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Novel

しらぬいの つくしのうみの/不知火の蘇芳

ただの漁火だったのだ。もしくは、誰かが焚いた火がうつろって海に漂って見えただけ。それを白縫のようだ、吉兆だとおっしゃってくれたから俺様はこうして存在していられるのだ。
筑紫の海は穏やかだ。薩摩から肥後にかけてぐーっと沿岸が曲がって、巨大な湾になっているせいで外からの影響が少ない。昔誰かが海に燃える火を指して、神の火だ、いいやあやかしの火だと言ったその日から、蘇芳は自分が形作られていくのを感じていた。
例えるなら、生命の粥。その中からひと匙掬い上げられたかのような。一は全であり、全は一である。その遥か遠くまで見渡せる、海という巨大な生物から切り離されたような寂しさと、自立していく誇らしさを胸に灯しながら、それは目を開く。いや、まだ目もないので比喩でしかないのだが。意識を浮上させ、想いを水面に浮かべる。自分は炎だ。海に浮かぶ幻の炎だ。今はそれを自覚するのが精いっぱいで、蘇芳はそれだけ確認するとまた海の底へと沈んでいった。
時折、呼び起こされる。
それは大抵、海が凪いで。空気は暖かく、そして水が凍るように冷たい日だった。
あやかしの火だ、神の火だ、凶兆だ、吉兆だ、人の声が千差万別に届き、蘇芳はそのたびに自分が揺らぎ、風に煽られる心地になるのを感じていた。
さあ吉兆か、凶兆か、現象か、そのいずれに自分は当てはまるのだろう。人の想いはまだ遠く、そのいずれも蘇芳を形作りはしない。時折目を開く、それだけの焔。
所謂勇敢な若者というやつが小舟を手で漕いでやってくるが、いつだって蘇芳には触ることもできない。漕いでいる途中で掻き消えたように見えなくなり、後に残るのは陸の火だけだからだ。
若者が無事に陸に戻れば、あれは消えたと話になるだろう。消えた、だが何もなかった。
こうして蘇芳への裁定はまた先延ばしされるのだ。まどろむ意識と海のゆりかごに包まれて、末梢神経が溶け落ちていく日々をただ過ごす。もしかしたら千年の後にもこのままかもしれない、辛うじて浮上した意識に自分で問いかける。
それで何か問題があるのか、また自分で聞いてみる。
茫漠とした意識から返ってきた答えはこうだった。
「いいや、ただ退屈だ」
そうだな、と目を閉じる。手足させ動かせない退屈と、危険を知らない海の安寧に愛されて、浮いては漂うだけの炎はそれより他に何もできはしなかった。

ふと、名前を呼ばれた気がした。
あれはなんだ、炎が浮いている、吉兆か凶兆か、ざわつく人の声が聞こえる。がちゃがちゃという聞き覚えのない音も聞こえる。風は凪いで、海は冷たく。いつもと変わらぬ日々の中で、これは一体何の騒ぎだ。
海の底で波に揺蕩う蘇芳の意識は、しかしいずれ彼らも自分が見えなくなり立ち去るのだからと安穏とした怠惰を貪っている。船でいくら沖に漕ぎだしたところで、彼らは皆去っていく。そうして遠くに燃える火を褻(ケ)と定めて昔からあるものだからと気にしなくなっていくのだ。名すらつけず、安心のための分類分けもせず。
「しらぬい」
途端に、はっきりと脳が揺さぶられる感覚があった。
呼ばれた、確かに。
「かの火をばしらぬいと呼ばん。熊襲討伐が吉兆に相違なし。いさ、火に向けて漕ぎい出ぬ」
手を伸ばす。深く暗く、凪いだ海の底から。
誰だ、名をつけたのは。誰だ、俺様を呼ぶのは。
白い糸の縫目のような炎はくらい海面から沸き立つように手を伸ばした。ぬっと伸ばした手は水面をぱしゃりと叩き、まるで地面か何かであるかのように体を支える。次いで頭が見えた。炎色の派手な頭だ。燃え上がる毛先は濃い橙を、根本に近い場所は温度の高い黄色を。
しかし続けて引き上げられたその顔は、服は、髪に反比例するようにひどく地味なものだった。ぬるっと抜け出した夜の暗い海を反映しているかのように暗く、灯りの消えた空のように目立つことがない。
遠くに船が行く。木製の、巨大な、この地を蹂躙せしめんとする船が。だがそんなことなど、生まれたばかりのしらぬいにとってはどうでもいいことだった。ああ、あれが俺様を呼んだ。俺様を形作った。
歩かんとする。海上を往かんとする。しかし蘇芳の意思とは相反して、足はひどく重くほんの少しも歩くことはできない。
船が行ってしまう。
「っ、待て……!」
声を張り上げるも届く道理がない。船は遠く、遠く、とてつもない大きさのものがとっくに親指の先ほどにまで進んでいってしまっているのだから。
もうすぐ陸だ。八代の地だ。その先どうするかなど知らないが、彼らがもう一度ここへ立ち寄る可能性は限りなく低いだろう。
「ああ、ちくしょう、ちくしょう!」
水面にへばりついて動かない足に悪態を吐く。ちいとも動けない。この八代の沖であかあかと照っているしか能がないとでも言わんばかりの様子に、蘇芳は吠えた。動け、人のかたちをとったのなら、人の如く動け!
ばしゃんと水面に膝をつく。ついた場所から沈んでいく。次第に水面が白がちはじめて、古い夜が死んでいく。
不知火の時間が終わったのだ。
ちくしょう、ちくしょうと言い続けたとしても、こればかりは変えられぬ。空の道行を変える力もなく、蘇芳はずぶりと穏やかな海へと沈んでいった。

くらい。いくら陽が差しているとはいえ、海の底はとても暗い。届かないのだ。薄膜を重ねた青に阻まれて。
眠気が強い。覚醒しては眠り、またまどろみを繰り返す。その度に誰かに名を呼ばれることを感じはするものの、あのはっきりと聞こえた一言以上のものは聞こえたことはなかった。
どれほどの昼と夜が終わっただろう。蘇芳は海底でただ漂っている。手足はしっかりとして、五体全てが満足だ。だが、それでも海から出られない。あの船はとっくに帰ってしまったろう。口惜しい口惜しい、俺様もあの船に乗りたかった。
それでどれだけ血が流されようと、海がケガレるほどではない。人の世のいさかいなど知ったことではないし、ただ蘇芳は自分の存在を確定させてくれた貴人の船に乗りたかっただけなのだ。
じっと水底に横たわる。昼が終わり、夜になり、また凪いだ暗闇が来る。ようやく体を自由に動かせる心地になって、蘇芳はひどくねばつく海から体を浮かび上がらせた。
水面は暗い。船は見えない。ただ遠く、遠くの山向うが橙に燃え盛って。あそこで何かがあったことは明白だった。
あそこに船があるのだろうか。かの貴人がいるのだろうか。しかし足はすっかり水没して、昨日よりも海に捕らえられているようだ。
「くそっ、ふざけんなよ! 俺様はしらぬいだ、名をもらった奴のところへ行くんだ!」
ぐいぐい引っ張る。だが海と一体化したかのように抜けないそれに、ただ蘇芳は悪態を吐くしかできない。
必死に声を張り上げ、もがき、そうしてまた月が真上までやって来た頃に。ふと水面に自分以外の影が差した。
「……?」
振り向く。背の高い影が、白く長い髪をさらさら流している。月光を背に、光を透けさせまるでそのものが発光しているかのようにも見える。さっと風が吹き、かの影が祓われる。そこにあった細面に、蘇芳はあっと声を上げた。うつくしいもののけだ。白く揺れる耳と尾から、きつねのもののけか。まるで月と共にやってきたような相貌をして、何かのまじないか青い墨を目元に入れて。
「誰だ」
警戒しつつ声をかける。背の高い男だ。こちらよりずっと。
「そちこそ、誰ぞ」
開かれた口は、しかし思ったよりも若々しい声だった。
「妙に生気のない気配に引かれて来てみれば、死にかけているでもない、しかし生きているでもない、もののけのなりそこないのような炎が浮かんでおる。そちは一体何であるのか」
無礼な言い回しだ。生きるでもなく死ぬでもなくなど。蘇芳はぼっと辺りに炎を灯らせて、男へ敵意を剥き出しにした。
「俺様はしらぬいだ! れっきとしたあやかしさ。そういうお前こそ誰なんだい」
「我か。我はテンコー。名を尋ねるなど無礼な者よ」
ふん、と青年は鼻を鳴らす。
いかにも尊大な態度が蘇芳の癇に触って、こっちも名乗らなきゃよかったと舌打ちをする。ちっ。
「それで、しらぬいとやら。貴様何をそんなにもがいておる」
涼しげな相貌もまた蘇芳には苛立ちを隠せぬ要因のひとつだ。なんなのだこの男は。
「話す義理はねえ」
突っぱねてやる。こちとらここから動けないのだ。早いところ飽きてどこかへ行ってくれないかと願うばかりである。しかし男はそれにむしろ楽しげな笑みをにやりと見せて、

「ほう。然様か。我ならばその無駄な足掻きを終わらせてやれると思うたのだがな、やあ至極残念であることよ」
とどこから取りだしたのか銀杏の葉のような形をしたものを取りだすとそれをひらひら前後させて言った。気に食わない。だがその言葉は魅力的と言う他なく、蘇芳はぐっと唇を噛んだ。
「それは本当か? ここから抜け出せるようになれんのか?」
もしそうならこれほどありがたい申し出もない。体という感覚を得て幾星霜、ひたすらに抜け出せない苛立ちを抱えた蘇芳にとって、最大の問題が解決するのだ。
「それなら追いかけられる。船の奴を追いかけて行ける! もう南の端まで行っちまっただろうか。北に帰っちまってたって、必ず追いかけてやれるんだ」
足は動かない。水に沈んだまま。出ようともがくたび沈んでいくその様子に、白い髪を海風に靡かせた青年は哀れささえ感じた。ひどく強い心と裏腹に、この男の体は弱い。海と繋がっていなければ存在を保てないほど。本人は気付いておらぬだろう。毛先からちりちり空中に舞い上がった火の粉が、ゆっくり体を散らしていることに。水面に映る影が時折ふと揺らぐことに。
人に畏れられぬもののけは大抵こうして命を、想いを散らして儚くなっていく。万物は希釈され、死んでは出ずる姿は輪廻の輪を見るようだ。
勿体ない、と青年は思う。そんな輪廻はもっと小さく命の粥に溶けたいきものたちに任せておればいいのだ。
「さて、我ならば。そちに力を与えてやることもできようぞ。そちが万もこの世にあり続けられるようにできようぞ」
はた、と扇を煽ぐ。千も万も、あらがねの如く。人から人へと命を渡り歩かば、不可能ではない。
「……本当だな」
いかにも不本意といった様子だが、赤い髪が心と共に揺れるのがよくわかる。
「まことよ。約束は違えぬ」
「わかった。だがひとつだけやりたいことがある。……船で来た貴人を追いかけてえんだ。俺様に名を与えたやつさ。歌を詠んでいた。しらぬいの、つくしの……ああっくそ、なんだったか忘れちまった」
「ほう。歌人とな」
さて、と青年は腕を組む。何かを思い出すように目を閉じ、開き、やがてゆっくりと答えを出した。
「船で筑紫洲に来た貴人。それなら千年も昔に死んでおる」
残酷な答えを。
「なんでそう言えるんだ!」
「名の知れた者だからの。天照大神の直系の子。現人神。かの人は既に絶えて、この世にない。人の肉を纏いし者は必ず百も経たぬうちに儚くなる、イワナガの姫を手放した報いよの」
くくく、と狐は笑う。
「だが、その子は残っておる」
にんまりと表現するに相応しい顔で、毒のように希望を囁く。
「子孫は筑紫洲を平定し、今は秋津洲へ戻りて都を築いたと伝え聞いておる。だが、筑紫洲から秋津洲へは遠い。あまりに、とても」
「遠いって……」
「そうさな。年はかかるであろ」
そんなにもか。蘇芳は言葉を失う。
「で、でも行けるんだろ? ここから足を引っこ抜けば」
「さて、そちに辿り着けるかどうか。道中には我のようなもののけ、神がおり。魔都と呼ばれし平安の都には人の怨念が渦巻いておる」
ふ、と息を吐き出す。
「その体では、無理ぞ」
絶句する蘇芳を尻目に、狐はその銀の髪を大きく靡かせて水面をくるりと舞う。遊ぶように、楽しむように。
「歩けば散り、走れば割れる。かような脆い体で何ができよう。他のもののけに食われ養分となるのが関の山」
月光に水面が輝く。ちらちら瞬く星灯りと、狐の指先が視線が共に歩み。波にひらめく光が舞台になり、男の白い顔と金の瞳を際立たせた。
「それなら、あんたの手を取ったところで変わりはねえじゃねえか」
思わず言えば、くっと屈んだ青年はぱしゃっと海を跳ね上げる。飛沫が散って、水の壁が二人を隔てる。やがてそれは静かに収まり、元の静寂、凪いだ海面が戻ってきた。
「否」
呼吸ひとつで言葉を打ち消す姿は、凛として。
「力が足りぬなら、蓄えればよい」
細く長い爪がこちらに伸びてくる。女でもないのに爪紅をして、艶やかなそれ。
「我が与えよう。地を奔る力を。空に火柱を噴き上げる力を。だが、それから先はそちが得なければならぬ。そち自身が何より強くあらねばならぬ。我は都を攻め、じきに天下を手中に収める心積もりをつけておる。どうだ、力にならぬか? 我と共にあればそちが都に上ることもできよう」
蘇芳は伸ばされた手を取るのを少しためらい、しかし意を決した。がっと掴む。
「本当だな?」
「ああ」
「わかった。お前に従おう。俺様に力を寄越しやがれ!」
鬼気迫る声。ここで逃してはならないとばかりの。
「よかろう」
ぞっとするほどに狐は壮絶な笑みを浮かべる。
「あまねく天の下、知り得る人間の世、我らの力を得るための界、それら全てを支配しようぞ。そして京へと続く道へ」
ぞる、とうねる銀の光。目に見えるかどうかという薄い束が、掴んだ手を通して蘇芳に流れ込んでくる。心臓に血液が巡る感覚。ぼっと全身が燃え上がり、温度のない炎が駆逐されていく。
「うあ、あ……」
「我らの手を隅まで行きわたらせるために。我の手足となれ、しらぬいの炎よ。そのための熱を与えよう。そのための足を与えよう。さあ、参れ!」

八代の海に、ご、っと炎の柱が吹き上がった。
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