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窃の昏/橙矢:座敷童

「それで、相談というのは」
三畳ほどしかない小間は、一見して茶室のようであった。本宅から少し離れた竹林の向うに、土壁の小屋がひっそり立っている。
目にも涼やかな竹林と、その緑と対比するような朱塗りの鳥居が奥に身を置いていた。丸窓の向うにそれらを見ながら、孝紫は目の前に座る琥珀に目を遣った。
先程小間仕えが置いて行った茶を一口啜る。それから、ぽつりと呟くように言葉を落とした。
「隣山の麓に、一帯を治める豪族がいてな」
はあ、と相槌をうつ。孝紫の隣といえば、狸のジジイが土地神として居座っていた記憶があった。
あの狸め、最後の最後まで黒ノ介に難癖つけて、こんな小僧に務まるのかなんて言っていた。狐と狸の仲もあろうが、あまり関わり合いになりたくない相手である。
「そこの子供が、あまりに山に迷うので、つい口を出してしまってな」
「子供、ですか」
山に何を見ているのか、時々こうして山に迷う子供が出る。そういうのは面倒だ。帰そうと姿を現わせば好機の目で見られるし、帰さねばやれ隠し神が出ただの袖を引かれただの言って、山狩りを始める人間が出てくる。最後には神頼みだ。
子取りぞだの叺親父だのいるらしいが、生憎琥珀らとて万能ではないし、人間全てを守ってやろうと思うほどの思い入れもない。
それは孝紫も同じことだった。
「年の頃も十に届いたような具合で、分別のつかない年じゃないだろうに、何度も何度も山に入るんだ。俺の山に入るものだから、俺が帰さねばならん」
山に入っては帰し、入っては帰しを何度も繰り返すうちに打ち解けて、終いには孝紫の名を呼ぶようにまでなったという。そこまで聞いて、琥珀はくつくつと喉を鳴らした。
「なつかれましたね、孝紫」
こっくり首を縦に振る。啜った緑茶が舌に苦かった。
「ここしばらく、とんと姿を見なくなっていたんだが、先日見かけてな」
「家人に叱られでもしていたのでしょう。相談とは、その子のことですか?」
「ああ」
懐かれるのがいい加減嫌になったのか。それならそうで山に迷っても放っておきそうなものである。ふぅ、と大きな溜息が孝紫から漏れた。疲れたような、やり切れないような色が滲んでいる。
「五十年だ」
「は」
「五十年経っても子供のままだった」
「子供や孫の間違いでは?」
顔形の良く似た子供なら、子供や孫の見間違いではなかろうか。そんな、年をとらぬまま生き続ける人間などこの世にはいない。八百比丘尼という不老不死の尼僧がいたという話は人づてに聞いたことはあるが、そんな方法があるのなら時の権力者はこうも容易く死んでいかないだろう。
「顔も見た。名も聞いた。確かに、あの時の子供だった」
人間は五十か六十もすれば、ともすればそれよりずっと短い年月で儚くなってしまう。それがどうして子供のままでいられるのか。
不老不死の霊薬なぞ迷信に過ぎず、輪廻の輪にある限り人は必ず死ぬ。死すれば肉は腐る。骨となる。そうしてじきに風に攫われていってしまう。
死して尚この世に留まり続けるはあやかしばかりだ。
子供の、しかも人間の子供が死してなるあやかし。家に棲み、人に害を為さず、変化のものでもない。はてそんなものがあっただろうかと思い起こすうち、一つの可能性に思い至った。
「座敷童子、ですか」
その子供に縁のない琥珀ですら、これには同情を禁じざるを得なかった。
間引きした子供を家の土間や柱の下に埋めると、座敷童子として家に棲みつく。座敷童子は福の神とも言われ、家に幸福や富を呼び込むという。
座敷童子の伝承は多々あるが、自然にどこからともなくやってくるものもいれば、親が貧困に耐えかねて作ったものもある。殺され埋められた子供は梁の上に棲むとも言われていた。
「欲深め」
苦々しく孝紫は吐き捨てた。どこからか座敷童子の噂を聞き、欲に目が眩んだ主人が我が子を殺して埋めたのだ。埋めるのは黄金の球でもよいと言われるが、より手っ取り早い方を選んだのだろう。
「自分が何故殺されたかもわからず、親を怨むこともできず、ただ自分がいれば家に富を呼ぶのだと、それだけ聞きかじって今もあの家に縛られている。なんとかしてやりたい」
なるほど、と琥珀は頷いた。情が移ってしまったクチであろう。そのまま人間として生涯を終わらせていれば、それはそれで仕方ないと諦めもつこう。しかしその生を無理に捻じ曲げられ、今も縛られているとなればどうにも収まりが付かない。
「手はお貸しできませんが、知恵ならお貸しできましょう」
「恩にきる」
深々と頭を下げた孝紫に、開け放した悟りの窓からの陽光がさらさら降っていた。



古くよりこの地を治めていた豪族の、末っ子の名を橙矢と言った。多くの兄や姉がいるので、小間使いが少なく済むと父が言っていたのだと、橙矢は笑って孝紫に話していた。
琥珀ほど弁がたつわけでもなく、紅輔や翠のように愛嬌があるわけでもない。無表情で言葉少ない自分は親しみにくかろうと思うのだが、孝紫の予想に反して橙矢はよく懐いた。
孝紫の本性は狼である。古くは大陸を追われ、一族郎党共々流れてきた群れの一派であった。流れ着いた先で神を喰い殺し土地神に成り代わった狼。故にその性分は、ひどく獣らしく朴訥で明瞭である。
月が雲に隠れて、闇ばかりが目につく。
ぞろりと長い下草。その奥に点々と目が光っている。獣の目である。そのただならぬ様子に鳥獣さえ息を殺している。木々は森閑として静まり返っている。
孝紫は群れの先頭に立ってじいと麓の家を見ていた。ゆらゆら焔が庭先で揺れている。門を守る寝ずの番の丸顔がてらてら灯りに照らされている。送り雀がちぃちぃと寝ずの番に喚いている。
赤みのかかった目がちかちか揺れて、孝紫は目を閉じる。
す、っとひとつ、息を吸った。途端、ぴいんと空気が張り詰める。狼らが息を詰める。無音になる。
「喰らえ」
音もないまま、狼の群れが津波のように山を駆け下りた。
自分達がすべきことだけを果たすべく、孝紫につき従うべく、狼達は斜面を下る。荒い息ばかりが聞こえる。
孝紫も軽く地面を蹴って豪族の家へと向かった。既に門前の篝火は倒され、投げ出された火の粉がちらちら舞う。男の引き攣った丸顔。喉元に喰らい付く狼。泡混じりのくぐもった声。生温い血の飛び散った大門を一瞥して、孝紫は一人屋敷の塀を越えた。
じきに門は破られ、家人の全ては群れの餌となる。その前に橙矢を見つけなければならなかった。
家人の姿の見えない軒先で、小さな声で呼びかける。聞こえているだろうか。奥座敷なんかにいやしないだろうか。
遠くでびちゃびちゃという微かな水音がする。閂に爪を立てるごりごりという音がする。橙矢が死んだのは、10に届くかどうかという頃だった。そんな子供に、今から起きることは見せるべきではなかろう。
「橙矢、いるんだろう橙矢」
二度呼びかけると、僅かに開いた板戸をするりと開ける音がした。家人が起きたか、と身構える。
「孝紫さん?」
きょとん、とした顔で孝紫を見つめる橙矢を見止めて、孝紫はほっと安堵の息を吐いた。まだ門前の騒ぎは伝わっていない様子である。
「迎えに来た」
言うや否や、ひょいとその小さな体を担ぎあげる。
「え、孝紫さん?どこへ……」
有無も言わせず孝紫は橙矢を担ぎあげたままで歩き出す。焦ったのは橙矢だった。
「待って、待ってください。ボクはここにいなきゃいけないんです」
ボクがいれば家は栄えるのだと、だから外に出てはいけないのだと、必死に橙矢は訴えかける。
「もういいんだ、橙矢」
視界の端に赤い焔がちらついた。倒れた篝火が門を焦がし、火柱を上げているのだろう。暗い毛皮が波のように家屋に押し寄せる。それに背を向けて孝紫は諭し続けた。
「もう、いい」
どうのみちこの家は自分達の手によって絶えてしまうのだ。守っている意味すら、じきになくなる。
庭園を照らしていた篝火を蹴倒すと、いっそう大きく火花が散った。ああ、と橙矢が悲しそうな声を出す。
「お前を犠牲にして幸福を得た奴らのことなんて、気にしなくていいんだ」
ひゅう、と橙矢の喉が小さく鳴った。小さな体が更に小さく縮められる。孝紫に縋りつく手がぎゅうっと握りしめられた。軽く背を叩く。哀れな子供だった。
本宅に移った炎はあかあかと夜を照らしている。それで甲高い女の声や男の怒鳴り声がする。獣の荒い息使いが闇の底に潜んでいる。湿った露の匂いがした。人は死ぬ。家は燃える。血は絶えるのだ。
「橙矢を何処へ連れて行く……」
開いた板戸からのっそり男が姿を現した。あにうえ、と小さく呟くのが耳の端で聞こえる。
壮年の男性である。橙矢の兄というからには60は越えているであろう。そんな男が、脂ぎった頬に汗を垂らして手を伸ばしている。血走った目がぎらぎらと橙矢を見ている。その必死な形相に、虫酸の走る思いがした。
「兄のくせに、何が起きたか知っているくせに、まだこんな幼子に縋っているのか」
蛆虫のような腹をした壮年の男性はぐっと言葉に詰まった。
「座敷童子のいなくなった家は没落する。道理だ」
赤みを帯びた瞳が、炎を受けててらてらと血のように輝く。人食いの獣の目だった。
門を破った狼の群れは屋内を蹂躙している。踏み荒らし食い荒らし、狼らの獰猛な声さえ聞こえないものの、耳を澄ませば濡れた肉が叩きつけられるような音と、滴る水音が屋内の様子を伝えていた。
橙矢の目をそっと覆う。
「喰え」
間を置かず、孝紫と同じ赤い目をした狼達が、蛆虫のようにぶよぶよとした腹に首に顔に足に喰らい付いた。
絶叫はじきに泡のごぼごぼという音に潰され、ただの水音ばかりが辺りを支配する。
孝紫はもう興味がないと言わんばかりに、燃え滓の残る門を出、ばちばちと音を立てながら燃えていく家屋を後にした。送り雀ばかりがちぃちぃ鳴いていた。



鬱蒼と茂ったブリやコナラの木々が地面への光を奪い隠して、僅かに漏れる光に群がるように下草が広がっている。
仄青い湧水が背の高い下草の中にぽっかりと平らな空間を作っている。苔むした岩石がごろごろ転がっている。岩は山から今まさに掘り出してきたかのようにとげとげとしている。そうしてちょろちょろ音をたてながら清水が膜を張っているので、どれも艶やかである。
ちょうど角がとれて四辺が平らになった岩の上に、赤い毛氈が敷かれている。てっぺんのつるりとした、そのくせ髭ばかりあご下に蓄えた爺さんが胡坐を掻いている。
水墨画から抜け出して来た仙人のようないでたちである。
火も無いのに鉄瓶はなみなみと湯を湛えている。骨ばった指が竹柄杓の節くれだった柄をちょいと抓んだら、鉄瓶から湯を汲み出だして枇杷色をした井戸茶碗にとっぷり注いだ。
「守鶴和尚の真似ごととは、随分と粋なことで」
「何やら麓が騒がしいと思ったら狐の小僧っ子が儂を訪ねよった。もてなすのは当然であろ」
飴色の茶筅が茶を点てる軽い音に合わせるように老翁は頭蓋をからから揺すった。
茶碗がひょいと琥珀の前に置かれた。薄茶の緑が光を照り返して、力なく揺らいでいる。
「結構なお手前で」
ん、となおざりに老人は背を丸める。
「昨夜のことはきちんと説明してもらわねばならんなあ」
二杯目の茶を点てながら爺は歯の抜けた声でもごもごと言った。
「あれは儂を厚く信仰しとったからな。あれの一族を皆殺しにするのは、やりすぎだと思うがの」
「あの一族も随分非道なことをしたかと思いますが」
「この狐が。ほんの少しも酷いなんぞ思っておらんくせによく言う」
長いあご鬚を撫でながら翁は琥珀を憎らしげに見遣った。
「つまりは儂に手を引けと」
「申し訳ありませんが、黙っておいてもらわねば」
「お断りさね」
鈍く骨の擦れる音がした。
ぼり、ごり、と骨格を変えて老人が巨躯の獣へと姿を変えていく。
老爺の顔が暗い毛色に覆われていく。口は大きく後ろへ裂ける。肉食の獣らしい尖った歯は年のせいか欠け色あせ、抜け落ちて剥き出しの歯肉がてらてら光っている。
長い毛をした狸がこちらに向かってくるのかと思ったら、あっという間に体をくるりと後ろに向けて走り出した。逃げたのだ。
「なっ」
この場は不利と見たのだろう。
琥珀も四足を地面につける。白魚のような指はすぐさま黄金色の毛に覆われ、桜貝の爪は厚く太く、地面を蹴るために強く変わる。巨躯の狐は強い脚で大地を蹴ると、逃げる古狸に真直ぐ向かい、そうしてがぶりと。がぶりと首筋を一噛みすることでその命を奪ったのだった。
赤黒い血が白い胸毛にびしゃびしゃ跳ねて、まだらに染みを作った。
それを見てあぁと琥珀は嘆息した。
古狸の喰い殺されたような遺骸が力なく地面に横たわっていた。
次:【爾来】

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