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間章弐・厭世の影にて

考紫の文は最後に一言、無念であったとだけで締められていた。娘息子に親戚に兄弟にとを殺され逃げられたのだ、それは無念であろう。日を見ればそれはほんの六日ばかり前の話で、まだ飲み込みきれないやるせなさが筆の端々から伝わるようである。
長々とした顛末を読み終えて、黒ノ介はじくじく痛む背を抱えながら文を閉じた。
「孝紫さんが動けないって知って、僕、すぐにおうちを出て駆け付けたんです。そしたらこちらは大丈夫だから、文を届けろって」
眷属の狼ではなく橙矢に頼んだ理由はなんとなく推察できた。狼だけでは口がきけない、だが自分が出向けば再び留守を狙ってその桃華とやらが国を盗りにくるだろう。孝紫の首がとれなくともその土地の者らに神威を示せれば充分であるのだから。ここを守護していた狼は尻尾を巻いて逃げ出した、これより自分がここを治むるとでも言いだすであろうことは想像に易い。
「とーや、棲家出ても大丈夫なのか?」
「ちょっとなら平気です。孝紫さんたちが細工してくれてるんで」
さいく?と首を傾げるのにえへへと橙矢は笑って誤魔化す。本人もよくわかっていないらしいと判断した黒ノ介が、そこらへんにしとけともう一度頭をぐしゃぐしゃ撫でれば、それだけで翠はあっさり引き下がった。
文に今一度目を落とす。欲しいから奪う。欲しいから寄越せ。そればかり口にする人間めいた娘が文の中に踊っている。桃色の髪、緋の衣、どこかで見たような既視感に黒ノ介はこめかみを抑えた。どこだったか、こんな派手な成りをした娘を忘れるはずもないのだが。
背の痛みもあってか上手く思い出せない黒ノ介の代わりにあーっと声をあげたのは翠だった。
「そうだ、おれ桃華ってやつ知ってる。くろさんを襲ったやつの仲間だ」
こーんなひらひらの着物でさ、と身振り手振りで言う。そういえばそうだったか、目蓋が落ちてしまう前に真っ赤な色が視界に映りこんできた程度にしか認識できていなかったせいで記憶があやふやである。全く同じ名前で似たような恰好なんて到底考えられないし、桃華という名前自体聞いたこともない奇天烈なものだ。おそらくは同一人物、それも時間を考えて考紫を襲った後だろう。
「考紫によると、もう一人出てきたっていうことだが」
補足を期待して橙矢を見るも、この幼子は申し訳なさげに眉を下げて「ごめんなさい」と目を伏せた。
「考紫さんの目の前で炎に変わっちゃったってことしか、知らないんです」
そうか、と考え込む。仔細余さず書かれてあった文のおかげで、何が起きたのかも現状もすっかり読み取れてしまう。考紫の怪我は、と聞けば、大丈夫ですと返ってくる。
「考紫さん、結構ひどい怪我で。あんまり血まみれだったから死んじゃうんじゃないかって思ったんですけど。でも怪我だけだったし、狼の姿で安静にしてたらだんだんよくなってきてますから、安心ですよ」
その言葉に事実だけを嗅ぎ取って、翠はほっと息を吐いた。
「今判明しているのは千草、桃華、蘇芳、この三名が国盗りをしようとしてるってことだが……にしても組織的な動きだな」
「そしきてき?」
「統制がとれてる。言っちゃなんだが、俺らは個々の領分を守るのが仕事でお互いのやることに嘴を突っ込まないのが当たり前だ。誰が何を企もうと何をしようと関係ない。事実俺は今琥珀が何をしているのかわからないし、紅輔に至っては棲家も知らない」
それは言えている。橙矢だって考紫以外とはほぼ交流などないに等しいし、葵という蛇神は偏屈で自分の棲む淵からほとんど姿を現さないと聞く。例外は留守神だけ置いてあちらこちらをふらふらする翠くらいのものだ。
「そりゃまあ、でもそういうもんだろ?みんな自分の暮らし良いとこからは出たくないって」
「だがこいつらの動きはおかしい。まず桃華が薩摩に現れ、それを蘇芳が助けた。それからたった数日で今度は千草がここ、肥前に出てきて、桃華が連れ戻した。じゃあこいつらの棲家はどこだ」
「あれ」
そういやそうだ。蘇芳だとか桃華だとかがちょうどよい具合に助けに入るにはすぐ近くで見ていなければならない。考紫の場合にはたまたま蘇芳とやらが近くに住んでいたから、で説明がつくが千草を連れ戻した桃華はどういうことだろう。わざわざ黒ノ介を弑すためにあんな遠い場所からやってきたというのだろうか。
「あーわっかんねえ!何だってんだよ」
堪え性がない翠が頭を掻き毟ってごろんと板間の上に転がる。揮発しきれなかった汗が幾何学の模様を描いてころころ丸まった。
「準備をしないといけないかもな」
やたら静かな青灰の瞳がたった四畳の間に心を広げている。なにが、と聞いた。予測はついていたし、やたらと凪いだ空気が心を通り抜けていったけれども見ないふりをして。
「死ぬ準備」
痛々しい傷跡を空に晒して彼が言う。一度死んだ傷が喉元に引き攣れて見えた。
みぃん――蝉が思い出したように一息だけ発する。通り抜けた風は青々とした草葉の香りを孕んで、無数にある初夏の一幕を感じさせる。しんと静まり返ったこの場所で、ぷちんと音をさせて花弁が解けた。微かな白のハコベの花が、我も紅と言わんばかりに息づいている。土間をちろちろ行く蟻の行列がしきりにか細い脚を動かしている。五分ばっかりの魂がそこここにあって、それすら失くした外道共になんにもない目を向けている。
「……でも、やっぱり生きなきゃ」
細い髪をふわふわと空気に揺らした赤毛の子供がふと零した。
「考紫さんがそう言ったから、ぼくらは生きなきゃ」
たったそれだけのとてつもなく難しいことを、橙矢は静かな声で言い切った。
「文は俺が届ける。けどその前にこちらの状況も書き加えなきゃいけないな。翠、硯とそこの紙をとってくれ」
そんなに上等でもない半紙の、薄く汚れた表面を撫でつける。すずり、すずりと小さく設えられた文机の上に半ば影に埋もれるように息を潜めているそれを探す。埃の薄膜が指の腹にざらりと。それでも硯にはもう水がひたひたと張っていて、夜の海のように澄んだ黒さが表面を揺らしていた。
身を起こした黒ノ介が橙矢に半ば支えられながら文机に向かう。朱房の髪紐を片手にとっては長い髪をひと房に掬い取りなんとかといった様子で腰を下ろした。
「髪結いましょうか」
「ありがとう」
まだ腕を上げるのも辛いであろう。いくら治りが早いといっても爛れた傷は皮膚が突っ張ってひどくぴりぴりと痛む。無理をすればまだ若く繋がったばかりの肌が裂けるかもしれぬ。
柘植の櫛歯がさらさら黒髪の間を通っていく。浪人がしていたように軽くひとつに結うだけの髪形。それだけでもずいぶん風が通って火照った体に心地よい。
「ありがとうな、橙矢」
いくら子供といえど、橙矢が立っていればそちらの方が視線は高くなる。軽く振り向いて見上げると、おさない座敷童はやけに嬉しそうな顔をしてへら、と笑った。
「ねーくろさん、これさあ」
「ん、ああ、赤間ヶ関の硯だ」
翠が指した硯には海がくろぐろと広がっている。おれはじめて見た、なんて言うのに珍品っちゃ珍品だからなあと黒ノ介は穏やかに言う。飾り彫のひとつもない、至って質素なもの。それが墨の海をなみなみと湛えている。
その、海色をした墨でいかにも走り書きであるという風に言葉を書き連ねて、それから少々長い生の紙を三枚ばっかり枕元の箪笥から取り出した。
「翠、書き文字は得意か?」
「にがて!」
即答する小鬼に苦笑して、しょうがないと黒ノ介は自ら筆をとり長い長い文章を丁寧な字で書き始めた。
「なにすんの?」
「模写だよ」
「なんで?」
「烏に持たせて飛ばすんだ」
「くろさんの烏って頭いいの?」
「まあ、いい方だと思うな」
これぐらいのお使いならできるし、何か獣に獲られてしまったらすぐわかるから。薄暗く影の差す室内で、ふと生まれた烏がかぁ、と鳴いた。
「いーなー眷属。おれ生まれた時からひとりぼっちだったもん」
退屈だと言わんばかりにごろん、畳に寝っ転がって手足を天井に伸ばす天邪鬼が横を向いて橙矢は?と問う。
「僕もひとりでした。遊び相手が誰もいなくて、ずっと暇だったんです」
「一緒だなー」
それだけで終わってしまう。本当はどこも一緒じゃないことぐらいわかっているけれど、そんなことはお互い口にしない。小間の一角を寝そべって占領すると、耳馴染みのよい蝉の声がしゃわしゃわ届いた。
「翠さんはこの後どうします?」
「んー、もう少しここにいる」
書き物を始めた天狗の背中を見ながらすっかり暇になった子らはぼんやりと格子戸の外を見る。蜘蛛が円の巣を張って中心でゆうらゆら揺れている。虻がかかってくるしそうに悶えていた。
「なんとなーく、さ。うん。あそこに戻っても仕方ないって思ったんだ」
蜘蛛がさかさかと器用にも縦糸だけ通り路にして大きくもがく虻の元へ這い寄る。まだ元気のある虻を矯めつ眇めつして、八個の目を拭っては遠巻きに見ている。
「たぶん、おれはもういらないんだ」
疲れたのかもぞもぞさせていた足を止めて、ぶらりとぶら下がったままになった虻。それを蜘蛛は八つの目で見ている。時折ひくひく動く羽は、糸を切れずにただくっついたまま無意味な痙攣を繰り返している。
「お堂の外の小道がすっかり草だらけになっちまって。獣しか通んないよな細い道見てさ、何年人来てないんだろうって」
人の世のことは、翠にはよくわからない。ただ昔はひっきりなしに人が踏み固めた地面すら、ほんの細い糸が通っているだけになって。翠にはますます世がわからない。
「だからしばらく帰らなくてもいいんだー」
ごろん、体を横に倒す。蜘蛛が虻に飛びかかってその腹を食い破っていた。ぎぃと小さな断末魔が聞こえた気がした。それすらとっくに翠の視界の外であったが。
橙矢はこれに何と返したものかすっかり迷ってしまった。慰めも同意もそぐわない気がして、しかし呼吸を繰り返していくうちにますます声をかけられなくなっていく。橙矢の棲家には人が何人もいるのが普通だったから、人がいなくなるなんてことほんの少しも想像できないのだ。
沈殿した空気にさらさら紙を擦る音がする。墨と紙の、ふるい匂い。絡繰り仕掛けのように天蓋をなぞる太陽が西の方角に僅か傾いた頃に、ようやくことりと筆を置く音がした。
「翠、お前掃除嫌いだろう」
「え、あ、うん」
紙を折るかさかさという音と共に唐突に降ってきた言葉。ぎゃぁ、鳴く烏をおいでおいでと呼びながら黒ノ介はしばらくぶりに口を開いた。
「ここにいるんならいくらでも構わないが、門前の草取りぐらいはしてもらうからな」
橙矢はぱちくりと瞬いた。やっぱりそれも橙矢にはほんの少しだって思いつくことのできないことで、翠も同じくだったのだろう。
えー、だとかあー、だとかうーん、だとか唸って、
「わかったあ」
緑の小鬼はまたほたりと頭を畳につけた。格子の蜘蛛はすっかり腹を膨れさせたようで、虻の残骸がぷらぷらと巣に引っかかっていた。

日暮れに三羽の烏が口をはくはくさせて、大きな翼を広げた。いずれも足は三本で、真ん中の足に文が括り付けられている。どこにでもいる烏より幾分か体が大きい。鷹か何かのような体躯に、鷹より大きな嘴がぬと生えている。つつかれたら痛そうだなあと思いながらその嘴を撫でると、嬉しそうに目を細めた。
「よし、行ってこい」
それに応えてぐっと首を縮めた烏は勢いをつけて黒ノ介の肩を蹴るとばたばたと羽ばたき、各々東に北に南にと飛び立っていった。

夕暮れの空に暗い影を落として、異形の鳥が舞い降りてきた。艶のある黒さは一見してただの烏だが、近くへ来ると小さな陽を覆い隠してしまうほどの大きさであるのが知れる。
あれは八咫の烏だ。三つ足の神性を持つ鳥。それが紅輔の目の前に大きな翼をばたつかせてやってくる。一体なんなのか、と持ち上がる疑問を余所に八咫の烏は地面に降り立つと潰れた声で鳴いた。
三つ足で器用にてんてん跳んで、もう一度嘴を突き出して鳴く。どうすればいいのかわからずに困惑している紅輔を横目に、足に結ばれていた文を嘴で取って突き出した。
「え、なに、なに」
烏は無言で文を突き出してくる。烏だから言葉は話せないし、そうでなくとも口がふさがっているのだから当たり前といえば当たり前だがそれがなんとなく不気味で、紅輔はうへえ、なんて情けない声を出しながら文を受け取った。
早く読め、と烏が急かすように鳴く。さもなくばつついてやると言わんばかりだ。淡黄の紙には黒い文字が浮かんでいる。特になにか仕掛けがあるとか、嫌がらせだとかの雰囲気はない。思い切って開いてみると見知った名前がそこに明記してあるのを見て取って、紅輔はようやくそれが火急の事態を知らせるものであるとわかる。
烏が小首を傾げて、こちらを窺ってぎゃあ、と言う。もう帰っていいのか、それとも何かあるのか、といったところか。駄賃代わりにと早生りのあけびを放り投げてやれば、つついては離してを繰り返して啄みはじめた。
墨とか筆だなんてさてどれくらいぶりに出しただろうか。軽く墨をすってほんの少し、返事を書き連ねればそれだけですっかり墨はなくなってしまった。
「なあ、この返事、黒ノ介くんのところに届けてくれないか」
かぁ、漆黒の嘴を広げてくろぐろとした烏がかしこまったと鳴く。
遠ざかる背とだんだん夜になっていく陽を見ながら、紅輔は小さく、小さく呟いた。
「不知火の蘇芳……」
いつか知った名前である。宵にあかあか燃えるあの篝火は、目に焼き付いて離れることはなかった。
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