Novel
田畑が狐の毛並みのような黄金色に染まり重い稲穂がてろりと頭を下げているのを、豊作の証であると胸を張りたい気持ちになりながら琥珀はさふさふ地を踏んだ。長月もそろそろ終わりに近付こうかという頃合いである。 地面に落ちる木の葉は赤やら黄やら朱やら、色とりどりに紅葉している。見上げた空も然り。ただしこちらは高い青の背景のせいで一層鮮やかに見えた。 天高く、馬肥ゆる。今年は驚くほど穏やかな日々だった。つい先日まで人里は焼き払われ奪われ殺され、それはひどい有様だったというのに。はて、人の世はわからぬと首を傾げた狐は、しかしお陰で平和だったとかふかふ息を吐いた。そういえば先の戦いで天下人なるものが現れたと聞いたような覚えはあるが、それこそどうでもいいことであったので、さっさと忘れ去ってしまう。今は秋の実りが豊かである、それだけでいい。 泰然自若として悠久の時を生きてきた狐にとっては、数百年のうちの数年の出来事など、歯牙にかけることでもなかった。 そういえば先だって彼の狼が目をかけたあの子供はどうしているだろうか。見舞いにでも行こうとあけびの甘い匂いに鼻を寄せ、いくらか茎を噛み千切った。 「あー! 琥珀くん見っけ。どこ行くの」 ざかざか下草をかき分けて歩く音がしたと思ったら、それよりずっと喧しい声が耳に飛び込んできた。 ざんばらに切った真っ赤な髪の下から、ちょいと二本角が頭を出している。鬼である。あからさまな異形とは裏腹に背格好は人間らしい。子供ほどの背丈に、髪色と同じく赤い着物を着流して、小豆色の腰紐でちょいと結っているだけだ。 「おや鎮西の。一人でどうしたんです」 「鬼事!」 狐が流暢に喋ることに全く動揺した様子も見せず、にかっと笑う言葉に嘘偽りなど一片も見られない。それでも、鬼が鬼の真似ごとをするなどおかしいことだと琥珀は喉の奥でくつくつ笑った。 「今は誰が鬼を?」 「翠のやつ。そろそろへばってるんじゃねーかな」 それはかわいそうに、浮かんだ言葉は意識に留めた。紅輔の後ろに、下草より濃い鮮やかな緑が見えたもので。少したたずまいを正すと、首を傾げた紅輔より一瞬早く、緑色が飛びかかった。 「こーすけ捕まえた! お前鬼な」 満面の笑みを浮かべた子供が背後から抱きつくように覆いかぶさって、重みに耐えかねた紅輔がべちゃりと地面に沈んだ。けたけた笑う。紅輔と同じほどの背格好だ。ただし髪色は彼と対比するように明るく緑色をしている。額当てをぐるりと巻いて、にかっと音がしそうなほどの笑顔を浮かべる少年は、どこからどう見てもただの人間だ。無論、ただの人間が自分らと知り合いであるという奇怪極まりない事実などあるはずもないのだが。 「あれ、こはっくんだ。どしたの」 きょる、とこちらを見上げる瞳は夕暮れの太陽を海に落としたような橙色。きらきら輝く瞳を尾の一本で撫でると、わぶ、と声を出して紅輔の上から転げ落ちた。 「どうしたはこちらの台詞なんですがね。鬼事に夢中になってたとはいえ、ここはもう随分と二人の領分から離れてますよ」 「あ、それは留守神に任せてるからへーき」 翠の下敷きになっていた紅輔がおもむろに顔を上げて、土を叩き落とした。 「翠手加減しろよなー、あー泥だらけ」 「うっせ、こはっくんとのんびり立ち話してんのが悪い」 あかんべえをする舌が赤く見える。いつまでも子供じゃあるまいにと思ったが、彼はそういう怪であるので仕方がない。 「そういえば、琥珀くんの領地もここじゃねーよな。どっか行くとこだったのか?」 「南へ」 ああそうだった、と地べたに置いてしまったあけびの実をぱくりと咥えて顔を上げる。 「こーちゃんとこ?」 「新しいのが来たんだろ? 行こうぜ行こうぜ」 「えー行かねえよー」 「翠も行くって」 言って手を引くと、特に抵抗する様子もなく大人しくついてくる。天邪鬼とは難儀な性質だなぁと琥珀は一度大きく尾を振って、それから腰を上げた。 「それじゃ、はぐれないように」 さふさふ音をたてる枯れ葉を踏みつけながら歩く。先程より増えた足音が耳をくすぐった。 一昼夜ほど山中を歩いた頃に、ようやく狼らが根城にしている山に入った。他の山とさしたる違いはない。ただ、遠くに流れる渓谷の奥から、むっと鼻につく血混じりの獣の匂いが微かに香ってくるのだった。 いつ来ても物騒な場所である。そんな感想を胸に押し込んで山に分け入る。狼の群れという性質上、血が流れるのはどうしたって避けられないことだが、それにしても胸につまる澱んだ穢れの匂いは勘弁してもらいたかった。 「なんか臭い……」 「うん。獣臭だ」 「まだ成ってない者達が大勢いますから、仕方ありません。もう少し奥へ進めば、成った者達の縄張りがあるでしょう」 そこまで行けば匂いもしないはずだ。同じ群れといえど、もののけと成り土地神の眷属としての神性を得ている者達に穢れの匂いは不快であろう。 谷を細く流れる川を越える。ごつごつと大きく浅黒い岩が突き出た瀬を登り、水の流れとはさかしまに足を踏み入れる。 川上へ川上へ進むにつれ淀んだ血の匂いは掻き消え、代わりに濃い水と桃の花の瑞々しい香りが漂ってきた。おかしなことだ、穢れを祓うために誰かが植えたのだろうか、この山に桃などなかったはずだ。それよりなにより、今は桃が咲くはずもない。 香りの強い方へ顔を向けて歩みを進めると、赤黄の枯れ葉ばかりの視界にぱっと花が咲いた。秋枯れの木立に囲まれた桃の木は芳香を放ちながら桃色の花弁をこれでもかと言わんばかりに広げている。そう大きくない、若い木だ。 「こーちゃん!」 木の下で眠るように目を閉じる巨躯の狼に向かってぶんぶん手を振ると、声が聞こえたのか耳がひくひく動いて薄ら目蓋が持ち上がった。 紫暗の毛皮に血色の瞳。普通の狼ではありえない体の大きさといい、瞳の色といい、誰がどう見ても正しく異形である。異形の狼がのそりと体を持ち上げるさまは圧巻で、よほど肝が据わっている者でなければ驚き腰を抜かしてもおかしくない。 「どうした」 器用に喉を動かして人間の言葉を繰る。擦れてざらつく音が更に威圧を感じさせるが、本人にその気はさらさらないことを知っているほどには付き合いがあった。 「どうしたもなにも、心配になって」 「……橙矢なら、奥だ」 暗い色をした尻尾をふさりと振って、それからあまり興味がなさそうに腰を下ろす。自分で入る気は、ないらしい。あからさまに背けられた首は、興味がない振りにも見えた。 「仲、よくないのか?」 「怖がられてる」 仕方のないことだがなと首を振る。 狼が隣に生える桃の樹と同じくらいの体高であるのを見て、確かに怖いだろうなあと琥珀はひとりごちた。ただでさえ小さな子供である。昔は巨躯を見ても驚きこそあれ恐怖などなかったようだが、それも人に危害を加えないという前提があってのうえだ。 「後先考えずに突っ込むから」 あーあと笑う狐は孝紫よりも一回りほど小さな体躯をして、それでも孝紫は彼に敵う気がしない。 「知恵を出したのはお前だろう」 「どう使うかはあなた次第です」 くつくつ笑う。それに、きちんと後始末はつけたじゃないですか。そう笑う狐に、確かにと頷くことしかできない。今回の件で邪魔な狸の爺と、多少強引ではあるが話をつけたのは琥珀であるし、結果狸が死んだのも致し方のないことだった。 ふわりと舞い上がった風に桃の花がむっと香る。たった一本だけの若い桃の木。やけに目につく薄紅。この無骨な狼にはどうにも似合わない取り合わせだった。 「桃を植えたのですか」 「植えた覚えはない。よくわからんが、そうなった」 僅かに面倒といった様相で見遣ると、樹が応えるようにざざざと身を震わせた。笑っているようでもあり、怯えているようでもある。 ああそういえば。 「橙矢が来てからだな。こいつが花をつけるようになったのは」 舞う花弁に気をよくしたのかそれとも何か他の要因があるかはわからないが、ちらと背後の洞穴に目を遣った孝紫は、どこまでも優しげな表情だった。さて、琥珀には狼の機微などちっとも読みとれやしないので気のせいかもしれないが。 あけびを孝紫の元に残して、三人は少し奥の深い洞穴の前へ立った。奥は深く、陽射しが射しこまないのでひどく暗い。 「おーい、火よ来い」 大きく手を振る。突然ぽっと宙に火が灯ったと思ったら、火の先に木切れが見える。そうして木切れを加えるくちばしが見える。鳩ほどの大きさの、さして色も派手ではない鳥がふらふら浮きながら翼に炎を纏っている。それがまるで提灯でもぶら下げるかのような様相で後生大事に火のついた木切れを咥えているものだから、琥珀はうっかり笑い声をたててしまった。 ひよひよ言って、ふらり火を呼び寄せた紅輔が真っ先に暗がりへ足を踏み入れる。心得ているようにふらっと洞穴の奥へ進むふらり火を皆して追いかけると、やがて突き当たりのひっそり影が溜まる辺りにうずくまる子供が見えた。 「おっ、いたいた」 岩の少し凹んだ場所に身を寄せたふらり火が、もったいぶった動きで頭を突き出して街灯よろしく辺りを照らす。途端にぱっとその一角だけが明るくなった。 顔色の悪い子供が、ぱっちり目を開いて三人を視界に収めたと思ったら、ひゅっと喉の鳴る音と共に言葉が吐き出された。 「誰ですか」 おや、と琥珀はここで嘆息した。普通よりずっと大きい狐や、炎を纏った鳥を見ても全く驚いた様な様子も怯えた様子もない。よほど肝が据わっているとみえる。 「外でしょげている狼さんの知り合いです」 おおかみさん、という呼び名に何か感じるところがあったのか、ふと強張った頬が緩む。 「孝紫さん……」 「何か悩み事があるなら話してご覧なさい。でないとあれがいつまでもうっとおしくてかなわない」 見上げる子供。見下ろす狐と、鬼二匹。沈黙の闇が下りる中、一人呑気なふらり火がぶるると羽を震わせた。灯りがちらついて、冷たい岩肌を赤く焦がす。 「孝紫さん、は、いい人です……ぼくを助けてくれた」 「うん。こーちゃんはいい奴だよ。優しいし、落ち着いてるし」 「どっかの誰かさんと違ってなー」 「なんでおれ見てんだよ!」 「でも、みんな人を食った」 血を吐くような声に、始まりかけた論争がぴたりと止んだ。 「飛びかかる狼も、覆われた手の隙間から見えた血しぶきも、耳をつんざく断末魔も」 今も覚えているのだと言わんばかりにおさない手が顔を覆う。木戸にべたりと垂れた鮮血も喉の奥まで入り込んでくる臓物の生臭い匂いも赤黒い塊をを頬張る真っ赤な瞳の狼らもそれらを統括する孝紫の瞳が赤く燃えていたことも。 これは、人食いの狼の群れなのだと橙矢はようやくそこで気付いたのだ。山に入っちゃいけないよ、神様の山に入っちゃいけない。その真意を悟った頃には何もかもが手遅れだった。 「全部全部、孝紫さんがやった、んですよね」 ぼくを助けるために。 ぼくが言いつけを破って山へ行かなければ。そうして山の主と仲よくなどしなければ。あのお屋敷はずっとずっと繁栄していられたのだろう。 「ぼく、言いつけを破っちゃったんです」 ここにきて初めて、琥珀はしまったなと目を細めた。余計なことをしてしまったかもしれない。不平不満なら外に噴出させることで収まりがつく。そうして時間が過ぎれば過ぎるほど感情は散り散りになってなくなってしまうというのに、これでは逆効果だ。 さて、どうするか。 と、おもむろに翠が動いた。橙矢の小さな頭に手を乗せたと思ったら、そのままわしゃわしゃと髪をかき乱す。あんまり驚いたのでぱっちりした目が呆けたように瞬いて、橙矢の髪色とよく似た翠の瞳を見つめた。 「よくわかんないけど、いんがおーほーってやつなんだよ」 「なあに、それ」 「だから、よくわかんない」 なあに、それ。もう一度呟くとまたわからないと首を傾げる。これは翠にまかせっきりにしちゃおれない、と琥珀が慌てて補足に入った。 「橙矢くんは家族に殺されたのでしょう。そうして彼らは幸運を手に入れた。他人の不幸を踏み台にして得た金は、血を吸ってよく肥えたでしょう。煌びやかなことでしょう。けれどいずれ、その報いは自分に返ってくる」 「それが、いんがおーほー?」 こっくり頷いてやると橙矢はほんの少し相好を崩した。 「つまり、橙矢が気にする必要は全然ないってことだ!」 「あっこーすけこのやろ、それおれの科白だぞ!」 「へへっ早いもん勝ちに決まってるだろ」 再びぎゃいぎゃい騒ぎだした鬼子らを尻目に、狐はぺたりと地に腹をつけてやれやれと欠伸をした。先程の話もこの言い争いも、何もかも些事だと言わんばかりの態度。因果応報と緑髪の子供は言った。これは天運だと孝紫も言っていたような気がする。 橙矢は殺されても憎んでなどいなかった。悲しくもなかった。気がつけば意識はそのままに体はそっくりそういうものに作りかえられていて、骸は縁の下でじぶじぶ腐っていったのを知っている。 梁の上に棲む子供はひたすら哀れだったのかもしれない。 もういいかい、とふらり火が呆れたように首を振るので、橙矢は久しぶりに外へ出ようかと立ち上がった。 口喧嘩を始めた小鬼らを置いて橙矢はぺたぺた洞穴を歩いた。裸足の地面がひやりと沁みる。やけに勿体ぶった言い方をする狐も、紫の瞳をこちらに向けはするものの追いかけてくる様子など微塵も見せなかった。なんとなく、出方を窺われているような気分で居心地が悪い。顔を俯けたまま眩しい外気に身を震わせた。大きな溜息が聞こえたのを気のせいにして、目を開ける。 天は果てしないほど広く高かった。隠してしまおうと手を広げる木々がどれだけあっても足りないように見える。その天辺にちかちか光る陽が見えて、木の葉の隙間をぬっては降ってくる。すっかり秋色に染まったこがねやあかがねの色。未だ若々しい下草の緑。 その真正面にぽつんと咲いた、艶やかな桃色の花がやけに目をひいた。 「孝紫さん?」 桃の花弁を頭やら肩やらにいくつもつけながらしゃんと背を伸ばして胡坐を組む人影が見える。おそるおそる声をかけると、ちらとこちらを見た視線が、そのままおいでおいでと手招きをして橙矢はそれに従った。 普段から無口な方ではあるが、今日はそれに輪をかけて静かであるらしい。ずっと閉じこもっていたので怒っているのだろうか。それとも悲しんでいるのだろうか。 怖々近付くごとに、何かを頬張っているようだということに気がついた。まさかあの日と同じような光景が広がっているのではないか、途端にさっと青ざめる。足が竦んで動かない。めいっぱいに目を開く。浅い呼吸が肺を痛めた。 心臓が鈍痛をうったえる。 時折聞こえるぶちゅりという湿った音が想像を裏付けるようだった。 あと数歩の距離が、気が遠くなるほど離れているように思える。手を伸ばすこともできず、声を出すこともできず、喉笛から漏れるひゅー、ひゅーという風ばかりが鼓膜を打つ。 だものだから、ひょっとこちらを向いた孝紫が白っぽい塊をいくらか抱えているのに橙矢はあまりにも驚いて目を見開いた。 「あ、あけび?」 ん、と差し出されたのは食うかと尋ねたいのだろう。慌てて受け取ると、薄紫の果皮がすっぽり手に収まった。 この人も果物を食べるのだという単純でありきたりなことが今までほんの少しも想像できなかったのだ。枯れた蔦がひょろりと伸びている。楕円形の果物らしい。 種ごと噛み砕いて実を飲み込む孝紫の目は相変わらずどこを見ているかわからない。茫洋と彷徨う視線には、あの夜のような苛烈さも激しさもなくて、ひたすらに穏やかな色をしている。無言であけびの実を掬っては口に運ぶ。食べ滓が口の端についているのが子供のようだ。 「あけび、食べるんですね」 「芋も好きだな」 「からいもですか」 「ああ」 「……そうですか」 ほろほろ感情がほぐれていくような感覚だった。桃がはらはら花を落とす。ぼんやり紅色に染まる視界に、先程まで自分が恐れていたものが消えていくのがわかった。 あけびに齧りつく。ぐにゃりと甘い。久しぶりの甘味に目を細めながら言葉を落とす。 「怖がって、ごめんなさい」 あと、 「助けてくれて、ありがとう」 答えはなかった。ただ、暖かい大きな掌が優しく橙矢の髪を撫でるだけだった。 |