Novel
【不知火】 *** 宵の明星がうっすら目を開く申の刻。 菰を張り合わせただけの掘っ建て小屋に松明の火が灯って、木戸番の男がのそのそと暗い小屋から出てくる。そうして入口の脇に設えた木製の台の下から木戸札がこれでもかと詰め込まれた籠を引き出して、どっかと上に乗せた。もうひとつ、木戸銭を入れるための籠を手に持って、自分も台によじ登った。 傍らでぱちぱち音をたてる松明を眺めながら、こんな夜更けの興行など面倒だと欠伸をする。菰でできた屋根は日の光を通すので、こんな怪談興行をするのなら夜まで待たねばならないのはわかっているが。 今日の出し物はなんだったかなと口上の前に考える。確か八尾比丘尼ともうひとつ、蛇女ではなかっただろうか。 「親の因果が子に報い、世にも哀れな蛇女……こんなもんかね」 なんともお決まりの文句だ。お決まりすぎてつまらないが、これ以外に言いようもない。 やれやれと松明に薪を突っ込んで、台に腰を下ろす。山の遠くがうっすら紅をさしていて、夕暮れの日も掻き消えた夜はひどく暗い。 拍子木の、持ち手に朱紐をつけて繋げたようなやつを腕にぶらりとかけて大きく欠伸をすると、日暮れの残滓もすっかり消え失せてしまったようだった。松明の火ばかりが明々としている。ぼちぼち呼び込みでも始めるかと男は拍子木をとって居住まいを正す。 ひとつ、呼吸。 かぁん、かぁん、拍子木を打ちあわせる音が高く響いて、それに続くように男は声を張り上げた。 「寄ってらっしゃい見てらっしゃい、本日の怪談演目は蛇女!親の因果が子に報い、鱗の浮き出たその体!世にも哀れな蛇女でござあい」 かぁん、かぁん、静かな通りに男の声と拍子木の音が大きく響いて、商家の人間がちらちらこちらを窺っているのが知れる。いそいそ提灯を下ろしているのは昨晩も来た化粧の濃い女将か。好きものだねえと頭の隅で思いながら、男は今一度拍子木を強く打ちならす。 「なんだあ騒がしいな。何かあるのかい」 と、聞こえた。 宵闇の奥からであるようだ。此方は松明のおかげで明るいが、月もない夜では一間の先になると真暗である。へえ、これから見世物をするんで。そう言えば、ざりざり砂利を踏みしめる音と共にやたらと派手な男が現れた。 黒塗りの下駄に紫の足袋。山吹色やら橙やらの着物の上から獣の尾っぽのようなものを肩にかけて、極めつけは朱塗りの隈取だ。こりゃ同業か、それとも歌舞伎役者か。 「お客さんも見てってくだせえ。なんてったって今日は怪談ものですぜ。親の因果が子に報い――ってなあ塩梅で」 木戸札をひらひらさせてお得意の口上を語るとへえ、と派手な男の眉が片方ひょいと上がった。興味をそそられたらしい。 「そいつぁまったく」 言葉と共に唇がひん曲がる。と思えば視界がぐるりと反転して、気が付けば男は小屋の柱に打ち据えられていた。 「気分が悪い」 背中を強かに打って呼吸さえままならない木戸番の男を見下ろして、派手な男はぞっとするほど冷たい声を出す。そうしてなおざりに掛けられた小屋の暖簾をひょっと持ち上げてくぐった。 「邪魔するぜ」 暗い小屋の中に足を踏み入れた途端、蛇を身に纏わせた女であるとか、刀を腰にかけた男であるとか、もしくは舞台の一番奥まった場所、ろくすっぽ灯りも届かないような祭壇に仰々しく祀られた人魚の剥製であるとかが揃って突然の闖入者に目を瞠った。 「いかがなさいました」 尼僧の格好をした女が舞台の奥から出てきて言う。なるほど八尾比丘尼の役柄のようだ。男はぶしつけに尼僧をじろじろと見ると、はん、と忌々しげに息を吐いた。 「俺様の名を知っているか」 尼僧はきょとんとしている。こんな派手な傾き者など見たことがなかったからである。当然名など知るわけがない。知っているか、もう一度男が聞いたので 「存じません」 そうはっきりと言った。 「ああ、そうだろうよ!」 気合一閃。両腰の鞘から刀を抜いた男は、刃の軌跡にぽ、ぽ、ぽと炎を吐き出す。ひぃ、と舞台の上の蛇女が引き攣った悲鳴をあげた。心地いい。 ばけもの、と尼僧が言う。そうだともばけものだとあやかしが言う。 「不知火の蘇芳様だ、知らないのならよっく覚えておくんだな!」 吠える声にしたがって、一列に並んだ炎があかくしろく燃え上がった。まるで白縫の、衣を白い糸で縫い取った様そのものである。 おたすけぇ、ひぃい、騒ぐ声を愉快と言わんばかりに唇の端を引き上げて剣を振るう。半ば八つ当たり気味の剣先は小屋の丸太柱を削り舞台の床を抉り宙を舞う火が次々に黒い焦げ跡を残していく。ついにぼっと臨界点に達した音がして、壁代わりに敷き詰められた菰からあかあかと焔が上がった。 座員らは小屋からこけつころびつして逃げていく。小屋の中を舐める炎が外にまでその手を広げ、人々の悲鳴を受けて喜ばしげに暗がりの中、身を躍らせている。 屋根をも撫でる火の腕の、その明るさ熱さに芝居小屋周りの家々から男も女も飛び出してきて、恐ろしさに震える軽業師であるとか何事か喚き散らす尼僧姿の団員であるとかにぎょっとした目を向けた。 「あんた、こりゃあ何事だい」 「いいから早う火消し衆呼んできな」 「俺ぁ半鐘鳴らしてくる」 「誰か火の不始末でも出したんかね」 「ありゃあよく燃えてらあなあ」 かぁんかぁんかぁん……遠く鳴る半鐘の音に、野次馬のいくらかがこうしちゃおれんと箪笥の金輪に竿ひっかけて担ぎ出す。荷車に唐櫃と甕と箪笥を積めば、もうそれだけでどこへだって逃げられるとばかりにまた野次馬の輪に加わった。 菰はよく燃えて、時折火の粉を散らしながらぼろぼろと煤けた破片を落としていく。すっかり表面を黒くした木組みの隙間に人影が確かに見えて、野次馬はわっと声を上げた。 「まだ人がおるぞーぅ」 「生きてんのかい?」 「わからん」 「こんな火に囲まれてちゃ、かわいそうだが念仏唱えるしかねえなあ」 ざわざわ騒めく野次馬の中、地に膝をついていた見世物小屋の座員が強い恨みを含んだ視線でその人影を睨みつけた。 「人じゃない。あいつは化け物だあ」 野次馬の好機の視線の中、人影はゆらゆらと揺らめいている。火に屈する様子もなく、火に怯えた様子もなく。 「火を放ったのはあいつよぉ」 女のほっそりとした指が炎の中を指した途端、雷よりも恐ろしい声が辺りに轟き渡った。 「俺様を恐れろ、崇めろ、さもなくば焼き尽くしてやる!」 ひははははははぎゃはははははは、空一帯に響く声に野次馬の誰もが息を飲み目を見開いて燃え続ける小屋を見守っている。小屋の屋根を舐めつくした炎はふと勢いを失くしたかと思うと、そのまま、がらがらと火の粉を散らしながら崩れ去ってしまった。 「な、なんじゃったんじゃ」 「中におった奴が消えたごた」 「ばけもんじゃあ」 「そうだ、こんなことできるんは化け物に違いねえ」 炎はどこにも燃え移ることなくぶつぶつ息を吐き出している。自分らの家に火が移らなかったことを安堵するよりも、目の前で起きたことに誰もが肝を冷やしていそいそと家に籠り始めた。 あかあかとした夜が更けていく。誰の心にも差し込む不安の影を落としたまま、炎は燃え尽きようとしていた。 「土地神様に御祈願せななりません」 唇を真一文字に結んだ女ははっきりとした口調で言った。珍しい上方訛りの女だ。いかにも上物といったつぎ当てひとつない小袖をかっちり着込んで、その上から男物の羽織を引っ掛けている。高島に結った和髪にも簪が揺れていかにも贅沢である。 そういう様子を、そこらにてんでばらばらに座った年嵩の男であるとか幼い娘であるとかが固唾を飲んで見守っていた。 「不知火だとか名乗る不信心者があちこちに火を放っておるそうで、いつこちらも狙われるかわかりゃしまへん」 ゆらり、行灯のか細い火が揺れると板壁に映る影もふらふらと大きく小さくなる。なんとも心細い心持ちだ。 「そう言わはりましても、土地のもんでもない儂らを守ってくださるかどうか」 誰もが押し黙る。遠い地にまできて興行を続けるような非人は士族はもとより商人よりもその立場は低く、だからこそ縋るものは他にない。 「こっから二日ばっかり歩いた山ん中に、古くからここらを守っておる神様がおるそうや」 どれだけ細い藁であろうと縋る他ない。殺生人でもなく百姓でもないこの集まりでは興行をしなければ飢えるしかないことははっきりしておる。 「神頼みしかあらしまへんなあ」 上方訛りの女がはっきり言うと、誰も異論などないようだった。 誰が何をしていようとも構わず宵は目を開く。次第次第に枯れだしていくススキがやわく風に頭を揺らしている。朽ちた水の匂いがひたひたと辺りに漂っている。そろそろ稲も黄金に色づこうという頃に、町から少々外れたこの野っ原でこそこそと動く人影があった。 明らかに男である。それも忍ぶには少々体格の良すぎる感がある男だ。 男は抜き足差し足、足音をたてないように誰もいない田んぼの中を歩く。そうして懐に抱え込んだ何か大きなものを抱えなおして、町はずれの掘立小屋にするりと滑り込んだ。 「客はいねえかい?」 きょろりと辺りを見回しながら開口一番そう聞く。図体ばっかり大きくて肝の小さい禿頭の男にちらと視線を遣った女は、ご覧の通りさねと地べたに御座が敷かれただけの見世を指した。 「火付け男があちこち荒らしまわるってんで誰も来やしねえ。特に見世物小屋がいの一番に狙われてるっていうじゃねえか。商売上がったりだよ」 人っ子一人いない座敷の前で、童女もつまらなさそうに手妻を見せている。紙の蝶がひらひらはらはら手の上で舞って、それが少しは他の座員の心を和ませているようだった。 「姐さんほら、鴨と兎」 禿頭の男は何か思い至ったように背を小さく丸めると、大きく膨らんだ懐からぐったりとした獣を取り出した。首を捩じられた鳥はだらしなく口を開き、兎は白くなりかけた毛皮に点々と赤い血を散らしている。 「あんた、それどうしたんだい」 「山入ってさ、取ってきたんだ」 もうそろそろ粟も麦も足りなくなってきてると思ってさと男が差し出した鳥獣に、しかし女は不機嫌そうに顔を顰めた。 「アンタねえ、殺生人の縄張り荒らしてんじゃないよ!」 バレたら大事になる、どうするんだい、と今一度怒鳴ろうと女が息を吸い込んだ時、なんの前触れもなく戸代わりの簾がばさりと開いた。 「そうそう、縄張りは大事だ」 明らかに派手な身なりの男だ。腰にぶら下げた二本刀がかつんとぶつかって音をたてる。 「もっとも、俺様は縄張りを荒らす方だがな」 紅の隈取が暗い室内にはっと現れると、怯えたように扇子を閉じた童女の手の上から紙蝶がはらはら落ちた。 「噂の奴かい」 「御明察だ」 「ひ、ひいぃ」 真っ先に悲鳴を上げて獲物を放り出した禿男を蹴たぐりにやにや笑みを浮かべる傾奇者に、女は鋭い視線を向けて「アンタら、はよ逃げ!」と声を放った。 「逃げてもいいぜ?逃げて逃げて、俺様の恐ろしさを伝えるんならなあ」 わたわた足をもつれさせる童女はそんなことちっとも耳に届いていないようでただひたすらおそろしいと駆け出していく。さほどの広さもない見世の、板間の向こうに姿を消した娘にはもうほんの少しも興味はないとばかりに蘇芳はゆっくりと刀を抜いた。 「んじゃ、狼煙にさせてもらおうか」 言うや否やゆらゆら揺蕩う炎が辺りに現れる。妙に色のない白ばかりの異形の火に女は果敢にも壁にかけてあった刀に手をかけ抜いた。居合芸用の真剣だ。 へえ、と感心したように笑う蘇芳もまたぶら下げるだけだった自らの刀を構えなおす。剣戟が始まるかと思われたその時、 「お断りや」 妙に艶のある女が暗がりから静かに表れた。男物の羽織を引っ掛けて、煙管を持った姿は一種異様である。声を聞かなければ男なのか女なのかいまひとつ判然としない。振り向きもせず女が座長、と声を上げたので彼女が何者なのかがようやくわかる。 「火ぃなんてつけさしゃしまへん」 見世の主人には珍しいほど凛とした女だ。誰もいなくなったがらんどうの小屋で、たった三人だけの睨み合いが続いている。 「上方言葉か。あんたらで火柱を焚けば、畿の奴らも俺様を知るかもな」 にやついた声で言う言葉が事実だけを孕んでいる。吸った息が冷たく肺に流れて、心の臓がひりついた。 ぽ、と炎が天に昇る。地平の向うが大火事にでもなったかのように赤く白く燃えて、それに童女は息を呑んだ。小屋が燃えている。どういった経緯かは知らないが、燃えている。 泥だらけの地面を蹴り草を踏みつけとぼとぼと歩いた先にようやく見えた木戸に娘は駆け寄った。空の向うが赤いっていうんで遠くを見ている木戸番に訴えた。 「助けてえ!火付け男が見世にっ」 「な、なんがあったあ」 慌てて小屋から飛び出した男は、しかしすぐに固まりひぃっと叫び声を上げたと思うと木戸も開け放しにしたままで町の中の方に走ってしまう。 「火付け男ってえのは、悲しい呼び名だなあ」 思わず息を止めて後ろを振り向くと、派手な男がそこにいる。遠くの空があかあかと燃えている。大きく目を見開いた娘は、声にならない悲鳴を上げると木戸小屋の中に逃げ込んだ。 なんだなんだと家屋から顔を出す人をぐるり見渡して、蘇芳は開け放たれた木戸を悠々と潜る。誰もがしろくあかく塗りつぶされた空を指して騒ぎはじめ、それにつられてまた人々が起きだしてきた。 通りの両脇を固める長屋の並びに蘇芳はにやりと笑って、ゆるゆる暗がりが勝ってきた空を仰いだ。 「あれっぽっちの火じゃ足りねえ。もっともっと、でかい篝火をおこさねえとな」 腰に挿した刀に手をかける。数人がぎょっとしたように顔色を変えて、轟々と焔を噴き上げる遠くの夜に目を向けた。 「ほら、騒げよ」 踏みしめられ草一本生えていない大通りを一歩踏み出す。高下駄がかろりと石ころを蹴った。 「崇めろ」 歩く。歩く。恐怖と驚愕の顔がずらずら並ぶ中をただ一人ゆったりとした歩調で。 「恐れろ」 す、と金属の擦れる僅かな音をさせて二本刀を抜けば、腐った夜にぬらりぬらりと刃紋が光を照り返した。 「お前らでは太刀打ちできないほどの、厄災が来たぞ!」 言うなり前に突き出した刀の切っ先から炎が真直ぐ列をなして現れる。どよめきに素知らぬ振りをして、 「そう、れえっ」 思い切り刀を振り上げた。 それに従って白い炎の玉がひゅ、っと空を裂いて空へ舞い上がる。大砲で打ち上げられでもしたかのように勢いよく、高く、高く、それから弾丸の落ちると同じ速度でその全てが降ってきた。 「きゃ」 「うわああああぁぁっ」 「っひぃ」 「火の雨だあっ」 質量をもった炎が次々に空から落ちてくる。木でできた屋根、壁、納屋、その全てが燃え上がりはじめた。 ほんの燻るだけの熱が深呼吸をしたと思ったら大きく焔を伸ばす。 はじめこそ茫然と空を見ていた人々であったが、火の手が家々を飲み込み始めると慌てて口々に悲鳴を上げ始めた。阿鼻叫喚の絵図につられてまた人が外を見る。そうして悲鳴を上げて家を飛び出す。その繰り返し。 「ほら燃えろ、燃えろぉ」 無造作に刀を振り回すたびに色のない炎が生まれては離れていく。また火柱が上がって、藁ぶきやら茅ぶきの屋根をひどく燃やしていた。 燃えて重心をずらした梁がごとんと落ちる。燃え盛る火の海に落ちたそれはぶわっと火の粉を舞い上げてますます火勢を強くする。女の劈く悲鳴、男の哀れっぽい怒声、子供の親を求めて泣く声があちこちにこだましていっそ耳を塞ぎたいほどだ。 炎が音をたてて空を焦がしていく。水っぽい肉の燃える匂いがむっと辺りに充満しだす。この赤さはどこの空からでも見えるだろう。蘇芳を知らしめるよい篝火になるだろう。 夕焼けともまた違う赤さが空をてらてら舐めている。まだ尚火球の降り続ける天を背に、人々の苦悶の声を背に、ただ一人平然と刀を弄ぶ派手な傾奇者。その光景がなんと映ったのだろう。しゃがれた声が卑屈っぽく助けを乞うた。 「あんたぁ神様や、な、そうじゃろ」 「こげなことして、なんぞ誰かが無礼働いたか」 煤けた着物を引き摺った男だ。白髪の交じり始めただらしない髪を結いあげてふらり、ふらりと歩いている。 その一人に感化されたようにもう一人、二人と放心した目で蘇芳を見、そうして手を伸ばしはじめた。 「助けてくれえ」 「なんでもするから殺さんといてくれえ」 皺を顔中に刻んだ爺が手を合わせて念仏を唱え始める。赤子の悲痛な声が劈くほどに高く響く。顔の半分ばかりを黒くした女が髪を振り乱しておそろしいものを見る目で地面に這いつくばっている。 「ああ喧しい!今の今まで俺様のことを忘れておきながら助けてくれだなんて虫のいいこと言いやがって!」 それら全てを睥睨して、蘇芳は殺気と怒気にぎらぎら煌めく刃の切っ先を彼らに向けた。 「これ以上焼けたくないなら、俺様を祀れ」 うねる。うねる炎があちらこちらと逃げ惑う肉を食い絡めとろうと姿を現す。ほんの少しの節穴からも身を乗り出し外へ出よう出ようと。 「祀り上げ、鎮まるよう願い、そして二度とこの怒りを忘れるな」 水気を含んだ木材のばちりと跳ねる音がする。赤く暗く匂う影がゆうらとものの怪の背後で揺らめいて、不動明王にも似た影を背に負って見えた。 ふと、声が。 「ったく、ようやく見つけたぜ」 はっと蘇芳が目を見開く。頬を撫でる熱に恐れおののき平伏する男らの背後からだ。男らが言ったにしては若すぎるし、なにより不遜である。先の先まで怒気に溢れていた切っ先を鞘に収めて、蘇芳は油断なく問うた。 「……何者だ」 「神様さ」 炎の揺らめきから抜け出るように真っ赤な髪と真っ赤な武者具足の少年。蘇芳よりも一回りは幼いであろう姿。左の腰にぶら下げた立派な太刀にふぅん、と蘇芳は鼻で笑って「今更何しに来たんだい」意地悪に口の端を歪める。 「ばけもの退治に来たんだよ」 炎はめらめら燃え盛っている。熱はごうごうと勢いを増し、人々は黒煙から逃げ惑っている。それをほんの少しだって気にかけることもなく少年は腰の太刀を抜き払うと正面で構え直し、朗々と名乗りをあげた。 「我こそは鎮西の赤鬼、名を紅輔。人に仇なす鬼火の怪を退治に参った」 ひれ伏していた男らがどちらも恐ろしいと言わんばかりに慌てて逃げ出していく。それでもこの場から離れてしまわず遠くから見ているのは野次馬根性のなせるわざだろうか。 「わざわざどーも。俺様は蘇芳。不知火の蘇芳様だ」 不知火、という言葉を聞いた途端、具足姿の少年の表情がぴりっ、と変わった。炎のゆらぎにかき消されるほどのほんの僅かな変化を、しかし蘇芳は見逃すことなく言葉にする。 「なぁんか、恨みでもありそな顔だなあ」 「……さてね」 視線は先ほどにも増して鋭い。触れればそれだけで切れてしまいそうな殺気を受けながらも蘇芳はにやにやという表情を崩さない。しばしぶしつけな視線を紅輔にぶつけていたかと思うと、不意に得心したとばかりに口を開いた。 「……そうかそうか、お前、まつろわぬものの生き残りか」 ず、っと重く押し黙る空気が肯定を示している。それに気をよくしたらしい蘇芳の口は雰囲気に反して軽い。 「ああ、そうだなあ景行天皇のみちゆきを迎えたのは確かに俺様だなあ。従わぬお前らにはさぞかし憎かろう!」 「黙れ」 長く屈曲した刀を向ける。人を斬るに易い形をした大太刀にはどんな感情も籠ってはいない。 「鬼ごときが、この蘇芳様をなんとかできるって?」 「ああ。確かに俺は炎を扱えないし、神羅万象のどんな些細なことだって思い通りにはできやしない」 明らかなあざけりに対し歪んだ唇から吐き出された自嘲を、しかし紅輔は一瞬で引っ込める。後に残るのは生まれたての意思ばかり。 「でも、お前を殺すことができる」 「はっ、やってみろよ!」 抜刀。言うなり地を蹴って間合いを詰めた蘇芳は剥き身の刀を真横から思い切り薙ぐ。鋭い切っ先は空を音もなく切り裂き、しかしぎぃん、という強い金属音に阻まれる。 「ああ、やってやるとも!」 顔の横にたてた太刀で蘇芳の刀を弾き返した紅輔は、流れのまま切り捨てようとする。それをひょっと避けて下からもう一方の刃が紅輔の腕を狙い振り上げられる。掠めた切っ先に舌打ち。 「っ、二刀か」 「それがどうかしたか?まさか卑怯だなんて言うつもりじゃねえだろうなあ」 「言わねえよ、手数を増やすだけの弱虫が!」 「んだとぉ!」 頭蓋を割る勢いで二本刀が振り下ろされる。それを持前の膂力で受け止めながら、徐々に徐々にと紅輔は蘇芳を押していく。鍔迫り合いでは不利と悟ったらしい蘇芳が横に逃げると、追いかけて湾曲した太刀が胴をとろうとする。 「ぐぅっ」 一拍、紅輔の太刀が遅れたせいか致命的な傷を与えることは叶わなかったが、それでも腹に一本真直ぐな線を引く。ぱっと血水が切っ先に舞った。 いつの間にできていたのか、遠巻きに見ていた人垣からどよっと声が沸き上がる。生き死にさえ見世物にされる居心地悪さを感じながら、それでも互いから視線は外さない。外した途端に終わるというのはわかりきった話だ。 上に上にと吹き上がる炎にゆらめきながら二人の男が剣戟を続けている。 右腕に染みた血が手甲にじゅくじゅくと濡れていく。ぴりぴり痺れがきだした腕を一度強く振って、今度は紅輔から斬りかかった。受ける。弾く。跳ねあげる。突く。避ける。二、三合打ちあったところで、紅輔の視界に幼い少女が映った。 煤だらけの服を着た娘だ。あまり長くない髪を結いもせずそのままにして、何か決意したように口を引き結んでいる。何をするのか、考える間もなく娘は手に持った握り拳程度の石を、思い切り蘇芳に向かって投げつけた。 「てめえっ、見世のガキ……!」 「らあっ!」 一瞬の隙。石に気を取られた蘇芳の側頭部を刀の柄で殴りつける。ごっ、と鈍い音をさせて蘇芳の体が崩れた。 「終わりだ、不知火……!」 空を切る音がする。鈍色の刃が違わず眉間に振り下ろされ、赤が散った、という瞬間にぶわっと炎が噴き上げる。それと共に手ごたえもすっかりなくなって、紅輔の太刀は地面を抉っているだけだった。 「なっ」 慌てて見回すも蘇芳は影も形もない。舞い上がった炎の名残ばかりがふと空にはらはら散って溶けていく。辺りの家々もすっかり焼け落ちて、火種がぶつぶつ燻っているばかり。どよっと人々がどよめくのに目をやれば、ぽ、ぽ、ぽ、と遠くに並んだ炎が暗い空に際立って白い。 「不知火か」 敵愾心も露わに呟くと、遠くの遠くから轟くように声が鳴った。 「この勝負はてめえに預けてやる!次まで首洗って待ってるんだな鬼めが!」 「それはこっちの台詞だ!」 火はようやくぶすぶすと鎮まろうとしていた。肉の焦げる匂いと骨の焼ける匂いとが甘ったるく充満する通りで、紅輔はやりきれない顔で茫然と空を見上げる人々らに背を向けた。 |