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妹背山婦女庭訓/山姫の桃華

【山姫】
山女、山姫、もしくは山オナゴと呼ばれるもの。いずれも九州に伝えられる妖怪。地域により差異はあるが、熊本では山女、大分では山姫、宮崎では山オナゴと呼ばれている。
山女は節のある長い髪を持ちゲラゲラと笑いながら人の血を吸うと伝えられ、山姫は地面にとぐろを巻くほどの長い舌を伸ばして人の血を吸い、そして山オナゴもやはり同一に人の血を吸うと言われている。いずれにしてもこの妖怪は山中で出会うこと、女であること、出会えば血を吸われることが共通している。
しかしこれは明治になっても目撃例または村人が山女を殺したという例があり、その正体は狂女ではないかというのが近年における共通認識となっている。

参考文献:妖怪事典(毎日新聞社)


***

群れを離れたのはほんの三日ほどの話だった。
麓の人からのたっての願いのせいである。近頃桜島と呼んでおる島から見たこともないような煙が立ち上って恐ろしい。どうかどうか神様我々に何事もなきようにとわざわざ孝紫ら狼どもがねぐらにしている山に立ち入って拝むものだから、これは仕方がないと重い腰を上げたのだ。
人より一回りも二回りも大きな体躯をした狼の姿のまま口を開くと都合よく重苦しい声になる。それをいいことに孝紫はいかにも神らしく厳かに男衆に語りかける。男衆からすれば桜島の煙も恐ろしいがこの狼神もさぞかし恐ろしかろう。腰がひけておることには言及してやらぬ慈悲を見せ、孝紫は気だるげにそれを了承した。
島から煙など。
まだ五十かそこらしか生きておらぬ男衆は知らぬであろ、桜島という島は時に癇癪を起こしお山の天辺からひどくどろどろとした腹の中をぶちまけることがある。それだけだ。ここより北にある霊峰阿蘇も似たようなもので、やれどいつもこいつもといっそ呆れかえる。
しかしこうまでされては動かぬわけにもいかぬ。まだ癇癪まで間があるのならそのままでよいと答えてやり、猛り狂うようであればそう神託を下してやらねばならぬ。
こればっかりは祀り上げられている以上やらねばならぬ礼儀であると孝紫はきちんとわきまえておる。わきまえておるからこそ僅かな供を連れて群れを離れたのだし、それが正しいか否かはその時気にするべきことでもなかったのだ。

桜島は噴火の様子を見せてはおらなんだ。
ひさひさと積もる灰こそ常よりいくらか多いものであったが、火を噴くかと尋ねればさほどではない。背に降りかかる灰をうっとおしげに落としながら孝紫らはやれやれと舌を出す。とんだ足労であった。
帰ると言わんばかりに四、五匹の連れに背を向けると、孝紫よりいくぶん小さい――といっても人の丈をゆうに超える――狼どもはひゅうんと一度鳴いてその背に従った。
獣の健脚でもまる半日はかかる道程を、途中で餌を狩り身を休めとしながら行く。どうせ急ぎでもない。
妙だと足を速めたのは自らが棲みかとする山に入ってからのことだった。
孝紫を頭に据えたこの群れは大きい。元々神の山と呼ばれていた土地ではあったが孝紫が神威を得てからというもの人間もおそろしがってみだりに立ち入ることもなく、また餌となる鳥獣も十分におった。狼同士の食い合いなど言うに及ばず起こることもない。
だというのに、何もいない。
かさりと木々が鳴る音もなければ子犬のようなじゃれあいの声も聞こえず、木々すらひたすらに森閑としたままだ。
日もすっかり落ち、生い茂った下草をかさこそ分け入りながら進む。時折辺りを見渡し低く遠く吠えるも、答える声すら聞こえない。これはいったいどういうことだ。わけがわからぬまま寝床へ向かうと、そこでようやくきゅうんと寂しげな鳴き声をさせて、体の小さな狼がびっこを引きながら孝紫の元へ歩いてきたのだった。
怪我をしている。が、血はほとんど流れていない。どうにも奇妙な傷をこさえた奴は頭を垂れると近くの茂みから自分と同じくらいの大きさの狼を咥えて引っ張り出した。ぐったりとしたそれ。目はどろりと開き濁っている。
やはり、奇妙だ。
死肉の匂いが微かにし始めた仲間を鼻で小突くも応えはない。遠くで先程の小さい奴がひゃんひゃん鳴くのでそちらに目を向けるとやはり腹を天に向けてぱったりと倒れている狼が目についた。
眠っているのか、倒れているのか。だがそちらに近づいたところで、まるで道しるべのようにぽつぽつ草むらに身を横たえている仲間らの姿が目に入り、皆屍となっているのだということにようやく気がついた。
はっとして駆け出す。後についてくる。骸となって転がる身を後ろに後ろに見ながら屍でできた道を走る。血の匂いがしない。これっぽっちもだ。それで孝紫らは彼らがとっくのとうに息絶えていることに気づくことができなかったのだ。
ごろりと横たわった死骸は無限に続くように孝紫らを誘っている。沢を横目に地を蹴るも、いつもならひょうひょう言いながら川を渡る水虎さえこの夜に限ってはなりを潜めている。いや水虎だけではない。山全体が何かに怯えているように縮こまって、すっかり息を殺しているのだ。
奇妙だ奇妙だとひっきりなしに言う自分の思考を抑え込んで、とにかく孝紫は駆けた。腹の底から吠える。そうして逞しい前脚で地を掴み、強い後脚で地を蹴った。やわらかい土がめくれあがり苔がぱっと舞う。笠を開き始めた茸をぶちゃりと踏みつぶす。それらに一瞥もくれずひたすらに駆け、山の主が帰ったぞとあらん限りに吠えた。
悲哀と激高との吠え声は山中に響き渡り――ついに下手人の耳にも届いた。
「あら」
ぺいぃん、静かな渓谷に弦をつまびく音が響く。滔々と流れる水音と、掻きならす三味の音と、それから

――古は神代の昔山跡の 国は都の初めにて

優雅に言葉を紡ぐ娘の声ばかりが鼓膜を震わす全てであった。
静かである。静かである。

――妹背の初め山々の 中を渡るる吉野川

娘の腰かける岩の足元にごろごろと転がっている彼らが実に静かに死んでいる。ぺしゃりと腹を凹ませて、骨と皮ばかりになったように虚ろな目で、派手ななりをした椿の花飾りを揺らす娘の歌に聞き入っておる。

――塵も芥も花の山 実に世に遊ぶ歌人の

ここにあるのは国を作りし華やかたる妹背の山などではない。娘が作った屍の山だ。
無念である。無念である。
誰も彼もがそう言って泣いておる。

――言の葉草の捨て所

そこまで聞いたところで、孝紫は辛抱することを止めた。雷の如き咆哮が静かであった渓谷に轟き、娘の声を遮る。巨体を崖の上からぬっと現し真っ赤な瞳が爛々と娘を睨めつけた。
「ようやっと現れましたのね。姫、すっかりお腹いっぱいになっちゃいましたわ」
どんな屈強な男でもあまりの恐ろしさに逃げ出すであろうこの状況でも、娘はちいとも臆することなく艶やかに笑っている。木ばかりできた小ぶりの三味、あれはゴッタンというのだったか。そういうのをぺんぺんと弾きながら涼しげな薄藍の目で笑んでいる。花の如き雰囲気をした娘だ。首ごと地面に転がる椿の佇まいだ。
「娘子よ、貴様何者か」
最早この娘が群れを殺戮して回ったことに疑いの余地はなく、孝紫は語気を強めて問うた。ざらざらとした声が言葉という形をとって薄明るい岩場に転がっている。それをひょいと拾い上げて娘は紅色の唇を吊り上げた。
「桃華と申しますわ。ワルカー三傑が一人、山姫の桃華とお覚えくださいましな」
孝紫の強い視線を真っ向から受け止めて桃華は笑む。笑む。
轟、と吠え。途端に孝紫の背後に控えていた狼らが崖を蹴って娘に襲いかかる。鋭い牙が爪が月下に閃いて石ころだらけの河岸を一足飛びで駆けていく。
「まあ、お行儀の悪いこと」
腰かける娘は泰然として、それに違和感を感じる。奇妙だ、奇怪だ。それは最初からあの娘に感じていた不自然さで、
ぎゃうん!と大きな悲鳴をあげてひっ飛んだ狼の姿に、孝紫は思考を眼下に向けた。
娘に肉薄していた一匹が大きく跳ね飛ばされ脇腹から血を噴き出している。むっと鉄の匂いが強く香った。娘はその場から一歩も動いてはいない。どころか手指さえゴッタンにかけたままで何もしていないかのようだ。
唇は愉悦に歪んでいる。眼は楽しげに細められている。何かをしたのは確実なのに、それがわからないから他の狼らも一度足を止めて攻めあぐねるようにぐるると喉の奥で鳴いているばかりだ。
うぉん、果敢な一匹が飛びこむ。牙を剥き出しにして娘へ。それがいとも当然のように阻まれるのと同時に、孝紫は桃色の長い何かがか細くか細く網のようにして狼を遮ったのを見た。
髪の毛だ。
山姫という名はそうだ、山女の別名ではなかったか。山道にぼろぼろの衣装で現れる狂女。長い髪を振り乱し地面に潜らせ相手の血を啜るもの。
地面からぞるりと髪が天に向かって生えてくる。ごろりと重い石を押しのけて、生命力溢れる若芽が伸びるように真直ぐ。真直ぐ。娘の笑みが深くなった。可視か否か、それほどまでに細い髪が幾筋も地面から生え、ゆらゆらと狼らを嘲っては獲物と狙いを定めている。
「姫を侮らない方がよろしくってよ」
細い指と丸っこい爪で弦をつま弾く。それに合わせてゆらりと揺れる髪がざわめいた。
と、立ち上がる髪の群れが一斉に狼らに襲いくる。孝紫のいる崖の上までは届かぬようで、娘の凶悪な髪は全て崖下の狼らに向けられている。そうしておいてにたにたと笑っている。趣味が悪い。
数本が纏まって強靭な縄のようになっているのを軽やかに避けながら、しかし無数に生えた髪の毛の細いものに絡めとられて一匹、次いでもう一匹と悲しげな声を上げていく。
次第に押される戦況に、孝紫もようやっと身を屈めて娘に飛びかからんとする。じっと観察しているだけだった瞳を赤く滾らせて、崖の縁を強く蹴って身を中空に踊らせた。
「待っておりましたわ!さ、大人しく姫に殺されなさ……」
しかし、巨大な狼は桃華の頭上を軽々と越えて地鳴りがするほどの衝撃と共に着地し、そのまま背を向け走り去ろうとする。
「っ、逃げるんですの!?」
追随するかの如くばらばらと場を離脱し始める狼どもにも困惑しながら桃華は非難の声を毛だらけの背に投げつけた。その程度の言葉ひとつで獣の歩みが止まるわけもない。
「ふっざけんじゃないですわ!」
あの狼は、頭の自分さえ生きておればよいとでも判断したのか、それとも桃華をとるに足らない相手だと判断したのか。どちらにしろ桃華にはひどい屈辱でしかない。月の微かな夜だ。常よりずっと暗い夜だ。ここで取り逃がしてしまえばあのひどく無礼な狼の頭を獲るのは難しくなる。決して逃がしてなるものか。

さて、と孝紫は娘の姿が見えなくなったところで渓谷を流れる小川をひょいと飛び越え森の中へと身を隠した。逃げるつもりなどさらさらないし、いくら自分が留守にしていたからといって群れを殺戮してみせたあの娘を侮ってもいない。ただ、少々分が悪いとみて一度下がらせただけである。息のある兵は六匹ばかり。うち二匹はそれぞれに足と腹とを負傷しておる。どのようにするのが一番よいか。髪切りでもおれば娘の背後から忍びより、しょきりとその髪を噛み切ってもらえるが、生憎それを探しているような暇はなかろう。あれは街にあるものの怪で山には縁が薄い。そうでなくとも今は誰も彼もあの娘を怖がって身を潜めてしまっておる。
さあどうしてくれよう。自分らの寝床を縄張りを荒らしまわった不届き者にはどうしてくれよう。熟考しているうちに巨躯がじわりじわりと小さくなる。鋭く伸びた爪は丸く、毛だらけの手足からは毛が消えていきつるりとした浅黒い肌が現れる。口の突き出た獣面も次第に丸っこく姿を変えていき、裸足が地面をぺたりと踏む頃には真っ赤な瞳と短く刈り込んだ暗紫の髪色だけそのままに、あとはすっかり人間の少年と変わらぬ姿へ転じていた。
「……種子島を持ってくる」
紫色の小袖をたすきで縛り上げながらぽつり、それだけ言った。それだけで狼らはこの主人が何をしようとしているのか悟って、口ぐちにひゅうんと鳴いてみせたのだった。
「人の真似は好かないが、まあ仕方あるまい」

山女は血を好む。それは山姫と名を変えても不動の事実で、山女が狂人と呼ばれる所以でもある。
それが人間であろうと獣であろうと彼女の気に止めるべきことではなく、血を好む故に発達した嗅覚が、何者かの血液が流れていることを嗅ぎ分けたのは当然のことだった。
「血の匂いがしますわね……あの狼どもの血かしら」
確か数頭には傷を負わせていたはずであるから、こんな山中で血を流しているとなればそれらの可能性は高い。なみなみと水を湛える渓谷の、白い巨石から飛び降りる。とうに食い果たした亡骸の山に石を蹴り飛ばして桃華は漆塗りの三枚歯下駄をごろりと持ち上げた。
「まったく、粋というものにはほとほと苦労しますわ」
わざわざこんな歩きにくいものを履いて、わざわざ動きにくい衣装で。だがこれが粋というものだと言われれば確かに素敵なのだ。女という性のせいか美しい衣には目がないし、繊細で潔癖な西洋刺繍にも心躍らせる。花魁が洒落に履く三枚歯下駄だって背が高くすらりとして見える。桃華は髪を操りゴッタンを弾くばかりであるのでさほど動きもせぬだろうとたかをくくった結果がこれだ。おかげで取り逃がしてしまった。
いっそ脱いでしまえばよかろうが、彼女の美意識がそれを阻む。折角綺麗にしてきたのだから、それを損なうなど勿体ない。
「どうせ血の匂いを辿れば見つかりますものね」
灰色めいた夜の青さに目を眇めて娘はかろりかろり歩く。川に沿い、下流へと。とくとく落ちる水と白く年輪の刻まれた岩ばかりが月光をきらきら跳ね返してあかるい。水にひたひたと顔をつけた苔がゆうらり揺れていかにも眠たげだ。それらを尻目にゆったり歩いていくと、血の匂いはますます強くなった。
鼻を鳴らす。見えぬ血水の道を正確に辿って桃華は狼のあとを追う。
白い岩肌にぽつりと赤。爪で引っ掻いたような二本線。流した血を知らず知らずに蹴ったらしい。なんて不用心なと桃華はにんまり瞳を三日月に歪める。点、点と掠れる足跡型の血痕は川を渡った向こう側の岩肌に続き、やわらかい地面でぷっつり途切れた。なるほどここから森へ入ったのだ。
木々に紛れようというのか。その程度で山姫の鼻を誤魔化せるものか。狼らはいずこや、と川に背を向け、
どうっ、とくぐもった音が耳の傍を掠めていった。
桃色の髪がはらはらとひと房零れていく。途端、小姓の蟲がぞるりと頭を這ったような怖気と激痛を感じて桃華は目を見開いた。
「うあ、あ、あああ」
後ろだ、後ろを向けと自らに言い聞かせる。倒れそうになる上体を無理矢理捻ってぎょるりと目玉をそちらへ向ければ、川向こうにあるのは土くれと白い石の転がった山壁と、それにがっしり根を張るつるばみの木、それから影さえ見えないほどのくろぐろとした虚空が控えている。
何をしたかはわからないが、何かがこの奥にいる。確認すると同時に再び音が鳴る。今度は遠くの宙を切り裂いて石を抉る。硝煙の匂いが鼻を掠めて、桃華はこれまでになく顔を顰めた。
「あんたよくも、かなものの武器を使って……!」
嫌な匂いだ。大層嫌な、腹の底から嫌悪する匂い。黒鉄やら赤金やらで作った、かなものの匂いがする。
くぐもった音が三度聞こえた。反射的に身を屈めると、ふわり浮いた髪の毛束がいくらか持っていかれて、桃華はひぃっと声をあげる。
「このっ、人間かぶれの卑怯者が!」
音のする方向に足を踏み出せばばしゃりと音がする。浅い水底に三枚歯下駄が濡れそぼり、折角綺麗にしてきたのにという思いがはっと桃華を押しとどめた。
「人間かぶれはお互い様だな」
今までの寡黙さを破ったのはあのしゃがれた大狼のものとは似ても似つかぬ少年めいたおさない声。少年から青年への過渡期のような、低くなり始めた子供のそれ。それが古狼と同じ静かな怒りと桃華への侮蔑をもって言葉の形をとっている。
暗い暗い木々の奥からゆたり姿を現したのはその声が示す通り年端もいかぬであろう少年で、だがしかし爛々と燃え盛る赤銅の瞳には見覚えがある。
「あら、人化もできぬほどの下郎かと思えば……そんなに可愛らしくなってしまわれて」
「不要ならしない。だが、お前相手にはこちらが良いと判断したまでだ」
ふん、と桃華は油断なく目を眇めた。自分よりいくぶん背が低いであろう浅黒い肌の少年。その手には一昔前に人の間で流行った銃火器、いわゆる種子島が無造作に握られてまだうっすら白い煙をあげている。桃華の大嫌いな黒鉄と火薬の匂いがぷうんと鼻について胸糞悪い。そも、物の怪にこの匂いが好きな奴などいはしまい。
だが、どれだけその匂いが鼻につこうがどれ程吐き気を催そうが桃華にとっては些末なことだ。隠れていた、探していた獲物が自分から出てきてくれた。ああなんて手間の省けること!
「果たしてその判断、正しいものかしら」
にんまり笑む女性に訝しげな視線を遣るも、その意図が知れるわけがない。何かしでかすか、察知して種子島を構える。火縄の燻る白煙がほの揺れて、ばちんと火蓋が落とされた。
「撃てるものなら、撃ってごらんなさいな」
銃身を当てがう焦げ色の頬。照星を覗く紅玉の眼。今では骨董品扱いされていてもおかしくない前時代的な引き金に指をかけ、呼吸を一つ、二つ。三つ目で。
砲撃の如き炸裂音と共に銃身が大きく上を向いた。鉛弾がつんざく空気の中。ひらりとした赤と白の裾も長いお袖も地面に汚れるのを仕方なしとばかりに娘は思いっきり身を屈める。ばしゃり、水が跳ね上がる。その上を銃弾が掠めて飛んで、向う岸の木にびすりと食い込んだ。
「引っかかりましたわね、お馬鹿さん!」
ぶわり舞い上がる桃色の毛髪が意思を持っているかの如くざわめく。地面にひさひさ落ちたと思えば一拍の後にそれらは考紫の足元から真直ぐ真直ぐ天に向かって生えだした。
「っ」
息を呑む。串刺しにせんと血を求めんと蠢く桃色はまるで蠕動する蟲の腹や脚にも似ておぞましい。やわらかな地面から無数に顔を覗かせるそれらから逃れんと身を翻す。軽く跳躍、枯れ葉もほとんどない剥き出しの木の根に右足をついた、途端に蜘蛛の糸が幾重にも巻き付いたかのように動かなくなる。否、事実巻き付いているのだ。桃色の毛束が正確に考紫を捕えて、それに自重をとられた考紫は成す術なく倒れこむ。せめてと銃を放り出し無理に体を捻って背中から地面に落ちる、刹那に娘の醜悪な笑みが目に映った。
ぶっつり。
腹の裂ける音がいやに大きく耳の奥で響く。鋭く尖った構造物を形成しながら伸びる有機物がいくつもいくつも。珊瑚のそれのような光沢すら得た針が絡めとられた右足を軸として円状に展開している。ぐぼ。肺から気管に血液が遡上してひどく噎せる。腹やら胸やらに空いた穴をざりざり擦りながら悪趣味な針が満足げに地面に潜っていく。支えるものがなくなった体躯は重力に負け、右の肩から落ちた。
頭を揺らして地に伏せる。噎せるとびちゃべちゃあかぐろい液体が体の奥から湧き出てくる。あっという間に舌が鉄錆の味一辺倒になる。いっそ魚でも住み着いていそうな水気を満ちさせた肺ごと吐き出してしまおうとまた喉を痙攣させた。ごぼごぼ口腔から零れる雫がやたらと熱い。火傷でもしてしまいそうになる。ひりついた舌。胸から脇腹からとくとく流れる命の水が地面に広がって、染みて、くらい地面にもっと黒い円を描き出す。ああ不快だ。痛みや熱さや寒さより胸がひどく不快だ。こびりついた水がいくら咳いても出ていかない。
「いかがですの?姫の髪は。素晴らしいでしょう」
ころん、ころん、人間めいた下駄の音をわざとらしくさせながら娘が平らな石を蹴る。背後に続く桃髪はやはり長く、ずるりと地面を擦っては川底をかき混ぜて濁った水を巻き上げている。怯えて小魚がひゅるひゅる逃げ惑うのが大層哀れだ。
「このまま体中の血を吸い取って殺して差し上げてもいいのですけれど……姫は優しいですから、選ばせて差し上げますわ」
すっかり勝利を確信した娘は傲慢な言葉を投げかける。地面に伏してぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す小さな人の身を憐れむふりをして崖上にあるその体を吊り上げた。血液を水に溶いて薄くしたような色合いの髪がぎちりぎちり肉を締め付けながら中空に彼の人を追いやる。骨すら軋むほどの力に苦悶の声。紅玉の瞳が歪むのを満足げに眺めては桃華は気分よく言葉を続ける。
「姫はこの場所が欲しいんですの。いずれは筑紫洲全て、いいえ秋津洲も手に入れるつもりですけれども。とりあえず貴方を殺してしまえばこの山は姫のもの。そうですわよね?神殺しの古狼殿」
歴史は繰り返される。ふとそんな言葉が脳裏を過っていく。もうどれだけ昔だったろうか、この山をねぐらにしていた大蜘蛛の腹を食い破ったのは。あれは今よりもっと暗い夜だったような気がする。もっと陰気な夜だった気がする。自分達は飢えていて、ただひたすらに渇いていて、それだけだった。だからこそ。
「ああ、その通りだな山姫」
「でしたら、お選びなさい。この山を明け渡して故郷へ帰るか。それともここで姫に食いつくされるか」
飢えていた。乾いていた。生と死に溢れていた。月のか細い中をひた走るがりがりに痩せた自らの姿を幻視する。蝗神に追いやられて飢えに飢えた我らの姿だ。食いたい、貪りたい、生きたい、生きたい。
今とは全く違う黄金色の瞳が生にぎらついている。紅玉の瞳を無様と見下している。いや、当時の獣だった自分に無様という概念すらあったかどうか。獣の時分は思考が明朗だった。極論を言ってしまえばこれは食えるか食えないか。それきり。
あれは食えるか、蜘蛛を前にした自分が言う。痩せこけてあばらの骨さえ皮の上から見えるほど飢えて喘いで。あれを食ってどうなるか、問う。お前は生き延びるか。我らは生き永らえるか。蜘蛛もまたぎぃぎぃ鳴く。食えば生きられると鳴く。逆さの視界でつまらなそうにしている女は何も言わない。飢えを知らない顔をして、欲しいから寄越せと熱のない声で言う。
ここにきてようやく、考紫は最初から抱き続けていた違和感の正体に辿り着いた。
「……なんだ、そうか」
ずっと奇妙だ奇妙だと思っていた。整然と並んだ狼らの死骸も、その山を玉座のようにして悠然と待っていた態度も、いっぱしの町人よりも人間らしい振る舞いも。
「ひとつ、問おう。何故この土地を欲する?」
「あの方に献上するためですわ。姫が手に入れたと報告したら、あの方はきっとお喜びになるでしょう。姫はそれが見たいんですの。さあ、さあはよう答えをくださいませ」
ああなんという欲張りだ!この娘は自分の生きるためのものをしっかと両手で持っていながら他のものも欲しいと手を伸ばしているだけなのだ。どれもこれも芝居かかった、ただ生きていくためには煩わしくて仕方がないもの。人間らしい、人間めいた。
「だからこそ、お前にはやれないな」
この山で生きていくには、そんな余分なものは似つかわしくない。
蜘蛛の生も、その前に土地に根付いていたであろう何がしかの生も。ただ真摯に生きるためだけにあるのだから。
娘が形のよい眉をぴくりとさせるのと同時に「来い!」と考紫が思いっきり叫ぶ。叫んだ直後に肺を戦慄かせて咳きこんでいたが。
うぉん、犬のそれを少し高くしたような音が聞こえてはっと桃華は振り向く。いつの間にか血の匂いがずいぶんと近い。真っ白な牙が剥き出しだ。咄嗟に避けるとがちん、牙が宙を噛む。
「なっ、なんで」
いつから潜んでいたというのだ。地面に着地してからも油断なくこちらを見遣る狼。脇腹からじわり赤が滲んでいる。確か先の諍いで怪我を負わせたのは一匹だけだったから、まだ五体満足の敵ばかりが潜んでいるということだ。こちらが怪我を負わされる前に、と崖上に意識をやって驚いた。あの浅黒い肌をした少年の影がぶくりと膨らんでいる。
「やはり人の身は脆くていけない」
四肢は強靭に。体躯は太く、年輪を重ねた木の幹のよう。鋭い牙と爪というこのうえない武器を手に、ぶつりぶつりと桃華の髪を千切って地面に足跡をつけた。ぼたぼた落ちる血は変わらずだが、それとてあの巨躯から流れ出ているとすれば微々たるものだ。
「よくも姫の髪を」
ぶっつり千切られた髪を抱きしめて恨めしげな視線。
「ほざけ。これで貴様らの底の浅さがようやく知れたわ」
「何、さっきから何を」
わからないのだろう、このお姫さんは。もうよいとばかりに考紫は身を屈め、前動作なく坂を下り巨大な顎を開き血の気の引いた顔色の娘を視界に捕え。
その肉塊にかぶりついた。
ぶちゅ、牙に伝わる肉の感触が妙に硬い。食いちぎるように左右に動かせばごきごき音がした。骨が割れる音だ。
「いやぁぁあああぁぁあ!」
劈く悲鳴が耳のすぐ傍でする。あの娘子の声だ。だがそれは自らが受けた痛みへの悲鳴というよりは、目の前で他人が死にゆくそれだ。もしや、という予感が掠めると共に剥き出しの歯茎にぶっつりと鉄の小枝が刺さった。
「っ離しやがれ、この犬ッコロが!」
知らない男の声だ。喧嘩っ早そうな男の声を聞いて考紫は訝しげに口を開ける。今この場に第三者がいるというとてつもなく異常な事実を確かめんとすべく。
ぎょっとするような髪色が見えた。赤とか金とか、どうやって色を出しているのかいっそ不思議なほどの。異人ではないかと疑うほどの髪色だ。身なりもやたらと派手である。そういうのが刀を片手に構えてなんとか抜け出そうともがいている。
「蘇芳、なんで来たんですの蘇芳っ」
「なんだ、仲間か」
それならはさっき腕の一本でも食いちぎっておいてやればよかったと冷めた視線を遣る。脇腹から胸にかけて鋭い牙の痕がぎざぎざと走って、肩にかけた白い毛皮にもじくじくと赤が広がっていくようだ。
「骨を噛んだから暫くは動けんだろ」
この狼が、とへたり込んだ娘が睨む。それすら一瞥することもなく、考紫は一度開けた口を思いっきり、噛み千切るほどの力で、ばちりと閉じた。
だが、思っていたような肉と骨と血の感覚がない。あっけなく空を切った牙の周りで、ふらりと火が漂う。白い赤い火だ。温度のない火だ。
ふと見遣ればあの山姫の姿もゆらゆらと陽炎のようになっている。これは何らかの妖術の類か、思い至って狼らに一声吠える。逃すな、食えと。しかし温度がないとはいえ大きく燃え上がる炎にただの獣である群れの狼らは恐れおののくばかりで、考紫は歯噛みしたい気持ちになった。やはり、炎はおそろしいのだ。
「いくら知恵がついていようが獣は獣だなぁ。わりぃが俺らはこのまま退散させてもらうぞ」
「そのうちまた譲り受けに参りますわ」
炎に照らされた白い岩肌の渓谷に先ほどの威勢のいい男の声がこだまする。せめて娘にもう一太刀でも、と思うがそちらも牙が届くと共に夢幻の如くふと消えてしまった。
逃げられた。
仲間の亡骸ばかりごろごろ転がるこの山で、仇の一つもとることさえできず逃げられたのだ。
ぼたぼた落ちる血水を川の水に滲ませて、考紫はがくりと膝を折った。

月のか細い夜だった。
次:【間章弐・厭世の影にて】

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