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間章壱・薬師如来の坐すること

水煙が次第次第に晴れていくと、蝉が思い出したように鳴き始めた。じわじわじわ、じわじわじわ、それでようやく翠も大きな息を吐き出す。
「おっかねえ奴ら」
桃色と緋色とで自身を飾り立てた山姫と、その後を這うようについていった血色の悪いひょうすべに対しての評はその一言で片付いてしまった。立ち上がって袴についた土を軽く払う。それから少し離れた場所に倒れているであろう黒ノ介を探してきょろりと見回した。最後の最後で無理をしていたから、よもやという考えがちらりと頭を掠める。それを振り払うように森殿の横を通り、木の裏にうつ伏せで体を投げ出している黒い影を見つけてほっと駆け寄った。
「くろさん、大丈夫……なわけないよな。運ばなきゃ」
一番ひどいのは背に負った火傷だ。肌はどろりと爛れ、そこから透明な汁がぷつぷつ浮かんで汗をかいているように見える。膿にもなりきれなかった体液が壊れた肌の隙間から外へ出てきてしまっているのだ。
骨に届くほどの傷はないもののひどい有様であることに変わりはない。うぐぐ、とその様相に翠も声を漏らす。微かだが痛いとうったえかける黒ノ介の意識が伝わってきてじりりと背が爛れるような錯覚に襲われる。サトリというのはひたすらに厄介だ。
ぐったりとした首筋に触れると焼けるように熱い。意識もない。ただ荒い呼吸が聞こえるだけである。どろどろと土に塗れた体躯が地を掻き毟った爪が見るに忍びなく、翠は口をへの字に曲げた。
「ほんと、どーしよ」
言霊を使えばよいではないか、と葵辺りには言われるかもしれないがそれだってどう使えばいいのかよくわからない。傷よ塞がれ、なんて言ってみても意味はないし、翠の腕じゃ黒ノ介を抱えることもできない。雨よ降れと言えば雨は降るし風よ吹けと言えば風は吹く。だが所詮翠の言葉はその場凌ぎに過ぎず、何かを根っこから変えることは大層苦手なのだ。
「そだ、くろさんのお堂……なんか薬とか布とか」
出自のせいか、仲間内では誰より人間くさいのがこの男である。常に誰かのためにあろうという姿勢なら薬やら何やらも常備しているのではないか。人間にするような手当がきくかどうかもわからなかったが、何もしないよりはいくらかましだろう。そう判断し、翠はきょろりと辺りを見渡した。多分、このへん。このへんにある建物が黒ノ介の棲家であるだろう。
ちょっと背伸びをしてみたりあちこち見まわしてみたりするうちに暗い御堂の屋根を見つけて、おっと声を出す。きっとあれだ。
「薬、とってくるからな。ちょっと待ってて!」
言うや否やぱっと駆け出す。近くで木の葉をつついていた雀がちゅいちゅい鳴いて飛び立った。
ざかざか足音をたてて走る。道すがらに黒羽が焦げながら落ちているのを見かけて顔を顰める。あのひょうすべ野郎、とひとりごちれば恨みがましげな赤い目が思い出されてますます虫の居所が悪くなった。
俄か雨を含んだ地面は真上からぎらぎら降ってくる日差しに蒸されて空気をじっとり湿らせている。雨を呼んだのは翠だとはいえ、それもなんだかあの顔色の悪い男のせいにしたくなる。少しばかり泥を跳ね飛ばして、階段の下、石畳の上に草履をほいほい脱ぎ散らかす。そうしてお堂の外にぐるり設えてある縁葛にひょいと足をかけるとそのまま乗り越えてしまった。
唐戸が大開きになっているのは少しばかり気になったが御仏が鎮座している奥の間にはこれっぽっちも興味なく、廊下をどたどた走る。土間とか、あと居間とか。翠が目指しているのはそういう、普段人間が暮らしているような場所である。薬箪笥みたいにわかりやすいものがあればいいが、どうだろう。
床がふと途切れて、三和土で固められた地面だとか、竈だとか甕だとかが見える。土間に出たらしい。何かそれらしいものはないかと見渡す。水を張って、そこに生木であるとか草花であるとかを晒してある盥。まだ瑞々しい野菜は笊の上にあるし、あちらの麻袋に入っているのは米であるとか麦であるとかだろう。
翻って囲炉裏を中心に据えた板間に目を遣ると長持であるとか櫃であるとか、あとは厨子棚が八畳ばかりの中に落ち着いている。
「あ、あった!」
いかにも年季が入っていそうな厨子棚の上にちょこんと収まった薬箱を見つけて翠は声を上げた。両手で抱える程度のそれは、しかし開けた途端に翠をうろたえさせた。
わからないのである。ただ懐紙に包まれていたり、茶入に入っているだけのそれらを一見して判別できるほどの薬の知識は翠にない。
くそっと悪態ついて、ならば次はどう出るべきかを考える。薬はここにある。だがそれを扱う知識が足りない。かといって黒ノ介に頼るわけにもいかない。
誰か、誰かいないか。
ふと、誰かの思考がつるり滑り込んできた。近くに誰かがいる。仲間かどうかは定かでない、人である可能性の方が高いが誰かがいる。
一抹の可能性にかけて翠は目を閉じ、よっく耳をそばだてた。
『ここ、どこだろう』『もう道もなくなっちゃった』
だが、そこにあるのは不安ばかり。言葉の幼さからして子供だろう。山に入って帰れなくなっただけの餓鬼であると知れて、翠は落胆する。
「こんな時に迷子とか、構ってらんねーよ……」
あーせめて都合よく藪でもいいから医学の知識がある奴が通りがかってくんねえかな、なんて都合のいい期待を寄せながら心を澄ます。じくりと背が軋んだ。
焦燥がじりり肺を焦げ付かせるようにせり上がってくる。吐き気さえするようだ。翠は唇を噛むと、その場にどっかと腰を据えて額当てにしていた草木染めの鉢巻を毟り取った。小指ほどの一本角がにゅと額の真中から生えているのがわかる。それまでは鉢金に誤魔化されてほんの少しも見えなかったのが、まっさらな額でやけに目立っている。
胡坐をかく。そんで凛と背筋を伸ばす。胸の奥深くまで息を吸い込めばあさい水の匂いと火種を埋めたままの囲炉裏に残った灰の匂いがとろり混じって香る。長く長くそれらを吐き出すと共にゆるゆると目蓋を閉じていけば、水面より静かな心が翠の胸の内に在った。
耳には聞こえぬ梢のざわめきを呼吸と共に吐き出す。ひとつ息を吐くたびに翠の体を中心として世界はぐんと広がり、やわらかな日差しさえも見渡すことができるほど。その昔天邪鬼の祖先として言われた天探女がしていたように、世界を見下ろさんと翠は静かに心を行き渡らせる。
道をゆく獣の飢餓さえ受けては撥ね退け、鳥のささやきにさえ耳を傾けては顔を背け、地を這う虫の言葉にならぬ意思さえ拾い上げては捨て置いて、そろりそろりと翠の心は広がっていく。
探れど探れど人はいない。あやかし変化も。たまたまなのか常にそうなのかは翠にはわからぬが、ひどく静かな山だ。聞こえているのは迷い子の声ばかりで樵の一人も山に入る様子はない。
先ほどの子供の声はいくぶん遠ざかったようで、山を降りようとしているのが知れる。迷った、どうしよう、なんとか、誰か。とりとめのない思考の隙間に、聞き逃せない単語が混じった。
『孝紫さんに怒られちゃうかも』
その声を認識した途端に翠はざ、っと思考を引き戻すと思いっきり立ち上がった。
「とーやだ、とーやが近くまで来てる」
子供。確かにその声は子供ではあったがただ幼いだけの子供ではなかったのだ。一足飛びで三和土に飛び降りた翠は、裸足のまま森の碌に獣も通らないくさむらに飛び出した。
踏みしだかれた下草が頭をゆらゆら揺らしながら翠を見送る。杜鵑草の病斑にも似た花が頭ひとつぶんだけ飛び出して見えた。
子供の声は先程よりも遠い。明確に山を下ろうとしているのがわかって翠は思いっきり地面を蹴った。大葉子の緑がべたりと指に色をつけるのも構わない。尖った小石やら小枝やらが土踏まずの一番やわらかいところを抉るのも厭わない。そんなものは後回しでいい。
名前と同じ橙色の明るい髪色を遠くに見止めて、翠は思いっきり声を張り上げた。
「とーや!」
子供は気付かずあらぬ方向を向いたままだ。歯噛みして惰性で動く足にもう一度力を込める。と、うぉん、と獣の鳴き声がかるく中空に漂った。
「わわ!? え、えと、あれえ」
獣の声に引っ張られるように橙矢がぱっと翠の方を向いて妙な声を出す。下草の背の高いものが群生しているせいでよく見えなかったが、暗褐色の毛並みをした狼がお行儀よく地面に腰を下ろしている。一間ばかりの距離を駆け寄って、ぜえはあ肩で息をする翠に困り顔で橙矢が口を開いた。
「なんで翠さんが? え、ここってまだ肥後、だったりします?」
「うんそう肥後、って違げーよ肥前だ! な、とーやちょっと来い!」
有無を言わせず引っ張るのに困惑しながらも、何があったのかさっぱりわかっていない、それどころか今まさに迷子になっている橙矢は大人しくそれに従った。少なくとも何か悪いことではなかろう。
まだ水気の中空に漂う中を全速力で走りだしたい気持ちを抑えて翠は橙矢に合わせて少し小走りにしながら手を繋いでいる。双方共に押黙っている。一方は心が急いているせい、一方はひどく不安であるせいで。また自分のもの言いが時折ひどくちぐはぐになることをも小鬼はきちんと理解していたせいでもある。うっかり思ったことや事実と逆のことを言ってしまいそうになるのだ。こればっかりは気性のせいと言い訳してもいい。ならば大事にはいっそ言葉を使わぬが良しである、と翠は悟っておる。
だからこそ来いと言ったっきり一言だって発せずひたすらに荒れた獣道を蹴っているのだ。後ろにある子供の不安げな目つきであるとかこわごわと掴まれた手であるとかもまるっきり無視して。
濡れた葉をしならせて翠が踏みしだいた道の下草が頭を垂れている。そいつをもう一度踏みつけていけば、やがて大きく黒々とした屋根が見えた。
わぁ、と感嘆の声が上がるのを背後に見てとって、翠はあっち、と指差した。
「くろさん、怪我してんだ」
お堂の脇をすり抜けて、裸足のまま灰色の石畳みを行く。それになんだか焦燥のようなものを感じながら、橙矢はなすがまま翠に手を引かれて軽く駆けていく。ちらと後ろを見れば暗紫色をした獣がつかず離れずてふてふと足音をさせて山道を蹴っていた。奥へ奥へ行くにつれ少しばかり抉れたような地面であるとか、生々しい刀傷であるとかが目につく。べたりと黒い液体が広がる地面だとか踏み荒らされた下草だとかを見れば何があったのかは想像に難くなく、そのうえ怪我をしていると翠は言う。あそこ!間近で大きな声がする。木々の暗がりを指したその先に、橙矢もはっと息をのんだ。
だらり垂れさがった腕はろうでできているかのように生白い。そこから繋がる腕やら背やらはひどくやわらかな肉が剥き出しになっていて、焦げて小さく縮こまった皮がところどころにひっついている。なんとも言えぬ匂いが漂った。
「黒ノ介さん!」
ひゅうひゅう風を通す喉も苦しげに閉じられた目も額を伝う汗もそれがおそろしいものの名残であることがわかる。
何かおそろしいものがここを通ったのだ。通って、踏み荒らして、去っていったのだ。ちらちら脳裏に過る赤に息が詰まり、思わず口を塞いだ隙間から息が細く逃げていく。
「は、運ばなきゃ」
なんとかそれだけ言って背後を振りむく。人と同じだけの大きさをした狼がすっかり心得ているとばかりに進み出て、肩を竦め体を低く低く地面に顎をくっつけるほどにする。二人がかりでなんとか意識のない肢体を背に乗せると、それを落とさないようにそろりそろりと賢狼は歩いた。
「なあとーや、大丈夫かなあ」
大丈夫だよなあ、死なないよなあと眉をしょんぼりひん曲げて何度も何度も問う。橙矢にはちいとも答えられない。どこか屋根のあるような、きちんと寝かせられるような場所へ。先程横をすり抜けてきたお堂。こんな山奥にあるとは思えないほどやたらと手入れのされたそれがどういう理由でそこにあるのかを知らない。知らないが、選択の幅など他になかった。
階段を上ってすぐ、外陣の冷たい床にごろりと白に墨色をのせた衣が広がった。狼の背から転げるようにしたためか負った羽が床に軋んだ音をたて、血の気のない顔が僅かに歪んだのを見る。背がぎしり痛んだ。
どうしよう、どうしようとおろおろ辺りを見渡す橙矢につられて翠もひどく不安になる。ひとまずと先程見つけた薬箱を持て来て、どれがなんだろうと問うも橙矢にだってほんの少しもわかりやしない。
目蓋を閉じて冷たい板間に横たえた頬からほたり、汗を落とす彼を助くる手段をうんうん考えて、古く枯れた色をした何が何やらわからないような粉末であったり塊であったりをひとつひとつ見聞して、はっと橙矢はあることに思い至った。
「そだ、石蕗!」
言うや否や階段を降りる。下駄に足を通して、かろかろ音をさせながら外に出るのに翠は慌ててついていこうとする。が、
「翠さんはサラシとか、何か縛るものを探してください」
言われてひっこんでしまう。道理だ。サラシ、サラシねえと辺りを見渡す。そういえば囲炉裏のある板間にそれらしいものがあった。早速踏み込めば長持の、桐でできた白っぽいやつが目につく。妙に真新しいそれを開けてみればほんの少しの衣と、いくらかの銭が入った巾着と、漆塗りの香箱が冷たく沈殿した空気に静かである。やけに生活感のないそれを閉めて、隣に置いてある、こちらはやたらと古いものらしい櫃の蓋を遠慮なくとった。
「見っけ」
今度は呆気なく目的のものが見つかって翠は顔を綻ばせる。古い端切れやらお針子道具やらと一緒くたになっていくらかのサラシが備えてあった。
さほどの時間もなく幾束かの青々とした枝葉を携えて橙矢が戻ってくる。石蕗、と橙矢が呼んだ薬草はまだ若い蕗の葉に見えた。これをどうするのだろうか。煎じるかそれとも擂り潰すか。そうしたら何か金物でも使わねばならないか。そう思いながら見ていると、おもむろに橙矢はその葉をひとつとり、囲炉裏の火で炙りはじめた。
「燃すのか」
問う。いいえ、と返ってくる。
「炙るのか」
今度ははい、とおさない声が答えた。
生葉を炙る。みるみる葉は萎れ熱にうかされた色に変わっていくが、そうなる端から石蕗は笊にあげられていく。四枚ばかり炙ったところで、もう行きましょうと子供は言った。
「どうすんの」
「確か、炙ったのを湿布みたいに貼り付けておくといいんです。どれだけ効くかはわからないですけど……」
語尾がしょんぼりと落ち込んでいくのは仕方がないことだ。その昔家人の言葉を聞きかじっただけの知識であることは想像に難くなく、だが他に術もない。
焼け爛れた背を持ち上げて、赤と白の斑に溶けた箇所に顔を顰めながら葉をあてていく。その上から布をあてて、サラシを巻く。傷口から漏れ出した膿がじくりと白っぽく染みた。
それだけの大仕事をようやくやってのけて、二人は大きな大きな安堵の息を吐いた。ああ大儀だったと。
「あんがとなとーや。助かったよ」
おれ一人じゃどうしようもなくってなー、と屈託なく天邪鬼が笑う。橙矢自身にもさしたることはできなかったので少々くすぐったさを覚えながら先程から忘れられている薬箱を手にとって外に放り出した薬らをひとつひとつ仕舞い始めた。
「あ、これ。艾葉って書いてある」
「がいよう?」
「よもぎのことです。ちっちゃい頃にお医者様からちょっと聞いてたんですよ」
得意げに言う橙矢は小さな囲炉裏の火種を掘り起こして藁をくべ始める。なんだなんだと覗き込む翠に小さく笑いかけると、陶磁の釣り釜に水をたっぷり汲んで囲炉裏の上に釣り下げた。
「よもぎは熱冷ましになるから、お茶にして飲むんです」
少しでもよくなりますように。そういう心が行いに現れているようだ。ふと、翠はこの小さなこどもに手を伸ばすのを躊躇った。躊躇って、どうしようか迷って、結局囲炉裏に薪を突っ込むだけで済ませる。
それに気付く様子もなく陽だまりの子供は乾燥したよもぎを煎じて、茶にして、ぬるいくらいの温度になるまで待ってから相変わらずおそろしいほどの無表情で横たわる黒ノ介にちびりちびりと飲ませていった。嚥下はできるらしいことにほっとしつつ、橙矢は汗で湿った髪を掻きあげてひどく痛々しい白さの背にそっと手を添える。
「なんだ? それ」
なんでしょうねえ、なんだかやりたくなってしまって。いつか母がやってくれたようなことを橙矢もやってみたくなっただけかもしれない。だがそう答えるのもなんだか気恥かしくて。苦笑しながら、おまじないですと誤魔化した。
「痛いの痛いのとんでけって」
触れない空間、包帯と小さな掌の間。僅か一寸ばかりの空気の中に波立つ温度がある。いたいのいたいのとんでいけ、お山の向こうへ捨ててこい、口ずさむ言葉をほんの少しだけ羨んだ。翠には、そういうことはできないので。
しずしず落ちていく日は見事な茜色に木々を染める。長く伸びた影にみぃんと蝉が混じった。
「……閉めよう」
大きく開かれた唐戸を閉じると、すっかり夜だった。

息を潜める夜を終えて、麓からだんだんと起き上る朝を迎えると、じきにじんわり汗が滲むほどの昼となった。黒ノ介はまだ滾々と眠っている。
さてどうしようか。橙矢はどうするのかと聞けば自分は黒ノ介さんに御用があってきたのでと返され、ならば自分も彼が無事目を覚ますまではここにいようかと欠伸をひとつ。とはいえできることなどそうそうない。
せいぜいが苦しそうなら汗をぬぐってやり、時折死んでいないか脈をとるくらいだ。あとはどうしようかなあと翠はぐるりお堂を見渡す。主人が寝込んでいることもあって結構好き放題させてもらっているが、やはり落ち着かない雰囲気であることは確か。
外にでも出て鳥をとって遊ぼうか。それともこの暑さだ川へ行くか。
そうだ橙矢はどうしよう。まだ黒ノ介にくっついて甲斐甲斐しくやっているのだろうか。
「とーやー」
呼んでみる。あかるい廊下からは一向に返事がない。
「とーやどこだー」
ひょっと内を覗いてみる。開ききった唐戸から光が射す室内はやわらかに明るい。広い外陣より奥、須弥壇より一段ぶん下がった場所に、探していたこどもの姿があった。
なにやら静かだと思ったら、この小さな座敷童はよく磨かれた内陣の板間の上にちょこんと腰を落ち着けて、人間の身の丈よりずっと大きな仏像を眺めている。最初ほんの少しも気にとめていなかったそれは、薬師如来の姿を写し取ってある。やけに古い薬などが納められていたことに妙な実感を抱きながら翠も橙矢の隣に腰を下ろした。
「黒ノ介さんは、多分毎日本堂を掃除して、薬を作って、花を活けて、そうして慎ましやかに過ごしていたんですよね」
塵ひとつ落ちていない桟。すべすべと滑らかな手触りの床。呼吸は澄んでおり、高杯には瑞々しい水菓子が供えられている。ちら、と消えかけの蝋燭が揺れた。
なるほど柱も壁も床も長年放置されていたとは思えないほどだ。だがそれがどうしたのだろうと橙矢の視線を追って、少しばかりの寂寥感が彼から流れ込んできて、翠はああと声を出した。
この御堂で一番大事にされていたであろう、最も尊い、薬師如来だけがくすんで錆びた色をして静かに埃を被っていたのだった。
潔癖なまでに清められた室内においてその御仏ばかり人が去り、そうして黒ノ介がやってきてからも誰にも手をつけられることなく瞼を閉じている。光背を現す精密な細工さえ今はところどころ模様が潰れ昔のような輝きを放つこともない。
翠は御仏とは生まれながらに縁遠い場所におったものだから、ふくふくとしたその容貌が何を考えているかさっぱりわからない。このお堂にいる誰も彼もが御仏に背を向けたいわば外道であるので恐らく誰にもわからない。それでもなんとなく、微かにではあるが、黒ノ介ならばこの真鍮製の微笑の意図を知っているような、そうしてそれはただ知っているだけであるような、そんな考えが去来した。
それがいくら翠らにとって不幸であると誰かが叫ぼうとも仕方のない事実だ。そういう風に生んだのは誰かを貶めて自分が御仏になりたい意思であるし、六道の輪から外れ隔たった何かに対して言う言葉でもない。
みぃーん……蝉の声がごくごく近くで響いて、大開きになった唐戸からぶぅん、と六つ足のものが短い翅を震わせ空を漂って入り込んだ。水菓子の少しばかり萎れた果皮に翅を休め、こそりこそり抜き足差し足這いまわる。みんみんみんみぃー、疲れたと言わんばかりに息を吐く蝉と、青く晴れ渡った夏空と、風もないお堂の暗い板間とに、首筋から伝った汗がほたりと円を描いた。
「かわいそうだなあ」
ふと、拙い声が広い空間に響いて翠は瞬きする。
こどもは言う。人間であった子供が言う。哀れであると言っている。その心は確かに憐憫に満ちていて、翠は思わず声を出した。
「誰が」
誰がかわいそうだというのだろうか。この人間であったこどもの目には誰がかわいそうに映っているのだろうか。
若竹色した瞳がふと翠の方を向いて、それからたったの一言。
「ほとけさま」
それだけでなんだか翠はすとん、とあるべき場所に落ち着いたような気がした。目の前に聳える御仏の姿を見る。人から打ち捨てられ辺りをうろつく鳥獣からは見向きもされず静かに埃を纏っていったその姿。果てには盗人から運び出され融かされ贋金にでもされるのだろうか。
かわいそうだなあ、こどもはもう一度言う。なるほど確かにそのみすぼらしい姿をした薬師如来は、『かわいそう』だった。
「とーやは優しいなあ」
きょとんとした小さな姿の隣に座り込んで、背をまあるく屈めて、御仏の足元の、ゆるく曲線を描く御衣に目を遣りながら翠が言う。
「そうですか?」
それは人間一般が持つごくごくありふれた感情であるのかもしれなかった。それでも。
「優しいよ」
明るい陽光の色をした髪の毛をぐしゃぐしゃ撫ぜて翠は目を瞑る。くすぐったさに揺れる声も、ほどよい子供の体温も心地よい。日向で昼寝をしているような柔らかさに、翠もつられて小さく笑った。
薬師如来も変わらず、笑んでいた。


黒ノ介が目覚めたのはそれからさほどもかからぬうちだった。
ふーっと吐いた長い息と共に穏やかな目蓋が開き、青灰色の瞳がちらちらと暗い御堂の天井を見遣った。
「気がつきました?」
まだぼんやりとしている視線に苦笑しながら橙矢が彼の人を覗き込む。はくはくと陸に上がった魚のように口を開き、次いで喉に手を遣って顔を顰めるのを見てとって、椀に水を満たして渡し、体をゆっくり起こしてやる。意識こそしばらくたゆたっていたが一度椀に口をつけるとそれを一気に飲み込んでしまった。余程渇いていたらしい。
「橙矢、か」
まだ棘の刺さったようないがらっぽい声。それにはい、と答える。続けざまに翠はどうした、と聞くので外に魚を捕りに出ています、そう言った。
力ない声がそうか、と。それだけで彼の無念であるとか安堵であるとかがふとこの八畳ばかりの部屋に広がって、覚りなどできたためしがない橙矢であっても目蓋を伏せたくなるような思いにかられた。
「黒ノ介さんに書状を持って参ったのです」
それでも、自分が言わねばならぬこと為さねばならぬことを達するためにその感情を無視して声をかけると、それだけで青灰の瞳に理性の光が宿る。
「紅輔さんとか、葵さんとか、あと琥珀さんとかにも見せなきゃいけなくて。黒ノ介さんの協力がいただければ地を行くよりずっと早くに着きますから」
「翠は」
もう見たのか、という問い。それには答えず橙矢はかわいらしく小首を傾げる。
「もうすぐ来ると思います」
言うに違わず、内陣――奥の院の方向からばたんばたんといかにも騒がしい足音が聞こえて間もなく、彼が好んで着ている翠色の羽織が視界にはためいた。
「くろさん気がついた!」
息を切らして言うのが疑問形でないのは彼が天邪鬼であるが故だろう。ついでに大きな一歩が地を踏みしめて橙矢に抱きついて抱きすくめて勢いのままつんのめり布団に転がって二人してぎゃーとか言って笑った。黒ノ介が寝ている布団の、足元ぐらいにころんころん転がっている子供二人を見て黒ノ介もふと優しげな息を漏らす。外見ばかり十ほどの子らだ。その様子を微笑ましいと思いこそすれ、疎ましさなどちいともない。
「ちょ、ちょっと勢い止まんなかった!」
ぶつかんなかった?くろさんへーき?と上体を起こして笑う子どもらを真直ぐな背で眩しげに目を細め、黒ノ介は構わない、とだけ答えて翠のぼさぼさに乱れた髪を手櫛で梳いてやった。
「な、撫でんなよ」
子猫のように大人しくしながら言うのに、悪い、と言って手を離す。
手を引っ込めるとそれはそれで不服そうな顔をする。
どっちだよ、と言いながらもう一度髪を撫でつけてやると、今度は正解だったらしい。天邪鬼め。
布団に埋もれていたまんまだった橙矢がきちんと居住まいを正して、やたら恭しく翠と黒ノ介に三つ指をついた。
「筑紫洲の南を領分とする者より、文をお持ち致しました」
つくしのしま、と今を生きる者の誰もが使わない古き名にぴり、と静電気にでもあてられたかの如く翠が背を伸ばした。神代のことばだ。
袂から取り出した白い書状。ちいさな掌で差し出された書状を受け取り、解く。長く白い紙に墨色の鮮やか。
それは時候の挨拶もなにもない、突然本題に切り込むというある種孝紫らしいものだった。御世辞にも達筆とはいえないが、読めないことはない。読めればそれでよいという実利のみを見た孝紫らしい文は、先ずこう記されていた。
曰く
【山姫の桃華と名乗る娘、襲い来たり】
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