SAMPLE SITE

SAMPLE SITE

Novel

半夏生/ひょうすべの千草

【ひょうすべ】
九州における河童の別称。全国各地に分布している河童は別称も多種多様であり、ガラッパ、カータロなど川や河が語源であるらしい響きを持つ名称が多い。
しかしこの中でひょうすべ、もしくはそれに似通った名称を使用しているのは九州の中でも熊本県、宮崎県のみであり、これらの地域における河童の特異性を示している。
ひょうすべの由来としてはヒョウヒョウと鳴くものであるから、兵主神より名がとられた、などあるがここで河童とひょうすべを結び付ける伝承をひとつ挙げるとする。
「ヘウスベよ約束せしを忘るなよ川立おのがあとはすがわら」水難避けの歌として伝わるこれは、歌の下敷きとして河童の誓文石なるものが存在している。
これには昔日向薩摩を治めておった橘氏一族に渋江氏なる者がおり、彼の人が河童にとある石の上に花が咲くことがあれば人をひとりとらせてやるが、咲くことのない限り危害を加えてはならぬと河童と約束を交わしたからである。石の上に花の咲くことのないことを知った河童はヘウヘウと泣き悲しんだという。
では、そもそもなぜひょうすべは渋江氏との約束をするに至ったのか。それには更に橘氏の逸話を知らねばならない。
橘氏が春日の社を鹿島から三笠山へ移す時に匠奉行と任命された。その匠頭であった男が匠の秘術をもって九十九の人形を童に変えあっという間に社を作ってしまった。しかしその人形を河に捨てたところ、人や馬に悪さをするようになったので匠頭は慌ててその人形を鎮めて兵主部と名付けた。
兵部という匠頭が主という意味である。兵部は兵主部を橘氏の眷属とした。

参考文献:河童伝承大辞典(岩田書院)
     『郷土研究』第二巻第七号


***

やたらと日の射す、暑い日だった。
一分たりとも光を逃すまいと重なる木の葉のお蔭で、根に近い地面はそれなりに涼しい。それでも暖められた空気がむっと肌について、ここ数日の暑さに辟易した。この調子では魃が通るかもしれない。
黒ノ介がこの地を譲られてからさほど経っていない。といっても百年二百年をゆうに超えて生きる他の者らに比べれば、だが。それでも飢饉を起こすひでりがみが通ったところで、できることはたかが知れている。できるなら、もう少し先がいいのだがなあと溜息を吐いた。言っても詮無いことではある。
クマイチゴやらユリネやらを入れた竹笊を小脇に抱える。蕾を固く閉ざした野菊をいくらか抓んで笊に入れる。下草のぼうぼう生えた中に手を突っ込んで、ハコベをぶちりと毟った。これは差し込みによく効く。タンポポは熱が出た時に煎じて飲めばいいし、クサギは苦いが痛み止めになる。
典医ほどの知識や腕はないが、それでも小さな怪我や病には十分だ。
山神としての神格を与えられたはいいものの、黒ノ介にできることは少ない。東の水神のように水を司ることもできなければ、琥珀のように変化や火気を操ることもできない。他の土地神に言わせれば自分の領分を流れ者や呪詛から守るのが仕事であるから、特別なことなどできなくても良いのだと言うだろうが、やはり人から崇められる以上それに見合ったものでありたいと、黒ノ介は思うのだ。
思い上がりであろうか。
でなくば、無力感か。
ヨモギの葉でそろそろ表が固くなりだしたものをひとつかみとって、薬研などあったろうか、なければ琥珀にでも聞いてみようかと思案する。
立派な稲荷の主であるから、もしかしたら人里から供えられた品にそういうものがあるかもしれない。おおよそ薬師の真似事などしない奴であるから、もしあれば倉の肥やしがひとつ捌けたと喜んで譲ってくれるだろう。

黒ノ介の住処は小高い山の中腹に設えられた奥の院である。元は住み込みの住職でもいたのであろう、竈やら囲炉裏やらが御堂の裏にそのまま残されており、積もった埃と張られた蜘蛛の巣が、人が訪れなくなって随分の月日が経ったことを表していた。
竹笊を土間に置き、野菊だけ抱えて御堂へ上がる。艶々と黒い床板が、ぎいしぎいしと軋んだ。
御堂には見捨てられて相応の時間が経った本尊が静かに佇んでいる。よくもまあ泥棒に入られなかったものだ。錆びて沈んだ色をしているが、三具足など仏具もきちんと揃っている。天狗道に堕ちたとはいえ、元は小坊主である黒ノ介にしてみれば御仏が打ち捨てられているのは忍びない。
素絹と袈裟を白衣の上につけただけの簡素ないでたちで御仏に向き合う。
小さな花をつける野菊を花瓶に生ける。まだ夏だということもあってほとんどが固く青い蕾のままだったが、いくらかは綻んで薄紫の花弁を広げていた。
花を生ける。蝋燭に火をつける。香炉に使う香はどれもしけってしまっていたので、残念ながら形だけだ。
こんな化生に念仏を唱えられても嬉しくはないだろう。しかし外道に落ちてからも仏の教えをこうして持っている身を思えば、手を合わせることくらいなら許される気がした。
一抱えもあるようなお鈴を軽く叩く。御堂全体に響き渡る音色に心を澄ましながら、そっと合掌して御仏を祈った。
お鈴の音色が静かに染み渡ると、早生まれの蝉がみいみい鳴いているのがわかった。蝋燭の頼りなげな灯りだけがゆらゆら揺れている御堂は暗く、冷たい。明け放した格子の向うから夏日が強く射すので、そこだけ白く浮き上がって見える。
視線は埃で薄汚れた薬師如来に向けながら、蝉の声をただ聞いている。ふと去来した思いに目を瞑り、軒先を焦がす日の光に息を吐いた。あくがるとはこのことであろうか。
ゆるゆる目を開く。
鳴いていた蝉が、突如じじっと驚いた声をあげて飛び去っていってしまった。俄かに静まりかえる景色をそっと振り返ると、まだ若いコナラの幹に、羽織を被衣のように被った男が寄りかかって肩で息をしていた。
肌は土気色をしていて、いかにも具合が悪そうである。
思わず立ち上がり駆け寄るうちにも男はずるりと崩れ落ちて地面に体を投げ出してしまう。
「お、おい、大丈夫か?」
若緑色をした筒袖の衣からぬらりと手覆を履いた腕が伸びてきて、頼りなく黒ノ介の袖を掴んだ。
「水を」
か細い声が耳朶を打つ。
「水を、くれやせんか」
触れた額が燃えるように熱い。明らかに熱をもった体温に、これはまずいと男の体に手をかけてぐうと持ち上げた。
「しばし待て」
日光の強い地べたでは、椀に一杯や二杯の水を持ってきたところでよくなりはしないだろう。横抱きに抱えて、御堂の真中、ちょうど日の届かない床に彼の人を横たえた。
日の射さない屋内は冷たく暗い。甕に汲んであった水に椀をどぶりと突っ込み、掬った水も井戸の底にあったかのように冷たく腕を伝った。また、蝉が鳴きだす。
御堂に横たわる背を支えるようにして起こしてやると、男は僅かに身動ぎしたようだった。
「ほら、水だ」
椀を目の前に差し出す。
ひたひたに水を湛えた木椀を黒ノ介から奪い取るようにして男はぐうっと煽り、一呼吸置いて長く大きな溜息を吐き出した。
丸く曲げられた背中を子供にするようにさすって、人心地つくのを待つ。
「もう一杯どうだ?」
「お願えしやす」
うん、と頷いて背中から手を離してやり、もう一度土間に下りる。地面に近いところに汗をかいて苔を生やした大きな甕にもう一度椀を浸して冷たく清んだ水を汲み出した。土間には先ほど抓んできた下草がそのままで置いてある。まだしばらくかかれないからと薄く水を張った盥に笊ごとつけると、わっと青い匂いが立ち込めた。

御堂に入ると、男が物珍しそうに御仏を眺めているところだった。そういえばこの男、右目を白布で塞いでいる。さて病か怪我か、どちらにせよあまり触れるべきではない。
「気分はどうだ」
先程よりいくぶんよくなった顔色にほっとしながら声をかける。格子の外はまだ煌々と日が照り輝いて、肌を焦がすほどだ。日に当てられたんだろう、今日は随分と暑いようだから。言いながら椀を手渡す。少し溢れた水がぱたぱた丸く滴った。
「お蔭さまで」
受け取った水をちびりちびりやりながら男はゆるく笑む。そうして佇まいを武士のするように胡坐に正し、深々と頭を下げた。
「自分は肥の国の生まれ、旅絵師の千草と申しやす。此度はなんと御礼申し上げればよいやらわかりやせん」
顔を上げるように言って、自分はそんな大層なものではないと黒ノ介はゆるく首を振った。
「俺はこの地を治めるものだ。見ての通り、人ではない」
黒い素絹をだらりと床に流した背中には人ならざる者である証の羽がある。
だから人であるお前がそんなに恩義を感じる必要もないのだと、そう笑う。もののけに助けられたなど里に帰ればお笑い種になるだけだ。だからさっさと忘れてしまえと言う。
しかしひとしきり黒ノ介の話を聞いていた千草は爛々と目を輝かせて、それから喜色ばんで前に乗り出した。
「自分は妖怪絵師をしておりやす。描くのは地獄絵やら百鬼夜行やらで。山に入ったのはもののけでもおらぬかと思いやして。それにお恥ずかしい話、食い詰めておったところもあります。土地を治めるのであれば当然、この地のもののけにも詳しいと存じやす。どうか一度、自分の絵を見てはいただけやせんか」
頭を地に擦りつける勢いで頼まれては、元来人の好い性格をしている黒ノ介は断れやしない。半ば押し切られる形で了承する。
「神様に絵を見ていただけるなんて、こんな嬉しいことがありやしょうか」
背に負った巨大な巻物が絵とやららしい。これだけ大きな巻物に妖怪画とは、好事家が喜んで大枚をはたきそうなものだがそれでも食っていけないものか。
大儀そうに荷解きし、ごろりと床に落ちた巻物の紐を解く。鶸の羽色をした、細い色紐。ちょうどこの男の袴紐にあるのと同じ色をしている。
じい、蝋燭の灯りが不安げに揺れた。
鶯色の発装が暗い床板に落ちた途端、ぎゃっと悲鳴のような声をあげて小さなものが二、三、黒ノ介に向かって飛びかかってきた。はっと目を見開く。思わず一つを叩き落とし、もう二つを握りつぶした。手のひらほどの大きさの生き物。爪と、牙と、角が見える。正しく絵に描いたような、鬼の姿。
黒ノ介に握られた小さな鬼のようなものはぎいぃとか細げに鳴くと、じぶじぶ輪郭を崩して消えてしまった。
「何を!」
立ち上がりかける、と同時に声が響いた。
「文車妖妃の書」
男の様相が一変している。目深に被った羽織からぎらついた目が覗く。土気色した唇がそれだけぼそりと呟くと、持っていた巻物の軸を左手でぱあんと大きく跳ね飛ばした。
「鳥獣人物戯画、いかせてもらいやす」
長く地面に横たわる紙には、兎が楊弓するさまであったり蛙が相撲をとるさまであったりが描かれている。ただの絵だ。それが、千草の声に誘われてざわめきだす。
黒い天辺がつぷりと平面を破った。
輪郭ばかり黒々とした細長い二本の楕円が真直ぐに紙から生えてくる。兎の長い耳であるとわかる。
耳が出て、目が出て、前足が地面を掴んだ。
ぞるり、輪郭だけの兎が水から飛び出るように紙の面を揺らす。初めて産まれた馬の仔がするようにどちゃりと体を地べたに打ち付けて、それからのたのたとおおよそ兎とはかけ離れた動きで墨色の瞳を黒ノ介に向けた。光も碌に映さぬ暗い目がにたり歪んだと思ったら、彼に続けと蛙であったり狐であったりが面を揺らしていくつもいくつも産まれ出でた。
のっぺりとした、墨色の群れ。普段であれば害もない、それどころか愛でるはずのそれらに不気味な思いを抱いて一歩後ずさる。足元をびっちり埋め尽くした兎らの手には人間が使う得物が握られていたことも不気味さに拍車をかけていた。
大弓よりも一回り小さい弓矢。何度か見たことがある、賭場で使われる楊弓というものだ。女性でも簡単に射れる小ぶりの弓。
それが自分より一回り小さいだけの獣らの手にある。
「やりなんせ」
真円の瞳が黒ノ介だけを捉え、迷いなく楊弓が一斉に射られた。
びょうと飛んでくる何十という弓はまるで雨のようである。慌てて身を翻して雨から逃れれば、味方の弓矢に当たることも厭わずに蛙やら狐やらが押し寄せてくる。無感動な作り物の目玉にぞっとした。
格子を蹴って外へ。群れに押されるようにどろりと溢れた兎らが今一度揚弓を構える前にと空へと羽ばたく。やたらと木々が多いので枝が煩わしい。早く、早く逃げねば。
「射落としや」
気だるげな声がやたらと耳について、頬を掠める矢にしまったと思った時には、ぶすりと嫌な感触が背筋を駆け上がった後だった。
力任せに背の羽を射抜く矢を引き抜く。血が滴って、ひどく不快だ。
ぐうっと伸びをして太い樫の枝に足をかける。それから大きく身震いをすると、真黒な羽をこれでもかと広げる。
「行け!」
背に広げた羽が散った。
ぶちゅ、墨色の蛙がぐええと喉を潰しもんどりうって倒れる。そのまま地面に墨を流して消えてしまった。所詮は絵であるらしい。
あちらこちらで水風船が割れるのにも似た音がし、その度に戯画の群れが明らかに数を減らしていく。
何が起きている。横目でじとりと辺りを見回す千草の耳に、かぁ、よく聞く声が届いて得心する。烏の群れだ。大きな嘴が狐を屠り、鉤爪の足が兎を蹴散らす。
「なるほど、こいつぁ厄介ですね」
黒ノ介の広げた羽が半分ほど消えているのを見て取って、なんとまあと千草は呟いた。なんとまあ、我が身を削っていることか。
こちらに向かってきた一羽を掴んで無造作に首を圧し折る。ぎぃ、耳障りな音をたてた烏は、予想通り一枚の黒羽に変じて千草の手の中に収まっている。天狗の羽だ。
「どういうことだ、これは」
頬から一筋垂れる血を、拭って問うた。
「どういうことも何もありゃしません。見たまま、自分はアンタの敵でさあ」
暗い御堂の真中に、背中を曲げてずるりと黒ノ介を睨めつける男。先ほどまで鳥獣戯画が描かれていた絵巻物は白く、染みの一つも見当たらない。
「妖怪絵師ってのは嘘か」
「さて」
唇をひん曲げて千草は笑う。のたのたとした動きの兎やら蛙やらでは烏の群れには敵わないらしく、既にそのほとんどがもの言わぬ墨となって地べたに広がっている。
かぁ、かぁ、空を舞う烏が大きく旋回しながら地上の絵を嘲る。空を睨む千草に動きはない。最後の一匹を啄んで、ばたばたばたと羽音をさせて烏らが集う。黒い目玉がきょろりと御堂を覗き込んだ。
「鳥獣戯画じゃあ、ちと役者不足のようで」
ただの墨溜まりとなったたそれらを一瞥して、千草は筆を構える。びちゃりと墨を叩きつけ、濃淡でつらつら絵を描いていく。牙を剥く口、ひん向いた目玉、ぬるりと生えた角。徐々に見目が出来上がるのにつれて、ずるずるとそれが這い出してくる。
「鬼!」
刃物に似た鋭さの爪先が白い紙面を突き破る。先ほどの戯画の群れとは段違いの凶暴さを感じ取って、烏らがざわつきだした。
「出でやせ、酒呑童子」
仕上げとばかりに酒呑童子の文字を右上に入れて、名を与える。途端、木の幹のように太く捻じ曲がった腕が床板を強く叩いて、一気に体を引っ張りだした。
御堂につっかえるほどの巨躯がのそりと立ち上がる。
「本物とは段違いに脆いもんですが……ま、アンタ相手なら充分でしょ」
人の倍ほどもある体躯で鬼が吼える。体に見合わない俊敏な動きが、黒ノ介を捕らえようと迫ってきた。
木の枝を強く蹴って飛び上がる。黒ノ介に合わせるように羽ばたいた烏が次々背に戻って、それで一度空を打つと、それだけで絡み合った木々の間を抜けることができた。日差しが強い。打ち据えるような暑さだ。一拍置いてめぎめぎと音がする。ほんの数瞬前まで黒ノ介がいたコナラの古木が真中から圧し折れて、虚ろな中空を晒していた。
「逃がしゃしやせんよ」
いつの間に仕舞ったのか、巻物を丁寧にも元通り背負った千草が酒呑童子の肩にいる。そうは言ってもこちらはとっくに空へ出て、このまま羽ばたきさえすれば逃げ切れる。敵前逃亡とは情けないが、得物もないまま鬼へ立ち向かう愚は冒すべきでない。
「邪魔な羽は、もいでしまわないといけやせんねぇ」
言うや否や、筆を横に噛み咥える。また何かを出そうというのか、あの男の兵力には際限がない。悟って大きく羽ばたく。
一尺ほどの長さだけ引き出した白地に、何か至って単純な図画を記す。とっくに声は聞こえておらず、小さく鬼の姿が見えるだけだ。
今一度、と羽を震わせる。ぐうんと宙に体を釣り上げる。
「姥ヶ火よい」
それだけ、聞こえた。
鬼が黄ばんだ目玉でこちらを見た途端、焼け付くような痛みに襲われる。羽の焦げる音、肉の焼ける匂いがする。
「っあああ!」
思わず己の肩を掻き抱く。痛い、熱い、痛い! 逃げ場のない裂傷が次々襲って、飛んでいられなくなる。羽が燃えているのだ、と気づくのには暫くの時間がかかった。
落ちる。落ちる。梢があちこちに引っかかって、それでも熱い。雪崩れるように地面にくずおれると、聞き覚えのある声が耳を掠めた。
「えっ、くろさん?」
引き攣れる視界に、鮮やかな緑色があった。
「み……どり……?」
声が出ない。ひどく傷んで、乾いた空気がひゅうひゅうと喉を過ぎ去っていくだけだ。背を焼く炎がじりじりと肉を焦がしながら、新しく現れた獲物に向かって焔を伸ばす。
「なんだお前、消えろ!」
一喝。じゅっと音をさせて消える炎にほっと息を吐く。老婆の顔が浮かんで、口惜しいとばかりに歪んで消えた。
「なんですかいアンタ。消えなんし」
突然入った邪魔をじとりと見つめる。もう少しでこの鴉を焼き尽くせたものを、と見下げる視線を真直ぐ見つめ返して翠は吼えた。
「お前こそなんだよ、くろさんこんなにしたのお前だろ!」
焼けただれた背は見るも無残なありさまだ。羽も燃え落ちて、とうぶん飛ぶことなどできはしないだろう。肉から沁みだした水滴が、脂の上でてらてらと光っておぞましい。
「聞き分けのないお子は嫌いなんですがねえ」
気だるげな声が鬼の上から聞こえる。やってしまえ、と身の丈五間もあるかというほどの鬼が、丸田のような腕を振り上げた。
「切り刻め、鎌鼬!」
言うや否や鬼の腕に幾筋も裂傷ができる。ぱっくり裂けた傷口から流れ出る墨色を、朦朧とした視界で黒ノ介は見ていた。
よもや、と思い至る。動き出したとはいえあれは絵だ。ただの墨絵だ。鳥獣戯画は水風船のように割れてしまって、後に残ったのは墨の黒ばかりだった。あれらは墨だけでできているのではないか。
それなら話は簡単だ。絵は、消してしまえばいい。
痛む背中を抱えながら、黒ノ介が碌に動けないせいでこの場から退くことができない翠を見ながら、必死の思いで前を向く。あさい呼吸。肺腑が心の臓がおそろしいほど痛む。ほんの少し、ほんの少しでも羽が焼け残っていれば。念じるままにぞるりと背から鴉が這い出る。千草に見つからないように、と静かに羽ばたいたそれは、違わず院の裏手へ姿を消した。
「くっそ、でけえ」
思わずそんな愚痴がこぼれるのも仕方のないことだ。まるで巨人を相手どっているようで、手ごたえが感じられない。
つと汗が伝う。どんな傷を作ってやったところで痛覚がないように襲ってくる相手は避けるので精一杯だ。
ちらと黒ノ介を見遣る。息も絶え絶えに体を横たえながら蒼い目をこちらに向ける姿に、ああちくしょう!と言葉を吐いた。
あんな小さな体を置いていけるわけがない。
「そろそろ終わらせてもらいやす」
巨躯が迫る。爪の生えた腕が、牙のある口が、眼前に。
と、鴉が一羽。
小さな小さな瓶を、落とした。
活けてあった野菊が花弁をぼろぼろ落としながら宙に踊り出る。たっぷりの、しかし些細な水が、今にも襲い掛からんとする鬼の腕にかかる。
べちゃり。墨色をした液体が、地面に落ちて吸い込まれた。
はっ、として息を吐く。鬼の爪は翠に届かない。ごっそりなくなってしまった腕を見て、鴉の落とした瓶を見て、それから。
「お前の弱点は水だな!」
右腕から先がどろりと溶けている。断面は黒い。ちっ、と軽い舌打ちが羽織の下から漏れて、ならば話は早いと翠は高々に声を上げた。
「雲よ来い、降れよ驟雨!」
俄かに曇る空に、しくじったと千草が顔を顰める。水神の類か、声には出さず翠を見遣ったところで、突如翠がけたけた笑い出した。
「おれは天邪鬼だ、お前が考えてることなんざお見通しなんだよっ」
ぽた、落ちた雫に、墨の鬼がどろどろ溶けだしていった。
音をたてて地面を打つ雨に、墨は洗い流されてすっかり元の有様を取り戻している。悲鳴の一つもあげることなくじぶじぶ形を崩す墨鬼から飛び降り、後生大事に背負っていた巻物を抱え込んだ千草は、雨に打たれてじとりと冷たい羽織の下から、天邪鬼と名乗った子供を睨め上げた。
「これは、なんとも。分の悪い」
「へへん、今謝れば許してやるよ」
「やぁなこってす」
べえ、と舌を出して口の端を吊り上げる。一帯を洗い流した雨が落ち着いてきたのをみてとって、長く細く息を吐いた。
天邪鬼の子供はこちらを眼光強く見据えている。千草の一挙一動を見逃すまいと、浮いた意識の言葉を聞き逃すまいと。背後を気にしているのは、あの死にかけを気遣ってのことだろうか。剥がれた背に先ほどの雨は余程冷たく堪えたことであろう。
ぬるりと身を起こす。小さな緑色の髪が、随分下に見えた。
「改めて名乗らせていただきやしょう。自分は千草、ひょうすべの千草と申しやす」
腰の得物に手をかける。ぎょっとした表情に胸がすく。銘も入っていない数打とはいえ、刀を持ち出されてはさしもの天邪鬼も余裕ではいられまい。
「いざ、手合せ願いやす」
言って、地を蹴った。
「あっぶね……!」
地面が舞い上がると共に鉄色の輝きが羽織の胸元を右から裂いていって、あとほんの少しでも反応が遅れていれば翠の首は飛んでいたかもしれない。
返す手で真直ぐに刃先が突き出される。
「お前、絵を描くだけが能じゃねえんだな」
「一芸だけの天邪鬼と一緒にされたかないですね。自分はひょうすべ、兵主神の眷属でありやす」
言う間にも鋭い斬撃が繰り出される。いくら心が読める、次の手がわかるとはいえ身体能力の差は埋められない。
いくらか後ろに下がって距離をとろう、ぐっと体を後ろに傾けた時、ぞっとする考えがなだれこんできた。
はっとして千草を見る。うっすら笑んだ口元が、陰鬱な赤い目玉が、おそろしい速度で無防備な背に向かっている。無我夢中で懐剣を引き抜く。刀捌きも何もあったものじゃない、真横から刀をぶん殴る。鈍い音がして、今まさに黒ノ介を刺殺せしめんとしていた凶刃がひぃいんと鳴いた。
「ひどいことしますねえ」
ふらり笑った男を、ぜいぜいと肩で息をしながら振り返る。
「刃が潰れちまうじゃねえですか」
こともなげに、さも当然と言わんばかりに、刀を遊ばせながら男は言葉を弄する。
「ふざけんな、くろさん狙うなんて卑怯だろ!」
「卑怯ってえのは、人間が使う言葉でやしょう」
くそっ、と毒づく。退くことも攻めることもできない、このままでは翠が消耗していく一方だ。
刀同士の切り結びは鍔で受けるのが常套だと、頭では知っている。しかしまともに刀など扱ったことのない翠には、振り下ろされる刃をなんとか受けることしかできない。お守り程度の意味でしかなかった懐剣が役立つなど想像だにしていなかった。
右から袈裟に振り下ろす。とっくに刃先が潰れて鉄塊にも近くなった懐剣がなんとかそれを食い止めるので、すぐに引いて下段から跳ね上げることにする。そちらはきちんと避けられて、これだから天邪鬼は、と千草は胸の中で舌打ちをして、
どん、脇腹に重い衝撃を受けて、思わず肺の空気を吐き出した。
「くろさん!」
黒髪をざんばらに乱して、焼け焦げた衣服もそのままに、泥に塗れた男がそこにいた。
「兵主神でもなんでも、不意打ちすれば脆いもんだ、な」
死に体の男がまだ動けるとは想像だにしておらず、さすがの千草ももんどりうって倒れる。天に張り出した巨木の間近くで踏ん張って、獣のように地面を手足で引っ掻いた。
「この程度でやられるなんて思わねえでくだせえよ」
抜き身の刀がぎらぎら輝く。よく切れる鉄の棒を杖代わりに地面に突っ立てた途端、翠がにやりと笑った。
「残念、そこは森殿なんだ」
耳慣れぬ言葉に、訝しげに千草が顔を顰める。もりどの、だからどうしたのだろうか。刀を地面から抜こうと力をかけ、
抜けない。
何かに掴まれているかのようにびくりともしない。はっと下を見れば地面に張り出した木の根が、刃先に傷つけられてとくとくと血を流している。まるで人間のような、赤い樹液。それがとくとくと、とくとくと流れだし、千草の刀をがっしり掴んで離さない。
「……ぅ」
さざめく木の葉に知らず体が震える。よもや、これは。
「祟りの森さ」
あっけらかんと言う天邪鬼の声に合わせ、突然なんの抵抗もなくなったように刀が地面から引き抜かれる。勢いあまって宙を舞う刃がありえない方向へと跳ね上がり、ぞぶりと千草の腹を貫いて止まった。
「がっ……」
枯葉の地面に這いつくばる。すーっと自重で横に倒れた刃が腹の肉を皮を裂いて、血と脂に塗れた刃先を空に曝け出した。
「どーする? まだなんかする?」
にやにや笑う天邪鬼が憎らしくてたまらない。が、今のままでは何をすることもままならない。
万事休す、と奥歯を割れるほど噛みしめて目を強く瞑った途端、
ぺいん、と猫の皮に張られた弦が震えた。

――童子興をさましいや其悟は無の見也。

節をつけた声と三味らしい音色が高く低く、暗い梢の間に朗々と響く。

――人の血を吸しゝむらをぶくすること。仏の教に有りやいなや。只今とゞまり給はずはしだいしだいに増長し。童子が如く鬼神と成。

「だ、誰だよお前! 姿を見せやがれ!」
答える声はない。ただ語りばかりが耳に届く。べんべんべんべん、三味線の笑い声がこだまして、老いているとも若々しいともつかぬ女の声が再び低く低く流れ出した。語られるは鬼の言葉。

――我らが人をぶくすること能ことゝ覚すかや。面白からんと覚すかや。今はやめてもやめがたき

――きちくの身こそ、悲しけれ。

そう謳い上げた声は一際強く三味線を掻き鳴らし、
「姫の義太夫節、いかがでしたの?」
愛らしい少女の姿をもって顕現した。
突然の雨でうっすらけぶる地面。黒々とした幹をすらりと伸ばす木々も、水気に滲む瑞々しい緑も、泰然自若としてそこにある。白い薄膜を被せた視界に、ぽつりと落とした紅色が鮮やかだった。
結い髪にされずぞろりと長い薄紅。合わせるように着物は今様の赤だ。
「お二方にはお初にお目にかかります。山姫の桃華と申しますわ」
恭しく礼をするのは正しく姫君と言うに相応しい。山姫といえば粗野な山女が多いが、この娘は公家の姫君のような気品を持ち合わせている。
「……何の用だよ」
背後に伏せるひょうすべを警戒しながら翠が尋ねる。よくぞ聞いてくださいましたと言わんばかりににっこり笑む山姫は、その艶やかな唇から高圧的な言葉を吐き出した。
「今日のところは引いてあげますの。だから、千草を渡してくれます?」
「はあ? 誰がお前の言うことなんて」
むっとして言い返せば、途端に桃華と名乗った少女の空気が一変する。あきらかに、もののけのそれ。
「わからぬ子ですわねえ。これは取引ですわ。このまま姫と戦うか、それとも千草だけ返していただけるか。どちらを選ぶんですの?」
べいん、三味線が鳴り響く。伸ばされたままの髪がざわめきだす。
そのまま、しばらく。
「ちぇっ、連れてけよ」
根負けしたのは翠の方だった。このままわけもわからぬ娘と戦ったところで益はないし、引き分けに持ち込めるならそれにこしたことはない。
「ありがとうございます。では千草、参りましょ」
地面に落ちた刀もそのままに、ぼたぼた血を垂らしながら男が歩く。翠も黒ノ介も、それを黙って見ているしかできない。
山姫に従って姿を消す一瞬前、ちらと後ろを向いた真っ赤な目玉の、どろりと底知れぬ暗い感情が渦巻いているのに身震いする。元の通り静けさを取り戻した森は、何事もなかったように日が燦々と射してあかるい。湿った土にぺたりと座り込んで、翠はぼそりと呟いた。
「……ごめんくろさん、逃がしちまった」
乾いてかさついた唇が、いいよ、とだけ動いた気がした。
次:【間章壱・薬師如来の坐すること】

<< 前のページに戻る