Novel
彼女にはわからなかった。自分が今こうしているのに何の意味があるのか。生温い水が口内を満たし、喉を異物が通り抜けていく。嚥下するたびに人ではない何かになっていくような感覚がおぞましいが、それよりも死の方がよほど恐ろしかった。名前と同じ桃色の着物が汚れていくのも構わず、少女は髪を振り乱しただ一心不乱に生を貪っていた。 少女は裕福な家庭に産まれた。大きな商家を営んでいた父母は世継ぎの男子でなかったことを悲しんだが、それでも一人娘を蝶よ花よと慈しんだ。珊瑚の細工の髪飾り、螺鈿で飾った化粧箱、金銀の糸で織り上げられた反物に帯。どこぞの姫君かと思わせるような贅沢豪奢な暮らしぶりに、眉を顰めるものもあれば景気がいいとほめそやすものもある。娘は手間暇と金を存分にかけられて育ち、じきに街で一番の器量よしと言われるまでになった。 「ねえ先生、もう三味は飽きましたわ」 ぺいん、と三味線の響く音がする。手すさびのように弾いた弦が柔らかな振動となって部屋全体に響き、それが収まる頃に少女はまた口を開いた。 「先生、お聞きになっていらっしゃるの」 「はいはい、聞いてございますよ」 いささかむっとした言葉に、相対する女性はやれやれといった様子で答える。丸髷をきりりと結い上げた、白髪の混じる髪をすこうし傾けて、それから厳しい視線を目の前の少女に向ける。 「そもそもお桃さん、あなたまだ三味に触って一刻と経っていないじゃあありませんの。小唄の稽古の方がお好きなのは知っておりますけど、三味がなけりゃ小唄もできゃしません。さ、もう一度最初からお弾きなさい」 「でも姫、もう三味ばっかり弾くのは飽きたんですもの。ここらで休憩に小唄を披露してもよろしいじゃありません?」 自らを姫と自称する少女はぴしゃりと窘められてもこれっぽっちも気にした様子はない。それどころかなおも言い縋るほどだ。やがて初老の女性も諦めたように溜息を大きく吐き出し、お好きになさい、と力なく言った。 「ただし、一曲だけですよ。それが終わったらまた三味のお稽古でございます」 「わかっておりますわ」 少女は嬉しそうに三味を爪弾く。この辺りで作られる木製の三味線は優しくも暖かな音色を出して、それに娘らしい甘くかわいらしい声が乗る。まったく、この娘は小唄だけはえらく得意なのだと初老の女性は溜息を吐いた。 ――はるかぜぇがそよそよと、ふくは内へとこの宿へ なんとも縁起のよい、春の陽気に遊ぶ歌だ。歌う娘の着物も晩冬が温まって来た頃の桃色で、なるほど春であるなと初老の女性は窓を見た。気の逸った鶯が娘の歌に合わせて喉を震わせるようにも思える景色であった。 ――ままよままよ今夜も明日も居続けに、しょうが酒 糸を細く細く伸ばす声と軽快な三味の音が終わると、途端に少女はぱっと笑顔になる。褒めてもらいたい子犬のようだ。 「姫の歌、いかがでしたの?」 「大変よろしゅうございましたよ。ですが三味がまだ弱うございますね」 「意地悪ですわ、先生」 そう言いながらも機嫌よく三味を触っているところを見るに、彼女の飽き性はなりを潜めたらしい。やれこれでようやく次の稽古ができる。 「ではお稽古の続きとまいりましょう」 ぺんぺんはじける音が旋律を奏でだすと、少女は今度こそ口答えもなくそれに従った。 小唄と三味の稽古はほとんど毎日のように行われる。大家のお嬢様としては少々物足りない教育だが、桃自身が三味と小唄以外にはあまり興味を示さなかったところが大きい。三味の先生のところに昼行って、夕方頃に帰宅する。お供の女中に重い三味を持たせて、自分は悠々と歩きながら。 「いいお天気ですこと。ねえ少し寄り道していきません?姫は新しい髪飾りが欲しいんですの」 「まあしかし桃姫様、また夜になってしまったら旦那様や奥様が心配なさいますわ。もう夜歩きはいけないとお言いつけがありますし」 「夜になんてなりませんわ。ちょっと髪飾りを選ぶだけですもの。お前、金子は持たされているのでしょう?」 「それは御座いますが……わかりました。少しだけでございますよ」 女中は大きな溜息を吐く。結局この我が侭お嬢様に逆らえることはないのだ。だめだと強く言ったって、後々まで不機嫌になられてしまう。それなら少しくらい言いつけを破ってでも、彼女の意向を優先するのがよい。旦那様と奥様は彼女に殊更甘いので、言いつけを破った最初こそ叱りつけられたってすっかり許してしまうのだし。 少女は早速紐屋の店先に微笑んで、店主と何事か話し始めている。向こうも心得たものだ。この街一番のお得意様なのだからでれでれと甘い顔をするのも仕方なかろう。気に入りさえすれば値切りもせず金子を出す十四かそこらの客なんてものがいれば、女中だってあんな顔をするに決まってる。 「おひいさま、お気に入りの紐は見つかりましたかい?」 おべっか使いのゴマヒゲ親父が猫なで声を出しているのを知らぬ顔で少女は店頭に並んだ色とりどりの髪紐を眺めている。 「紅色はございませんの?」 「ははあ、生憎きらしておりまして。おひいさまに一番似合う色だってのに、あっしとしたことがうっかり」 「そうですの。では仕方ないですわね」 親父のあんまり見え透いたお世辞に笑いを堪えながら女中はしずしずと歩いてくる。当のお嬢様は気に入ったものがなかったようで顔を顰め、もう少し見て行かれませんかと言う親父と押し問答をしている。 「もうよろしいですわ。また寄らせていただきます」 どうも強く押されすぎたのが気に食わなかったのか、とうとうそっぽを向いてしまう。店の親父はかわいそうだが、どうせ明日にはころりと機嫌が直るのだ。今くらい引いてもらわねばならぬ。 「桃姫様、あちらのお店もよさそうですわ」 「ええ、そちらに参りましょう」 むっとした顔を一変させ、ころりと気をよくする。なんとも扱いの簡単なお姫様だ。 「まあ、こちらは椿のかんざしですの?」 「へい、ちりめんで作った花をつけているんですよ」 「椿には早すぎる季節ですけど、これなら枯らすこともありませんわね」 布で作られたにしては色艶のある赤だ。ほう、と彼女が感嘆の息を漏らすので、女中はさっと財布を取りだした。 「これをいただきますわ。お前、払っておいでくださいな」 「はいはいお嬢様」 すっかりお気に召したらしい。早速髪に飾っては鏡に夢中になっている。 「店主、どうですの?」 「ええおひいさまによくお似合いで。作った職人も喜ぶでしょう」 椿の花は艶々として、花弁も柔らかくたわんでいる。椿の季節にはかなり早いが、晩秋にでもなれば寒さに耐える椿は綺麗に咲くだろう。 ゆっくり日は沈んでいく。じわじわと自重に耐えられなかった陽射しが山に沈んで行って、まるで山火事でも引き起こすほどに赤く斜線を染めている。山を道連れに夕陽が死んでいく。 「おひいさま、そろそろ帰らないと怒られてしまいますわ」 「そうね。新しい髪飾りも買いましたし、帰りましょうか」 まだ椿には早い季節だが、彼女はよほど気に入ったらしい。楽しげに髪を揺らしている。通りに長い日が差して、商家も店仕舞いをはじめている。行灯を掲げる行商の蕎麦屋が暖簾を出して、もう顔を赤くした徳利片手の親父たちがそそくさと蕎麦を啜りにやってくる。いっそ名物のような光景だが、季節の風物詩にするにはだらしがないのも確かだ。 店が並ぶ通りをさくさく歩いていく。細かな砂利を蹴りながら乾いた地面を進むと、じきに日が暮れてしまった。とっぷりと落ちた暗闇に、そこらで提灯を買い求めて女中はお嬢様を先導する。 「はあすっかり暮れてしまいましたね」 「母さまと父さまに叱られてしまいますけれど、そんなの目じゃないくらいの髪飾りが手に入りましたもの。満足ですわ」 足元さえおぼつかないはずの夜道を少女は嬉しそうに歩く。辺りにはぽつぽつ提灯が灯って、行き交う人がまだあることを示している。それも少女らが大通りから一本道を外れた大きな屋敷に着く頃にはすっかりなくなってしまっていたが。 月明かりもない。深い夜。新月の日には辺りは一歩先も見えぬ暗闇だけが支配する。まるで目隠しでもされているようだ。提灯と、それを持つ手と、ほんの少しの地面だけが視界の全てで、あとは全て黒に塗りつぶされている。木戸を叩く手もうっすらとしか見えぬ空間で、女中がごつごつ戸を叩く。 「ただいま戻りまして御座います。ご開門なさいませ」 ごつごつ。ごつごつ。 しかし中から答えはない。 「おかしゅうございますね。もう寝る時間でもないでしょうに。裏を見てまいりますので、おひいさまはこちらで」 「ええ。早くお願いしますわ。真暗は嫌いですもの」 「はいはい、承知しておりますわ」 ざりざり暗い道を踏みしめながら、女中は裏口を確かめにゆっくり歩き出す。なにもそんなに用心しなくてもと思うが、確かに不気味だ。日が沈んで一刻も経っていないのに、皆揃って沈黙しているだなんて。少女は手持無沙汰に澄んだ暗い空を見上げた。 どれほどそうしていただろう。女中の声さえ聞こえない。ただ夜は冷たくなるばかり。 「……遅いですわ」 ちらりと塀を見る。何が起きているのだろう。なんの音もしない。火の気もない。家人がいなくとも先程女中は入っていったばかりだというのに。 じわりと不安が押し寄せてくる。黒と紺と藍ばかりの場所に放り出されて、このまま夜が明けないような錯覚に陥る。自分の手だってろくに見えない、粘性のある宵に全身包まれて隠されて。 ことばすらわすれてしまいそう。 輪郭もあやふやになりそうだ。はっと少女は首を振って、だめだだめだと気を持ち直した。女中が帰ってこないのなら、仕方がないのだから、今度は自分が行くしかない。 「そうですわ。きっとあのどんくさのことですから、裏口から入ったところで転んで頭でも打ってるのでしょ」 声すら響かぬ重苦しい空気を嫌がるように少女はわざとらしく強い声で言って、それから塀に手をつきそろりそろりと歩き出した。 一寸先は闇。一歩踏み出した先が崖。そんな恐怖を押し殺しながらじりじり歩いていく。塀が途切れたのでくっとその先に手を曲げると、なるほど家の角に触る。体の向きを変えて、またゆっくりゆっくりと。地虫が爪先に触れて、踵で無実の草花を磨り潰す。そうして知らず知らずに殺しながらようやく裏口の木戸に辿り着いて、少女はほっと息を吐いた。きぃ、と風に閂の抜かれた木戸が揺れている。誰かが中に入ったのは間違いないらしい。 そっと小さな扉を押して中を覗く。火の気はない。人の気配もない。 「母さま……父さま……? 今帰りましたわ」 声も思わず小さくなって。あまりの暗がりに震える心を抑えながらそっと辺りを見回す。何もない。しんとした邸宅。まるで家人の誰もが家に食われてしまったかのようだ。 「一体これはどうしたことですの……」 胸を締め付ける不安に答えが返ってくるように、不意にずしゃりと重く湿った音がした。 「えっ」 それは少女のごく近く、そして予期すらせぬ方向から。むっと鼻に着く鉄臭さ。伝わってくる生温い温度。明暗すらほとんどわからぬ夜更けでも、それが血を流し垂れ下る、肉めいたなにかの死体だとわかった。 「っ、ひぃ!」 思わず口を押さえて飛び退る。屋敷には犬も鳥も飼ってはいない。荷運びの馬が枝に引っかかるわけもない。では、これは。 正体に思い立った途端、少女は後ろから誰かに強く掴まれた。心臓が跳ねる。恐怖に喉が締めつけられる。 「…っ!」 「なんだ餓鬼か。ったく、暗すぎて殺すところだったぜ。おい、この餓鬼縛り上げろ。いいもん着てるしよく売れるぜ」 「ああ、おまけに見ろよ」 ぼ、っと音がする。松明に火が灯されたのだ。あかあかと照らし出される醜悪な男たち、そして自分の背後にある、首を掻き切られ松の木に引っ掛けられた肉塊の女中。 「いやああああああああああ!」 少女の視界が暗転する。炎のゆらめきに目蓋が降りて、それから。 そこから先を彼女は知らない。知りようもない。これから商品にされる娘に、下卑た男たちが何を知らせることもなかった。 少女が目を覚ましたのはごとごと揺れる荷台の上だった。大八車らしきものに乗せられて、しっかり簀巻きにされている。上には菰が被せられ、隣には色とりどりの反物や装飾品や米や銭。動かせる目玉をなんとか左右にぐるぐるさせて、少女は必死に現状を確認する。あの反物は母のもの、銭を入れている漆の箱は父の文箱、となると米も、装飾品も、全て自分の家から盗んだものだろう。 ところどころに血痕がついているのが少女の絶望感を煽り、あの家に住む者たちの末路を思わせる。だがそれも、荷物扱いされ転がされている現在の絶望と無力感、それに屈辱に比べれば今は些細なことだった。 見上げれば薄い菰から外の景色が透けて見える。すっかり日は上り、焼けつく陽射しがちらちら少女の顔にかかっていく。一晩そのままに寝転がされていたのか喉がひりつくように乾き、それもまた少女に焦燥感を与えた。 ごろごろ固い車輪が道をなぞる音がする。がたがた、ごとごと。自分を攫ったらしい男たちが遠くでひそひそ話しあっているのが聞こえ、その下卑た内容に少女はぎゅっと目を瞑った。これから先どうなるのか、どんな目にあわされるのか考えたくもない。いっそ殺してくれとも願うが、縄でぎっちりと縛られているせいで身動きもできず自害もままならない。 「くうっ……」 体をにじにじ動かしてみる。だが縄はほんの少しだって緩みはしない。それに、あまり派手に動いているとばれてしまう。少女は額に脂汗を滲ませながら芋虫のようにぐにぐに動き、徒労を重ねていく。 昇っていった日は天辺を通りすぎ、だんだん傾いていく。橙色に変わる陽射しに二度目の夜が来るのだと察することは容易で、この荷車がどこまで行くのかと少女はますます焦燥を強くする。 やがてすっかり日が落ちた頃、荷車はがたんと強く揺れて止まる。山の中のようだ。強く荷台が傾いて、少女の体も思わずずり落ちそうになる。 「よーし、ここらで野営すんぞ」 野太い声がはっきり聞こえて、思わず体を固くする。喉が渇き、腹が減り。しかし男らに意識を向けられたくない思いから少女はひたすらに息を殺した。 「荷台の娘はどうだ」 「ぴくりとも動かねえな。昨日から飯も食わせてねえし、死んだか?」 「死んでも構わんさ。それならそれで服もかんざしも売っぱらうだけだ」 「勿体ねえなあ。顔見たか? いいとこのお嬢さんなだけはあるぜ。とびきりだってのに」 「ばぁか。箱入り娘のおかたい穴なんざこっちが痛てえだろうが。娘売っぱらった金でとびきりの太夫を買うに決まってんだろ」 それもそうだ、とぎゃはははは笑う男達の声に少女は目を見開く。なにをされるのだ、自分はこれからどうなるのだ。漠然とした不安がゆっくり形をとっていき、脳から寒さが溢れだす。ひぃ、ひぃ、とか細く鳴る喉をきゅっと締めて、少女は必死に息を止める。心臓の鼓動さえ邪魔なほどだ。 男達はぎゃあぎゃあ騒いでいる。酒が入っているのか、耳ざわりな声でがなりたて、まくしたて、笑い声を上げて。 聞きたくない、見たくない。必死に意識を脳の外に追いやって耐えている時に、少女の耳にだけ小さな唸り声が聞こえた。 それは生死を分ける声。ほんの微かな、しかし決定的な。 少女ははっと辺りを見回す。男たちが囲む火のおかげで灯りにはなんとか困らない。山と積まれたかんざし、櫛、手鏡。それらの中で特に先端が尖ったものを選んでなんとか手に取る。肘から先が使えるのが不幸中の幸いだった。後ろに回した手を必死で動かす。ごりごりと荒縄を削り、千切る。使いこまれているせいかあまり丈夫でない縄で助かった。音をたてないようにゆっくり、確実に、時間をかけていけば。それらはぷっつりと切れる。一本切れてしまえば軽く解くだけで手はあっという間に自由になり、少女がその場で身じろぎするだけでぱらりと落ちていった。 「……」 その場でじっと待つ。先程の唸り声には聞き覚えがある。山入りの神事の時に怖がっていた声だ。酒を飲んで馬鹿騒ぎする男たちはこのおそろしい声にさっぱり気付いている様子はない。ならば少女がすべきことは、火が消えた後に酔っぱらって寝込んでいる男たちが唸り声の主らに襲われるのを待つのみだった。 じっとその時を待つ。男達は聞くもおぞましい内容を、その腐った口から垂れ流している。耳を塞ぎたい衝動にかられつつ、少女はじっと後ろの茂みに意識を集中させる。かさこそほんの僅かだが草葉が揺れる音がする。息遣いがある。まだいる。男達を獲物と定めている。 やがてひとりが潰れ、ふたりが眠り、三人四人と。 皆がいびきを立てはじめる。はやくこい、起きぬうちに来い。あそこに獲物がおるぞ。お前達に食われるための肉があるぞ。 少女が身を隠す荷台の傍を、ふと通りすぎる影があった。 来た、と体を強張らせる。人の腰ほどの高さの影はふたつ、みっつ。だんだん数を増やしていく。 山犬だ。血肉を食らう獣だ。 犬たちはぐるる、と喉を鳴らす。酔って眠った男達を襲おうと辺りをぐるぐる回って、時折娘のいる荷台にふんふん鼻を近付けている。 鋭い牙と爪とがじわじわ男達に迫って、一匹が大きな口をあんぐと開いた。食いたい意思。ぽたり、ぽたり、涎が地面に落ちる音がする。 一拍置いて、がう、と獣の鋭い声。続けて男たちの濁った悲鳴が少女の耳に届く。骨が折れる音、地面に手足を叩きつける音、悲鳴、怒号、困惑、なたで犬に切りかかる音、反撃する犬たちの声、火が強く爆ぜる音と肉の焦げる匂い。 少女はそれらをただじっと待っていた。全てが終わるのを。この世で最も残酷なのは、何もしないことだと誰かが言っていた。まさしくその通りであろう。何もせずただこれらが終わるのを待つ。ひたすらに利を待つ。 ――やがて、全てが静かになる。 ぴしゃ、ぴちゃ。ぐちゅ、ぬちゅ。湿った血肉が滴る音。無言のそれすら聞こえなくなった頃、少女はずるりと荷台から抜け出した。 それは、ほんの小さな地獄。新鮮な血の匂い、肉の匂い。人間だったものがそこらじゅうに散らばっている。乱雑に解体されて地面に皮を広げ肉をだらしなく散らかした姿で。 うっと少女は口を押さえた。犬たちが乱雑に好き放題食い散らかしていったのが、こうも汚いものだとは思いもしなかったのだ。ひとりは内臓を食い破られ、胆汁と胃液と汚物とを地面に木に岩に撒き散らしている。消化されつつあった腸の内容物が半分溶けながら広がって、汚物を煮詰めて酸を垂らしたような、酸っぱくも苦くもある匂いが辺り一帯に立ち込めている。 「……食ってくれたのはいいですけれど……この匂いは耐えがたいですわね……」 腐った汚物の匂いの中を歩きながら、少女は辺りを見回す。ずたぼろの懐を漁ると、なんとか手つかずの干し肉や水を少し見つけることができた。 「あった……」 喉もからからで、お腹も空いて。少女はそれらを必死にかっこんだ。匂いなど気にしてはいられない。死に近いほどの飢えの前で、少々の不快感など気にしようがない。 固い肉をろくに噛みもせず飲み込み、水で喉を潤すと少しは落ち着いたようだった。ふう、と息を吐いて目を閉じる。 月は赤い。天辺近くまで昇って、しかし大きくぶくりと肥えて見える。改めて見回せば辺りは木だらけだ。深い夜に、炎ばかりがあかあかと燃えて。その先はひたすらの闇。 「夜が明けるまでここにいるなんて冗談じゃありませんわ。ひどい匂い……」 本来ならば動いてはいけない。夜には暗がりには魔物が巣食う。一歩踏み出せばなにが起きるかわからない。しかし少女はその場から立ち上がり、落ちていた生木の枝を拾ってくすぶる火種に押しつけた。ぶちぶちぶすぶす燻される枝葉が、じきに水気を飛ばしながら燃え上がり、簡易的な松明になる。 「よし」 それを掲げて少女は闇へと足を踏み入れる。今この場で最もしてはいけない選択を選び取り、斜面の下っている方へ向けて歩き始めたのだった。 夜が明けない。いつまで経っても。 少女にはそう感じられた。もう松明は三本目となり、下草に叩かれて足は悲鳴を上げている。真っ白な足袋は泥で汚れ、山歩きに適さぬ草履が何度も木の根に爪先をぶつける。 草を踏みつぶす青臭い匂い。名前もわからない獣の鳴き声。火に惹かれて寄ってくる虫。そしてじくじくと沈んでいく赤い月。 歩けば歩くほど人の分け入らぬ奥へと誘われているようで、しかし娘は歩みを止めなかった。ここで止めてしまえば、命を捨てたも同然だ。 早いところ里に着かねば。せめて水だけでも分けてもらわねば。またからからに乾き始めた自分の喉をさすって、娘は山道を急ぐ。獣さえ歩かぬ草の中を、手探りしながら。 どれほど歩いただろうか。ふと奥に開けた場所を見て、少女ははっとそちらへ向かう。殺生人や山師が使う小屋があるのかもしれない。いいやそうでなくてもいい、人の使う道があれば、それを伝って人の世へ帰れる。縋るように、望みを託すように。少女は必死で下草を掻き分け、しかし。 「お、同じ場所」 それは、あの少女が逃げ出した夜盗たちの惨殺現場そのものだった。 とっくに焚火の火は消えて、守り手のいなくなった肉片は山犬たちにとって絶好の餌らしい。痩せて頼りない爺のような犬が肉にかぶりついて、腹が満ちたのかよろよろその場に座り込む。まだ年若い幼い体格をした犬は必死になって死肉に貪りつき、少しでも腹の足しにしようと必死な様子だ。 少女はずるりとその場にへたりこんだ。松明を持つ手が重い。ここまで歩いてこの仕打ちか。自分はもう山から出られないのだろうか。いっそ諦念が頭を過ったその時、ふと一匹の薄汚れた犬が荷車に興味を示したのを見た。 犬の口元は血で汚れ、毛皮は泥にまみれている。いかにもみすぼらしい姿。それがよたよたと歩きながら荷台に首を突っ込んで、思わず少女は茂みから飛び出した。 「おやめなさい、この馬鹿犬ども!」 怒鳴る。炎を片手に威嚇する。すると一部の犬はひどく萎縮したように身を竦ませ、一部は敵対心を露わにした。 「それは全て姫のものですわ! わかったらここからお退き! さもなくば焼き殺しましてよ!」 松明を片手に脅せば、弱った犬は尻尾を丸めて後ずさりをはじめる。あとは無駄に元気の余った若い雄犬だけだ。 荷車に顔を突っ込んだ犬も少女の気迫に押されたのかそっと後ずさりしはじめている。このまま全員追っ払えば、と淡い期待を抱いてみるが、こちらを見て唸り声を上げる犬もいる。楽観視はできそうにない。 「来るなら来なさい。姫のものは姫が守りましてよ」 火はぱちぱち爆ぜている。火を恐れる獣たちは少女の周囲に固まってうろつきはじめる。この娘は自分達でも食えない相手ではないと判断したのか、だんだんと瞳に敵意が灯りはじめて少女はごくりと固唾を飲んだ。火が消えれば死ぬ。 こちらを睨んでいるのは、見たところ三匹。どれもが独り立ちしたばかりの若い犬のようで、まだ毛並みもぴんと張り若々しい。こちらに立ち向かってくるとは火のおそれが薄いらしいと見て、少女もぐっと両手に力を込めた。 「こんなことなら武道を学んでおくんでしたわ」 素人剣術では、木の枝でぶっ叩いたとてろくに攻撃も通らないだろう。 ふー、ふー、と緊張でくぐもった息をして、こちらをしっかと見る黄色い目玉と対峙する。先に動いたのは犬だった。 やはり若い。獲物が目の前に入るのに待ちきれず逸る一匹が真っ正面から少女に突っ込んでくるのだ。 「く、来るんじゃありませんわ!」 火の燃え盛る枝を振るとばさっと激しい音がたつ。ごうっと燃える炎の流れが起きて、まともに横っ腹にくらった一匹がきゃうんと情けない声を上げた。 脇腹の毛が燃えたらしい、異臭が鼻をつく。じじっと糸が撚れる音、犬の息遣い、牙の噛みあうがちんという気配。それらが少女の間近まで寄って、離れて。地面に転げた犬が毛皮の火を消そうと砂で自らの体を揉んでいるのを見てなんとか呼吸を整える。 「燃やされたくなければ、はようお逃げ。ほ、本気ですわよ!」 犬相手にどこまで脅しが通用するのかもわからないが、まくしたてながら松明を振りかざす。轟、と生木でできたそれが燃え上がる。あかあか辺りを照らし、しかしそれしきで怯む犬ではなかった。 腹が空いているのだ。 焼けつくほどに飢えているのだ。 ここで娘を殺して食わねば死ぬのだ。 火を味わったことのない二匹がびゃんびゃん吠える。臆することなく食欲に忠実に、貪欲に娘を食わんと地面を蹴って。牙の並ぶ口を開き。獲物を引き裂く爪を伸ばし。 「ひいっ…!」 思わず炎を振る。火の粉が自分にもかかって熱さに身を竦め、目を閉じる。閉じながらも唯一の武器を振り回す。今山犬がどこにいるかもわからない。もしかしたら今この瞬間にも首筋に牙がたてられるのかもしれない。そんな恐怖にあかせて振り回した炎がばさり、と大きな音を立てた。 「ぎゃいん!」 明らかに強い衝撃を受けたらしい鳴き声。はっと目を見開くと、松明に突っ込んだらしい一匹の毛皮に火がつき、見る間に炎に飲み込まれていくところだった。 「あ、ああ……」 慄く。生きたまま焼かれ踊る山犬の姿から目が離せない。もう一匹もひどく動揺したように少女を見、炎に巻かれる仲間を見、それからさっと逃げ出した。その身に炎への恐怖を強く刻み付けて。 ごうごう炎を立ち上げる犬はその場で明るくも滑稽な踊りを続け、やがて力尽きてその場にぱったりと倒れた。目玉が爛れ、毛皮は墨となり、耳は焼け落ち。そうしてようやく少女はへなへなとその場に腰を落とした。 助かった。それも、二度目だ。 抜けてしまった腰を庇いながら這うように男達が使っていた焚火の傍まで寄って、半ば灰となった薪をなんとか集める。そうして生木の松明をその上に放り投げれば、生木よりよほど燃えやすい薪はじきにぱちぱちと火を上げはじめた。 「……」 ひとりだ。凄惨たるこの地獄でひとりきりで生きている。 喉はからからだし、腹も空いた。あんな小さな干し肉ひとつ、水筒一つでは飢えはちっとも満たせやしない。そうでなくとも丸一日何も食べていなかったのだ。少女の体はすっかり飢えて、最早動くのも億劫になっていた。 老いた山犬が鼻を突っ込んだ荷車を見る。菰を外しても、そこに飯はない。米俵はあれど少女に生米を食べる知識はなく、他の保存食は夜盗たちが全て食ってしまったのだろう。 綺麗な反物を手に取る。こんなものがあっても、今生きるのにはなんら役にたたない。それでも山犬に汚されるのが嫌でつい飛び出してしまった。馬鹿なことをした自覚はあるが、無事に守れたからよしとしよう。 「母さまも……父さまも……」 殺されてしまったのだろうか。改めてその事実が少女にのしかかる。ところどころ血のついた装飾品や小判が絶望感を煽り、この先どうしようもないと訴えかけてくるようだった。 眠ろう。今夜はもう、ひどく疲れた。喉も乾き、腹も減り、しかしこの場には惨たらしい者たちしかいない。今は眠ろう、と少女は地面に横たわる。炎だけが消えぬよう目蓋にしっかりと刻み込んで、うつらうつらと眠りを。 地獄に眠る少女の姿を、じっと見つめる影がひとつあった。金きらの目をぎらぎらさせて、古びてところどころ剥げかけた毛皮を大岩の上に横たえて。老いた狸が一匹、じっと底知れぬ目でこの地獄のあるじを見ていたのだった。 夢を見た。夢の夢を。目が覚めればまたお稽古漬けの日々で、朝には女中が髪を梳きながら小言を言って。三味をぺんぺん鳴らし着飾るだけが仕事のような、そんな夢を。 ふ、と少女は目蓋を開けた。火は随分小さくなって、まだ夜は明けきらない。森は随分湿気が高いのか木々の間に靄がかかり、先の見通せない冷たい薄幕を下ろしていた。 「これが現ですのね」 少女は諦めたように空を見る。白色かかった空が次第にあかるくなっていく。日が出る。日が照る。さっと清浄な陽光に照らされて、昨夜の惨劇がよりいっそうあかるく浮かび上がった。 死。 死。 死。 惨たらしく引き裂かれただの皮にへばりついた赤黒い肉塊と化した三人の人間だったらしきもの。骨すら噛み砕かれ内臓はほとんど存在していない。頭蓋骨から零れた脳漿が地面を黒く濁らせている。ここまでくると最早細切れの肉、細胞の群生、寄り集まっただけの微生物。そう例えるのが相応しかろう。あれが自分と同じ人間だったとは到底信じられないほどだ。それらに虫がとっくに集って、ぶんぶん羽を震わせている。不快感を引き起こす格子状の目と、日の光を受けて玉虫色に輝く体。黒くてかてかした腹をひこひこ肉につけては離して、明日の夜には孵った蛆で死体はいっぱいになるだろう。 唯一形を留めた死は少女の間近に転がって、ほどよく焼けた匂いを漂わせている。 地べたに長く横たわっていたせいでひどく寒い。ゆっくり少女は体を起こし、朝露に濡れた髪を手櫛で梳いた。 喉が渇いた。まずは川を探そう。川に入れば魚もいよう。もう二度とここには戻らぬよう祈りながら腰を上げる。着物が泥で汚れたが、構っていられるような段階はとっくに過ぎている。ただ荷車に近付き、自分の三味線だけは取りだす。母の反物も、父の文箱も。どれも自分には大きすぎて持って行けない。しかしこれだけは、としっかり抱えたそれを、少女はぺいんと弾き鳴らした。変わらず空気を震わせる三味は、娘の置かれた状況などまるで知らぬと言っているかのようだった。 靄の晴れた木々の合間を歩いていく。どうしてか獣道は見つからず、荷台の後を見ても下草が生い茂っている。夜盗たちは果たしてどうやってこの広場へとたどり着いたのかとも一瞬疑問が過るが、考えたところでせんないことだ。少女はなるべく歩きやすい場所を選びながら、道教えのひょうひょう飛ぶのを乗り越えて再び歩き始めた。 昨夜戻ってきてしまったのは暗い夜にここを抜けようとしたせいだ。明るい中なら迷わないはず。 木々はうっそうと茂り、昼だというのに暗い影を落としている。 辛うじて光片がちらちら舞って見えるだけで、木々の暗く大きな葉がひたすらに手を広げ自分のものだと光を奪っている。 どこかに水はあるはずなのだ。こうも緑が青々と広がっているのだから。 しかし歩けども歩けども小川の音も、泉の色も少女に届きはしない。土はふかふかと柔らかく、下草は露に輝くというのに。 ぜい、と涸れた喉を少女は鳴らして苦しげに呼吸をする。水が逃げて行く呼気すらひどく疎ましく、きつく目を瞑れば眦からうっすら涙が浮かぶのがわかる。生理的な脱水を恨んで一歩一歩を踏みしめる。ごろりと飲み込んだ唾がひどく大きく痛く、張り付く喉を擦っては水を求めてさまよった。 お嬢様は知らない。茂るツタから水を得る方法も、湿った土を掘ることも。ただ想像上の水場を求めてひたすら山の中を彷徨い歩く。 とっくに上等な着物の裾は破け、草履は泥で汚れ。か細く柔らかな手も木肌や棘に触れたせいで細かな傷が絶えない。おぼつかない足取りで、必死に体を支えながら下山を目指して。 もう二日、碌なものを食べていない。昨夜の干し肉と水だけが今の少女を支えていたし、摂取したあれらが尽きればそれそのまま死へと一直線だ。 その前になんとしても、とぎりぎり視線を引き絞る少女の目の前に、ふと野兎が現れた。 くん、と鼻をひくつかせる。血の匂いだ。怪我をしているらしく、片足を引き摺る小さな茶色の獣。 常人であればまず気付くことのない匂いにも少女は敏感に反応した。それは死の淵に立たされた者の、最後の抵抗だったのかもしれない。 あの兎なら、私でも。 こっそりと近づく。逸る心でも気取られなかったのは、こちらもどうしたってゆっくりとした動きしかできなかったからだろう。そろりそろりと近づいて、ばっと獣のように襲い掛かる。兎の華奢な耳に爪をたて、ぼろりともぎり取れたそれを手繰り寄せる。必死にもがく小動物。だがこちらとて、そのつぶらな瞳を食わねば生きてはいられないのだ。 「ああ、暴れないでくださいませ。哀れで見逃しては姫も死んでしまいますの」 最後の体力を使い果たしたのだろう。は、は、と上がる息をなんとか押しとどめ、香るかぐわしい血の匂いにくらくらしながら少女は言葉を重ねる。もげた耳で聞こえてはいないだろうことはわかっているが、そうでもしなければ落ち着けそうになかったのだ。 「まことにすまないことをしているのはわかっておりますわ。ええ、でもこれが生というものでございましょう?兎は食べてもいいですものね。だってお偉いお坊様も兎は鳥の仲間だからよいのだとおっしゃっていますもの。ええ、ああけれどここにはなんにもありませんわ。火は消えてしまいましたし、刃物だって置いてきてしまいましたの。仕方ありませんわこれはどうしようもないことですのだって私にも打破しようがありませんもの」 か細い指が兎の可憐な瞳に映り、そうして骨を潰さんばかりに少女は兎の首を絞める。柔らかい毛皮がべこりとそこだけ手の形に凹み、ぐったりと動かなくなった肉塊を見て少女はようやくひどく落ち着かなげに喋るのを止め 「……いただきます」 と呟いた。 毛皮を剥ぐ。刃物もなにもないから、爪を額の真ん中に押し込んで、べりべりと力任せに剥いでいく。肉色の身に、ぼとぼと血液が漏れ出していくのを勿体ないと舌で受ける。粘性のあるそれはしかし確かに少女の喉を潤していった。 刃物がないから、火がないから。少女は生の、つい先ほどまで拍動していた兎の心臓にかぶりつく。一生使うことのないだろう鋭い犬歯で肉を突き破り、僅かに甘くも感じる生肉に舌を這わせる。傷ついた背から肉を引き千切り貪り、血を余すところなく啜り、はらわたのいくらかだけを残し骨までがりがりと齧って。 やがてほんの小さなその体の全てを食べつくし、地面に散らばった残骸と血に染まった自分の手をはっと見下ろすと。その生々しい命のくわだてにひどく嘔吐感を覚える。屋敷で調理された魚や鳥を食うのとは違う、命を食らったのだという実感。 しかし。 ひどく、腹が空く。まだ喉が渇く。体が生を望み始めたせいか、ほんの少しの生肉では足りぬと騒ぎはじめている。 少女はその場からゆっくり立ち上がった。口の周りも着物も垂れた朱と毛とできたならしく汚れているが、これからすることを思えばそのままでもよいと思えた。 耳を澄ませる。かさかさという音が聞こえる。 目を凝らす。白じみたくすむ毛皮が見える。 血の匂いに誘われた山犬か狼か。少女は知らず知らず、口の端を吊り上げた。 獲物が来た。 じゅる、と啜る。汚物の詰まったはらわただけ丁寧に退けてしまって。最早血袋としか思えない心の臓を口いっぱいに頬張る。それでようやく喉の渇きが癒えていく。 生温い水が口内を満たし、喉を異物が通り抜けていく。 鉄臭さが喉から鼻へと上がることに不快感を感じる。嘔き出したい衝動に駆られながらも必死にそれを飲み込んでいる。錆びたような生々しい血の匂いが舌の上に広がって、しかしそれを嫌だと敬遠するような余裕はない。 嚥下するたびに人ではない何かになっていくような感覚がおぞましいが、それよりも死の方がよほど恐ろしかった。名前と同じ桃色の着物が汚れていくのも構わず、少女は髪を振り乱しただ一心不乱に生を貪っていた。 べっとりと赤いものがこびりつき、まるで前掛けのよう。食事を終えた少女は自分を見下ろして、あまりに陰惨で滑稽な姿に自嘲する。自分の辿ってきた道のりには、点々と小動物やそれに集るやせ細った山犬の死体が落ちている。血を垂れ流し、肉を貪られ、すっかり奪われた姿で。 彼女にはとっくに、自分が何をしているのかなどわかってはいなかった。何をしたいのかも。ただ生きたいと食らいつく。そうしなければ生きられぬのだと口を開ける。ふくよかな香りの森で死臭を身に纏い、夜を越え朝を迎え。 山を下りたい。人に会いたい。生きたい。生きたい。 その一心で。 しかし行けども行けども山は深く、進めば進むほど奥へ奥へと迷いこんでいくようだった。今更戻ることもできはしない。ひたすら前へと行くことしか彼女にはできず、それが正しい道かどうかすら最早どうでもいいことだった。 言葉も忘れてしまいそうなひとりきり。あんなに美しかった着物は泥と垢と膿と血で汚れ、いっそ異臭を放っている。 草履はとっくに壊れたので脱ぎ捨ててきた。 自慢の髪は振り乱され、ところどころ血で固まり引き攣れている。あの最後の日に買った椿の髪飾りだけがそのままに、少女めいた獣が元は高貴な生まれであったことを示していた。 旅人や山賊や山師や、少しくらい山深くに入ったとて人に全く会わないということも本来はないのだろう。好んで引きこもっているのでなければ、獣道を行く殺生人くらいすれ違いそうなものである。彼らが使う犬や鷹の声くらい聞きそうなものである。しかしあの夜盗どもが山で死んで以来、少女は誰の声も聞きはしなかった。よもや禁足地にでも入りこんだのだろうかと人から遠くなった思考で考えるが、それはなかろうと首を振る。それならばまず夜盗であろうとも足を踏み入れはしない。夜盗だからこそ神罰はなにより恐れるものであろう。 何度草地を駆けただろう。何度腐りかけた倒木を乗り越えただろう。そして幾晩、うろのぽかりと空いた巨木をねぐらにしただろう。 数え切れぬ夜と朝を、獣を狩ることでしのいでいく。肉を嚥下し、骨を噛み、数え切れない獣の血を啜って。 変化のないそれらに、ふと光明が差したのはいつだったろうか。 すっかり茶色に変色した、着たきりのぼろを身に纏って獣は眠る。唯一自分が自分である証として抱え込んだ三味と、縮緬で意匠をこらした椿の髪飾りだけを心のよりどころとして。 深い山の中でも朝の気配はわかりやすい。ただひやりとした夜が照らされて、肌から水が離れて行く感覚がある。それにふと目を覚まして、くぁと伸びをする。伸びっぱなしの爪はひび割れ、ぼさぼさの髪は泥と垢と血とで飴色に強張っていた。 目覚めるや否や辺りをきょろりと伺う。どこかで声がしたような気がしたのだ。それも獣の声ではない、人の声だ。 ようく耳を澄ませる。ここしばらくの間にすっかり耳も鼻も敏感になってしまった。ますます獣らしくなっていく自分に自嘲しながら、かさこそ誰かが歩く音を聞く。 「やぁ、今日は晴れるなあ」 「んだな。はよう麓まで下りてしまうぞ。ここらは山犬がよく出るって噂だしなあ」 人だ。男が二人。 獣はそうっとねぐらを抜け出すと、しばらくぶりの二足歩行でよたよた歩きはじめた。人に会える。麓まで連れて行ってもらえる。 両手を上げて、木肌を撫でながら歩く。がさがさと遠慮のない足音をさせれば、向うも何かの気配に気付いたらしい。 「ごへっつぁん、音がしねえか」 「言ってたら山犬が出たかな」 がさがさ歩く。下草や蔓やらに足をとられながら、獣は喜び勇んで男たちの前に飛び出た。飛び出て、そして。 「ひ、ひいいいいい!」 耳をつんざく悲鳴が男の口から出た。 「お、おた、おたすけ、ぎゃああああああああ!」 慌てふためく男たちは両手をばたばたさせながら道なき道を走っていく。面食らって、泡を吹いて、まるでおぞましいものでも見たかのように一目散に。 「ぁ、ま、って、」 獣のそう言う声などほんの少しも聞こえてはいないのだろう。喉を引き絞る悲鳴と、目の前に突然現れた、髪を振り乱し血塗れ泥まみれの着物を着た狂い女への恐怖だけが今の宇部テだった。 「、まって、ぁあ、わたくし、わたくしは……」 人間だ。その言葉がどうしても出てこなくて、今やただの獣、または狂女と化した少女だったものは、枯れた喉で高く強く慟哭した。 人ならぬ言葉で、獣じみた雄叫びで、涙もなく。ただ悲しみを叫ぶことしかできはしなかった。 「ほう、風流じゃの」 ――甘い風が吹く。灰色がちて大きく角のある岩に腰かけた男は、すっかり色素のなくなって白くなった眉をぴくぴく動かしながらそう言った。穏やかだが狡猾めいた、意地の悪そうな声だ。 「風流とは」 その下段に腰掛けるのは、細面に紅の隈取りを引いた青年だ。明らかに年若い見目をしているくせに、髪は全て白へと変わり、頭上にひこひこ一対の獣の耳のようなものが動いている。 「先程の声のことかの」 滔々と流れる清流を横目で見ながら青年は問う。僅かながら不快さが垣間見える声だが、はっきりと表していないのは彼なりに老人に気を使っているせいだろうか。 「然様。儂がの、誂えたのじゃよ」 老人は腰掛ける岩場の間近から湧く水を汲んではたっぷりと釜に入れる。竹柄杓から零れ落ちる透明な水は、氷の煌めきにも似て冷たさを含んでいる。一滴も余すところなく水を流し入れ、それからゆっくり鉄釜をゆすると中で水がちゃぷりちゃぷりと踊った。 「人間のな、小娘が。ちょうどよくそこにおったもんでのお」 釜をでんと岩場の、少し窪んだところに据える。長いひげをさすりながら底を覗きこんで、老爺がぶつぶつもごもご口の中で何事か唱えると、ぼっと音がして鉄釜の底があかあかと熱を孕み始めた。 「あれを飼ってみたら面白いかと思うての。そうしたら、まあ。良く育ったもんじゃろ」 竹のひしゃくで鉄釜を掻き混ぜる。間もなくぷつぷつ泡を沸き立たせはじめた水は、そよぐ梢の下に湯気をやんわり浮かべはじめた。 「人間も 一皮剥けば 獣たり、とな。どうじゃ。よき句であるかの」 「さて、我は人間ではないからの。狂歌の教養もなし」 「なんじゃつまらん」 ふつふつ音をさせる鉄釜から湯を汲む。それを井戸茶碗にとっぷり注いで、老爺は慣れた手つきで茶筅をくるくる動かし始めた。 「人間の真似もよいものじゃよ。数百年の退屈を紛らわせるのにはちょうどよい」 茶といったか。目にも鮮やかな緑が見る間に泡を纏って仕上がっていくのを青年は見つめた。自分が生まれた頃からとうに数百の時が経ち、人は次々と新しいものを作っては捨てて行く。茶もまたひとつの時代の流れなのだろう。 「ほれ」 目の前に出された濃い緑色にたじろぎながら、青年は茶碗を手に取った。 「では、いただこうかの。作法も何もわからぬが」 「なあに儂も知識半分じゃからの。よいよい」 茶というには鮮やかすぎる色。くっと口内に流し込むが、たちまちに口を離してしまう。 「これは苦いのう」 苦すぎて飲めぬわ、と青年は茶碗を置き。 「時に、飼うとは」 ふと話題をひとつ飛ばした。 「ああ、儂の趣味のひとつよ。これと定めた者を山で迷わせてみるのじゃ。大抵がもって五日六日だがの。あの娘はよう保っておる」 老爺は黄ばんだ歯を剥き出しにしてきひひと笑う。清浄さばかりが満ち満ちるその場において、唯一人めいた悪意を腹に渦巻かせて。 「あれはもう人ではないのう。人として認知されぬのなら、化生となるしかなかろうが。はてさて」 純粋な悪意と害意とをひたひたに浸しながら老爺はもう一杯茶を点てる。苔よりも鮮やかに濁った緑が茶碗の中で渦を巻いて、引き上げた茶筅がごぼりと音をたてた。 「ならば」 静かな白い青年が口を開く。茶を半分以上残したまま、涼やかなその場に似つかわしい冷たい面を上げて。 「あの娘、我が引き受けてもよいかの」 「ああ、構わん構わん。化生には興味がなくてのう」 意外にも老爺はひらりと手を振る。もう少し粘るかと思っていた青年はきょとんと首を傾げる。 「やけに素直であるな」 「儂が観察したいのは人間だけじゃからの。安寧を貪る化生など。引き受け先があるならそこに投げるにこしたことはないわ」 「然様であるか。ならばこちらも話が早い。あの娘はいただいていこう」 早速と青年は腰を上げる。それを引き留めるように老爺は手を上げ、待ったと声をかけた。 「忘れておったわい。どこぞの名のある主じゃろう。おぬしどこの者じゃ」 やあすっかり、とぽりぽり頭を掻く姿には先程までの悪意は微塵も見えず、ただの老人であるようにも見える。しかしその正体があまりにも長く生きた古狸であることを、青年はとっくにわかっていた。こんな残酷な遊びを覚えるくらいだ。どれだけ人間に近づいていったのか。だがそれには言及せず、青年はふと顔を綻ばせた。 「瑠璃之丞。テンコーの瑠璃之丞と呼ぶがいいわ」 いずれ遍く天下に、三千世界にその名を轟かせる、初めての名乗りだった。 土の生臭い匂いがする。生物が溶けた、死の折り重なった匂いだ。 少女はひとり、そこで力尽きたように蹲っていた。 体中から据えた匂いがする。誰もが嫌がる、血と垢の匂いだ。長いこと鏡を見ていないが、きっと顔もひどいことになっているのだろう。獣のような鋭さと血走った目、何かでべとついた口。なるほどまともな人間とは言えないだろう。 まともな人間とは言えない。いっそ妖怪、けだものと言った方が近い。生臭い土を握りしめながら、少女は絞り出すような声を上げた。嗚咽とも慟哭とも違う、あるいはその両方であるような。 この世はひどく苦しい。生きるために食う道を選んだのに、それが自分を人から遠ざけてしまった。良家のお嬢様どころか、ただ生きる人間からすらも。 しばらくぶりの涙がぼろぼろ零れてくる。血と垢と汚れと涙とでひどく汚らしい顔を地面に伏せて、彼女はしばし泣き続けた。 泣けば、腹が減る。喉が渇く。 やがてふらりと立ち上がる。人間でないと言われたとて、空腹感は彼女にとってなにより耐え難いものだった。食が保障されない現在において空腹を抱えたまま過ごす不快感。それを打ち消すため、少女は涙を拭って立ち上がる。獲物を探すために。 強かなのだ、結局のところ。 少女はどれほど足掻いてもけだものになる他の道を選び取りはしないだろう。あれはきっと生まれた時からそのようにできているのだ。 ごそり、と音がした。遠い草はらから何かが近づいてきている。 はっと振り向き、そちらを見る。何も見えはしない。声もしない。人間ではあるまい。一日にそう何度も人間と遭遇するような幸運、いや最早不運はないだろう。 警戒を緩めずに音のする方向を見る。ゆっくりと歩いてくるらしいそれを見極めんとする。草むらがごそりと揺れて、音の正体が露わになる。 それは、少女にとっては大変不運なことに人だった。否、人よりも神仙に近い何かだった。 白い髪を長く伸ばし、平安の貴族のような優雅な衣装を身に纏い。烏皮の靴を履き。出てくる時代を間違えたかのような、平安の頃で時が止まっているような。 「な、にもの、ですの」 掠れる喉でなんとかそれだけ言うと、髪の長い男はその優雅な唇を歪めて笑った。 「そなたをここから連れ出してやろうと思うてな」 魔のもののような笑みだ、と感じた。同時にひどく魅力的だとも。 男は警戒する娘のことなどほんの少しも気にかけない様子でひときれの肉を差し出す。掌大の、てらてらと脂でぬめる、よく肥えた肉だ。 「食うがよい」 腹が減った。こいつは誰だ。空腹感と警戒とが交互にせめぎ合って、しかし少女は手を伸ばす。白く細かった指も薄茶色に汚れ、爪は汚らしく朱を塗ったかのようにまだらな色をさせている。 肉は実にうまそうだった。 手の上でふるふる震える柔らかさ。かぐわしい香り。これを口いっぱいに頬張れば甘く滴る肉汁に夢中になると確信できるほどの。 少女は食の本能に打ち勝つことができなかった。だってこんなにも、うまそうなのだ。 がぶり、と噛みつく。歯にたとえようもない柔らかさが伝わって、少女は夢中でそれを噛みちぎり嚥下した。 満腹という至福。食という幸福。 久方ぶりの満足感を味わった少女は、はぁと甘ったるい息をその場で吐き出した。 「見込み通りの傑物であることよ」 少女にはわからない言葉を男は吐く。それから足元にあった、更に大きな肉塊をげし、と蹴って目の前に押しやった。 肌色があった。いっそ醜い、やたらと長い腕があり。太い大根に土をまぶしたような足があり。それから顔の半分をごっそり失った貌があり。何故だか醜く感じる造形に、少女は明らかに見覚えがあった。あ、と顔を覆う。自分も同じやたらと長い腕をして、掘り出されたばかりの大根のような足をして、裸虫と呼ぶに相応しいぶよぶよとした皮の、それは。 「頬肉は美味かったであろう?」 とうに魂も離れ肉塊と化した人間だった。 「あんたも大概だよ、テンコー殿」 水の湧き出る岩場に悠然と腰かけながら、巨大な古だぬきがくくくとひとりごちた。 儂の遊びよりよほどたちが悪い。 曰く、日向の山には山女が出るらしい。 それは醜くも髪を振り乱し、鋭い歯で人を襲い、血を啜り嗤うのだという。 |