Novel
主を探していた。 水面に一枚の紙が漂う。 軽い波をたてて、丸く波紋を描いて。 春日の社を作るにおいて、我らヒトガタの式は百の数を作られ、それが終わった後に九十九は兵部に仕えよと申し付けられた。人に害を及ぼすな、兵部に仕えよ。 では、残るひとつは。 主を探していた。 白い被衣は水でしとどに濡れて、ぽたぽた水滴を落としている。暗く陰鬱な顔をした男は何をするでもなく猫のように背を丸め、じっと暗い水面を見つめていた。月もない夜だった。 星があるので辛うじて岸は見える。草がぼうぼうに生えたそちらにはちらとも目もくれず、ただじっと水面を見つめ続けている。 自分には目的が設定されなかった。何の因果か偶然か、九十九と数えられたところで忘れられてしまったヒトガタの百体目。目的もなく、役目も既に終えている。存在を与えられたまま放置された自分を思考するような、そのような設定さえなされなかった。 物は物なのだ。いくら力を与えられようと、それを逸脱することはできない。存在を規定されたのならば、それ以上もそれ以下も何もできはしない。 じっと見ている。目下を見ている。 時間の経過もわからずひたすらに俯く男に、ふと影がかかった。白い被衣に黒がかかる。男がそれを察してぼんやりと顔を上げると、頭上には黄金が煌めいているのがよくわかった。 目だ。黄金の、獣の目。 それは一目で自分の性質を見抜き、そうして月のように笑うと、「お前の主になってしんぜよう」と言った。自分は一も二もなくそれに頷き、晴れて主を得ることができた。 「というのが、瑠璃様との出会いですねえ」 海辺で砂浜を弄りながら陰気そうな男は言った。ただでさえ悪い顔色を、更に白い被衣で隠しているので影のようだという印象しか受けない。 隣に立つ派手な赤髪の男が手を目の上に当てて、よくよく遠くを眺めているのをぼんやり見ながら、暗い口調のまま。 「へえ。千草はそれで嫌だったりはなかったのか」 「自分には主が必要だったんで、嫌がることもありやせんでした。道具は主人があってこそ使われるに相応しい姿になりますから」 「そういうもんかい。俺様は道具のもののけじゃないからわからねえな」 「じゃあどうして聞いたんですかい」 「気になったことは気になったうちに知るに限るだろう?」 はあ、と陰気な男は溜息を吐いた。どうもこの蘇芳だとかいう炎の怪とは相性が悪い。自分を拾ってくれた天狐の瑠璃之丞とは長い付き合いらしいが、よくまあこんな適当な男があまねく天下を瑠璃様と共に手に入れようなどという気になったものだ。 「時に、船は見えますかい。琉球の、丹を塗った派手なやつですよ」 「それらしいもんは見えねえな」 「困りやしたねえ。瑠璃様が感じたというまじむんの気配、自分には全くわかりやせんし」 「奇遇だな。俺様にもさっぱりだ」 「自慢してる場合じゃあないでしょう。そもそも薩摩の土地神がしっかりしていればこんな苦労をすることもなかったんです」 「そりゃ無理ってもんだ。なにせあちらは神殺しの獣。食欲ばかり旺盛な地蟲の王。今は子を増やすことに精を出すばかりだろう」 赤錆色の腹をぶくぶく膨らました地蜘蛛の姿が思い浮かぶ。いかな幸運をもってして先代の神を食い殺し君臨したのかはこちらが知るところではないが、また先代の神も何がしかを食らい地の王として生きていたと聞く。 地が縁を結ぶのか、縁が地を形作るのか。その因縁はこの先も続いていくのだろう。食うか食われるか、蛮族の血と記憶が脈々と継がれる場所。それはそれで、最も最初に食われたなにがしかの生命が永遠を勝ち取ったとも言えるのかもしれない。 「まったく面倒で厄介で、忌まわしい僻地ですね」 「同感だ。いつだって端というのは穢れの吹き溜まりさ」 海はなお穏やかだ。優しくも温かく、凪いだ顔とは裏腹に海底にどれほど淀みを抱えているのやら。 「ああ、見えてきやしたよ。あいつでしょう」 水平線の遥か彼方に朱が見える。ぽつんと浮かんだ船が見える。 「わざわざ海を越えてご苦労なこった。で、どうすりゃいいんだ俺様は」 「船は無傷で。あれは人様のもんですからねえ。そんで、船に乗った悪いものを、こちらの陸に上がる前に追い払わねばなりやせん」 「面倒だな。船ごと焼き払っちゃいけねえのかよ」 「他の土地神に目をつけられたいのならお構いなく」 「ちっ」 舌打ちをひとつ。しかし蘇芳は素直にこちらに従う。わかっているのだ、今はまだ勢力が足りないと。筑紫の四面の顔に成り代わり洲を収める七つの信仰に及ぶには、まだ力が足りない。 ゆっくり船の影が大きくなってくる。未だ遠く、それは掌ほどの大きさにしか見えないが。 「しょうがねえなあ。あの船の奴らはついてるだろうよ。昼日中からこの俺様の炎を見れるんだから」 蘇芳の髪が赤く燃え上がる。それを嫌って千草はそっと距離を取った。暑いのは苦手だ。暑苦しいのは尚更。 見事な炎が燃え盛り、熱気を伝えてくる。嫌だ嫌だ暑苦しい、と被衣を深く被り直して注意深く船を見る。 まじむんなるものは、あやかしとは似て非なるものと聞く。 それは死者の恨みつらみが凝り固まったもの。道を外れ輪廻の輪にも戻れず憎悪と災厄を振りまき、誰も彼もを自分と同じ目に合わせようと動くもの。 それは観察されたがる。それは定義付けられたがる。恐怖に自らを彩り、嫌悪の視線を好み、より巨大に怨念を燃え上がらせようとする。本能的に知っているのだろう。人間からおそれられることが自らをよりいっそう確かな存在とすることを。 「ああ、おりやした」 舳先に大きな牛が立つ。黒々とした体を猛らせて、牛に非ざるぎぃ、ぎぃ、という音を響かせながら動いている。不吉な張り子の牛。ぐらぐら体を揺すりながら、船の動きに合わせてそれは足を上げ、降ろし、上げ、降ろし。まるで誘うかのようにこちらを見る。 「それじゃあ、あいつを焼き殺せばお使いは終わりだな!」 喜び勇んで飛び出さんとする蘇芳を、しかし千草はばっと制した。 「待て。……なにか変です」 何故ああも堂々と船の舳先に立っているのか。人影がひとつも見えないのは何故なのか。 「嫌な予感がしやす。もしかしたら最悪の事態になっちまってるかもしれやせんね」 「どうする?」 「見に行きやしょう。それならそれで、ますます陸に上げるわけにはいきやせん。船の上で大立ち回りするだけでさあ」 千草の過激な言葉に、蘇芳はにやりと笑う。 「それこそ、俺様に似合いの仕事だな!」 体をゆらりとゆらめかせる。水面にぽつ、ぽつ、と白い炎が燃え上がる。と、ふっと陸にあった蘇芳の姿が掻き消え、代わりに水面に浮かぶ炎の上に立っている。また別の場所に炎が現れ、その度に蘇芳はそちらへと移動していく。 「しらぬいってのは便利なもんですねえ」 やれ自分は泳いでいくしかない。ちょうどいいことに水は得意で、千草ははめていた分厚い革手袋を外した。水かきのついた手が現れる。河童でよかった。そうでもなければ蘇芳を追いかけていけないところだった。 どぼん、と海に飛び込む。薩摩の外海は波が荒い。寄せては返す強い波を掻き分けながら、千草はざんぶと底へ潜る。海の下にはなにもおるまい。そう思っていたのが悪かった。 「……!」 人の顔。海中に人が。海女か何かか、と一瞬動きを止めたのが悪かった。それは群れをなして、人紛いの目と歯を剥き出しに、そのくせ魚と同じてらてらした黒い皮膚をもってがちん、がちんと歯を鳴らし。一斉に千草を食らわんと襲い掛かってきた。 はっとする。まずい。いくらこちらが水の怪であろうと、海の領分では海の怪に分がある。逃げなければ、と体を翻そうとしたその時。 左腕に激痛が走った。 固いものが肉に食いこむ。皮がひどくたわんで、しかし耐えきれずぷっつりと裂け。内側をごりごりと削っていく。 食われる、思わず腰に佩いた刀を抜いて斬りつける。潮に浸かった刀は錆びるだろうが、こればかりは仕方ない。どろ、と海水に異形の血が混じって、切り裂かれた首と、別たれた体が力を失い浮かんでいく。幸運にも他の魚たちは血に惹かれたのかまずそちらから食らおうと仲間の体に群がりはじめた。 「く、っそ……」 腕に噛みついたそれを引き剥がす。目蓋のない、ぎょろりとした目玉。魚の顔に人間の真球をくっつけた、出目金の出来損ないのような顔。 「まともな魚じゃありやせんね……!」 腕のような胸鰭。人にも似た体躯は、しかし全て細かい鱗で覆われている。人紛いの魚であるとしか形容しようがないそれらに、千草は舌打ちをひとつ。船はすぐ上なのに、こいつらがいたんじゃ乗船できそうにない。じきに魚は肉を食い終わる。終わればすぐこちらを向くだろう。まじむんとやらは蘇芳に任せるしかない、と溜息を吐いた。 「なんとかできりゃあいいんですけどねえ」 魚のぎょろりとした目玉が、千草を見た。 蘇芳は難なく船に降り立つ。さて千草が来るのを待つか、と思ったが、振り返るも姿は見えない。水に潜ったのだろうか。 「まあいいさ。先に行っちまうからな!」 とりあえず声だけかけておいて、ずんずん進んでみる。舳先は何のまじないか朱に塗られて、奥は鮮やかな青の壁。なんとも目にちかちかする配色だ。 先程いた黒い牛の姿はない。奥に引っ込んだのだろうか。予想通り甲板に転がっている死体を蹴り転がしながら、蘇芳は注意深く観察する。白い衣服の船乗りらしい死体がそこにひとつ、あちらにひとつ。やけに静かな船内で、ふうと蘇芳は息を吐いた。 「こいつぁ、幽霊船だ。みいんな、食われちまった後みてえだな」 もう誰も生きてはいない。 「牛の奴を探さなくちゃいけねえな。……それにしても、千草の奴はどうしたってんだ。まさかひとりで陸に残ってんじゃねえだろうな」 ぶつくさ独り言を言いながら船尾へと移動する。屋形の船内はただ静かで、何がいる気配もない。のんびり歩いていけば、船尾の端にあの黒い牛が立っているのが見えた。 「おう、お前がまじむんか?」 牛の目は暗い。光もなく、ただのっぺりとしている。生ある気配がさっぱりないそれに、いささか気持ち悪さを感じながら、蘇芳は油断なく近づいていく。 「上陸は諦めてくんねえかな。お前を上陸させるなってのが俺様たちに与えられた指令でね」 すら、と腰の刀を抜く。二刀流だ。 「抵抗しねえんなら、斬り捨てさせてもらうぜ」 牛一頭を斬り捨てるだけの、なんて簡単な仕事だろう。ぐっと身を屈め、それでも動かない牛をしっかり見定め、だんっと蘇芳は床を蹴る。 「悪く思うな、よっ!」 にた、と牛が笑った気がした。 切りつけるは固く乾いた感触。だが切り裂いた途端に牛はばらばら木片となり、甲板に散らばった。 「な、なんだあ? ……籠、か?」 生物の気配がしなかったのはこういうことか。なんだ付喪神みたいなもんだったんだな、と蘇芳は肩の力を抜く。拍子抜けだ。千草が来るまでもなかった。船はここに捨て置けば、そのうち誰かが見つけるだろう。帰ろう帰ろうと後ろを振り向いて、 ぎょっとした。 白いものが浮いている。 それは、死体から抜け出た何かに見えた。 薄ぼんやりとした何かがゆら、と揺れて。こちらに不明瞭な手を伸ばしてくる。それに先程の牛と全く同じ気配を感じて、蘇芳はさっと顔色を青ざめさせた。 「嘘だろっ!」 後ろに飛び退る。舳先の方からも小さな白い光がふらっと飛んできて、やがてそれは蛍になったり白い鳥になったり、思い思いの形を取りはじめた。 「こいつらもまじむんなのかよ……」 十名ほどいた乗員の、恐らくその魂の全てが恨みを持って変化する。殺された無念をもって手を伸ばす。こちらへおいでと、仲間になれと。 「冗談じゃねえ」 ぼ、と蘇芳も炎をその身に纏わせた。白く温度のないそれではない、熱く燃え盛る炎だ。 「全員燃やし尽くしてやる!」 ぼ、と蘇芳の足元から炎が出始める。船を焼けば一緒に死体も燃える。元が断たれていなくなるのかどうかすらわからないが、やらないよりましだとの判断だ。 げあげあ鳥が騒ぐ。輪郭をぼやかせた犬がびゃんびゃん鳴き、いずれもこちらを睨みつけている。 ゆっくり煙を上げる船の上で、蘇芳はすっと心を落ち着かせた。 数がいるだけだ。問題ない、斬って捨てて、燃やせばいい。 ぱちぱち木が燃える音がする。木酢のつんと鼻につく匂いがする。 しばし睨みあった両者は、ばちん、といういっそう大きく炎が弾ける音に押し出されたかのように動き始めた。 「おおっ!」 二刀を振り回す。それをかいくぐってマジムンらが襲い来る。獣の牙が、爪が、人から獣へと変わり果てたそれが、蘇芳の頬に手足に小さな傷をつけた。 「ああくっそ、邪魔くせえ」 ぼ、と口を開き牙を剥く犬に手をかざす。途端にきゃいんと哀れな声を上げて白いそれは輪郭を崩し、しかし。それだけだった。炎に散らされた魂はすぐに戻り、さして効いている様子もない。斬った切り口もすぐにくっつき、まるで霞を斬っているよう。 「くそ、千草はまだかよ……」 相手が悪い。斬れども燃やせども効果がない。陸を見るがかの白衣は影も形もなく、ただ甲板から立ち上る煙臭さだけがある。 消耗戦だ。それも防戦一方の。恨むぞあの河童野郎、そう考えた瞬間に、ちらと見た水面に、あの被衣が見えた。 はっと息を飲む。魚か人かも判別のつかぬ何かがばしゃばしゃ水面を荒立てて、その奥に待ち望んでいた人の姿がある。 ばっと取り囲む白いマジムンの姿を見る。それから水面の魚擬きを見る。彼らが自分に飛びかかる一瞬で、蘇芳は心を決めた。 「千草ぁ! 交代だ!」 だぁん、と強く船を蹴る。そうして一直線に、海へと。 ざぶん。 赤い星が降ってきた。千草にはそう感じられた。動きのとりにくい海中で、なんとかこちらに寄せつけぬよう立ちまわることはできているが、最初の一匹以外まだ仕留められてはいない。 膠着した状況に、降ってきた赤い星は。 「千草!」 手を伸ばす。その一言で全て悟る。なるほどこれは。 「交代ですかい」 蘇芳の炎が千草を囲む。水の中でも消えぬ、強い意思と力を持った炎。 その炎に押されるように、千草はざっと海から出た。船が燃えている。あかあかと狼煙を上げている。 「あの馬鹿、こんなにも派手に煙を上げることはないでしょうに。……さて」 海の中もまたあかあかと燃え上がっているのを見て、そちらは楽なものだろうと千草は目を眇めた。斬れるものなら、燃えるものなら。彼に敵などないだろう。 船の上に目を遣ると、白い球体が形を変えながらこちらを観察しているように見えた。あれが瑠璃之丞が言うところのまじむんらしい。 「はあ、なるほど。魂みたいなもんですねえ」 船に転がる死体を見て、そこに寄りつきたいような仕草をする光を見て、得心がいったように千草は言う。 「そりゃ蘇芳には荷が重いわけです、っと」 びしゃびしゃ滴る水を払い、千草は背負っていた巻物を下ろす。どうしたことかそれだけは水をはじき、ほんの少しも濡れた様子がない。 「ああ、自分ならごく簡単な方法で勝てるでしょうよ」 ごろんと巻物を紐解く。マジムンらがまた獣のかたちを取りはじめる。こちらに牙を剥く前に、と千草は至って平然とした顔で、「お出でなさりませ、風魂」と言葉を放った。 途端にびゅう、びゅううっと強い風が吹きつける。場を掻き乱し、気を拡散させ、それは白い魂の獣らも例外ではない。肉がないからこそ乱されやすく移ろいやすい彼らは、長く長く吹きつける風に耐えられなくなったらしい。ひとつ、またひとつ。びいどろの球が割れるようにぽとぽと地面に落ちては消える。 最後のひとつが落ちて、割れて、消えて。それでようやく風も止む。後に残ったのはくすぶる木製の船と、ばらばらに壊れた籠だけ。 がしゃん、と牛だった木片を千草は蹴った。こいつが元凶なのはようくわかっている。 「アンタらは知らなさすぎやしたねえ。我々のような観測されしものは、恐れられるより、畏れられることでこそ存在をより深くするんでさあ」 ただの恐怖では人は簡単に忘れ去る。 畏怖こそが神を、怪を、命に刻み付けることができるのだ。 「琉球で大人しくしているんですね。この筑紫洲は……いずれ我が主のものになるんですから」 どうっと海に火柱が上がる。あちらも簡単に決着がついたらしい。 千草はふと笑んだ。ひどく陰鬱な、にたりとした、気味の悪い様子で。 水がばらばら落ちてくる。魚の死んだ肉塊がぷうかと海面に浮かんで、橙色の髪が舌を出しながら宙に立つのを眺めた。 「ご苦労なこって」 「お前こそな」 こつ、と拳を合わせる。さて主に報告に行かねば、と二人は壊れた船を捨てて陸へと向かった。一度だって振り返ることはなかった。 |