Novel
幼くして寺に奉公に出された黒ノ介はよく気の付く子供だった。寺の終業は辛いものであったし、意地の悪い兄弟子からきつい水仕事を言いつけられもしたが、彼は愚痴一つ零さず淡々と日々をこなすだけだった。 可愛くない子供、と兄弟子は評し、良く出来た子供、と坊主は評した。齢幼くにして悟ったか、お前は徳の高い僧となろう。そう評される度に黒ノ介はありがとうございます、と頭を垂れた。 悟り、というよりそれはただの諦めだった。 自分が奉公に出されたのはお家のため。下級貴族の次男坊など食いぶちが増えるだけである。せめて娘なら高い位の貴族に嫁がせることもできように。偉い坊主となれば貴族の間でも顔がきく。家のために頑張っておくれと奉公に出された子供はそうして諦めるように生きた。抗うことを止め、自我を通すことを止め、ただ御仏に従順に生きた。 お家が絶えた、と風の噂が流れてきたのは幾ばくもしない頃であった。 父の訃報が少し前に聞こえてきたばかりだというのに今度は兄が死に、後を追うように母も亡くなったという。 文を握り締め、う、う、う。嗚咽ともつかぬ音が喉を引き攣らせる。 諦めてきた。諦めてきた。苦しい暮らしも辛い終業も、ただ一つ、いつか兄に向けるように自分に目を向けてくれんがため。けれどその家も今はない。兄も父も母もおらぬ。 悟りとは程遠い激情が身を焼く。何が仏だ、何が悟りだ。そんなもの、どこにもないではないか。ちらと灯心の火が瞬いた。小坊主が忘れていったのだろう、水菓子を剥くための小刀が目についた。けぶる視界で柄に手を伸ばす。 とめどなく涙が溢れ零れ床にまるく染みた。鈍く光る刀身を首に押し当て、それから。 くらく影が落ちた木目の上に、赤い花が幾重も咲き誇っていた。 それから、知らない。 葬式をあげられたような気がする。大して惜しまれもしなかったような気もする。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。どうぞこの者が死してからも我らに害を為さぬように。 経が聞こえなくなって、暫し経った。 自分は眠っているのだろうと黒ノ介は思う。体を小さく折り畳んで、目を閉じている。 次第次第に意識がはっきりしてきた。はて自分はどうなったのだろう。 目を開くと暗闇の中だった。狭い何がしかの中にいるらしい。湿った土の匂いがする。手を伸ばす。ざらりと木目を撫でた。ぐっと力を入れるとばらばら土くれが落ちてくる。埋められているらしい。 ようやっと外へ抜け出すと、そこかしこに土饅頭がぼこぼことある。黒ノ介が這い出したのもそのうちの一つであるようだった。 大きく影が落ちている。何かと見上げれば羽根である。自分の背から確かに、大きな鳥の如き羽根が生えていた。それがくるりと黒ノ介を包んでいる。烏のような濡れ羽色。 さらりと同色の黒髪が揺れて零れた。背にかかるほどの長さ。 自分は死んだのではなかったか。ころりと地に落ちたのは手に余るくらいの大きさの経櫃である。少しの銭と経文が収められている。どうやらここは墓場であるらしい。 ぺたり、と首に手をやれば引き攣れた皮膚が刀傷を醜く塞いでいた。一度止まった筈の心臓は動いている。呼吸にも差し障りがない。衣服は白い簡素なものに替えられている。合わせを見るに死装束だった。 あぁ、と歎息する。背に負う羽根、塞がった傷、死装束。 あぁ、俺は。 「……天狗道に堕ちたのか」 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱うれば、死して極楽浄土にも行けましょうぞ。唱うることもなく善行もなく、救いも無い悪鬼羅刹とて死すれば地獄にも堕ちましょうぞ。いかなる仏とて輪廻の円環に身を任せ、畜生道に堕ちるともいづれは人へ相成るというのに己のざまは何だ。生前御仏に仕えしため人間道には戻れず、罪業なくば地獄道、餓鬼道、阿修羅道、畜生道にも堕ちず、今生に絶望し信心を捨てたために天道にも行けぬ。 これが、外道であった。 生きることに絶望して自害したというのに、何故再び生を受けねばならぬのか。又首を掻き切って死のうか。茫洋とした瞳でそう考える。しかしここには刃物のひとつもない。葬られる時に取り上げられてしまったらしい。 ここにあるのは水を含んで濡れた苔と下草と土と、すうと天に引っ張られるようにして立つ木々の枝葉ばかりだった。 朝露がぴしゃりと頬を打つ。水はあった。あけびも山ぶどうも生っているだろう。飢えれば死ぬだろうか。豊かに幸が実った山中でふと考える。 だが、死してどうする。死しても外道に落ちたこの身、今一度生き返るのはごめんだと顔を地面に埋める。深い土と草の香りがした。 さくり 枯れ葉を踏む軽い音。 さくり、さくり。 獣でもいるのだろうか。ゆっくりと、しかし確実に音はこちらに近付いて来る。獣でも人でもどうでもよかった。 さく、と音が止まる。細い、毛に覆われた前脚が目に入る。 光が零れたような色。 唐渡りの金細工にも劣らぬ、見事な金の毛並みをした狐がうっそりと黒ノ介を見下ろして居た。大きな狐だ。人ほどもあるだろう。 狐は迷うことなくこちらへ歩み寄って来る。さかさか枯れ葉を踏む音がする。間近まで近づいた狐は鼻を鳴らして黒ノ介を一瞥すると、その場に腰を下ろして口を大きく開いた。 「天狗とは、珍しい」 突如降って来た声に俯けていた顔を上げる。目の前には狐しかいない。狐は丸い目をじっとこちらに向けている。その目が蛍石のような淡い紫の燐光を纏っている。こんな目をした獣など、見たことがなかった。 「……もののけ」 「否定はしませんが、貴方とてもののけでしょうに」 いとも自然に狐は口を開いて言葉を発した。ご丁寧に口元に前足まで遣って、いかにも可笑しそうである。 黒ノ介はぼうっと狐を見つめていた。今更もののけが出たとて何になろう。ただ自分の意識が尽きてしまうことを望むだけである。その虚ろな視線を何と受け取ったのか、狐は 「貴方、人だったのでしょう?」 そう笑った。 違うと言う理由も、誤魔化す理由もない。黒ノ介は首肯した。 狐はくつくつ声を漏らして「時々いるのですよ、外道に堕ちて絶望している天狗が」そう言った。 どうやら以前にも同じように死して同じように天狗となりし者がいたらしい。そうしてこの狐はそれらを見てきたのだと言う。一体どれだけ生きた狐なのだろうか。 ああそうだ、と狐はいいことを思いついたように声を弾ませた。ねえあなた天狗のままでいるのは嫌でしょう?外道に生きるのは嫌でしょう?黒ノ介はぼんやり中空を見ているだけである。 意識を呼び戻すように狐は優しげに言葉を吐いた。 「天狗道から逃れる術を教えてさしあげましょうか」 黒ノ介はこの時初めて大きく目を見開いた。天狗道から逃れる術があるという。六道に戻る術があるという。今一度人間としてやり直す術があるという。 狐は穏やかに目を細めている。少し上がった口の端は笑っているようにも見えた。 微かに頭をもたげる。人間として、今一度。けれど親からも人間からも、果ては輪廻の輪からさえも弾き出された今になって、どうして今一度人間として生きたいと望めるだろう。 「……」 力なく首を振る。言葉は飲みこまれて出てこなかった。 それが余程予想外だったのだろう。きょとんと首を傾げた狐はやたら人間くさく眼をぱちぱちさせて黒ノ介をぐうと覗きこんだ。 「何故?」 白目の少ない狐の瞳が黒ノ介を映す。 胎児のように体を丸めて横たわる黒ノ介は答えない。焦点の定まらない瞳を眠たげに浮かせているばかりである。 「もう、いいんだ」 空気に溶けるほどか細い声が、ふと揺れた。 「俺が生きていた意味も、生きるための意義も、ないから」 生前のような諦念が胸の内を占めていた。 ふぅ、という大きな溜息が耳のすぐそばでした。それが狐のものだと理解するのに、さほど時間はかからなかった。 「来なさい」 どこへ、と尋ねる暇もなく襟首を引っ張られる。白い襟に牙をたてる。ひと一人の重さを、いとも簡単に引き摺って狐は歩きだした。さかさか軽い足音。思わず体を起こす。 「引き摺られたくなければ、ご自分で歩くことですね。ちゃんと足があるのでしょう」 まろい輪郭を描く瞳がじっと黒ノ介を見下ろしている。歩かなければ力づくでも連れて行くつもりらしい。行かない、という選択肢は与えられていないようだった。 重い身体を引きずって、ようやく黒ノ介は立ち上がった。どうもふらふらする。背の羽根に引きずられるようである。違和感に顔を顰める。それでも足を踏み出すと、ちゃんと地についた。歩ける。ざくり、乾いた落ち葉が割れる音。割れた枝先が裸足を傷つけた。 さかさか狐は前に立って歩き出す。道なき道を、確かな足取りでさかさかと。 「どこへ行くんだ?え…と、きつね」 「琥珀です」 ぴしゃりと言う狐は黄金色の尾をゆらゆら揺らして振り向いた。 「覚えなさい、僕は琥珀です」 「……こはく」 「そう。そんじょそこらの畜生と一緒くたに呼ばれては困ります」 そう言い置いてから琥珀はまた歩き出す。鬱蒼と茂った森の、方角も分からなくなりそうな茂みをすいすい進む。 枯れ葉の茶と、幹の焦げた色と、下草の濃い緑の中に、ふと、鮮やかな朱色が混じった。鳥居だ。それが石段の脇からのっと生えている。 「ここが僕らの棲み家ですよ」 なるほど、狐の棲み家が神社とは。この狐は稲荷神に近いなにがしからしい。 石段に足をかける。そうして尾をふらふら揺らす。早く来い、と急かされているような心持ちだった。 朱塗りの鳥居。神のおはす場所。僅かに抵抗感が生まれて、黒ノ介はぼんやり口を開く。 「あのまま放っておいてもよかったのに」 あのまま土饅頭に囲まれて、飲まず食わずで暫くしていれば死ねたであろう。再び蘇る可能性もあったが、そのまま消えられるかもしれなかった。 琥珀は黒ノ介をじいと見て、再び大きく溜息を吐いた。 「あの地は僕ら一族の土地です。怨念でも残して死なれれば厄介ですからね」 だから、拾いました。こともなげに言い放つ狐は、朱塗りの鳥居をひょいひょい潜って石段を上る。 仕方なく黒ノ介も足を踏み入れる。ひどい居心地の悪さが纏わりついた。 石段には苔がこびりつくように円を散らしている。両脇に植えられた竹林はよく手入れされているようだった。うってかわって開けた空は薄ぼんやり青い。雲もない。琥珀の爪がちゃかちゃか鳴る。こがねの毛並みが風に流れる。ひとつ、ふたつ、鳥居が視界を流れていく。みっつ、よっつ。とおも数えた頃に、間口の広い屋敷が眼前に現れた。 神社とも少し違う雰囲気である。けれど広い境内には狐を模った狛犬が置かれておる。 琥珀は慣れた様子で建物に向かって歩む。仲間らしい、くすんだ焦げ茶の狐がちらと見えた。黒い毛も見えた。 玉砂利を踏む。ずぶずぶ足が沈むようだった。 ようやっと琥珀が消えた板間に足を踏み入れる。とても山奥の神社とは思えない小奇麗さ。板目の隙間から、賽銭箱の後ろから、何者かと問いかけるような狐の視線に居心地の悪さを感じた。 「こちらですよ」 奥座敷からひょいと金色が覗いている。贅沢にも畳を敷いた小部屋。そこに行儀よく琥珀は座って黒ノ介を待っていた。 「少しここで待っていてください」 それから、そうだ、と思いついたように口を開いた。 「あなたの名前を、教えてくれませんか?」 黒ノ介は暫し逡巡した。もののけに名を教えてはならぬという。名をとられれてはならぬという。しかし、それも今更の話だった。 「黒ノ介」 溜息を吐くように、名乗る。 満足そうに頷いた琥珀は、するりと板戸に身を滑らせて消えた。 いくばくか経ったであろうか。 「黒ノ介」 ゆるりとそちらを向けば、声はすれども狐の姿はない。代わりにすっと立つ少年の姿が見えた。誰だろう、と首を傾げる。はら、と黒髪が肩に落ちた。 金の髪がさらりと揺れる。蛍石の瞳と、白く透き通った肌。ほんのり薄紅色に色づいた頬はいかにも健やかである。 「こちらの方が何かと便利な時もあるのですよ。狐の身ではままならぬことも多々あります故」 「……琥珀?」 「そうですよ。誰かと思いました?」 ころころ笑う仕草は狐のものと全く同じである。黒ノ介は目を瞬かせた。 後ろにいる、赤茶けた髪色の少女は先程の狐であろうか、手に平盆を持っており、その上のたとう紙はうっすら膨らんでいるようだった。 盆を畳に置くと、少女は一礼して下がってしまった。後に残されたのは琥珀と黒ノ介だけ。たとう紙を手慣れた様子で開く。薄墨を流したような、真新しい布が包まれている。 「まだ年若いですし、水干でよいかと思いまして」 はい、と薄い墨色の衣服を押し付けられて黒ノ介は戸惑った。新しい着物など、一生に一度仕立てられるか否かという贅沢品である。それをこうも簡単に渡されるとは。 「受け取れない」 顔を伏せてつっかえそうとする黒ノ介の腕に手を添える。伏せられた顔を覗きこむと、灰のかかった青い目と視線がかちあった。 「黒ノ介」 幼子に言い聞かせるように優しく言葉を紡ぐ。ぎゅっと顰められた顔、固く引き結ばれた唇。それらを全部解してやるように、優しく抱き締める。 「僕が拾ったのですから、僕の好きにさせて貰います」 まろい頭にそっと手をやって、琥珀は僅かに微笑んだ。 |