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至る/決戦

ふと、葵は瞼を持ち上げた。人の姿はなにかと便利だがいちいち瞼を持ち上げなければならないのが面倒だ。蛇の瞼は薄く透けて、常に瞼越しに見ているようなものであるからわざわざ目を開く、など意識せずともよかったものを。それでも人の目で見る世界は鮮やである。蛇にとって目などほとんど役にたたないお飾りであったから、葵は人に成ってはじめて『視る』ということを知ったのだ。
瞼を持ち上げた視界には白を身に着けた禰宜が平伏している。なんだったかなと一瞬考えて、そうだ呼びつけたのは私だったと思い出した。禰宜は頭を下げているおかげでばれていないようである。そこは僥倖であった。
長かったであろう沈黙に続けて、葵はすと立ち上がった。板間をゆっくり踏みしめる。夏だというのに陽も当たらぬ板間はひやりとして、ぬるい空気と相まって心地よい。
「私はそろそろ蟄居しようかと思うておる」
線の細い体からそっと流れ出した声に禰宜がびくりと体を竦ませたのがわかった。
「人が神に縋る時代はとうに終わっておったというに、いつまでもここに居ては自然でなかろう」
そも、ここまで続いてきたのが奇跡のようなものなのだ。十年もすればあっけなく傾いてしまう寺だってあるというのに、この場所は何百年もの間葵の棲家としての役割を果たしてきた。乞われるままに雨を降らせ、祀り上げられるままに威光を示し、けれどそれももう終わるであろう。人が自らの力で生きるを可能にし始めた時から、葵らは力を乞われず忘れられることが定まっていたのだ。
雨がなくば稲もできぬような脆弱さはすっかり知に覆されて、人が人であるだけで世は滞りなく進むようになった。
「せめてもの餞別に、この笛を」
袂から取り出した横笛は、竹細工。静かな日々のなぐさみにと葵が度々吹いていたことはこの年若い禰宜にもよく知られていたことだろう。
「では、我々はいかがすれば」
面を床に落としたまま言うのに、さあなと葵はそっぽを向く。
「そんな先のこと、私にもわからぬよ」
水が滔々と流れる音ばかりがこの場にあった。
いつの間にかやってこなくなった夜雀にふと感慨を覚える。庭木は変わらず青々として、赤い花がぽつりぽつりと咲いている。水気の立ち込める空気を肺に吸い込むと、とろり甘い蜜の香りがふと花ひらいて、掻き消えた。
きぃ、床を軋ませて歩く。背にかかる、あおいさま、という声にも気付かぬふりをして。
砂利のしかれた庭に降りる。裸足にまろい石がころころ触れてくる。それらひとつひとつにそっと心を残しながら厳かな音をさせて水を落とす滝壺に身を沈めた。とぷん、それきり。水底まで深く深く両の手を突き出し沈んでいく。水膜が金色の目玉を覆って、魚さえおらぬ清流の奥底までよく見渡せるようになる。呼気が泡となる。ぽこん、と煌めいた空気がまあるく形どりながら瀑布に向かって泳いでいった。
「さよならだ」
後には、白蛇の鱗一枚さえ残ってはいなかった。


「あ、あおいだ」
背の高い草丈に埋もれそうな体を真っ先に見つけたのは緑色の小鬼で、それはいかにも道理であったが葵は僅かに眉根を寄せた。言葉にするなら、何故お前がここにいる、といったところだろうか。
それを正しくくみ取った小鬼はなんのうしろめたさもなく「おれも呼ばれたの。こーすけに」と言って笑った。
「たぶん、みんな呼ばれた」
言う横顔がどこか不安げなのは仕方がないことだろう。長く長く生きてはきたものの、こんなことは初めてだ。
「こーすけも腹くくったみたいにしてる。あと来てないのは、こはっくんと、こーちゃん」
もうすぐ来るんじゃないかなあ、なんてのんびり言ってみせる声が強張っている。ひゅるる、何かの鳥が遠くで鳴いた。なんの変哲もない山中だ。足元では虫がさかさか這い回っているし、遠くでけんけん鳴くのは狐か何かだろうか。真直ぐ陽に向かって伸びる樹木は太く力強く根を張り、一方で苔の生えた木々が朽ちかけている。
ぐしゃり、踏んだ土の下でやわらかい虫が声もなく蠢いていた。
「……行くぞ」
「うん」
行かねばならぬ。ならぬのだ。
その昔訪ねた折にはただの洞穴だった棲家も、しかしやはり掘立小屋といった感じが拭えないのは葵がいかにもといった神殿に住んでいたからであろうか。岩肌をくり貫いた洞穴に木の小屋をひっつけただけの簡素なお堂で、紅輔は足をぶらぶらさせながら葵らを待っていた。こちらを見るなり大きく振る手に、やはり翠と同類だという感想を抱きながら大儀そうに歩く。横から飛び出した翠は対照的に走り回るので、余計そう見える。
「別れは済ませた。私はもうおらぬと、蟄居すると言い置いてきた」
開口一番にそれだけ、簡潔に言った葵はもうそれだけで全部終わったとでも言わんばかりにそこらにあった石にへたりと座り込んで、「で、どうする気だ」と金色の瞳をぱちぱちさせた。
「まあ待て。もう二日三日で揃うだろうし、それからだな」
緑色の小鬼がそこらじゅう落ち着きなく走り回っている。その騒ぎを聞きつけたのか、掘立小屋にも近い出入り口に蓋をした菰を持ち上げて小鬼より小さな背をした子が眠たげに目を擦りながら外へ出てきた。
「あれえ、葵さんだ」
大欠伸をしながら言うのはどうにもしまりがない。
「……もう昼だぞ」
苦言を呈してみれば子供は鶯色の目を涙に潤ませてこしこしと擦る。どうにも眠気が取れないらしい。
「わかんないんですけど、眠くて眠くて」
ふぁ、また欠伸。確かにうららかな昼寝日和ではあるがと首を傾げると、紅輔が苦笑してしーっと口に一本指をあてた。そっとしておいてやれということだろうか。
腫れぼったい目を擦りながらまた橙矢はうつらうつら舟をこぎ始める。それをお堂の中に戻るよう促して、紅輔は息を吐き出した。
「衰弱してるんだろうな」
元が神格を与えられるほどのあやかしではないから、余計に。程度こそ軽いものの、黒ノ介もうつらうつらとすることが増えたのだという。もっとも、彼の場合はひどい怪我を負っていたから、というのが主な理由であろうが。
「おれもだるい」
「嘘つけ」
ぐあーと大きく口を開いてみせた翠を一括して、葵は俄かに嫌な予感を覚えた。
「愚策だったんじゃないのか」
「かもしんない」
「おい」
「でも、これしかなかったからさ」
山の天辺に日が差し掛かっている。ふと吐く息にじっとりとした晩夏の熱が籠って、大層気持ち悪い。
「不知火も、ひょうすべも、山姫も。全部ひっくるめてどうにかするには」
「私はそんな奴ら知らないがな」
「葵は厄介そうって思われたんじゃないかなあ」
からから笑うのにむっと唇をすぼめる。厄介だとは失礼な。しかしそのお蔭でここまで来てもまだ静かに暮らせていたのだからなんともいえない。
「あ、こーちゃんとこはっくん来た」
そわそわ落ち着かなげにする天邪鬼がひょっと言いだして繁みに飛び込んでいくので、葵もそれ以上へそを曲げるのを止めた。元々さして真直ぐなものでもないし、曲げたところでどうなるものでもない。
風は少々枯れて、肌に心地よく吹き付けてくる。籠った熱気を攫ってもっと南へ南へ運んでいくらしい。名も知らぬ斑色の蝶がひらりと風に舞った。
「皆揃ったぞ、こーすけ!」
緑の壁を隔ててなおよく聞こえる騒がしい声が待ち人を率いてくる。にこやかな顔と、仏頂面。その対比がなんとも可笑しくて、葵は声を出さずにふと口の端だけ歪めた。
「百余年ぶりだったかな」
「そうだっただろうか」
どこかぼんやりとした眼で言うのはひたすらに寡黙な狼の変化。
「葵くんは引きこもって出てきませんからね」
どこか棘のある物言いをするのは外見こそ黄金に輝くが腹の内に何を飼っているか知れない狐の頭目。
同じ獣でもこうも違うものであるなあと思いつつ「冬眠せねばならんから仕方いんだ」とだけ反論しておく。天照大神ばりの引きこもりだと思われるのは心外であった。
「ま、皆が最後に揃ったのっていつのことだったか忘れるくらい昔だったからなあ」
「そうだっけ?」
「翠くんはしょっちゅう皆と会っていますから、そうは思わないでしょうけれど。僕だって紅輔くんと会うのはすごく久しぶりですし」
ふぅん、と納得しているのかしていないのかよくわからない声で返事をした翠から柔らかな視線を外した琥珀は、その柔らかなままの視線で、紅輔にそっと声をかけた。
「さっそくで悪いのですが、あちら方の拠点に出向いてまいりました」
悪びれない笑顔だ。それに血の気の引くような思いをしながら、葵はちらと紅輔を見た。
「……話を聞かせてもらおうか」


人気のない檜舞台に、ふと笛の音が遠く遠く響いた。
ひぃー、鳴く声は鳶かと思わせるほど高く高く、息を強くして静かな舞台に鳴り響く。能舞台には似つかわしくない紅色の娘っこが、白く細い指でくろぐろとした横笛を奏でている。笛の止むを合図に大鼓小鼓、二つのそれがこん、かんと拍子を刻み始めた。
舞台奥でやわらかな音色を届かせる笛と、それに拍をつける男らの掛け声、鼓の音。顔色の悪い隻眼の男と、派手ななりをした隈取の男がそれぞれ鼓を打つ。
「総角や とんどや」
腹の底から通る声。笛太鼓を握る者達との誰とも違う、白い狩衣を着て長い髪を引き摺った、翁の面の男が自らを空洞として謳いはじめる。
「尋ばかりや とんどや」
重たげな装束を引き摺って、白い男はゆるりと立ち上がった。和やかにも荘厳にも見える翁の面を僅かに伏せて、すと舞台の中央に歩き出す。
ふぃー、こん、こん、こ、かん。拍動を刻む囃子に対照する静なる動き。
「坐していたれども」
小鼓を打ち鳴らしながら男が言う。顔色の悪い、目深にまで羽織を被った男だ。片方の目は布で覆われており、誰が書いたのやら丁寧な字でその上から【目】と朱墨で象られている。
「参ろおれんげりや とんどや」
翁は声に構わず舞う。相も変わらずのゆつらとした動きのまま一度書割の老松を向き、そうして開いた金扇子をくるうり遠くで弧を描くように前へ持ってくる。はっきり書割に背を向けて、お隠れになった神がするかの如く広げた扇子でその面を覆ってみせた。
こん、鼓をひとつ。それきり静まり返る檜舞台は、しかし未だ神の御前であるかのような張りつめた空気をもって次の動きを待っている。
翁が、ゆっくりとその神霊たる面をあけひろげに両手を開いていく。
「ちはやふる神のひこさの昔より」
若いとも老いているともつかぬ声が翁面の下から響いてくる。娘、男らは奏でる手を止め、舞台に舞う神の姿を見逃すまいと息を潜めている。
「我がこの所久しかれとぞ祝い」
祝いの声に合わせて笛も太鼓もうつくしく音色を出だす。
「「そよやりちや とんどや」」
鼓の音を響かせながら男らが謳う。謳うと共に再び扇を両手でいただいた翁は、そのまま面を伏せた。
最後の笛の音がふぃー、と尾を引いて消えていく。呼吸さえままならぬほどの静寂に、翁の面がころりと音をさせて落ちる。出でたるは、眉目秀麗な男の面が、肉を伴ってしかと前を見、薄い唇がすぅと息を吸うと
「およそ千年の鶴は 万歳楽と謡うたり
また万代の池の亀は 甲に三極を戴いたり
滝の水 冷々と落ちて 夜の月あざやかに浮んだり
渚の砂 索々として 朝の日の色を朗ず
天下 泰平国土安穏の 今日の 御祈祷なり」
見事なまでに朗々と歌い上げた。
三度の静寂。森閑とした空間に、白い翁が佇んでいる。金の瞳がしかと前を見て、ようやっと現れた待ち人に薄い紅の唇をそっと持ち上げた。
「待ちくたびれたぞ」
赤、青、緑、黄、黒、紫、橙。並んでみればひどく鮮やかな色彩が檜舞台の遠くから無遠慮にやってくる。甲高く鳥の断末魔であるような笛がひぃんと囀って、それきり。
炎にも似た鮮烈な赤毛の少年が一歩前へ進み出る。間合いにして十間ばかりの空間に、互いの呼吸がしらじらと横たわっている。裸足が踏む檜板、腰に下げた太刀が具足に擦れてがちゃりと音をたてる。
「あんたが百足の頭かい」
ぶしつけな問い。なんと無礼な、と立ち上がりかける囃子方を手で制して、白い狩衣姿の男はそうともと鷹揚に頷いた。
「我こそは天狐。天狐の瑠璃之丞である」
そうして一歩前に踏み出すと、ころり落ちた翁の面を踏みつけ、めぎりと音をさせてその深い皺が刻まれた顔を踏み割り扇をぱしん、閉じた。
「よう参ったのう、土地神どもよ」
真っ白い足袋の下に金泥で彩色された木の破片がころころ転がっている。半分になってもまだ口角の上がった翁の口は虚ろを飲み込んでいるかのように黒い。
「征伐に出向いてやったんだ、感謝しろよ」
「ああ、感謝致そう。わざわざこうして一掃されに来てくれたのだからな」
銀糸の髪がさやさや風に揺れる。それぞれに名のあるあやかし、それも七人を相手取ってもまだ余裕があるといわんばかりだ。
「我はぬしらが憎くてやっておるのではない。人に怖れらるるにぬしらでは役者不足だと申しておるだけじゃ。どうであろ。今国を明け渡すというのであれば、ぬしらがいずこかで隠居するのも許してやろうではないか」
「お断り致します。本日は話し合いに来たわけではありませんので」
「そうだそうだ、お前らなんかに明け渡してたまるかよ!」
きっぱり言うは黄金の毛並みを髪色にも映した少年、それにぎゃーぎゃー騒ぐ緑頭の小僧。黙する人々も同じ意見らしく、険しい顔で瑠璃之丞を睨んでいる。
「ふむ、では仕方がないのう。桃華、千草、蘇芳」
「「「はっ」」」
立ち上がる自らの部下に愉悦の笑みを抱きながら、瑠璃之丞は閉じた扇子をぴっと前へ突き出した。
「やれ、力で奪え」
「かしこまりましてよ」
「仰せのままにいたしやす」
「うっしゃ、暴れんぞ!」
先程までの静寂などどこへやら、優雅な立ち居振る舞いも投げ捨ててもののけどもが一斉に床を蹴る。檜造りの舞台はやたら大きく足音を響かせて、だん、と大きな音が空間を張りつめさせた。
「来るぞ!」
土地神らの中で真っ先に飛び出したのはやはりというか、元気の余りあるらしい翠だった。
「肥後が神、天邪鬼の翠だぁ!ほら風よ来い、鎌鼬となれ、目の前のそいつらを斬り裂けぇ!」
目に見えぬ風がびょうと吹いて渦を巻く。巻いたまんま翠が突っ込むのよりずっと早い速度で通り抜け、今にも涼しい顔で立っている真白な天狐に斬りかかろうとした瞬間、ぎぃい、と獣の鳴き声がして風がさっと止んだ。
「こんな小物で総統を傷つけようだなんてちゃんちゃらおかしいぜ」
鈍色の光が茶色い小さな獣を突き刺して、そのまま床に縫いとめている。両手を鎌の形にした獣はぎぃぎぃ騒いで、ふと晴れた風の中にいたのだろう、棍棒を持った鼬と薬壺を手にした鼬も怒ってぎぃいと鳴いている。
「あってめ、離せよ!」
「ああ、いいぜ」
ぱっと外に振った刀は獣の腹を裂き鮮血を散らす。それにああーっと大仰な仕草をした翠は、
「んじゃ来たれ、天狗礫!」
こどもが天を指した途端に轟、音をさせて強い風が吹く。びょうびょうと。強風に思わず目を閉じれば、ようやくものが見れるようになった時には怪我をした鼬はとっくに姿を消して、代わりとばかりに石のつぶてがいくつもいくつも横から叩き付けてくる。潔癖な床をざらり汚し、翠の風は吹き荒れた。
う、と呻いて体を小さくさせた蘇芳によっしゃと小さく拳を握り、小刀を懐から取り出したところで、
「みーどーりー!こっちにも被害がきてるぞ」
背後から聞こえた声に肩を竦ませた。
びょうびょう吹く風は敵味方に頓着しない。あれっと後ろを見た時には後の祭りで、大小さまざまな礫が紅輔だったり葵だったりの足元にごろごろ転がっている。
「そんくらい避けろよばかこーすけ!」
「避けてるよこっちにまで飛ばしてくんなよ!」
「風なんだからしょうがないだろー!」
「そもそもなんで翠が最初に飛び出してんだよお前の風のせいで俺ら動けてないんだぞ」
「しらねー!」
敵前にも関わらず舌戦に入った二人に呆れる。とはいえ目も開けられない強風、それにごろごろと降ってくる礫。着物の裾が千切れそうなほどにばたばたと舞う。ちらと背後を見れば、千草が風に背を向け体を丸めている。
「おい、千草」
「急かさないでくれやせんか」
やるべきことはしっかりわかっているらしい。早くしろ、と言いたいのを内心抑えながら碌に見えない視界で相手がこちらに注意を向けないことばかりを願う。がつがつぶつかる礫とて、常ならあの鼬と同じように叩っ切ってやれるようなものだ。だが身じろぎさえままならない風が行動の全てを制限している。
「蘇芳、こっちは大丈夫ですわよ」
「なら早くしろ!」
半ば怒鳴りつけるような声。それにうるせえですよ、だとかぶちぶち言いながら風に飛ばされんとする巻物を抑え、低い声が言葉を放つ。
「お出でや、風魂」
ふ、と。
巻物に描かれたただひとつの丸が掻き消えた。それと共に今の今まで目も開けられぬほどだった風の勢いが殺され、吹き付ける礫が勢いを失ってごろりと床に落ちた。火の玉に似た白い魂が風を支配し、すっかり止ませ、そうしてさっと溶けるように消えた。
「げっ」
風が止んだことに真っ先に気付いた翠が言い争いを止めて向き直る、隙を蘇芳が見逃すはずもなかった。ぎぃん、鈍い金属がぶつかる音がする。寸でのところで小刀を前に突き出したのが幸いして、翠の首が胴体と別れる事態は免れた。
「あっぶねええ」
「はんっ、こんな玩具で俺様の刀を凌げると思ったら大間違いだ」
右手で翠に刀を打ち込んだまま、蘇芳の左手は腰に伸びる。まだ抜かれていないもう一本の刃があると見て取って、翠は嫌な汗をほたりと落とした。だが力を抜けばあっという間に押し切られる、動けない。ぬるり、と輝く刃が逆手で持ち上げられる。ひどく楽しげに歪んだ顔が、隈取のせいで際立って見える。今にも振り下ろされようとする刀は、しかし一発の銃声によって遮られた。
「あっ、ぐううぅ」
ぼろりと落ちる日本刀を避けて翠が一歩下がる。一瞬の視界に紫煙を銃口からくゆらせる孝紫の姿があって、「さっすがこーちゃん!」油断なく敵を見ながらじりりと距離をとった。
瑠璃之丞が変わらず悠然と佇んでいる前で、蘇芳はぼたぼた血を流している。左腕に違わず命中した鉛弾が、まるく穴を開けてそこからとめどなく血水が零れ落ちているのだ。
「なにやってるんですの、もう!」
娘の髪がざわりと広がる。一瞬嫌な顔をした孝紫が弾篭めを諦めた銃を捨て、ぐっと体を折り曲げると見事な毛並みの獣と変化する。筋骨隆々とした足がどっと檜の板を踏んで、強く軋んだ。
「橙矢!」
「は、はいっ」
しゃがれた声がはっきりと名を呼ぶ。応えて子供が狼の首根っこに軽く飛び乗った。背に負った大弓に矢を番えて、迷いなく桃華だけを見ている。
「隙を見せたら、射ろ」
「はい」
「聞こえておりますわよ……この姫が、隙なんて見せると思いまして?」
強い視線を受けながらなお桃華は余裕を崩さない。崩しはしないが、明らかにざわざわと蠢く髪の動きが鈍っている。今にも襲いかからんとしていた殺気が不本意ながら鳴りを潜め、相手の出方を窺うようにしている。
のしり、のしり歩く狼から視線を外せない。紅玉の瞳と翠玉の瞳が揃ってこちらを睨んでいるのだ。神経のひとつひとつに意識を行き渡らせながら、しかしふと目についた姿に思わず叫ぶ。
「千草!」
違わず飛んできた矢を寸でのところで避ける。重心が崩れ転びそうになるのをなんとか堪え、すぐさま飛んできたもう一本から逃げる。弓は銃より威力こそ劣るが、次の攻撃が早い。
千草は大丈夫だったろうか、ちらと横目で窺えば、抜き身の刀のぎらりとした輝きが見える。
「背後をとったつもりだったんだが」
ひぃいん、鳴いているのは薄い刃同士だ。背後をちいとも見もしないで剣を抜き放ち黒ノ介の剣戟を止めてみせた千草は、鳴る刃にびりびりと手が痺れ顔を顰める黒ノ介とは違いこれっぽっちも堪えていないらしい。そのまま振りぬいた刃が閃いた。
「武に関しちゃ素人丸出しですねえ、あんたたち」
床に転がる書もそのままに、ゆらりと立つ千草に苦笑する。こちらは手段としての刀こそ持ってはいるものの、使いこなすなんてできやしない。
「身を守るので精いっぱいな坊主に無茶言わないでくれ」
「そしたら、自分が相手するまでもありやせんね」
ぞろ、っとあの時のように薄っぺらい紙の表面が蠢いた、ように見えた。
「溝出よ」
暗い声が名を呼ぶ。それだけで墨がぶるぶる動く。ひどくほっそりした指がぷつん、と平面の境界を突いた。
「救いを求めるとよい」
ぞるり、肉も皮もすっかり剥がれた骨だけの指先が現れる。碌に繋がってもいない腕がかろかろ鳴る。肉の腐った匂いがむっと鼻についた。薄ら笑みを湛えるひょうすべの背後から姿を現す、みぞいだしと呼ばれたおぞましい何かは、そのぼろぼろに破れた竹葛籠から手だけを出してぎしぎしと空気を引っ掻いている。
う、と口元を袖で覆うと腐臭はいっそう強さを増したようだった。
「そこな僧に救われるが、お前の死道でありやすよ」
指さされた自分にぞっとする。救うも救わぬも、なんにもできぬ我が身に何を。
竹葛籠の破れから白い細い身体が這い出てくる。妙にずっ、ずっとぎこちなく動くそれが外へと這い出るたびに胃の腑をひっくり返したような匂いが強くなっていく。腐ったにしてはところどころにてらてらとした肉色のやわらかさが残った骨。腐るでもなく、枯れるでもないこいつはぼろ布の皮を今まさに脱ぎ捨てながら動いているのだ。気付いた瞬間に吐き気が喉の奥に押し寄せた。手で覆う程度では誤魔化しきれない腐臭がする。いや腐臭ではない。人間の、裏返った臓腑の匂いだ。
「もうひとつ、陰摩羅鬼」
衣を目深に被ったひょうすべが言えばあからさまにもののけらしい怪鳥が火を吐いてはぎえ、と鳴く。死人がなる鳥だ。無念と鳴く鳥だ。調伏の資格さえ失った身には何もしてやることなどできぬのに、それでもと思う心が対峙する刃を震わせる。厭味ったらしくこの顔色の悪い男はにやにやと笑んでおる。右手にぶら下げた刀はしかし油断なく切っ先をこちらに向けていて、黒ノ介は自らの刃を誰に向けるべきなのかわからない。
「その弱点は知れておる。水気よ集え、落ちろ」
流水のようにうつくしい声が自然に滑り込んできたかと思えばさ、っと清らの水が粒となって落ちてくる。はっと顔を上げれば金の蛇目がこちらを見つめては揺蕩っている。じぶじぶ輪郭をぼやけさせた怪異らはただの墨となり水に溶けて薄く薄く平になりゆく。ちっと舌打ちをしたこの顔色の悪い男が、水に濡れぬようにと手早く巻物を引っ掴んで脇に飛び退いた。右手にぶらぶらぶら下がった鈍色は、もう黒ノ介に向いてはいない。
「水神が、邪魔するんでねえですよ」
「わざとがましい嫌がらせだな、ひょうすべよ」
「それがなんとしましたかい」
「わざわざ供養されぬあやかしを選ぶなど、趣味が悪いと言っている」
得物を持たぬ葵の腕は細く刀ひとつだって持ち上げられそうにない。これでどうしようというのか。しかし葵はおもむろにぺたりと腰を床に落とすと顔を伏せてしまった。
なんだ、と顔を顰める。油断なく背後で刀を構える天狗に視線を遣りつつ、この水神がなにを為そうとしているのか目を離すことが恐れられる。
ずるり、重いものが這いずる音がする。伏せた目から金色がきらきら零れて、その神性が顔を出していく。
蛇だ。細っこい女性的な少年の、腰から下が巨大な白蛇となってずるずる檜の床上に這い出したのだ。真白な鱗に覆われた太い胴体の上に、華奢な少年の姿がある。伏せた顔をぱっと上げれば金の煌めきがいっそう強く美しく、人ではない目に満ち満ちてある。人と変わらぬ顔、人と変わらぬ腕、指、しかしそれらにうっすらと白銀の鱗模様が浮かび上がる様は正しくあやかし。その体は最早天井まで届くほどで、後ろに長く伸びる尾がぐねぐねとのたうっている。
「これは分が悪い」
わざとらしく口元を袖で覆って慄くそぶりを見せた男は、しかし目を細めて僅かに笑っているかのようだった。
「河童に水気を使うてもな」
「よくご存じで」
顔色の悪い男はひょうすべと名乗った。目深に衣被をしているので河童の特徴と言われる皿など見えず、肌も緑というよりは土気色をしている。
「ふん、ひょうすべなどと迂遠な名乗りをしおって。その忌み名は河童だろう」
「確かに河童の一派であることは違いねえですよ」
吐き捨てるかの如く言ってのけたひょうすべは、ゆらり幽鬼のそれにも似た足取りで立ち上がると筆も巻物もその場に捨て置いて抜刀した。一瞬揺らいだ体幹は、すぐに真直ぐ前を向く。武士の佇まいである。
「兵主神の腕、見せてやりやしょう」
半蛇半人の神と、それに立ち向かう武士然とした男。妖怪退治絵巻物の一幕にもあるようなそれにひゅう、と口笛を吹いた翠は懐刀を前に突き付けて「お前はそろそろ降参かな」とはっきり言った。
「うるせえ、俺様はまだいけるってんだよ」
左腕をだらりぶら下げた蘇芳は、ふーっ、ふーっと荒い息を吐きながらもまだぎらぎらと前を見ている。
「しつけーやつ」
「うるせえ卑怯者」
だらだら垂れる脂汗にやせ我慢をしているのは誰の目にも明らかだ。穿たれた穴以外にもそこかしこにひどい傷があって、くっぱり口を開く脇腹からは鮮烈な赤がとくとく流れ出し冷めた色の檜板を赤く彩っている。
だん、強く一歩踏み込んで右手に持った刀を横一文字に振るう。無理に捻った脇腹から熟れた果実を握った時のように血塊がぶしゅりと弾けて、どろりと体温が足を伝い落ちていった。
「あっぶね」
正しく目の前まで迫った切っ先をぎりぎりで避けて、翠はと、と、と後ろに下がる。勢い余って転びそうになったのは愛嬌だ。
今度こそ地面に膝をついた蘇芳は満身創痍といった有様で、これはもうどうしようもないだろうと判断した翠は正しい。腕一本すら持ち上げられぬ血塗れの男を、しかしこのままにしておくわけにもいかない。無慈悲な鈍色を振り上げて、丸まった背に項垂れた首に向けて振り下ろす、まさにその瞬間に翠は横っ面を殴られたような衝撃を受けて吹っ飛ばされた。
「翠くん!」
血だるまになった男は今の今まで翠のいた空を見つめてはぽかんと口を開けて間抜け面を晒している。他の二人は互いの敵にかかりきりである。となれば、と様子を窺って動かずにいた琥珀と紅輔が思い至る、その通りの人物が今の今まで組んでいた腕を解いて笑った。
「ふむ」
轟、音がして空気が震える。爆ぜる炎がひどい炸裂音を出して、誰もが耳を塞がずにはおれない。
「そろそろ、我の出番であるかの」
純白の九尾が揺れる。ひさひさ揺れるたびにぽ、ぽ、と青白い炎が辺りに浮かび、ただでさえ白い面をますます青白く照らし出す。きぃ、檜舞台を軋ませて優雅な狐憑きのもののけは歩き出す。
ひょう、狼の方から真直ぐに飛んできた矢をいとも簡単に掴み、掌から噴き出した炎がそれを矢尻の石ころだけ残してぼろぼろと炭にする。そうしながらも歩みは止めず、ぎぃしぎぃしと床を静かに軋ませながら瑠璃之丞は進む。
「貴様が頭か」
長身の狐に見下ろされ、赤頭は確かに頷いた。
「鎮西の鬼、まつろわぬもの、この西国九州の最も古きもの。神代の鬼、紅輔だ」
真っ赤な髪の間からちろと覗く二本角。こどもの時分に姿を留める若武者は、緋縅の糸を縫い取った鎧と見事な太刀を腰に据え、なるほどそれらしい風格を持ち合わせていた。
「平安の頃より恐れられし怨霊たる我を鎮められるか、試してみるがよい」
太刀を水平に構え斬りかかる。鬼らしい粗雑さであるとにやり笑った瑠璃之丞は、手にした扇子でそれに応ずる。
鬼の刃を軽くいなした扇子はどういうつくりをしているのか、欠けても割れてもいない。右に、左に軽々と刃を合わせる。しゃん、しゃん、金属同士が打ち合うのとも違う清廉な音。どちらかといえばゆったりとした動きであるのに、瑠璃之丞を攻めあぐねて紅輔は一度刃を引いた。

太い柱にひびが入っているのを見て、琥珀はほうと感心の息を吐いた。よくもまああんな細腕で、ここまでの力を出せるものだ。のびている翠をゆすってやれば、ううんと呻き声をあげた。無事らしい。
「翠くん、大丈夫ですか?」
「痛って……思いっきり殴りやがったなあいつ」
右頬は腫れて、擦る鼻からは血が垂れている。柱に打ち付けらていたが、そちらはさほどでもなかったらしい。赤い線を一本頬に引いて、翠は勢いよく立ち上がった。
「くっそ、あいつ、あの狐野郎!よくもぶっとばしてくれたな」
「言葉遣いが乱暴なのは感心しませんが、気持ちはわかります。紅輔くんでも遊ばれているような相手ですから、充分に気を付けて」
「わかってら。も一度来いよ鎌鼬、奴らに目にもの見せてやれ!」
言うや否やひょう、と風が吹く。渦を巻く。そうして目にもとまらぬ速さで鼬どもが駆けていく。紅輔と打ち合う白狐の背後に向かって一直線に。だがその金月の目玉が瞬間こちらを見たと思えば、
「ふっ」
気合い一閃、紅輔と鎌鼬らの目の前に両手を突き出した。それだけでびたり、と見えない何かに阻まれたように紅輔も動けなくなって、鎌鼬といえば中空でどれもがぐんにゃりと舌を出して頭を垂れている。
「な、んだこりゃ」
動けない。ひどい圧迫感に腕を軋ませながら抵抗するも、巨大な鬼の腕にでも掴まれているかのようにびくりともしない。
「我に逆らえばこうなると知ったか」
「ぐ、う」
空を掻く。辛うじて動く指先も、だがそれだけでは何の意味もなさない。ぎちり、ぎちり。骨の軋む音。得体のしれない何かに握り潰されていく感覚。ばきん、と乾いた音がすると思えば檜の床板に亀裂が入っている。
「仕方ありません」
だん、不意に響いた大きな音に土地神らが一斉に反応する。音のする方を見れば琥珀が自らの背丈より大きな錫杖らしきものを掲げて何かの呪を唱えている。
真っ先に桃華に飛びかかったのは孝紫だ。その巨躯でもって娘の華奢な腕を縫いとめ、その背から降り立った橙矢は矢を番えたまま桃華から視線を離さない。
血だらけで横たわる蘇芳のところに翠がすっ飛んで、苦しげな呼吸でありながらもまだ闘志を失わない目に小刀を突き付けて動くなと厳命する。
「くっ、百鬼夜行図よ」
これはいけないと言い終えるか否か、蛇神の巨大な胴が刀に傷つけられることも厭わず千草を締め上げる。ぼろりと手から落ちた絵巻物を危なげなく取って、今にも蠢き出さんとする墨に黒ノ介は刀を突き刺した。
「な、なんですのこれ!」
床、壁、天井その全てにくろぐろとした染みが浮き出ている。染み、というには規則性のあるそれはまるで何かの文字がびっちりと描かれているようで、よくよく顔を近づけてみればそれ全て梵字であることが知れる。
「いかなる謀か、鎮西の鬼よ」
金色の目がきょろと辺りを見回す。目に入るもの全てに文字が浮かび上がる。梵字。それも仏の名を綴る梵字がびっしりと。
「答えよ」
ぎち、と力が強まる。締め上げられた紅輔はひどく苦しい息をして、真黒な目で瑠璃之丞の琥珀色を見据えた。
「……もし、あんたが本当に強いあやかしで、俺らの手に負えないってわかった時、こうして俺らごと封印するための」
「黙れ!」
だぁん、紅輔の体が力任せに叩き付けられる。あぐ、と肺の空気を絞り出して苦悶の声をあげるが、すぐに右手を突き出して力任せに瑠璃之丞の腕を掴む。鬼の力に端正な顔が歪んだ。
「離しゃしねえよ」
あんたはここで、俺らと死ぬんだ。この鬼神の目はそう言っている。
「くっ、何故、何故かような術を」
「荼枳尼天の流れを正しく汲む、稲荷神でなければできぬ芸当でしょうね」
言う少年は風にそよぐ稲穂色の毛並みをして、稲作を司る神々の末席に名を連ねるものとして申し分ない風格だ。梵字は密教のもの。より仏を知るもののための言葉。
「当然、貴方がたはこれに触れられもしない。自らを怨霊であると言った瑠璃之丞殿、あなたは尚更」
ずぶ、沼のように床板が波打って、それに足がとられて動けなくなる。誰もかれもが例外ではないらしく、一様にとぷりと液化した床に埋もれていく。
「こんな、ことをして、どうするおつもりで」
問うは千草だ。ひどく冷めた目で、こうして我々を封じた後はどうするのかと聞いている。そうしてこちらが失策に気付くのを待っている。そういう淀んだ赤い目を一笑して琥珀は言う。
「人の世は人に任せるが、天命でしょう」
もう僕らはいらないのだと、言ったのは貴方がたではないですかとあっさり言うのに瑠璃之丞は歯噛みする。将棋打ちの盤に残った頓死の王。
「嫌、ですわ……姫は、姫はずっと瑠璃様と一緒にいるって決めましたの」
娘の頬に伝う涙を、誰も拭いはしない。はなして、たすけて、るりさま、悲鳴を上げるこの娘っこを、哀れと思うほどの慈悲は狼には持ち合わせてはいなかった。
「黙れ、俺の眷属を食い散らかしておきながら自ら食われる覚悟もないか」
低い声にびくりと身を竦める娘は、もう言葉もなくはらはらと涙を零すばかりで狼の牙をおそれながら見遣る。
ずず、ずず、とめり込んでいく体を強張らせて、目をしきりに両の床に遣る。沈んでいく、浮かび上がれないところに沈んでいく。呼吸もできなくなる前に、一言だけ「るりさま」と泣いた。
「最初から、死ぬ覚悟で」
参ったんですかい、言う千草に黒ノ介はよく口の回るやつだと嘆息した。
数の利があるから勝てるなどという相手ではないのは背を焼かれてからわかりきっていたことで、まだ生えそろわない羽は見るも無残である。
「そうでなければ、わざわざ皆揃って貴様らを討伐になど出向かぬ」
どうにも口が重い黒ノ介を気遣ってか、珍しく今日は葵の方が饒舌だ。どうせ最後だからと思っているのか、それとも国盗りの馬鹿者どもに腹が立っているのだろうか。
女ものの着物の裾から長くのびる白い体躯は、鈍色の刃に切り裂かれてところどころぱっくりと中身を見せている。蛇の鱗というのはさして強くもない、薄っぺらなものだ。それでもこのひょうすべを逃がさぬようぎちりと締め上げるくらいの力は残っているし、それにさした痛みもない。
「なぜそこまでして」
柘榴色の目に土気色の顔をした男は心底わからないという声で問う。命より大事なものなどなかろうと、だのに何故と。
何故だろうな、蛇神は思考を巡らす。黒ノ介はそんなことすっかり腹の底に決めておったような顔をして淡々と千草に刀を向けている。ぷつぷつ沈む体にも怖れなどほんの少しだって抱いてはいないらしい。
そうだな、と葵は僅かに思考する。どうして自らをかけてまでこうするのか。それは恐らく、
「最後の仕事であったからだよ」
それ以上に適した言葉は葵の中になかった。
ゆるりと沈んでいく。からん、落ちた刀は波打つ地面にそのまま転がって、おやと葵はそちらに視線を遣った。黒ノ介の視線の先には金毛の狐が澄まして立っている。彼もまた、一言も発せず静かに埋もれていこうとしていた。
手を伸ばしてみればよいのに、と葵は金色の瞳を閉じて身を横たえた。もうこれ以上煩わされたくはない。静かの海に身を委ねて、意識を解いて。
「自分らには、よくわかりやせんね」
葵の聞こえる最後に千草の声がして、ただ諦めたように長く長く息を吐いた。
ごほ、と血を吐く声がする。びちゃびちゃ血水で濡らす床が真っ赤になりながら蘇芳の両腕や足を飲み込んでいる。
「覚えてろよ……」
ぞっとするような声が翠の耳朶を打って、死にかけた男のぎらぎらと燃え盛る目がこちらを見ている。それでも翠は少しだっておそろしくなかった。
「覚えててやるよ」
「さもなくば恨んでやる」
「はいはい」
「絶対だ」
「わかったって」
今更ながらに腫れた頬が痛む。よくもまあ馬鹿力でやってくれたことだ。掌でぐっと鼻を擦れば真っ赤な線がもう一本、掠れた線を引いた。
もう喋る気力もないらしい蘇芳は大人しく目を瞑っている。痛みのせいか荒い息を聞きながら、翠と同じに沈んでいく。両腕を床について、ごろりと上体を投げ出して、大きく息をした。長い生のこんな終わりは誰も予想していなかったが、悪くはないんじゃなかろうか。
目を瞑る。なんにも見えない。耳をすます。なんにも聞こえない。これもまた、一興。
「こーすけのばーか」
そう笑って、手を振った。

「誰が馬鹿だ、馬鹿みどり」
笑い返すと翠はとうに眠るように体を小さく小さくして、さよならと手を振ってそうして平らな面の向うに落ちていくところだった。
もう誰も残っちゃいない。自分と、瑠璃之丞と、あとふたりだけだ。
じわじわ鬱血が浮かび上がってきた腕を摩りながら、紅輔はなんとか出れぬものかと足掻くこの狐をそっと盗み見た。ぜいぜいと息を吐くほど摩耗したいのちに憐れを抱く。そうしたのは自分達であるが。ついに膝を折り手をついた端から床はずぶりと狐を呑み込んでいく。あっと思う暇もなく。引き上げることもできず。
「いずれ蘇ろうぞ……貴様らの力を削り、食らい、我らは再びこの地に降り立つ」
憎々しげに顔を歪ませて人狐が吐いた呪詛が腕にぞるりと這い寄り刻まれていくのを見ながら、不思議と紅輔の心は穏やかだった。
「いいよ」
それは瑠璃がもう息も絶え絶えといわんばかりに地に伏していたからかもしれないし、仲間の誰もいないがらんどうの空間に対する寂しさからくるものだったかもしれない。それとも、もしかしたらこれから生まれてくるであろう自分たちの後継者への淡い安寧を願う心だったのかもしれなかった。
「眠ろう」
ずぶずぶ沈んでいく底なしの地面に膝を折って、目を伏せる。
瑠璃の涼やかな面がゆるりと呑まれていく。恨んでいるような、諦めたような色をした瞳が金を灯したままつぷりと地に沈んだ。それを見届けてから、紅輔もぐっと体を丸めて地面に身を委ねる。瞼を閉じる。ひとしずく、頬を濡らすものがあった。とても凪いだ心であった。そしてやはり、とても悲しくもあった。
「死にたくないなあ」
ひとりひとり、飲み込んでいった床はその呟きさえも優しく抱きとめる。草の枯れた匂いがひたすらに寂しさを誘っている。
「死にたくなかったんだなあ」
誰が、とは言わない。誰もが、だから。
ふつりと誰もいなくなった能舞台に風が吹き込んだ。ころん、と転がった抜き身の刀がそれを寂しげに受けている。楽師のいなくなった舞台にそのまま残された鼓も、笛も、もう誰にも使われることがないだろうことを知ったのか、ぼろりと端から崩れて元はなんだったのかすらわからなくなる。暗い地面からすっと一本、二本と立つススキが綿帽子の穂を風に揺らして、さやか。吹き込んだ風が能舞台を通り抜け木々のまだ青い枝葉をざわりと揺らして、そろそろ赤く色づこうかという烏瓜を撫ぜていく。遠くの水田はもう緑のかかった黄金色をして、それが風と共にざあわざあわと大きく身をしならせる。
最後の空は、変わらず青い。青いものであった。




人が神と共に生きるのをやめて、百余年の歳月が経った。
人は自らの力で立って、歩いて、息をしている。大人も子供も等しく神のものではなくなった時代に、チョッキを着た小さな黄色い鳥がピヨ!と鳴いた。
「いいですか皆様。改めましてワタクシはヒヨコメカと申しますピヨ。皆様がこれから九州防衛機関に属するにあたって、皆様のサポートを申付けられておりますピヨ」
白い石畳の広場で、赤、青、緑、橙、紫、黄、黒のそれぞれの隊服に身を包んだ少年たちがきょとんとした目で人語を話す小鳥を見つめている。そうしてそれぞれに手渡されたものをすっぽり両手で抱え込んで交互に視線をやっている。どうにもよくわかっていないような視線。
「あれ、ヒヨコメカってダンジジャー広報機関のマスコットだったんじゃないんですか?」
「それは世を忍ぶ仮の姿ですピヨ!」
えへん、と胸を張りだしそうな小さなメカはそれはいいとして、と話を置いておいて皆がそれぞれに持っている独楽であったり笛であったりをひとつひとつ指していく。
「皆様が持っているそれは、土地の神様のご加護が得られる貴重なものなんですピヨ。くれぐれも大事に扱ってくださいピヨ!」
「土地の神様って誰なんだ?」
「あ、おれもそれ聞こうと思ってたのに!先越すなよこーすけー!」
「ああもう、お前ら喧嘩は止めろ」
話そっちのけで喧嘩を始めようとする子らに溜息を吐きながら、黒髪を後ろで結った少年が諌める。いつもの光景らしく、誰も口を挟んではいない。
「神様についてはワタクシもよくは知らされておりませんピヨ……でも!これからワルカーと戦うにはその神様のご加護が必要なんですピヨ」
「よだきい……何故私たちが戦わなくてはならないんだ」
「それは、そもそも皆様が土地神様のご加護を受けて生まれてきているからですピヨ!そういう素質ある人じゃなければこの武器は扱えないようになっているんですピヨ」
「なんだかファンタジーな話だな」
わいわいきゃっきゃと言い合う少年らにヒヨコメカはできる限り厳しい表情を作る。まだぼんやりとした霧状ワルカーしか出現していないものの、これから先過去のデータにあるような強力なワルカーが出てくる可能性があるのだ。
「ともかく!これより武器を扱うための訓練が活動に追加されますピヨ。勿論ワルカーが出現したら急行してもらうことになりますピヨ……。皆様には負担をかけてしまいますが、九州をワルカーから守れるのは皆様ダンジジャーだけ。どうかお願いしますピヨ」
「もちろん、協力させていただきます」
「こはっくんさすがー!おれもおれも!おれもやる!」
「先に言うな翠!俺もやるに決まってるだろ!」
なんだと!
なにを!
再び言い争いに突入した二人を呆れ顔で見る彼ら。
白く開けた石畳の広場を、遠くから眺めている影があることには誰も気が付いていなかった。
「せっかく封印が解けたのに……まだダンジジャーがいるとは、まったく忌々しいこってす」
目深にフードを被り、手袋までした顔色の悪い男がひどく陰鬱な口調で言う。陽射しが照り付けているにも関わらず着物を着こみ、そのうえにフードとマントというなんとも季節外れないでたちだが、汗ひとつかいた様子はない。
「五十年前もそうでしたわね」
こちらは桃色の長い髪を風になびかせた少女だ。季節でもないのに髪には椿の生花が艶々と開いている。短くフリルをいくつも重ねたスカートに着物風のトップスがちぐはぐながらも緋色で統一されており、和風ゴシックといえるようなファッションである。
「あいつら、いつまでああしてるつもりなんだろなあ」
いかにも時代劇に出てくるような傾奇者が、首を傾げながら言う。派手な色使いといい、目の周りの隈取といいなんとも時代錯誤な恰好だが、誰もそれを指摘することがない。
「……似ておりますわね」
ぽつ、と少女が言うのに男二人も首肯する。脳裏に過るのはかつて自分達をその身をかけて封印した神々の姿だ。百年近い歳月をかけ脱したはよいものの、彼らが残した神器により再び封じられねばならなかったことは記憶に新しい。
生きている。息づいている。この土地にゆるく漂う神代の気配が彼らを守っている。
「よい。為すべきことは決まっておる」
ふら、と現れた白っぽい人影に、三人は膝をつき頭を垂れた。銀狐の尾が九本、ひさひさと揺れる。金の瞳がわいわい騒ぐ子供らを見つめ、ふん、と鼻を鳴らした。
「今度こそ、今度こそ我らが九州を征服してやろう」
百余年の悲願を。
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