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深山/悪戯が過ぎて閉じ込められるのこと(紅輔・翠)

「くそー、出せ、出せよ!」
辺りは真暗である。陽の光が差し込む隙間さえ存在していないようであった。狭い室に体当たりしてみる。びくともしない。
「あの坊主め、おれが何したってんだよ!」
痛いほどに石壁を叩く。ごつごつとした感触と、土の冷たい匂いだけが感じられる全て。上も下もわからない、自分の姿さえ見えない暗闇に座り込む。
恨み言を吐けどもどうにもならない。何もせずにこんな所に閉じ込められるわけはなく、何をしたかは自分が一番よくわかっている。
「……そりゃ、ちょっとお屋敷で暴れたり、畑で暴れたりしたけど。でも悪いやつをこらしめてただけだし」
お屋敷には火鼠が巣食っていたし、畑には泥田坊の恨みが強く落ち込んでいた。常なら放っておくのだが、少し前に紅輔とこらしめた領内のもののけのことで張り合っていたのがまずかったのだ。
こっちはどこどこの沼の主をこらしめてやっただの、あの山に棲む地虫は強かっただの。
そう考えるとそもそもの原因は紅輔にあるのではないかとすら思えてくる。室の壁を思いっきり殴る。土が落ちる乾いた音以外何もしない。
「こーすけのばーか」
翠は天邪鬼である。人の心を悟り、神さえも謀り、悪戯をして遊ぶ小鬼。元来荒事には向いていないのだ。
「あーもう、こーすけなんてきらいだばかやろー!」
「誰が嫌いだって?ばか翠!」
降って沸いたように元気な声が聞こえて、思わず翠は立ち上がった。
「こーすけ!?」
岩屋の外から聞こえたのは確かに同じ土地神である紅輔の声である。
「封印されたんだってな。悪さばっかしたんだろ」
「うっせ、こーすけに張り合ってたら勝手に悪者あつかいされたんだよ」
まさか紅輔に知られるとは、恥も恥である。せめて葵であれば助力も求められたものを。そんな翠の気も知らず、紅輔の口調は軽い。
「得意の言霊でも使えばいいんじゃないか?」
「むちゃ言うな!封印されてるのにできるかよ!」
「やってみなきゃわかんねーだろ」
天邪鬼はその性質故に言霊を操ることにも長ける。荒事には向かない翠ではあったが、言霊によって信仰を集めていた。山が割れると言えば山は割れ、雨が降ると言えば雨が降る。
「くそこーすけめ……『岩の牢は砕ける』」
岩さえ砕ければ封印など破られたも同然。容易に抜け出すことができる。しかし翠を囲む大岩はびくりともしない。堅固なままで、陽の光さえ許さぬと言わんばかりである。
「何も起こらないな」
「だから言ったじゃねーか!この中じゃサトリも言霊も使えねーんだよ」
「悪い悪い、翠の言うことだから」
ちっとも悪びれていない口調である。
「もういいよ、封印だって暫くすりゃ解けるだろ」
開き直ったような口調に苦笑しながら、さてどうするか、と紅輔は思案した。中にいる翠は完全に封じられていて手も足も出ない状態である。翠が閉じ込められているのは大岩を積み上げて作ったような室。木々に埋もれるようにしてあった祠に大岩が蓋をしたような形である。梵字の描かれた岩肌と、それを囲むように巻きつけられた長い数珠に突き刺さった独鈷。よくもまあ天邪鬼一匹封じるのにここまでしたものだと感心せざるをえない。
人や、仏の道にある者であれば簡単に外せるものだが、生憎紅輔は鬼である。触れればただでは済まないだろう。
「どうだ」
不意にしゃがれた声がかかった。人の背などゆうに超すであろう蛇がかま首をもたげている。白い鱗である。陽の光にきらきらと輝いて、それが時折青を差したようにしている。口がぱくりと開いて、薄桃色の舌がちろりと見えた。
「ちょっとやばいだろうな」
「ふん、翠め手間をかけさせおって」
言葉を続けるにつれて白蛇の影がずるずる人のものへ変化していく。と同時にしゃがれていた声も耳に涼やかになっていった。
大岩の前に歩み出る頃には白蛇などどこにも存在しておらず、ほっそりとした体躯に蒼い衣を気だるげにかけた少年が地を踏みしめているばかりだった。
「葵が人になるのは珍しいな」
「蛇のまま話すのは疲れる。私の体は声が出るように出来ていないからな」
そうしてうっそり岩肌を見上げる。陽の光を鈍く照り返す数珠。閉ざされた岩。朱墨で描かれた梵字を目で追いかけ、葵は僅かに眉を顰めた。
「不動明王の梵字か、この坊主はよほどの切れ者かそれとも大馬鹿者か」
よりにもよって天邪鬼に不動明王とは、坊主は果たして翠を封印して反省を促すつもりだったのだろうか、それとも最初から殺すつもりであったのだろうか。
不動明王はあらゆる災厄を背に負った炎で焼き尽くす御仏である。鬼、特に天邪鬼を踏みつけた姿で表される守りは、翠にとっては毒にも等しい。かといって仏の教えに触れられぬもののけが無理に触れれば火傷では済まない。
「どうするつもりだ」
「壊すしかないだろう」
きっぱり言い切った紅輔を、葵は胡乱な目つきで眺めた。ふらりと梵字に視線を遣る。そうしてもう一度紅輔を見つめる。そこに迷いなどこれっぽちもないという表情を見てとって、葵は大きく溜息を吐いた。
「死ぬぞ」
「だけど、もたもたしてたら翠が死ぬんだぞ!?」
ざぁ、一陣の風が木々を大きく揺らして通りぬけて行った。さやさや鳴る梢に葵は静かに、と訴えかけるように指を唇に当てる。
「声が大きい……翠に聞かれたくないのだろう?」
ぐっと息を呑みこむ。
下手に触ればもののけは焼き殺される。この仏の教えに触れられるもの。もののけでないもの。そうして人でもないもの。
「私に心当たりがある。くれぐれもはやるな」
「心当たり?」
「南の狼の一族だ。あそこにはまだ成っていない奴らが大勢いる筈」
大陸から流れてきた狼の一族が住みついたらしいということは風の噂に聞いた。先代であった大蜘蛛を喰い殺し、神格を得て成り変わったとか。
大して珍しくも無い、よくある話である。先代の大蜘蛛もまた、別の神を喰い殺して居座ったのではなかったか。因果応報とはよく言ったものである。
「南まで、いくらかかる」
「早駆けで、三日。折り返して、もう三日」
人里から馬を奪ったとしても、それだけはかかる距離である。紅輔は首を振る。間に合わないのだ。紅輔、と言い聞かせるように葵が言い募った。
「私が帰るまで、待て。いいな」
「だめだ、もって二晩。これ以上は無理だ」
頑として聞かない。
「できるだろう?」
望まれていることはわかっていた。飛べというのだ、葵に。これ見よがしに舌打ちを零すと、ただでさえ厳しく顰められた紅輔の顔に、更に皺が刻まれた。
そうして葵が受諾することも、紅輔はわかって言っているのだから手に負えない。
「貸し、ひとつだ」
言うや否や、細身の少年といった風情であった葵の姿が見る間に変化しだした。上に、上に長く伸びた頭は大きく口を裂き、目はまるで鬼のそれのようにぎらぎら輝いている。長い胴体は蛇であるかとも思われたが、鱗に覆われた四肢が地面をしっかと掴んでいる。蛇というより竜に近い姿である。純白の竜。金色の瞳がしっかと紅輔を見つめたと思ったら、少し曲げた体躯を波打たせながら上空へと飛び上がった。
「ごめんな、葵……」
呟いて紅輔はどっかと岩の前に腰を下ろした。二晩。それだけは待つつもりであった。


緑に色づく木々を眼下に臨みながら、葵は体をくねらせて空を駆けた。
雲の少ない空は遠くまで開けて見える。凸凹とした木々の隙間で鳥獣が蠢いている。遠雷がごろごろと低く鳴いた。
葵は首を上へ上へともたげて高く飛んだ。人が豆粒ほどの大きさである。田畑と森とが長く続いている。太陽に近いのでひどく辛い。そのくせ冷たい風がびょうびょう吹きつけてくる。
真上であった太陽が地平すれすれに赤く大きく見えるまで葵はひたすらに空を駆けた。野を越える。山を越える。そのうち大海が遥かに見える。そうして一本杉の生える崖で、葵は空から転げ落ちるように落下した。
白く長い体が枝葉をへし折るばきばきという音がするのを聞く。鱗に守られて血が流れることこそなかったが、地面に叩きつけられた体はあちらこちらが鈍く痛む。視界がちかちかとする。喉の奥で鉄くさい色が香る。竜の姿など保ってはいられなかった。
ただでさえ竜へと転ずることは葵にとって多大な苦痛と疲労を伴う。長い時間空を駆ければ意識は朦朧とし、尚変化を解かねばこうして空から落ちることもある。
貸し一つと言わず、一生の貸しにしておいてやればよかったか。竜から人へと姿を変えれば、少しは痛みも和らいだようであった。白く細い腕に滲んだような痣が浮かび上がっている。見えない場所にもあちこち赤黒い色が出ているだろう。はぁっと溜息のように息が零れる。天を仰ぐと、そこだけぽっかりと空が開けて見えた。なぎ倒された木々の残骸。ぼろぼろ落ちている枝葉。むっと濃い樹木の匂いが漂っている。
空は茜色から濃紺へと夜が迫ってくる。立たねば、歩かねばともがくが四肢に力が入らない。せめてもう少し日が長ければ、と心の中で悪態をついた。
さく、と軽い音がした。葉を踏む足音。一つだけだった音が二つになり、三つになる。囲まれた、直感する。獣の荒い吐息が耳をうつ。昏い木々の奥からぎらぎら赤い目が覗いている。山犬か、狼か。人を恐れない獣の群れ。
湿った土を引っ掻いても、爪先が汚れるばかりだった。
「ここで死んだら……恨むぞ紅輔」
真正面から悠々と歩いて来る巨大な狼を睨みつけながら、葵は呟いた。
低い唸り声。葵を囲む獣の匂い。剥き出された牙がぞろりと白い。いずれの獣も真っ赤に燃えるような瞳である。その獣らを束ねているのであろう、巨大な狼が葵の眼前に歩を進めた。
「東の蛇神が何用だ」
地の底から響くような声。その気になれば葵などひと呑みであろう大きく裂けた口。こいつが流れの土地神かと、早々に出会えたことに葵はほっと安堵の息を吐いた。時間がない。
「このような姿で失礼する」
あちこち痛む体をなんとか引き摺り、葵は巨大な狼の前に頭を垂れた。
「一帯を治める狼の主とお見受けする。どうか力を貸して頂きたい」
「貸して、なんとする」
「……救いたい者がいるのです」
そのために、まだ成っていない者が必要なのだと葵は訴えかけた。知り合いの天邪鬼の命が危ないこと、その友人である鬼が自分を顧みず天邪鬼を救おうとしていること。ただ、時間がないのだと。
日は落ちてひたすら黒い闇である。月明かりも乏しい中では草木さえ息を顰めたように静まり返っていた。微動だにしない狼らの中で、一際大きな体が笑うように震えた。低い声が愉快そうな色をのせる。
「乗れ、案内しろ」
背を屈めて狼が言う。
「では……」
「その頼み、聞き届けた」
「有難い、狼の主よ」
それを聞いた途端、狼が何とも言えない顔をした。片方の唇をひん曲げたような表情。僅かに間を置いて、狼は言葉を吐きだす。
「俺は孝紫だ。そう呼べ」
「……わかった」
痛む体を引きずりながら孝紫の背に乗る。ぐったりと身を横たえる葵を落とさないよう気を使いながら、ひと一人なら楽に運べるほどの巨体を震わせて、孝紫は大きく吠えた。葵を囲っていた獣らもつられて吠える。空気が震えるほどの獣の咆哮。
ぐう、と体を縮める。ぶくりと後ろ足が膨れた。そうして力強く地を蹴って、狼の群れが月夜に駆けだした。
びゅうびゅう風を切る。大岩を駆けあがり崖を飛び、獣たちはひたすら地を駆けた。四肢は強靭で、鋼のようである。
ゆら、とふらり火が目の前を過ぎるのに孝紫が腹から吠える。たちまち怯えたように姿を隠してしまう。水虎の群れがひょうひょう鳴きながら谷川を渡っていった。ぼちゃぼちゃ何かが水底に隠れる音がする。孝紫と名乗った狼がこの付近で力を持っているのは確からしい。
寝待ちの月から薄らと光が射しはじめた頃に、孝紫がふと思いついたように口を開いた。
「鎮西の守鬼はどんなもののけだ」
「詳しくは……あれは私よりも古いものであるから」
「俺は流れ者だからそこのところはよく知らんが、お前もかなり古い神と聞いた」
喋っているが足はちっとも止まらない。
むぅ、と眉根を寄せる。聞いた話だし、鬼、紅輔自身ももうあまりに古くて忘れてしまったらしいが、と一言言い置いて葵は重い口を開いた。
「なんでも紅輔は神代の頃からこの地に住まうものらしい」
神代。神話に語られるほどの古い物語。この国の神といえばイザナギとイザナミの天地開闢から始まり、アマテラスオオカミを太陽神として天皇の一族に帰結させていたという記憶がある。では紅輔もそのような古い神であったのだろうか。
「鬼、という言葉の起源を知っているか」
「さて」
不意に何の講釈であろうか。人間の言葉は移り代わりが激しく、そこにある言葉をただ使えればよいこちらとしては起源なんぞに興味を持つことは無いと言ってもよい。
ただそれが成り立ちを知るにあたって必要とあらば話は別である。
「オニ、は元はオヌ、と呼ばれていた。オヌ、『隠』は山里に隠れ住む人のことを指すこともあったらしい」
そこでぷつりと言葉が途切れる。言うべきか否か迷っているらしい。周囲の景色はびゅうびゅう過ぎ去っている。一呼吸、二呼吸。それからようやく声が降ってきた。
「紅輔は古い、鬼だ」
どことなく、葵の言わんとすることが理解できた。神代の頃。山に隠れ住む人々。鬼。
「無論、これは私の推察に過ぎん。紅輔自身も自分が何故鬼に成ったかなど興味がないらしいしな」
「よく知っているな」
「奴とは長い付き合いだからな」
なるほど、と孝紫は赤い瞳を細めた。


夜が明けた。一つ、と紅輔は岩の前で数える。これより丸一昼夜の間に葵が帰って来なければ、紅輔は無理にでも封印を破るつもりでいた。不動明王の梵字が憎らしげに明々と陽の光を受けている。
葵には無理を言ってしまった。これは一生恨まれるだろうな、と紅輔は苦く笑う。恨まれても仕方ないことをしている自覚はあるのだ。それだけの付き合いはある。かれこれ何百年来の話だっただろうか。
ふと物悲しい気持ちに苛まれて、紅輔は目の前の岩に声をかけた。昨夜から物音一つしない。もうくたばったんじゃないだろうな。
「翠、起きてるか?」
「なんだよこーすけ、まだいたのかよ」
あっという間に憎まれ口が帰ってきてほっと息を吐く。
「いちゃ悪いかよ」
「いや、悪かないけどさ……自分のとこ、戻らなきゃだろ」
紅輔にも治める領分というものがある。特に太宰という鎮西の府は本土からも大陸からも人やあやかしの出入りが激しい。あまり長いこと空けてはいられない場所だということは確かである。
それでも紅輔はごろりと草地に寝そべって、高い空を見上げてなるべく軽い声を放った。
「暫くはお前の話相手してやることに決めたんだよ」
なんだそりゃ、と岩室の中から笑う声が聞こえた。


「夜が明けたか」
孝紫が低く唸る。狼の群れは夜通し足を止めずに走り続けていた。強靭な肢と体力にまかせて駆ける。宵闇に紛れて人里を駆け抜け、もういくつ山を越えただろうか。
次の夜が明けるまでに翠と紅輔の所まで戻らねばならない。
孝紫の背に捕まる葵も大分回復したようで、ぐったりとした様子はもうない。
「流石、水のもののけは治癒が早いな」
蛇もそうだとは知らなかった、と孝紫は喉の奥でくつくつ笑った。
「水に棲むもののけは五百年で蛟と変ずる」
平坦な声が返ってくる。ミズチ。水を司る霊的な存在という意の音だ。葵が一帯を司るようになって軽く数百年は経過している筈である。
「お前は蛇だと思っていたんだがな」
ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「蛟は千年で竜となる。もし私が蛟なら、とうに天駆ける竜となっている」
竜になるほど長く生きたというのに、葵は未だ蛇の姿のままである。孝紫が僅かに目を眇めたのを見てとったのか、葵は苦々しく言い放った。
「丁度私が蛟へと転ずるかという時に、横やりを入れおった奴がいた」
蛇が蛟へ変ずる様を偶々目撃していた不作法な愚僧に危うく退治されかけたのだと葵は憎々しげに吐き捨てる。
「お陰で私は蛟にも成れなんだ」
蛟としての能力はあるらしい。水を司り、雨を降らせ雲を掃う。しかし姿形が蛟に転ずることはなく、ひどく不完全なままである。無理をすれば形を変え天を駆けることもできるが、それも長くは続かない。
「人化が不完全なのはそのせいか」
人の形をしている葵は一見すればただの美丈夫だが、四肢や首筋にちらちら輝く鱗が残っている。薄い青のかかった白が陽の光を跳ね返している。
「いや、鱗を消すのが面倒なのでな」
流石に人化を保つ程度の力はあるのだと言う。そうでなければ神として祀られもしない。蛇でもあり、蛟でもある。しかしてそのどちらでもない。
やれ面倒な生であることよ、と背の長虫が億劫そうに呟くのを、孝紫は黙って聞いていた。
喋っている間にも時間は確実に過ぎていく。木々の生い茂って薄暗い森を走る。苔にびっしり覆われた古木がひと呼吸する間に群れは走り抜けてしまう。でこぼことした地面を強く蹴る。爪に抉られた土が小さく舞った。
夜の間は人目を気にすることもなく走り抜けられたが、日の下ではそうもいかない。人の少ない森を抜ければ、麓には人の住まう場所がある。
ふと、孝紫の歩みが止まった。群れの歩みも止まる。荒い息が背後から連続して聞こえた。ただの獣である狼には、この強行軍はよほど堪えるだろう。
急な斜面をずっと下った向う。大きな通りは宿場町によくある作りである。茶屋や宿場の客引き娘の甲高い声がする。不老長寿の符だと言って、さむはらと書きつけた符を売り歩いている。河原の馬洗場では馬借が褌一つで愛馬を川に入れてやっている。大八車の脇で男が煙管をくゆらせている。見世の幟が風にはためいている。いお売りの元気な声が、海が近いことを物語っていた。
「人里か……狼どもを見られては厄介だな」
「迂回している時間はない」
おもむろに孝紫の背から飛び降りる。湧水の傍にあさい紫色をしたカキツバタが咲いているのを見てとると、迷いなく花弁を一枚折りとった。薄い唇でそれを食む。そうして細く長く息を吐きだす。何をしているのかとじっと見ている孝紫の前で葵の息が空気よりも薄い、薄い粒子になって辺りに漂い始めた。
陽光をあちらこちらに跳ね返す粒子は様々に色を変えながら霧のように人里全体をすっぽりと包みこんで、あの中は前も見えないほどだろう。
「突っ切れ、孝紫」
すっかり息を吐きだした葵が紫かかった暗く短い毛をくっと掴む。屈んでやるとぱっと背に飛び乗った。辺りにはゆらゆらと揺らめく蜃気楼が立ち上っている。
群れに一声吠える。急な斜面を突っ切って、広い街道を駆け抜けた。
「大丈夫か」
「ああ、目くらましくらいにはなる」
昼日中の怪異として伝えられるくらいはあるかもしれないがな、と葵が可笑しそうに言うのに、孝紫はふっと息を吐きだすことで応えた。
日は次第に暮れに向かっている。
気ばかりが急いて仕方がなかった。
沈む日を左に見ながら狼らはひたすら駆ける。頼むから間にあってくれよ、と葵はただ願った。
ぽつりと日が沈んだ。月のない夜に星の粒が瞬く。あまつきつねが尾を引いて流れる。走りの遅れてきた狼らを叱咤するように孝紫が吠えた。
「あとどれだけかかる」
あとどれだけで夜が明けるだろうか。この夜が明ければ紅輔は自分を待ちなどしないだろう。孝紫の赤い目が地平を見据える。まだそれらしきものは見えない。
「さて、俺にはわからんな」
狼の群れに驚いたノヅチが背の高い草に潜る。ケーンと鷺の声が田に聞こえた。


夜空に寝待ちの月が出た。葵はまだ戻らない。間も無く日が出るだろう。
「翠」
岩室から答えはなかった。しん、と夜はひたすら静かである。時折吹く風につれて草葉がさやさや揺れた。
大岩は変わらずじっと佇んでいる。
岩へ覆いかぶさるように両手を広げた大木。そこに月が隠れてひどく黒い。地面に拳をつく。
「翠」
遠くの峰が薄らと白くなっていた。葵の姿は見えない。夜は明けた。
紅輔は奥歯を噛みしめて両足に力を込めると立ち上がった。約束の二晩は過ぎたのだ。朝日に照らされて白い岩肌を見詰める。まずはひとつ、地面に突き刺さる独鈷に手を伸ばした。
ふーっと長く息を吐きだす。坊主の力量にもよるが、これに触れて無事でいられる保証はどこにもない。
朝日を受けて煌めく独鈷に触れる。忽ち炎に触れたような熱と痛みが紅輔の掌を焼く。
「っう……」
顔を顰める。ぎりぎりと奥歯を噛みしめる。それでも力を込めるとあえなく独鈷は地面から離れる。たまらず投げ捨てる。大きく弧を描いてぼとりと落ちた独鈷はくすんだような色を呈していた。
掌は焼け爛れたようにどろりと痛い。
「こーすけ?なんか変な音が……」
「翠、平気か?」
「へーき……こんくらいの封印でおれが参るわけないだろ」
答える声にも力がない。それでも天邪鬼の性質だろうか、ぐったりとした声で平静を装っている。
矢張り葵を待ってはいられない。
焼け爛れた掌を強く握る。びりびりとした痛みを堪えながら、紅輔は大きく拳を振りかぶった。
違わず岩に拳が命中する。力に耐えきれず岩にひびが入る。やった、と喜色ばんだのも一瞬、
「うわぁっ!」
突如として拳が燃え上がった。不動明王の守りを恨めしく思う。熱い。痛い。ひどく肺が痛む。大きく開いた目玉がちくちくとする。地面についた膝がぎりぎりと折れたような心持になる。脂汗がつとこめかみを伝った。せめて焼き尽くされる前に、ともう一度拳を振るう。また亀裂が入った。
「な、なにやってるんだよこーすけ!」
慌てたような声が聞こえる。中にまで音が届いたのだろう。なんだまだ元気じゃないかと紅輔は皮肉気な笑みを浮かべた。地面に拳をつく。折れた膝を持ち上げる。
「絶対助けてやるからな、翠」
振りかぶる。拳を叩きつける。炎が噴き出す。ばっと裂けた皮膚から血が滴る。痛みに頭がぐらぐらする。たまらず地に倒れ伏した。
「こーすけ、こーすけ!?くそ、割れろ、出せよ!」
右も左もわからない暗闇を手当たり次第に殴りつける。それでもびくともしない。言霊も届かない。
「こーすけ……」
何が起きているのかすらさっぱりわからないまま黒い地面に座り込む。ひどく体が重い。ただ、紅輔が死んでしまうのではないかという危惧ばかりが心に蟠っている。神も仏もあるものか。神は自分だ、仏は助けてくれない。では自分は誰に祈ればよいのだろう。
「誰か、助けて」
ぽつりと言葉が零れた。
「誰か、こーすけを助けてくれよ……!」
絞り出すように声が出る。無力感が全身を打つ。外からは何の音もしない。どうしようもないのか、とへたり込んだ時、
「このっ、大馬鹿者!」
澄んだ声が空気をぴしゃりと叩いた。
狼の群れと共に駆け付けた葵であった。ひびの入った大岩が見える。梵字は朱墨で赤く見える。大岩の前に明々と燃え盛る炎が見えた。孝紫の背から飛び降りて駆け寄る。予想通り、炎に包まれているのは紅輔であった。
「葵……?」
「私が帰るまで待てと言っただろうが、愚か者が!」
怒気も露わに白魚のような指が天を指す。たちまち雨雲が集まる。陰気の炎でなければ水で消せる筈、一抹の望みをかけて天から水が降り注いだ。
じゅうじゅう音をたてて炎は白い煙を上げる。痛いほどに強い雨を受けながら、孝紫も負けじと大きく吠えた。群れの狼らが大岩に向かって動き出す。
ただの獣ならば仏の教えにも触れられる。難なく数珠を食いちぎる。ばらばら音をさせて数珠が散らばった。ひびの入った大岩に何度も体当たりすると、そのうちぼろりと岩が崩れだした。紅輔が岩にひびを入れておいてくれたお陰で手間がかからずに済みそうだ。拳ほどの大きさに砕けた欠片に狼らは群がる。もう安心だろうと視線を外す。
「そちらは無事か」
低く唸る孝紫に葵は頷く。
「火傷がひどいが、平気そうだ……まったく人騒がせな」
すっかり火が消えたのを確認して雲を掃うと、そうか、と孝紫もぶるりと体を震わせた。水滴がぱっと飛び散る。ずるりと岩室から引っ張り出される翠を見、足元で転がる紅輔を見て、葵は大きく溜息をついた。
「全く、この馬鹿共め」
「馬鹿って、ひどいな……友達思いって言ってくれよ」
「貴様のような奴は馬鹿で十分だ」
ばしりと叩くといてっ、と小さく紅輔は笑った。



とくとくと湧き上がる清水に唐渡りの金魚が赤い鰭をひらひらと遊ばせている。湧水を引いた池を中心に作られた中庭を囲むように土間がひょいと突き出している。夏蝋梅のうっすらと紅い花の間を縫うように飛び石が白く見えた。
桜の花弁を何枚も重ねたような薄茶けた柱。淡く陽の光を透かす障子と板間。ぼんやりと明るい一室で息をひそめるように葵は座っている。端座をしているので、小さな体がいっそう小さく収まって見える。
脇には清水の入った小桶が置いてある。汲んだばかりの井戸水はひどく冷たい。汗をかいた小桶は板間に丸く模様を描いているのを見てとって、葵はふと息を吐きだした。視線の先には健やかな寝息を立てる紅輔がいる。先だってのことでひどい火傷を負った紅輔を癒すにはここが一番だろうと、数日前から翠と共に逗留させていた。
濃い灰色の瞳が開いて、葵はようやく起きたか、とだけ嘆息した。まだ火傷はひどいが、順調によくなっていっている。
「翠は?」
「無事だ。……奴のお陰で南の狼に借りを作ってしまったがな」
翠は封印のせいで衰弱してはいたが一晩寝て起きればすっかり回復してしまった。起きた次の日はこうすけこうすけと喧しかったのを覚えている。
「まったく無茶ばかりだな」
まさか本当に梵字の描かれた岩壁を殴りつけるなど。まったくこいつらは本物の馬鹿だと葵は大きく溜息をついた。すっかり温くなってしまった手ぬぐいを額から取り上げて、手桶に浸す。冷たさに目を閉じた。
「葵だって必死だったくせに」
低く笑う。ひたすらに静かなこの場所では顰めたような笑い声もよく耳につく。
「いいから安静にしていろ」
べしょ、と当てられた手ぬぐいの冷たさを感じながら紅輔は僅かに肩を震わせた。
「さて、そろそろ煩いのが来るな」
何が?と聞く前にだだだだだ、という屋敷に見合わない足音が聞こえてきて、葵は僅かに目を細めて首を傾けた。
「こーすけーーーーーーー!」
「煩い静かにしろ!」
ぱっかーん、と小気味の良い音と共に小桶が冷たい井戸水をぶちまけて、んぎゃっ、と悲鳴を上げた翠の口元はそれでも楽しげであった。
次:【悲願花】

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