SAMPLE SITE

SAMPLE SITE

Novel

狐将棋/天狐の瑠璃之丞

【天狐】
天狐とは霊力を持つ狐の一種とのことであるが、ここではあえて長崎県小値賀島に纏わるテンコーという伝承を挙げることとしたい。
理由を挙げるとすれば、今回の天狐においては「憑き物である」「天狐と名指ししている」「神通力を持つ」この三点に合致する伝承が長崎県小値賀島にのみ伝わるテンコー、ジコーという妖怪しか存在しなかったからである。
また、一次ソースに基づく文献が村上健司著『妖怪事典』のみであり、その記述もそういうものがいるという一点のみであったことを予め了承願いたい。
聞き取り調査によればテンコーというものはそも自らの巫に対し神通力を分け与えるという土地神的な役割を果たすあやかしであったという。それが神通力を与えたことにより驕った人間が現れ始め、テンコーは後継を任せ去らざるを得なくなったとのこと。
全国的にも類をみない逸話であり、妖怪というよりは神として祀り上げられていたものを祀り損ねてしまい概念的に妖怪と化した、と解釈するが妥当であるようだ。

参考文献:妖怪事典(毎日新聞社)


***

ぱちん、と涼やかな音が木製の盤面に響いた。
白く長い指に艶やかな薄紅色の爪が金将の駒を抓んで歩を進める。銀糸というに値するほど白く色の抜けた長い髪が光沢を持つ檜の板間に流れて、ゆるく結った髪留がかろりと軽やかな音をたてる。
糖蜜を溶いた色の瞳に、白銀の長い髪。左目には赤く朱を挿して、それが陽に当たったこともないかのような白い肌から浮き出て見えるほどにはっと目を引く。一見して鬼にも見紛う美しさだが、その頭上にはひこひこ動く獣耳が生えており、獣の化生であることが知れる。
「ふむ、流石よの。なかなか攻め入る隙のない手じゃ」
将棋を指す男はその涼やかな顔をほんの少しも動かさず賛辞の言葉を贈る。秋にも近くなる日々の、乾いた風がふと通り抜け、相手をしていた少年の髪を乱した。
ころり、髪留が転がる。すんと鼻を鳴らせば豊かな土の匂いがした。
ぱち。
歩が一歩、前へ。と金に成り上がったそれを厳しい目で見ながら、その手を指した少年はさあどうすると言わんばかりに男の金がちな瞳を真直ぐ見つめた。
「守りは僕らの本分ですから」
風に揺れる稲穂の、黄金色をした髪である。瞳は藤の薄い花弁を何枚も重ねたようである。それらがおさない顔立ちの中にすっきり収まって、端正な少年の姿を形作っている。それでも人でないと断ずることができるのは、やはり銀髪の男と同じように獣の耳をひょっこり出して、更には長く引きずるほどの狐尾をふさふさと板間に遊ばせているからだ。
化生が二匹、軍議の戯言などを楽しげでもなく行っているのはどれほどに奇妙なことであろうか。
「さあ、貴方の手をどうぞ瑠璃之丞殿」
盤の上には巣穴に籠った穴熊と、海を揺蕩う舟とが描かれている。
「では、桂馬をこれへ」
穴熊のすぐ傍に置かれた桂馬は、しかし金にも成らずそのすぐ横にある龍と睨み合っている。誤手だろうか。僅かに眉を顰めると、瑠璃之丞たる銀髪の獣は笑みを深くしたようだった。
「不知火の篝火はこの庵からも見えたであろうなあ」
「……さて、どうでありましたか」
違わず龍が桂馬を食う。木と木の打ち合う音が心地よく響いた。異なる手の桂馬は駒が勝手に動いた結果だとでも言うつもりか。
「次、我は銀を」
嫌な手だ。敵陣奥深くに打った銀で隙のある金の背後から攻めようとでもいうのか。
「これでは金を下がらせるしかありませんね」
銀の真横に金を下げると、何がおかしいのか男は喉を震わせてくつくつと笑う。
「睨み合いになったのう」
「それが、いかが致しましたか」
「なあに。そういえば先日、こうして睨み合うた奴らがいたと思っての」
ぱちん、銀が左に下がる。金に成る。どちらもどちらを取ることができるが、少年はくっと唇を噛んだ。奥の角行が睨みをきかせているのだ。
「琥珀よ。そちの金と我の銀……痛みわけ、といったところでよいか」
動けない。琥珀と呼ばれた少年の金将は完全に死に体で、睨み合うことで辛うじて命を繋いでいる有様だ。
「敵陣の奥深くに切り込む駒とは、何やら知った話のような気が致します」
「そうであろうなあ」
余裕の様子を崩さない瑠璃之丞に口を噤み、琥珀は次の一手を打つ。陣の左手から飛び出した桂馬が、ひょっと瑠璃之丞の歩兵を刺した。
「貴殿は、一体何をなさりたいのですか」
思ってもみない手であったのだろう、男の手が一度止まった。止まって、そうして歩兵を一歩前へ。
「せかいせいふく、といったところかの」
それはまるで、外つ国の言葉であるようだった。
世、とは。過去から未来への全ての時間の流れを。界、とは。東西南北そして上下に広がる空間の全てを。
それらすべてを平定するとのすらごとをこともなげにこの化生は言う。
「それになんの意味がありますか。僕たちはしょせん、人の上に立っているにすぎないのですよ」
人の上に立つといえば聞こえはいいが、人がいなくなれば立っていられないというだけの話だ。人間に畏怖され崇拝されなにもかもを人間に与えられながらにしか生きてはおれない。そういうようにできている。
「それが何とした」
ばちん、強い音が将棋盤に響く。成銀が穴熊の金を食って、じわりと不気味な一歩を進めたのだ。
「日を追う毎に薄れゆく畏怖になんの意味があろう。暗がりにさえ火を灯し始める奴らは最早我らに畏敬など払ってはおらぬ。人間だけでよいと神など娯楽と思っておる。お伊勢参りに行く奴らの何人が天照大神よ我を御照覧あれとの心持であろうか」
ぱちん。琥珀は無言で成銀を取る。すぐさま桂馬の手を打たれ、それから逃げようと金を上げれば、ひょっと成桂が奥深くまで攻め入ってきた。がらんどうの穴熊の巣に角行の道筋ががっぽり開いている。
「それで、貴殿は恐怖こそあれと」
投了は間近だ。食い荒らされた穴熊の姿を舟がゆらゆら笑っている。
成桂の斜め、ちょうど死角となる位置に銀を打つ。窮屈そうな駒たちに一瞥をくれて、しかし一歩届かない。金が成桂に取られれば、銀にはもう成す術もない。死を待つのみの駒が悪あがきと下がるも、成り上がりの桂馬は無情に銀を刈り取る。
「人が神を忘れるのならば、神が人に忘れてはならぬと厳命せねばなるまいよ」
くっ、と銀狐の薄い唇が上がる。忘れられゆく金の狐を見て嘲笑っておる。
「どうだ、一枚噛まぬか」
この間際になって何を言っているのか。この性悪狐、と琥珀は心中で吐き捨ていたって平静を装い桂馬をもうひとつ上へ動かした。
「御遠慮申し上げます。我々はまだ祀り棄てられたわけでもありませぬ故」
一拍。
壁のない、柱ばかりの屋根の下に風がさっと吹き抜ける。冷たさを孕んだ空気が静かに迫ってきて、まだ青い楓の葉がはらはらと御衣の裾に散った。
そうか、とさほど残念でもなく言う。はじめからそうであることがわかりきっていた声。ややあって、今一度男が問うた。
「貴様らの中で、今もその依り代の神霊を蘇らせておる者はおるか」
琥珀は答えない。その静けさが答であった。
「それでも、我々はそちらに組しは致しません」
「よいよい。我らとて里の民から忘れられ畏れられもせず恐れさせようともせず小さく纏まっておるだけの脆弱な獣に興味はないわ。いずれにしろ古きものは新たな則にて刷新せねばなるまいて」
角行が大胆にも敵地に踏み込んで、位を上げて龍馬となる。こちらの桂馬は動けない。王将も同様。
「これにて、詰みよ」
「……そのようで」
確かに詰みだ。どうあってもここから巻き返すことなどできはしない。銀狐はにんまりと唇に弧を描いて大変満足そうに腰を上げた。
「では、いずれまたあいまみえようぞ」
零れる銀糸をさらさらと滑らせて、細い尻尾をぴいんと立てて。なんでもないような風体でころり、烏皮の履を鳴らして背を向ける。小さくなる背中がすっかり見えなくなってしまっても、琥珀は静かにその場に腰を落ち着けたまま。
生き物の気配がこれっぽっちもしない寂しい板張りの間で、琥珀は最後の一手を打った。
「……王手」
空っぽの風ばかりが通り抜ける。まだ青いすすきが風に首を垂れて、葦の葉と擦れあう。さわさわ音の鳴る庭に目を遣って、黄金の天狐もまた、瞬き一つの間に姿を消した。
頓死するだけとなった玉は黙している。
古松の書割が佇む、指し手のいなくなった板間でお互いの首を刈り取るだけとなった将棋盤のみがぽつんと残されていた。
次:【至る】

<< 前のページに戻る