Novel
すん、と鼻を鳴らすと潮の匂いがした。 たしたし足音が追いかけてくる。ひとつやふたつではない、大勢の獣が枯れた地面を踏む軽い音。辺りには立ち枯れた木々の細い幹がぼつぼつ立ち上がっているばかりであり、枯れ草の一筋すら食い荒らされた大地は不毛と呼ぶに相応しい。そこをたしたし足音をさせながら狼の群れがわき目もふらず走っている。 先頭を行くのはひと一人丸呑みにしそうなほど巨大な狼である。だらりと垂れた舌は暗い血色をして、紫かかった艶のない毛も土埃に塗れてひどくみすぼらしい。 東へ東へ追い立てられるように狼らは歩を進める。よく見ればうっすら皮に骨が浮いて、ぎらぎらと輝く瞳は飢えに血走っている。何日もものを口にしていないのだろうことは容易に想像がついた。 東へ、東へと走る。広大な河を左手に、見渡す限り黄砂色の地面が広がっている。そのうちに点のようだった黒が遠くまで広がっていくのが見えた。茫洋とした海。 先頭をゆく狼が足を止めるのに群れも従う。ぱしりと目を瞬かせて、狼はその巨躯をぐうと曲げて、今しがた自分たちが走り抜けてきた道を見遣った。 遠くで暗雲がうわんうわん羽音をたてるのを聞いてからというもの山には獣一匹おらず、平地には草木一本ない。細い路地を流れる川の水は血と腐臭でどろどろ淀む。蛆と虻に塗れてごろごろ転がる鳥獣の死骸を食ってなんとな食いつないできたものの、群れは既に限界に近い。年寄り子供から飢えに耐えられず崩れ落ちるように腰を下ろし目を閉じる。蝗神に食い荒らされた大陸には、もうどこにも食料などない。 群れを率いねばならない、食料を探さねばならない。海に入れば魚もいよう。そのうち陸も見えてこよう。一際大きな体をした狼が高く高く吠えて、それからどぶりと体を海水に浸した。 のたりと重い水を掻く。水を吸って毛が重い。迷いなく水に入っていく群れは、傍から見れば鼠のそれにも近いだろう。 ぽつりと青に染みたような白い点が頭上で弧を描く。だんだん大きく赤く色を変えて、頭の後ろでぶくりと眩しいほどに膨らんだと思ったら、線香花火よろしくぽとりと落ちて、そのまま真暗になってしまう。ばしゃばしゃという音ばかり耳につく。そのうち点々と灯りが出た。星だ。真暗だった水面が波打つたびにちらちら跳ね返して見えて、おぞましく暗くうねる水をぼんやり照らしている。 細い脚で必死に水を掻く。力尽きた弱い仲間がきゅうんと小さく寂しそうに泣いて静かに沈んでいくのを振り向かない。潮の匂いがことさら強く匂った。 今度は顔の右側から、ずんぐりした丸が頭を出す。そうしてまた天の内側をなぞるように大きく円を描いて遠くのほうへ落ちていってしまった。 群れは無心で水を掻いていたから、それがいくつめかすらわからない。ただ陸に手をついたのは、それから何度か落ちる日を数えた朝のことだった。 のたのたと地面に足をつく。砂にぼたぼた水が落ちる。胃袋はからからである。半分もなくなってしまった群れの先頭に立って、暗紫色の毛をした狼は濡れた体を引きずる。舞い上がった砂塵がざらざら毛を汚す。 岸に沿ってずらりと杉が並ぶ。その奥に掘っ建て小屋がある。小さな柵が、駒繋ぎらしい細い組み木がちらちら見えた。火の気がある。 けこけこという鳴き声にぴくりと耳をそばだてた。琥珀色に輝く目玉らがぎょろりとそちらを向く。久方ぶりの動物の声。重い足をのそりと動かす。白い尾羽と赤いとさかの鶏はふくふくと肥えていかにも不用心である。そういう生き物が五つ、六つと揃って囲いの中の地面をつついたり飛ぶ鳥の真似をしてみたりしている。 狼らは、飢えていた。 砂を後ろに蹴り上げる。柵に体当たりをすると高い軋む音と砕ける音が耳につく。驚いた鳥が慌てて大きく叫び羽を広げる。ばたばた言わせるだけで無為かと思われた羽根も多少の目くらましになると見えて、白と茶のまだらに視界が遮られる。それを前脚で押え捕らえて喉仏に食らいつくとぐえぇと断末魔の悲鳴を上げてばたばたもがいた。だいぶくったりしたそれを咥えて群れの後方に勢いよく放り投げてやる。低い声がころろろと喜色ばむのを聞き、逃げまどう鳥を捕らえがっつく仲間を尻目に他の餌はないかとぐるり辺りを見渡した。 土地は痩せていない。地には青々とした草が生い茂り、すらっと立つ木々も食い荒らされた様子はない。肥沃な地であることが知れた。 「 !」 突然甲高く耳障りな声が響いて、ばっとそちらを振り向く。鉄の匂い。牙を剥く。 骨が浮いているというほどではないが、痩せたせむしの男である。大きく目玉をかっぴらいて唇をわなめかせている。片手に鎌を下げ持ってこちらに構えている。 食えないことはなかろう。 「 ……! !!」 地を蹴る。体の大きい自分であれば簡単に喉まで牙が届く。ぶちゅ、食い込む牙に鉄くさい血の味を感じる。びくびく体を引き攣らせる男に群がる仲間を横目に見ながら、薄い皮と肉と骨をぼきりと噛んだ。 腹は満ちてもまた飢えが来る。 火に怯えて人家を追い立てられては森深くの谷川で喉を潤し、また獲物を狩る。野兎も猪もよく獲れた。 それでもまだ足りない。まだ飢える。 飢えで痩せ細った四肢は完全ではない。食わねば死ぬ、食わねば生きられぬ。より大きい餌を求めて群れは山間を奥へ奥へと分け入る。 なだらかな斜面。ごつごつ尖った薄鼠の岩石。辺りに群れ以外の生物の姿は見えない。背の高い梢が上弦の月を隠す頃合い、ぬっと目の前に細く頑強な何かの脚が現れた。 いや、生えた。柔らかい地面をむくりと持ち上げて、細っこく黒光りする昆虫の脚が今にも生まれ出ようとしている。 のそりと宙を掻いたそれは、土くれを落としながらゆっくり体を持ち上げる。 びゃんびゃんびゃんびゃんびゃん 高く低く吠える群れを背後に、巨躯の狼はしっかと地面を踏みしめて牙を剥きだした。敵だ。でなければ、餌だ。 頭の天辺にぽつんと出っ張った丸は目だろう。四角い頭に楕円の腹。四対の脚は地面を這う。人ほどもあろうかという大蜘蛛。 朽葉色の体を震わせ、大蜘蛛はがちがちと牙を鳴らす。牙はぬらりと黒くてかり、不釣り合いなほど大きい。枯茶の脚が細くも力強く地面を掴んでいる。固く短い毛が生えた腹がぶくぶく脈打つ。 どちらともなく睨み合う。上下に擦りあわされる蜘蛛の牙がきしきし音をたてた。ふーっ、ふーっ、群れの湿った息づかいが耳に届く。 ぜんまい人形のようにきりりと持ちあがった蜘蛛の脚がさふりと地についた、と思ったら無感情な虫の目がぬ、っと狼らに肉薄する。慌てて横っ跳びに地面を蹴る。振り下ろされた牙に群れの一匹が捕まって情けない声を上げる。腹の底から低く吠えると狼らも反撃にうってでた。 ところ構わず爪を出し牙を剥く。それでも固い殻に覆われた頭や足には歯がたたない。振り払われる。大きく黒光りする牙を振り下ろされる。 それならば、と紫黒の体毛を持つ狼はぶよぶよ蠕動する横っ腹に勢いよく噛みつく。ぐらりと傾いだ地蜘蛛は、それでももがくように長い脚を振り回す。蹴飛ばされた数匹がひゃんひゃん鳴いて懲りずに向かっていった。 ぐち、と薄く青っぽい体液が口内で粘性の音をたてる。大して肉もない地蜘蛛の腹に牙をたて、ぬとりと体液に塗れた筋肉質の空洞を食い千切った途端、ぎぃぃいいいいぃいいぃぃぃいいと牙を擦り合わせたような断末魔の悲鳴が辺りに響き渡って、さっと視界が開けた。 ぱしりと瞬く。空気が薄く青い。月明かりが白金の輝きでもって自分達を照らしている。たったそれだけのことを、狼は今初めて知った。 鈍重だった思考が突然研ぎ澄まされたように感じる。感じる、という思考に感覚に違和感を覚える。周囲は何も変わっていない。自分が見ているものも変わっていない。ただそれまで意識さえしていなかった何もかもが一斉に飛び込んできたように見える。月明かりが光の筋となって梢からさらさら零れるのも、足元をちょろりと這う家守の影も、風に擦れる下草の囁きも何もかも、突如として現れたように感じるもの全て最初からそこにあったのだ。なんだこれは。狼はうろたえた。音も匂いも光も、意識していなかったなにもかもに意識が行き届きすぎて気持ちが悪い。 それまで己の飢えを満たすためだけにあった目の前の風景に目を遣って、狼は不意に理解した。 これは蜘蛛の見ていた世界である。この一帯を治め守り自分達という群れを排除しようとした蜘蛛が見ていた全てを、今自分が奪ったのだ。 こと切れた蜘蛛の手足を目玉を腹を、自分より一回りも小さな狼らが必死で腹に収めようと牙を立てている。そのうちいくらかが呆けたように中空を見ている。はっ、はっ、と喉の奥が引き攣れたように鳴って、誰ともなく天に向けて吠えだした。 うぉーーおぉ 一匹が吠えればつられて次々吠えだす。雲ひとつない夜空に向けてうねる遠吠えは泣き声にも近く、また産声にも似ていた。 うわんうわんこだまする遠吠えの片隅で、こそりと梢が揺れたのを狼らは聞き逃さなかった。声が止む。紅玉の瞳を一斉に向ける。 かさこそ鳴る枝葉の奥から狼らに頓着する様子もないまま小さな人影が二つ、並んで姿を現した。人間か、身構える。 「こはっくんこはっくん、もう終わってるみてーだ」 「おや、地蜘蛛殿はもう逝ったようで」 見えたのは、少年と思しき二人連れ。こはっくんと呼ばれた一方は金の髪に藤色の瞳。どこにいても目につくであろういでたちで、地面に転がる蜘蛛の残骸を一瞥しては小さく笑んでいる。もう一方もそれに負けず劣らず明るい緑の髪が夜闇にもくっきり映える。気の強そうなどんぐり眼は橙色。山奥に迷い込んできた人の子だろうか、と一瞬考えるもそうではなかろうと思い直す。 低く唸る狼らに気安くひらり、と手を振る様子はどう見てもただの子供ではない。 「そーんなけーかいすんなって。様子見にきただけなんだから」 「ご心配なく、あなたのお仲間です」 仲間、という言葉に違和感を覚える。うるるる、と喉を鳴らしてありったけの警戒心を剥き出しにすると、藤色の瞳が愉快そうに細められた。 「そう唸られても」 何が楽しい。何だこの余裕は。低く吠える。 「言いたいことは言葉にせねばなりません、ほら」 とんとん、と白く細い指で自分の喉を叩いてみせる。同意するように橙の目玉が大きく頷いた。 「そうそう、ぜーんぶ言葉がいるんだ。なにするのだってな」 「翠は少々お喋りが過ぎますけどね」 「んなことねーよ!それならこはっくんだっていっつも変なこと考えてるじゃねーか!」 「おやおや、人の心を覗き見とは行儀が悪い。東の水神に言いつけてやりましょうか」 「くっそこはっくんずりいー!」 ぎゃあぎゃあ騒がしい二人を前に、注意深く口を開く。喉を動かす。思考を言葉にする。やってみれば何のことはない、喉は肺は自分の思う通りの音を紡ぎ出した。 「お前らは何だ」 低く擦れてはいるが、確かに言葉になった。 「何故ここにいる」 「そりゃ、そこに倒れてるやつに用があったからに決まってんだろ」 半透明な体液を撒き散らして無惨にも食い荒らされた地蜘蛛を見ながら言う。用があったという割には、どうでもいいような口ぶりだ。 「まあ別に地蜘蛛のやつに用があったわけじゃねーし」 「ええ、後継がいれば問題はなにも」 「……何の話をしている」 どうにもきな臭い会話に、低く唸る。 「そこに倒れている地蜘蛛は、ここら一帯の神であったのですよ。あなたが今そうして喋れているということは、地蜘蛛の力の大半をあなたが食らって我が物とした証拠に他なりません」 狼は押し黙った。蜘蛛を食らった途端に開けた視界。突如として解するようになった言葉。得た知識にひどい違和感。それらが神殺しのたまものだと言われればひどく居心地が悪いのは当然だろう。 「だが、俺がこの場所を治めなければならない義理はない」 唇をひん曲げると、笑っているような表情になった。力を手に入れたとて、元々縁もゆかりもない土地だ。狼らにはなんら関係のない話。 「それは困る」 「何故」 何故、って。そう呟いてから少し困ったように腕を組む。言葉を継いだのは大人しく穏やかな声。 「正直な話、ここを隣の狸爺に奪われるのは癪で。けれど僕らにも自分の治められる領分というものがあります」 「こはっくんとこならなんとか出来るかもしんないんだけどさー、こはっくんとこの当代が堅物で話聞きゃしねーの」 用、とはなるほどこの領分を譲れもしくは自分らに協力しろということらしい。蜘蛛から得た記憶を少し手繰れば、狸の爺とやらはすぐに思い当たった。がりがりに痩せた老人へと好んで変化する古狸。 なるほど、とどことなく愉快になって狼は喉の奥で笑んだ。 「わかった、引き受けてやろう」 どのみち群れは流れに流れてきた。この地に渡って何か成さなければならないことも何もない。むしろ棲み処を得るのはこちらとしても有難いことだ。後に続く群れからもなんの異論もないらしく、じっと赤い瞳を滾らせてこちらの遣り取りを見守っている。 「やった、えと、お前名前は?」 「ない」 つい先程までただの狼であったのだから当然と言わんばかりに鼻を鳴らす。群れの誰にも名はなく、個というものも希薄だったのだ。 「んじゃおれが付けてやるよ!名前ないのも面倒だしな」 それはいい、と手を叩く少年を横目にうんうん唸る。ざあ、っと葉が流れた。このまま放っておいて決まるのだろうかと僅かに不安になった頃に、橙色の瞳が思い付いたと言わんばかりにぱっと喜色ばんだ。 「群れの長なんだよな、よし『孝』によく従う『紫』の毛色の狼でお前は孝紫だ!」 孝紫、と口の中だけで呟いた狼は満足気に喉を鳴らした。 |