のことだったかなあと翠は辺りを見渡した。 ぼうぼうに荒れた庭。二つ、三つと朽ちて崩れた家が、力尽きたように横たわっている。その奥に、なんとかといった様相で屋根を支える屋敷があった。なるほど、二階どころか三階がある。高楼と呼ぶに相応しい。 今は使われていないらしい廃屋だが昔は立派だったのだろう、ところどころに剥げた丹が名残惜しそうにこびりついている。屋根だって珍しい瓦葺きだ。 格子のついた出窓を左手に見ながら、昔は番台であったらしきものに手をかけると、思ったより黴くさい空気がつうんと鼻についた。 「ごめんくださあーい」 なーぉ。 一人と一匹の声が建物に響き渡って、しばらく。 薄暗い奥座敷から、しゃなりしゃなりと女が歩いてきた。 否、女ではない。朱やら金やらの豪華な着物を引きずりながら、結いあげた鬘までつけて、まるでその昔この高楼の天辺で煙管をふかしていた女のようないでたちをした、人ほどの大きさもある三毛の猫であった。 「おー、いたいた」 『誰かと思ったら……ほほ、珍しいお客人。猫もおるのか。こち率て来』 顔や手足は完全に猫のそれである。ふさふさとした前脚をおいでおいでして、黒髪を垂らした猫は隣の部屋の襖を開けた。一畳ばかりの畳が隅にちょこんと追いやられた、板張りの間。 お邪魔しまあす、影からちらちら覗く金色の目に聞こえるように言って、翠は板間へと踏み込んだ。そうして埃だらけ蜘蛛の巣だらけの床にどっかと胡坐をかいてやる。化け猫といえば畳の上に脇息まで持ち出して、恐らく定位置なのだろう、脇の棚に置いてあった火種を手慣れた様子で煙管に入れると、ぷうかとうまそうに煙を吐き出した。 「ずいぶん人間らしいんだな。着物だって上物だろ、それ」 『アンタみたいなものの価値が分かる奴が来てきれて嬉しいよ。折角めかし込んでもここの奴らは張りあいがなくってねえ』 二股に分かれた尻尾をふりふり笑う三毛は、ぐるりと辺りを見回した。暗がりにきらきら光る目玉がある。数は多いが、揺れる尻尾はどれも短い。 『ひどいもんだろ、年季奉公決められた挙句に尻尾をちょんっとやられちまって』 ああ、と翠は顔を顰めた。飼い猫を猫又にしないための方法として、年季奉公を定めることと長い尻尾を切ってしまうことはよく知られた方法である。猫又を恨んでいるわけではなく純粋に皆怖がりなのはわかるが、あやかしだとかもののけだとか言われる立場としては、そこまでせずともなあという感覚も強い。 そうして目の前の三毛は、そのどちらも免れた猫のようだ。御自慢の二股尻尾をふらふら振って、人間くさい仕草で煙管の火を火鉢へこんこんと落とした。 『アタシゃここで飼われてたんだがね、飼い主は亡国病でぽっくりさあ。こんなに綺麗な着物、勿体ないからって湯濯場買いからね、ちょろまかしてやったんだ』 ぷかあ、吐き出す煙がしろく辺りに揺蕩って、部屋の中が白く靄で満たされたようになる。そう高くない天井板すらよく見えやしない。 長く白く息を吐き出したっきり、三毛は物憂げに床に目を落とす。静かだ。やたら暗くほこりっぽい室内に一筋だけ明かりが真直ぐ射して、空気をちらちら輝かせている。 窓から朽ちた門が見える。丈の短い草が地面を這っているのが見える。たったそれだけの景色だった。 『それで、用向きはなんだい?』 煙管の火もすっかり消えてしまって、ふいっと残りの灰を吹いた猫が、今更のように言った。爪のあるふさふさした手で器用に刻み煙草を丸めて雁首に突っ込む。また火をつけた。 「あ、そうそう。こいつの家、知らねえ?」 かわいらしく足元に擦り寄る白猫の毛を撫ぜて尋ねる。猫のことは猫に聞くのが早かろうという心積もりだ。 真っ白でふかふかの毛をした猫がにゃぁおと一鳴きする。首の鈴がちりりと揺れた。 『知らないねえ。そんなお嬢様、この界隈じゃ見た事ないよ。お金持ちの家を当たってみたらどうだい』 「お金持ちの家か。どっか心当たりない?」 『そうさね、ここから二里ばっかり南に、そこそこ大きなお屋敷はあるよ。このお譲ちゃんの足じゃそうそう遠くまで歩けないだろうし。そこじゃないかねえ』 かふかふ煙を吐き出しながら、三毛は髭をぴくぴくさせた。 それからおおきく欠伸をして、少しやにのひっついた目頭をふさふさの手で擦って言った。 『……雨が降るから、気をつけてお行き』 けけけけ、かろく鳴く蛙の声が微かに聞えたので、大人しくはあいと答えた。 南へ南へ向かって歩く。三毛の猫又が言った通り雲行きが怪しくなってきたので、晴れろと唱えれば垂れ込めた雲もさあっとひらけた。蛙はまだ鳴いている。 日が真上に掛かった程に、ようやく土塀の白壁が見えた。瓦葺きの立派なやつだ。 にゃう、小脇に抱えていた白猫がむずがって飛び出そうとする。それにまかせて手を離してやると、ぱあっと駆けだした。 ちりちり鳴る首輪の音を追う。白っぽい地面から一直線に視線を上げた先、小さな釘貫門の下で啜り泣いている女の子が目に入った。 「飼い主かな」 一生懸命走る白猫の様子を見るとそうであるらしい。おかっぱの少女もちりちりという鈴の音が近付いて来るのに気が付いて顔を上げた。と、 「小菊!」 なぁん、走る真っ白な猫を抱きとめた。 涙で顔はすっかりぐしゃぐしゃである。目蓋の辺りが赤く腫れて、長い事泣いていたのだろう。白くやわらかな指が、この家のお嬢さんであることを示していた。 少女がもう一度大きく泣いて、それが落ち着いた頃にぐずりと鼻を啜って、ようやく翠を見て首を傾げた。 「……かみさま?」 「おう、神様の翠だ」 女の子はそれにぱっと破顔すると、白猫を力いっぱいぎゅうっと抱きしめてぺこりと頭を下げた。 「小菊、いなくなっちゃってたの。神様にね、小菊を見つけてくださいってお願いして、あの、だからね」 そこまでいいかけてぎぃ、と音がする方を見遣る。釘貫門をやれやれといった様子で開ける女性を見て、少女の言葉は中断された。 「母上さま!」 どうやら母親であるらしい。丸まげを上品に結って、豪奢ではないが当て布もない上品な着物を着ている。 「あのね、母上さま、かみさまが小菊を連れてきてくれたのよ」 「かみさま?」 言われてきょろきょろ辺りを見回した細身の女性は、やがて何もなかったかのように娘へよかったねえと笑いかけると、そのまま小さな手をとって立ち上がった。 「かみさま、ばいばーい」 こちらを振り向く小さな手と、そんな娘を訝しげに見る女性と、ちりりと鈴の音を鳴らした白猫。それらを見送るように翠は大きく手を振った。 「もう迷子になるんじゃないぞー!」 返事はなかった。どれもさっさと釘貫門の褪せた風合いの向うに隠れてしまって、あのぴいんとした尻尾も見えない。 けけけけけ、鳴いていた蛙の声がいつの間にやら聞こえない。俄かに照りつけるような陽光が肌を指して、辺りが仄白く見えた。 空を仰ぐ。やたらと晴れている。地に目を落とす。萎れた花が地面に額をつけている。 もしやしくじったかなあと翠は腕を組んだ。まあいいやとも思った。深く考えない性分である。 小さな火の玉が遠く、高くから降ってきているのを見て、なんか暇だなあ、くろさんとこにでも遊びに行くかなあと翠は嘯いてけんけん地面を蹴った。 |