Novel
子供は山に迷っていた。年の頃はみっつ、よっつといったところか。片手に蜥蜴のきらきらした銀尻尾を握って、おぼつかない足取りでよくわからない獣道をうろうろしている。つっけんどんな葉が子供のやわい皮膚を裂いて、あちこちに細かな傷を作っていた。 右を見ても左を見ても、辺りには苔むした木の幹しかない。山頂がどこなのか、麓がどちらなのか、それすらわからず子供はおどおどと辺りを見回している。 木々がめいっぱいに手を伸ばした天蓋からは日が零れ落ちて、薄らとした闇の中に白く直ぐな線をひいている。 どうしよう、と泣きそうになりながら辺りを見る。途中までは確かに村が見えていたのだ。それで道教え虫がこちらだこちらだと言うものだから、そちらに行けば村につくのだろうと思っていたらこれだ。とうに草むらに姿を隠した道教え虫は鳴き声もあげずただ迷う子供を置き去りにする。道教え虫の後をついていったら迷うなど、子供はほんの少しも知らなかったのだ。 日はどんどん暮れていく。腹は減って、喉も乾いて。帰り道はどこだろうか、やたらめったらと歩いてみると獣道すら途切れて終わる。 茜色が遠く真直ぐに木々の間をぬって射している。橙の光線の中、静かになってしまった鳥らにおどおどと身を竦めながら下草を掻き分ける。なんとかどこかへ着かなくては、思いとは裏腹に山は険しくなるばかり。ついに子供の足は疲れで止まり、だんだん宵色に近づいていく空を見上げるだけだ。 ひりつく喉がひどく気持ち悪い。空っぽの腹を押さえて、呼吸すら悲しいと口をへの字に曲げる。烏がかぁ、と鳴いた。そうしてばたばたやたら大きな音をさせて羽搏いたかと思うと、次の瞬間どさり、と子供の前に何か大きなものが落ちてきた。 黒い塊だ。 思わず後ずさる子供を前に、黒い塊は「とって食らうか」大人のような子供のようなちょうど真ん中の声で言った。 「とって食らうか、帰してやるか」 黒い塊がざわりと蠢く。よくよく見ればそれは羽のようだ。何かが己の身を黒翼ですっぽり覆い尽くして、中が子供から見えないようにしているのだった。 「とって食うか、帰してやるか」 おそろしい言葉が羽の向うから聞こえてきて、子供はひどく怯えふるふると首を振った。 「食わるるは嫌か。里に帰すか」 かぁ、烏が頭上で鳴いた。くろぐろとした白目のないガラス玉が子供を見ている。そんでまた、かぁと羽をばさばささせて鳴く。黒毛玉の翼が両手を広げるように大きく観音に開いて、中からゆったりとした衣に鬼面のものが現れる。あからさまな異形に子供はひたすら怯えて縮こまった。 ぬっと腕が伸ばされる。ひぃ、喉からせり上がった悲鳴も意に介さず、鬼は子供の細い腕をひっ掴むとそのまま空へと飛び立った。 背から生えている羽は飾りでもなんでもないようで、羽搏くたびぐんと風を受ける。子供は悲鳴をあげるのも忘れてただただ硬直している。宙ぶらりんの体がぶうらり揺れた。 このまま食われるのだろうか、殺されるのだろうか。ごくり、喉を鳴らすと心臓がひゅうっと冷えていく。嫌だ、嫌だ。しかし暴れて落ちれば死は免れない。 風はびゅうびゅう吹いている。暮れかけていく太陽より高く高くを鬼は飛んで、ひたひた宵に染められていく空に子供の手足も色づいている。眼下に広がる朱と藍に染め分けられた木々は、子供には見たこともない色をしていて、いっとき恐怖すら忘れ見惚れていたのだった。 じきに、ぽすりと音をさせて子供の足が地面につく。草もあまり生えていない踏み固められた地面だ。右を見ればよく見知った小屋がある。毎日使う甕もある。掴まれた左手がひどく痺れて、肩が痛いとそこでようやく感じはじめた。 村に帰ってきたのだ。なにがなんだかわからない、という顔をして辺りを見回す子供にもののけは鬼の面でぐっと体を折り曲げると、子供の上に影を作った。 「帰すのはこれきりだ」 子供は今度こそぎゃっと悲鳴をあげて逃げ出した。ばたばたと家の戸を開けて、涙ながらに母に先ほどのことを訴え、しかし母を連れて家の裏手に戻った時には、もう羽を生やし鬼の面をしたもののけの姿などどこにもない。 何かおかしな夢でも見たんでしょと言う母に、子供は頷くしかなかった。烏は濁った声でがぁ、と鳴いて子供を見ていた。ぷっつり日は落ちて、夜になりゆく。 二人目は、村の小坊主だった。村に一つしかない、山の麓に門を構える寺で使いっ走りをしていた子が、そういうことがあったのだと小耳に挟み、ならば自分も確かめてみようと誰にも言わず寺のことも放り出して山に入ってしまったのだ。寺の掃除が面倒になったというのもある。今日ぐらいやめても仏様にはわかるまい、こっそり抜け出た寺を後ろに小坊主は迷いなく山中を進む。ちゃんと水筒も干し飯も手にして、半ば行楽気分といったところか。 名も知らぬ草木が生い茂る中を踏み分けていく。 鳩の声が聞こえ、虫が遠くでしゃわしゃわ鳴く。まったく、穏やかな日だ。 やがて木立の背が高くなりはじめた。降り注ぐ日を全て葉で受け止めようという強欲な木々の合間に小僧は足を踏み入れる。妙に神聖な思いを抱きながら、しかし目立って何があるというわけでもない。受け取り損ねた隙間から真直ぐに日は降って来て、そろそろ昼にするかと干し飯を握ってごりりと噛んだ。 手頃な石に腰掛けると、水をたっぷり含んだ苔がちょうど腿のあたりに生えている。やわらかな感触にひどく機嫌がよくなる。この辺には泉でもあるのかもしれない。地虫がぬるりと這っている。飛蝗の薄い翅を誇らしげに掲げて行進する蟻を眺めて、腹も満ちた小坊主はうとうと舟を漕ぎはじめた。 日はさんさんと降り注いでいる。風はやわらかに頬を撫でる。腹も満ちて、なにより静かだ。 やってくる眠気に抗えず、小坊主は座っていた石を背にして目蓋を閉じる。 意識が目の奥からしだいに降りていくのを感じる。鈍痛に似た眠気が頭の後ろにまでいって、真黒な目がふっつりと途切れた。 「おい」 突然聞こえた声にはっと目を開く。日はまだ高い。寝入ってから一刻も経っていないだろう。まさか兄弟子に見つかったかと慌てて辺りを見渡すと、遠くに黒っぽい影があるのに気が付いた。兄弟子ではない。 かぁ、烏が頭上に止まって、枝の上でやじろべえみたいにぐらぐらしてからもう一度かぁ、と鳴いた。 「お前、誰だ!」 強気にも小僧は得体のしれない黒っぽい影に向かって言い放った。体をバネみたいにして一気に起き上がると、干し飯を入れていた茶巾も放り出して敵意を剥き出しにする。探していたもののけかもしれない。 「おい、誰だって聞いてんだよ。もののけか?」 真黒な影はよくよく見れば、白い僧衣を纏っているようだった。毎日見ているものだからわかる。ここにきて小僧は、もしかしたらあれはもののけでもなんでもなく山に寺を構える坊主なのかもしれないと思い至った。 もしそうならなんと失礼な口をきいたのだろう。さっと顔を青くするが、ここまでやったからには引き下がれはしない。小僧はもう一度大きく息を吸い込むと、 「早く名前言えよ、俺様が調伏してやる!」 目の前の奴がもののけであってくれとの願いを込めてわざとらしいまでの大声を上げた。 調伏、という言葉に影はびくりと反応したらしかった。わさ、と葉擦れの音をさせて黒い塊の表面が蠢く。 やはりもののけであるらしい。これに機嫌をよくした小僧はほっと息を吐いて、かかってこいよお前なんか怖くねえと大きな口を叩いた。調伏なんてもちろん無理だ。寺の小坊主どころか坊さんにもできなかろう。 「なんだよ俺様がこわいのかもののけめ」 しかし小僧はこの黒い影が動こうとしないのをいいことに更に調子にのった言葉をぶつける。さやさや、葉が擦れる音ばかりが聞こえる。どうしたよ、と意地悪く言う小僧は、しかしあまりにも動かない影の塊に首を傾げ始めた。いくら話しかけても動きがない。応えもない。もしや、何か自分は勘違いでもしていたのだろうか。あれは木か何かに衣服とか毛皮とかが引っかかって風でゆらゆらしているだけなのではないか。今の今まで威勢よく叫んでいた口を閉ざして、そっと一歩、二歩前に進んでみると。 黒い影がぬ、と唐突に小僧の目の前に迫った。歩くとも走るとも違う、滑るような足取り。 「うわっわあああああああああ!」 黒い羽毛がぬと子供の真ん前までやってきて、鳥が羽搏くのと同じ形で前に畳んでいた両翼を大きく広げた。黒い羽だ。艶のある黒檀の羽が小僧の上に覆いかぶさるようにしている。そうしてその奥から、くろぐろとした鬼面が現れた。 二本の尖った角。鋭い牙。真っ赤な口。そのいずれもが鬼と呼ぶに相応しい形相。 「とって食おうか」 掠れた暗い声が小僧を見下ろす。ぬらぬらと光る金色の牙が小僧を食らおうと睨んでいる。喉元にひやりと怖気が流し込まれ、小僧は恐怖に目を見開いた。 「帰してやろうか」 変わらぬ表情で変わらぬ声で淡々と鬼面は言葉を紡ぐ。子供よりいくぶん背の高いそれが覗きこむようにぐっと上から背を曲げて。 ひ、ひ、ひいぃ。引き攣り声を喉の奥から辛うじて漏らした小僧は、そのままぐるりと目蓋の裏に意識を隠してしまった。 「この大馬鹿もんが!」 小僧はあまりの大声に飛び起きた。どうやら気を失っていたらしい。慌てて辺りを見渡すとよく見慣れたお寺の一室で、これは一体どうなっているのだろうか。 目の前には怒気も露わに腕組みをしているやかん頭の和尚がいる。湯でも沸かせそうなほどかんかんに赤くなって、小僧を怒鳴りつけた声は和尚のこととわかる。 「この大馬鹿もんが、掃除をさぼって山に入ったろう!」 思い切り頭の上に拳骨が落ちてきて、小僧はぎゃっと悲鳴を上げた。頭も痛けりゃ耳も痛い。腹の底からの大声に竦み上がって起き上がりぴんっと背筋を伸ばせば、少しは悪いと思ったのか気が済んだのかつんつる頭も声量を抑えて話し始めた。 「お前が勝手に山に入るのを兄弟子が見ておったぞ。そのうえお前、寺の裏手でぐーすか寝こけおって。一体何をしておったのだ」 「お寺の裏手で?俺が?」 さっぱり身に覚えがない。小僧が覚えているのは山に入ったこと、天気のよさにうつらうつらしたこと、それから黒い羽を生やした鬼に会ったことだけだ。その後がすっぽり抜けているのは、恥ずかしながら気絶したということか。 「まったく、野犬にでも食われていたら大変なところだったぞ」 ぶつぶつ言う和尚に、でも、とかだって、とか言葉を続けようとして押し黙る。 山にいたはずなのに、なんて言ったところで信じてもらえるわけもない。ただ小僧は項垂れて素直にごめんなさい、と謝った。 次こそ奴の正体を突き止めてやると心に決めながら。 それから僅かに三日、小僧は今度こそと村の子供らを集めて再び山に足を踏み入れた。今度も準備は万端である。丸一日ぶんの干し飯と、竹の水筒を人数ぶん。そうしてこの前告げ口した兄弟子さえ巻き込んで小僧はもののけを探しに勢いよく山に分け入った。 人の通る林道をしばらく真直ぐ。そうしてくねくねとした獣道に入ると、途端に下草の背丈が高くなってくる。 はぐれるなよ、なんかあったら知らせろよ、声を掛け合いながら子供らは進む。沢の水が流れてきらきらしているのを横目に、どんどん奥へと。 「あ、金銀花」 金と銀の二種の色が同じ株から立ち上がっている。山の知識が少ない子らでもこの花のことはよく知っていた。甘い蜜を蓄える花だ。それをいくつか摘み取って、金銀の花を咥えながら子供らは機嫌よく山を歩く。 「白妙に なびく幟の 時津風」 さっと風が子供らの間をくねくねと通り抜ける。幟代わりに白い袖を揺らして、心地よくひょうと行く。 「世界を見れば 源氏雲なり」 下の句をかるがるそらんじた兄弟子に、村の子らからわあっと喝采が上がる。空は真っ青でどこにも雲は見えないが、それも爽やかで粋なことだ。 薄暗い木々の間も、皆で連れ立って歩けば怖くもない。 わいわいきゃっきゃと上は十二、下は五つほどの子らが笑いながら山を行く。ひどく騒がしいそれらに、音を嫌がる鳥が喉をすぼめて鳴いた。 ただの山歩きの様相を呈してきた頃に、一番小さな子がひゃっと声をあげた。 ちょろり、顔を出す焦げ毛皮の小動物に驚いて子供が身を竦める。その様子に小さな尾をふるり震わせた獣も驚きぴたっと体を固まらせてしまった。黒目がちなまんまる目玉をきょろきょろさせている。 「なあんだ、貉だよ」 「怖がりだなあ」 笑いながら固まった姿に手を出すと、シャッ、と鋭く鳴き声をあげて貉は子供の指先に一撃くらわせた。 「いって!」 小さく赤い線を残して、たっと草むらに逃げ込んでしまう。 「ちょっかいかけるからだぞ」 「くっそー」 ほんの小さなかすり傷に子供らは笑って、貉が逃げ込んだらしき草むらに足を踏み入れた。遠くでがさがさ音がする。獣はまこと足が速い。 「追いかけてみようか」 草むらの開けた遠くに先ほどの茶色毛皮が見える。立ち止まって、ふんふんと辺りの匂いを嗅いでは何かを探しているようだ。 「そだな。どうせどこに行けばいいのかわからないし」 時折小僧らの方を見ては警戒するようにしかめっ面する貉になんだか腹がたって、意地悪してやれという心が湧いてくる。朱の滲む指先がじくりといった。 貉は開けた道をかさこそ行く。子供らには気配を消すだなんてそんな忍びめいたことはできやしない。できやしないし貉には知られているし、で堂々とがさがさ足音をさせながら貉の後を追う。時にちょろりと姿をくらませようとするのも、そこは合わせて十ばかりの目玉がある。誰かしらが貉の隠れる姿を捉えていたおかげで、なんとか見失うこともなく子らは山林の深い繁みの中を、一匹の貉を頼りに歩き続けた。 貉は小僧らを振り返っては走り、振り返っては身を隠そうとする。それになんとか追いすがる。そういうのを何度も繰り返すうち、ひょっと石畳の地面に足をつけた。 ちゃかちゃか爪をたてて貉は石畳を真直ぐに走っていく。そちらを見れば、なんとも立派な山寺が、古ぼけた色の唐戸を大きく開いて佇んでいた。 貉は迷わず階段を駆け上がり、唐戸の中に飛び込んだ。陽射しが真上から射しているせいで戸の中は真黒である。こんなところに寺があるなんて、と小僧が兄弟子を見れば、兄弟子もまた首を傾げている。ただ一番年若い幼子が、貉を追いかけて無邪気にてててと駆け出すのに皆続いた。 塀も築垣も何もない、突然開けた木々の中に敷かれた石畳とお堂。ただそれだけ。それだけの簡素な道をどんどん行けば、しだいしだいに薄暗いお堂の中が見えてきた。 貉がいる。こちらをじっとあの黒目で見て、小さな手足を動かして奥へするりと滑り込んでいってしまう。むじなぁ、と幼子が最初の悲鳴もどこへやらお堂の階段下まで走っていって、そうしてきゃーっと言って小僧らの後ろまでとって帰した。 「どうしたんだ」 機嫌のころころかわる年幼い子にやれやれと溜息を吐きながら一番年長の兄弟子小僧がひっつめ髪を撫でてやる。そうしながらほら行くぞと手を引きお堂へ向かうとすると、嫌々首を振って幼子が縋り付いた。 「おにがおる!」 高い声で言った途端、小僧は先日の鬼の姿を思い起こした。であればとほんの少しも歩みを遅らせることなく大股で歩く。 お堂の中には、白い装束を着た何者かが端坐でもしているかのようだった。僧の着るような法衣を纏い、まだその胸より上は暗くて見えない。 階段の足元まで来てようやく、薄暗い闇の中にてらてらぬめる鬼面が、黒い面を下げて小僧らを見下ろしているのがわかる。小さな貉が鬼の膝元に安らいで、小僧らに向かって唇をめくり上げ牙を見せた。 香と、それから枯れた菊に火をつけた時の匂いがふっと辺りに漂っている。 「いかなる用向きか」 重々しい声が子供らの頭上から降ってくる。ちっとも動かない口元と、金泥の目がぎょろりと睨みつけているのに慄きながら小僧は勇気を振り絞り鬼に向かって言い放った。 「やい!お前よくもこないだは脅かしてくれたな!」 鬼は微動だにせず細く長く呼吸を続けている。やわく上下する心臓が男の静かな胸の内を表している。 鬼面の背後に錫色を鈍く光らせて薬師如来が鎮座している。光背を負ったその姿は、小僧にとってよく見知ったものであるはずなのに不思議と禍々しさをも感じる。鬼と、仏と、獣とが同じ屋根の下で呼吸をしているおぞましさに、小僧はぶるりと身を震わせ自らに活を入れるようにわざとらしく大声を出した。 「お前のせいで和尚様から怒られたんだ。一度謝ってもらわんと気が済まねえ」 だん、と勢いよく階段に足をかける。と男は微かに不服を露わにしたようだ。 「止めよ」 重苦しい声に反して言葉は静かだ。いつの間にか静かになった森中が、この男の一挙一動を見守っているようだ。妙にむずむずとした視線に肩を竦めて、子供らは居心地悪そうにする。 「やめとけよ。山のもんは山にそっとしとけって和尚様も言ってたろ」 兄弟子が小僧の肩に手を置いて諌めると、妙にしんとした森をおそろしがってか他の子供らもくちぐちに不安を口に出し始めた。 「もののけは見つかったんだしさ」 「ねえ、帰ろうよ」 一番下の幼子などはもののけの様相がおそろしいのか向こうはぴくりともしていないというのに目いっぱいに涙を溜めて今にも零れ落ちそうだ。 「なんだよお前ら、こんなもののけなんて怖がって」 小僧は勇み階段を一気に駆け上がろうと、しかし。 「止めよと言うた」 カァ。 「うわっ」 小僧のすぐ目の前、あと一歩でも踏み込めばその太い嘴がやわらかい目玉を抉り取るような位置に突然烏が現れて一声鳴いた。 三段ばかし上に鉤爪を引っ掛けて、ぐうっと身を小僧の方に突き出して。もう一度かぁと鳴く。さしもの小僧もこれには身の危険を感じたのか、前へ行こうとしていた体を突然ぐっと逸らしたものだからひっくり返って石畳に尻餅をついた。 かぁ、かぁ。どこからか烏の鳴き声がする。階段に止まってこちらを睨みつけている一匹以外の姿などどこにもないというのに、があがあぎゃあぎゃあ騒ぐ烏の群れの声がする。 「とって食おうかと言うたのに、よくよく懲りない小僧であるな」 烏の黒く艶めく目を従えて鬼面が言う。呆れているようでもあった。後ろで帰ろう帰ろうと怖れをなす子供らにちらと視線を遣って、鬼面の男は言葉を続ける。 「用がないのなら去ね。山を騒がせるでない」 烏の騒ぐ声は変わらず聞こえる。不安の掌が子供らの胸を撫でて通り過ぎる。 「な、なんでだよ。この山はお前のもんだとか言うつもりか」 「何故を問うか」 不安につられて刺々しくなる言葉を意にも解せず男は続ける。 がさりと木の葉が風にざわめく音がする。お堂の中が余計に暗くなった、そう思ったのは男の背から黒い鳥の羽が開いているせいだ。そうして翼ののっぺりとした闇から同じく黒い艶消しの鳥が嘴やら足やらを突き出しながらもがいている。烏だ。体の一部だけを外に突き出して騒ぐ無数の烏は時折げえげえ鳴いて子供らをまるい目玉で見て、それから前触れもなく一斉に飛び立った。 「うわ、うわああぁ」 「逃げろっ」 ばたばたばたと大きな羽搏きをさせて烏の群れが子供らに纏わりつく。嘴は大きい。爪は鋭い。振り返りもせず一目散に逃げていく子供を追い払って、鬼面の僧は沈殿した呼吸を繰り返しながら、吐息よりか細く喉を鳴らした。 「こわいものが出るからだよ」 逃げ遅れてこけつころびつしながら走る一番の幼子の耳にだけ、その呟きが届いていた。 右を見ても左を見ても同じような景色が広がっている。てんでばらばらに、それも滅茶苦茶に走ったせいで今どこにいるのかすら覚束ない。はっ、はっ、と獣の如き息を吐きながら子供は走る。走る。後ろから追いかけてくる烏の声に追い立てられて。 烏は空でぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ騒いでいる。時折おちょくるように急降下しては、子供の背中をつついてまたぎゃあと喚いた。 息せき切って。肺を絞り上げながら。下草を踏むと緑が裸足の爪に染みついた。ぐちゃ、苔色の泥を踏んでは前に張り出した枯れ枝を掴んで払いのける。後ろで烏があざ笑っている。 逃げろ。そればかりが頭にこびりついて、ばらばらになった他の子らがどうなったかなどこれっぽっちも浮かびはしない。 「村だ!」 飯炊きの白い煙が目について、子供は足を速める。烏は速度を合わせたようにひゅうと空気を裂いてその背を追う。斜面を下り、岩肌を蹴って、煩く乾いた音を擦れ合わせる枯れ葉を散らし、子供は村の裏手にある寺に駆け込んで冷たい床に突っ伏した。 ぎゃあ、鳴いた烏が寺の上をぐるぐると二度三度旋回して、それから山の方へ笑いながら帰っていくのを、痛む肺腑を押さえながら子供は見た。今更噴き出してきた汗が黒い床に染みを作る。ようやく呼吸が落ち着いたと思った頃に、先ほどまで山で一緒だった小僧やら兄弟子やらが今にも泣きそうになりながらやはり烏に追い立てられて走ってくるのが見える。腹から声をあげて彼らを呼べば、もつれるようにして本堂になだれ込む。烏の一匹が勢い余ってひゅうっと本堂へ入り込んで、それから慌てて大きく開いた戸から外へ出ていった。大きく肩で息をすると、少しは楽になったようだ。 「あ、あいつ、なんだったんだろ」 「わからん」 「鬼だよ、鬼。山に棲みついて俺らを食いにくるんだ」 「鬼に羽があるかあ?」 ようやく一息ついた子供らは好き勝手に言いはじめる。後ろにのっと立つ大柄な影にも気が付かずに。 「こんの、大馬鹿もんどもが!」 雷が天辺から落ちたような声が、本堂いっぱいに鳴り響いた。 ぎゃあああ、だとかうわあああ、だとかの情けない声をあげて逃げようとする子供らの首根っこを摑まえて、大柄な坊主はもう一度雷を轟かせる。 「山には入るなと何度も言ったろうが!お前に至ってはほんの少し前に叱られたばかりのくせに、まだ懲りぬか!兄弟子まで巻き込んで一体どういうことか説明せい」 次々轟く雷鳴に、子供らはすっかり恐縮して言われずとも正座をして項垂れている。一番年嵩の兄弟子が、口もきけぬように押し黙った小僧の代わりにと和尚を見上げてはっきり答えた。 「山にもののけがおるっていうから、皆で見に行こうと」 「この阿呆!死ぬかもしれんのがわからんか!」 答えればますますひどく雷鳴が落ちる。それはわかってるけど、とごにょごにょ言えばそれにも睨まれ、子供らはしょんぼりと床に視線を落としている。 「でも、もののけはおった。俺ら皆で見たんだ、なあ!」 懲りない小僧が和尚にくってかかって、他の皆に同意を求めると、曖昧ながらも頷きが返ってくる。見たものを見ていないことにできるほどまだ誰も大人ではないのだ。 白い坊さんの着物で、鬼みたいな顔をして、背中に羽生やして。特徴をひとつひとつ挙げていくと、薬師如来様の祀ってあるお堂におったんだと子供らが言ったところで、和尚がむっと顔を顰めた。 「そりゃあ、昔使っておった奥の院のことじゃないか」 奥の院なるものが打ち捨てられたのはだいたい五十年ばっかり前のことらしい。和尚の先代が足を悪くして山奥にまで歩けなくなり、本堂を村の裏手に移してからはしだいに人々もそちらには出向かなくなったと。 すっかり怒りを収めたらしい和尚にほっと息を吐いて、そろそろ痺れてきた足をもじもじさせる。 「一度行かにゃならんかのう」 禿頭を撫でて溜息を吐く和尚は、しかしぎろりと子供らを睨むと「お前らは二度と入るでないぞ」と釘を刺してきた。はあい、とやる気のない返事。 「にしても、よう無事で帰ってきたもんだ」 ひと、ふた、みい、よ。数えて言うのに何かが足りない気がして、小僧と兄弟子は顔を見合わせてあっと声を出した。 「あ、あと一人。ほら田平んとこの子が」 「ほんとだおらん」 烏から逃げるのと和尚からの雷ですっかり忘れていたが、一番年下の幼子がいないのだ。俄かにざわつく子供らに、和尚も顔を青くする。 「い、いかん。夜になる前に見つけなければ。ここらは山犬が出ると言っておろう」 だからあれほど山に入るなと言ったのだと一度耳に痛い言葉を子供らにぶつけて、和尚は慌てて寺を出ていった。 真っ先に田平と呼ばれた男の畑に行き、それからひとつひとつの戸を叩いて回り、あっという間に人を集めて、和尚は小僧らに罰として境内の掃除を言いつけると、もののけがいたという奥の院に向かった。 幼子は擦りむいた足の痛みでひんひん泣いていた。よくわからないまま走ったせいで帰るあてもなくして、そも年長に手を引かれてきた子供が道など知っているわけもない。先の尖った下草にやられてあちこちひっかき傷だらけ、小さな手も足も転んだ時に汚れて泥だらけだ。 逃げ遅れてしまった、皆から置いていかれた、その思いばかりで幼子はあたり構わず喚いて泣いて、疲れてしゃくり上げるだけとなった頃に、妙にぎらぎらとした視線がこちらを見ているのに気が付いた。気が付いたときには視線はもうずいぶん近づいていて、灰色の毛皮が草木の隙間からちらちらしている。 山犬に気を付けないかんよ、言われたことを思い出す。悲しみよりも恐ろしさが上回って幼子は立ち上がった。気付かれたことを知ってか、山犬ががさりと音をたてて繁みの向うから恐ろしい爪と牙を剥き出しにする。一匹、二匹、三匹。まだいる。 山犬が血に飢えた目をして幼子を見ている。あの鋭い牙でがぶりとやられたら、やわらかい肌など一瞬でずたずたにされてしまうだろう。 が、っと吠えた山犬に恐れをなしてよろよろと後ずさる。怯えた表情を検分する山犬らは逃げられるおそれもないと思ったのかわざとらしく間をつめて喉を鳴らした。 生温い息さえ感じられるほどに近寄った犬の凶悪な面に動けなくなる。もうだめだ、自分はここであっけなく死んでしまうのだ。がう、と吠えながら牙が迫る。目をぎゅっと閉じて痛みに覚悟を決めて、しかし何かが空から落ちてくるような音に痛みも衝撃も全て阻害された。 山犬が突然落ちてきた質量に憐れっぽく鳴きかける。どうもおかしいとそっと目を開ければ、山犬らは尻尾を巻いて元あった繁みに逃げ隠れていったようだった。 代わりにあるのは風にはためく白い法衣の裾。梢を折って落ちてきたのだろう、細かな枝葉がぱらぱら辺りに散っている。ひとつに結いあげた黒髪と、同じ色をした一対の翼。あのお堂にいた鬼だ。鬼が山犬を追い払った。 「怪我はないか!」 そうしてなんだかとても人間めいた台詞を吐くものだから、幼子は驚いてその顔を見つめた。ばっと振り向いたもののけの顔は鬼などではなくどこにでもいるような青年のもので、それが予想外だったこともまじまじと顔を見てしまったことの一因だろう。 しばらくの沈黙。子供は変わらず固まったままだし、青年といえば子供が固まってしまっていることに驚いてうろうろと視線をさまよわせている。鬼にしては頼りない姿だ。 「おにじゃないの?」 おもむろに子供は聞いてみる。寺で見た鬼の顔はどこにもない。人ではないとあきらかにわかる黒の肌は少し青白いもののごくごく普通の肌色だし、金泥と朱でぎらぎら輝いていた瞳は、透き通る水の色だ。牙なんてどこにも見当たらない。 青年はそれにまたうろうろと視線を彷徨わせると、内緒だけどな、と唇に人差し指をあてて 「鬼じゃないよ、神様なんだ」 そう笑ってみせた。 「かみさま!」 幼子はそれですっかり納得してしまう。先ほどまでの怖れもどこへやら。助けてもらった、鬼じゃない、そればっかりに頭がいって、扱いやすいのはいいことなんだけれど、なんてぶつぶつ言う青年の手にしがみつきもうこれで安心だとやっている。 「怖がらせようと思ったんだけどな」 しがみつく幼子の頭を優しい手で撫でるひとは、どこがおそろしいのか子供にはもうさっぱりわからない。ただあの顔と、やけに重々しい声で騙されていただけなのだ。ひとの手の温かさがこどもの結いもしていない髪の上をさらさら通って、風も通らないぬるい空気が肺胞を包み込んでいる。じゃあ、行こうか。なんて神様が手を引くものだから、幼子はそれに逆らうこともなく細い手足を一生懸命動かした。 「鬼のお顔はどこにやっちゃったの」 蝉がひぃんと鳴いている。クサキリの苦々しげな声が一度だけして、止んで、静かになった。きっと向うの草むらには草色の節足動物が関わり合いになりたくないと身を潜めているのだろう。 裾の広がる真白な衣で、どうやってか苦も無く歩くひとは小さな子供の空いた左手に、大きく無骨な面を差し出した。 「お面だよ。怖がらせて、山に入っちゃいけないよって言うための」 確かにそれはよくできた面だった。漆塗りの黒がてらてら光って、そう大きくない角が額から生えている。いかにも恐ろしいですよというそぶりのそれは、日の下でよくよく見ればわざとらしい気もした。 「山に入っちゃだめなの?」 うそだあ、子供は思う。だって山師なんていう人はよく山で兎や猪を獲っては麓の村で塩やら米やらと替えてもらっている。入っちゃいけないなんて聞いたこともない。ただ、山犬が出るから子供だけでは行くなときつく言われているだけで。 木々の生い茂ったこの場所では邪魔になりそうなほど大きな羽を小さく折り畳んでゆっくりゆっくり歩くひとは子供の華奢な右手を強く握ると、その目を覗きこんで微かな息を吐き出した。 「こわいものが出るからね」 つい先ほども、聞いた覚えがあるような。そんな言葉が子供の中を通り過ぎて、風と一緒に吹き抜けていった。 さくり、さくり。歩いていくうちに、自分らが慌てて逃げ出したお堂が見えた。至って普通の、どこにでもある、古ぼけた木造建築。何を怖がっていたのかも忘れて、幼子は固い石畳を裸足で駆けた。蝉の死骸がぼとりと落ちていたのをくちゃり踏むと、みぃん、遠くで同族が寂しげに鳴いていた。 「着いた!」 手を放して走り回り屈託なく笑う子供をお堂の中に招き入れて、もののけは足洗い水を盥に張って軽く水をかけてから懐から取り出した軟膏を手足についた細かな傷に塗り付ける。 「手当するからな」 「うん」 血はほとんど出ていない。軟膏を塗っても滲みもしないし、そんな傷は放っておくのが当然だっていうのにこのひとはそれを丁寧に丁寧に手当てして、包帯を巻いて、そうして痛くないようにとおまじないまでかけて優しく笑んだ。 床板に転がった鬼面が天井を見つめている。ぽっかり開いた瞳の穴がなんにもない中身を垂れ流している。巨体を億劫げに据えた御仏は静かな笑みで彼らの前にある。 ただ静かな空間に、がさりと音がした。獣よりも大きい獣よりも不注意なものが歩く音だ。それに敏く気付いたもののけは素早く鬼面をつける。黒い漆塗りの面に端正な顔がすっかり覆われて、いかにも鬼だ。 「少し隠れているんだよ」 鬼の口に指をやり幼子を奥の間に行かせて、後ろから数人が近づいてくるのを感じとる。子供の足音ではない。どれも大人のものだ。 ざり、ざり、ざし。足音がしないようにと気を遣っているのだろう。それでも聞こえる石や砂を踏みしめる音に、あまり育ちのよくない人の影を見つけてもののけはくっと笑んだ。 「あんた、どこのもんじゃ」 老いた人の声と共に、鬼面をつけた男は大仰に振り向いた。 それは白い法衣をつけて、冗談みたいな飾り羽で着飾った酔狂者にしか見えなかった。無論和尚にはそんな人に心当たりはない。ここらの村でたった一人の和尚であるから、仏門に入っている者の顔や背格好ぐらいちゃんと覚えている。やれどこぞの狂人が法師の真似事をしているのだろうか。それを子供らが鬼と言ったのだろうか。 ともあれ幼子の居場所を知っていそうなのはこの男だけだ。奥の院から出ていってもらうのは後回しにして、和尚はあんたどこのもんじゃと声をかける。途端、綺麗な所作で胡坐のままこちらを向いた男の顔を見て誰もがあっと驚いた。鬼だ。男はてらてら光る鬼面をつけている。 袖を強く払って、背筋を凛と伸ばした鬼は、そのどこを見ているかわからない金泥の目でひととおり村人を睨め回した。 「何用か」 このおそろしさはいかにも人ではない。目下のものを相手するのに慣れた口調で男が問う。和尚はさてこれが狂人か鬼であるかいまひとつ判別をつけられずにいた。 最初の一言を間違えてはならない。緊張で乾いた唇を舐めて慎重に口を開く。掠れた喉からがらがらの声が出た。 「私は麓で和尚をやっている者ですが、実は村の子が一人山に迷い込んでしまったようで。ほんの小さな子なのですが、見かけはしませんでしたかな」 男はことん、と首を横に傾ける。面も相まって人形がやっているように見えるほど無機質な仕草。絹糸の如き黒髪がつられてしゃらりと白衣の肩に流れた。 「よっつ、いつつの子ならばこちらに」 男がおもむろに背後へおうい、と声をかけた。鬼が出るか蛇が出るかと和尚らが見守る中、奥の戸がことりと音をたてて、小さな子供が顔を出した。行方のわからなくなった幼子そのものだ。 「あっ和尚さま」 ぱっと勢いよく走り寄る子の手足には白く包帯が巻かれてある。なんとも丁寧なそれをやったのは目の前の異形で間違いなかろう。この場には他に誰もおらず、子供もこの男を怖がるそぶりなどちっとも見えない。さみしく沈んだ色の薬師如来が男の後ろで優しく微笑んでいた。 ふと、和尚はこの男が狂人でないことも、鬼でないこともすっかり悟ってしまった。さっと視界が開けた心持ちである。 あいつが幼子をかどわかしたのではとこそこそ囁く者らにも、男はなんにも言わない。それを和尚は一喝して、あっけにとられる人々の前で男に向かい五体を地についた。 「人と違えた形、薬に長け、信心の深く、教養高い物腰。よもや貴方は護法童子ではございませぬか」 男は何も答えない。答えないのをいいことに和尚はそうだそうに違いないと一人で納得してますます平伏する。なんだかようわからんが和尚が頭を下げるほどえらいものらしいと誰もがつられて膝を地につけた。 「よもやこのような廃寺に護法童子さまがおいでになるとは思いもよらず、お見苦しいさまであったこと申し訳なく思うております。護法童子さまがいらっしゃったのも先代が熱心に薬師如来を信仰しておった功徳のおかげでしょうか」 いえいえお答えにならずとも結構、御仏の意向を問うのは私どものすべきことではございませぬ。あっという間に自己完結を終わらせてしまった和尚はそれ以上何も言わずささと子供の手を引いて山を降りようと皆を促した。鬼の男は何も言わない。言わないまんま、白い衣を板間に落ち着けて踵を返す人らを見ている。 ほら行くぞと手を引かれた幼子は鬼の方を振り返り振り返り、手をにぎにぎしてさよならの意を表した。男はやっぱりそれにもなんにも応えなかった。 誰もいなくなった境内で、男は鬼面をとってふうと息を吐いた。人があんなに来たのは初めてのことだった。人間が大勢。それも寺の住職、大人が。男はなにも偉ぶって口を重くしていたわけではない。心の奥底に微か芽生えた恐怖が男の喉を締め上げたせいか脅しつけることで精いっぱいで何を言うこともできなかったのだ。 「……護法童子じゃない」 今更のような言葉が漏れる。そんないいものじゃない。迦楼羅、阿修羅、毘沙門天。仏門にあればどんな人でも耳にしたことがあるほどの、元は外つ国の神でありながら御仏の教えに恭順し仏法を守護するという役割を得た神々だ。外から仏門に迎え入れられたものらとは違い自分は仏門から零れ落ちたただの外道でしかない。いわば真逆のものに間違えられたというのに男はそれを否定することができなかった。恐ろしさに締め付けられた喉は、ほんの少しも震えてはくれなかった。 にんげんがおそろしい。それは男の根底に根付く感情だった。地位金のためなら実の子供でさえ道具とし軽く捨てそこに生きていたことすら忘れ去ってしまうような生き物だ。にんげんはおそろしい。特に、御仏の近くに生きる人はおそろしい。 男は目を伏せた。こどもに優しくはしたが、もう誰も山には入らないだろう。寺の住職が強く止めるだろうし、好奇心の強い小僧らだっておそろしい目にあったばかりだ。 「こわいものがいるんだ」 誰に言うともなしに呟く。 やがて日がくれる。茜色が辺りを包んで肌にひりひりと熱を与える。籠もる熱気を長い息で吐き出しながら身じろぎもせず夜を待つ。月も昇らぬ夜は影さえ見えぬほど暗い。 うぞり、と蠢く暗がりを見据えながら男は冷たい板間に胡坐をかいている。 「だから山には入っちゃいけないよ」 ぽ、と蛍のような灯りがそこらじゅうに点り始める。人の頭ほどもある灯だ。熱のないともしびを見据えた男はどうすべきかすっかりわかっているようで迷いなく胸の前で手を合わせ、般若心経を唱え始めた。淡く明滅を繰り返す光はつかず離れずのところでふわふわと漂っている。ようく見ればその中にはっきりと目鼻があるのがわかるだろう。人が苦悶するような音をさせながら宙を行きかう炎に向かい、男は一心に経を唱えている。それは自らの身を守るためというよりは炎の中で苦しむ男女に御仏の心を説いているようだった。 男が経を読む声は絶えることなく、そらですらすらと口から出てくる般若心経はよほど身についたものらしいとわかる。恨みがましげな女の顔をした火がふらり男に寄って、それから蝋燭の立ち消えるに似た姿でそっと消えていく。ひとつ減った、と思うも蛍火らはまだ十ばかりの数を残して空に揺れている。誰もがおそろしい呻き声を上げ、ひどく苦しんだ顔で男を見ている。お前も苦しめ、言われることに男は静かに首を振って経を唱え続けた。 日が落ちてから声が絶えることのないまま、やがて東雲に空が白く染まり始める頃に。ようやく人の顔をした炎らは朝日にその身を溶かしていった。また今夜も来るのだと言わんばかりの恨みがましい視線を寄越して。 「こわいものがくるよ」 誰かに殺され捨てられ忘れられた恨みが、お前も同類だろうと訴えかけてくる。だというのに何故炎にも焼かれずのうのうとそこに座っているのかと手を伸ばされる。 ふと涙が込み上げてくる。しだいしだいに消えていく火に体を折り曲げて、うぅっと噛み殺した泣き声をあげた。ようやく射してくる日に黒髪を投げ出して暗い床板にその身を投げ出して。 人はこわい。おそろしい。けれどやはり涙が出るほど愛おしい。だから男は、誰にも知られぬこの山奥で祀られることもなくひっそりとあれらを慰めることにしたのだ。 男の日々はひどく簡素なものだった。日の出と共に近くの沢まで降りて桶いっぱいに水を汲む。両天秤の桶をいっぱいにしてはお堂へ帰ること三度。それで大きな甕一つがいっぱいになるので、日が昇り切るまでに掃き掃除と拭き掃除とを済ませてしまう。お堂の近くに咲いていた花をお堂の真ん中で堂々と鎮座する薬師如来に供え、埃まみれの巨躯に手を伸ばしかけて、止めた。代わりに正面に座る。そうして木魚もお鈴もなしに経を唱える。既に仏門を去った身ではあるけれど、安らかであれ安らかであれという願いくらいは許されているだろう。昼餉は沢でとった魚を軽く炙ったものと、干し飯を水で戻しておいたものと、山菜を軽く煮たものだ。味付けは味噌か塩くらいしかないけれど、元より食がさほど必要な体でもない。習慣として、一日が過ぎたことを実感することとして、日に一度の食事は続けているというだけだ。焼いた魚の身をほぐすと、川魚の匂いがむっと鼻につく。生臭ものを食べるのもすっかり慣れた。夕にまた読経をして、やがて夜を迎えれば、昨夜より一つだけ数を減らした蛍火らに向き合ってひたすら祈る。 それだけの簡素な日々を粛々と過ごす。味気ないとも言われるだろうが、そも生に味を求めたこともないので苦にもならない。 常のように経を読み、山のものをとり、お堂の世話をして過ごす。ここのところ人の相手をすることが多かったが、それもすっかりなくなるだろう。 眠るという概念をすっかり忘れた男にとっては日が昇る、沈む、それだけが何度も何度も体の中を通り過ぎていく。御仏に経をあげ、無念の心に経を唱え、生きるためほんの僅かな飯を食い、それを一日と数えながら過ごす。 それだけの繰り返しの中、ふと黒点のような異物が混ざったのはそれから二日、三日とたった頃。 男は山菜を取りに沢へと下りていた。篭に茗荷の柔らかな穂やウドの若葉を入れて、仏花に夏菊の黄色いやつを摘んで、さらさら流れる沢の水に手を涼ませていたところだった。爪先から腹に向けて流れていく清らの水が心地よい。 夏だというのに水はまだひやりと冷たい。つと滑る沢の水から手を引き上げると、それまで冷やされていた指先がむっと熱を帯びた。 暑くなりそうだ。日が沈むたび、昇るたび、しだいに空気が熱を帯びていく。氾濫する死の匂いで眩暈がしそうになりながら、男は沢の上でたむろする羽虫らを一瞥した。うわん、声がする。生きよ生きよの声がする。 湿気た土手を歩いてお堂へ。草履はとうに泥で汚れ、裸足の爪に草の欠片がひっかかっている。昨日は雨だったからか、いつもより土がぬかるんでいる。まだ瑞々しい菊花を待たせてしまうのは心苦しいが、一度土間で清めるがよかろう。 お堂の屋根が木々の向うに見えはじめる。男がなんにも考えず繁みから参道へと足を踏み出した、その真横から何か塊がぶつかってきて、男は思わず篭を放り投げその塊を受け止めた。 「なっ」 子供だった。ほんの小さな子供。つい先日山中で助けたばかりの幼子の姿がなんでかここにあって、繁みから出てきた男に向かって思いっきりぶつかってきたのだ。 「な、なんで」 驚きのあまり判断が追いついていない。確かに脅して宥めて山には来るなと言っておいたはずなのに。 薄茶けた地面に鮮やかな緑が散らばっている。尻餅をついた格好の男に、幼子が縋り付いて顔を埋めている。ぼろぼろ涙を流しながら言葉にならない声をあげて泣いている。 「おとうちゃんを助けて」 とぎれとぎれになりながら子供が言ったのはそれで、男ははっと目を見開いた。 「護法童子さまならなんとかできるよね、神様だもんね」 男は言葉に詰まった。その一言のために一人で山に来たという。誰にも言わずに、朝一番に家を飛び出して、知ったばかりの神様に縋りにきたのだ。 「おとうちゃんを助けてよお」 本格的に泣き出す子供をなんとか宥める。そうして聞き出したことには、夜から熱が強く出てくるしそうにしているのだと。怪我をしたところが黄色く膿んで痛そうだと。薬師は、医者はいないのかと言いかけて男は口を閉ざす。こんなこじんまりとした村にいるはずもない。おとうちゃんが死んじゃうよとひどく泣く子供に、男はお堂から僅かな薬を持ってきて渡してやった。これが熱を下げる煎じ薬、こっちが怪我に効く軟膏。ひとつひとつ手にとって言い含めて、これをきちんとお父上に使えばよいと言ってやる。 「治る?死なない?」 そうだな、と男はなんとも言えぬ表情で子供の背を撫でた。撫でて、一瞬の迷いの後、静かに祈りを吐き出す。 「御仏に願をかけるといい」 どうあっても最後には、彼らに縋るほかないらしかった。 施療院の手伝いをしていてよかった、と拳を握りながら目を伏せる。子供の背はとっくに見えなくなって、道案内代わりにつけた烏の鳴き声が時折かぁかぁと聞こえるくらいだ。怪我からくる熱ならさしたこともない。手持ちの薬でもなんとかなる程度でよかった。 御仏に供える夏菊の先っぽをちょん、ちょんと鋏でつまんで、錫の花立に活けると暗い本堂にもぱっと明るい色が映る。 そうして鋏を脇に置いて、黒羽持つ異形の男もまた手を合わせた。どうぞ無事でありますようにと。 薬師如来は答えなどしない。曖昧な笑みを浮かべて男を見るだけの銅像に、しかし鬼面は一心に祈った。日が落ちてはまた、人の顔を浮かべる炎らに経を唱えて夜を明かした。 以来、幼子はちょくちょくやってくるようになった。父親はすっかりよくなったのだと報告をしてからお礼に畑の作物だとか、山でとってきたあけびだとか菱だとかを持ってはひっきりなしにやってくる。すっかり懐かれたようである。そのうち他の子らも山であった怖い目などすっかり忘れて山の神様んところに行ってくると言い置いてはお堂に入り浸るようになると、終いには大人たちまでも神様が顕現なさったと言っては足げく通うようになった。 羽を背に負った異形も、見慣れてしまえばどうということもないらしかった。最初こそもののけあやかしのたぐいであろうと身構えた人々も、あれは護法童子さまである、仏法を守護するものであると言われればなるほどと頷いて、それが男にはおそろしい。 男がいる時もいない時も、構わず人々は参りに来る。なにか厄介ごとをお願いすることもあれば、ただ遊びにきたということもある。寺の和尚が御仏の教えを乞いに大勢連れてきた時には眩暈がしそうになったが、礼節を欠かぬ彼らを追い返すのも気が引けて、人の良い男は言葉少なに知を分け与えた。 獣すら通らぬ草だらけの道がしだいしだいに茶色い地面を晒し始める。 驟雨の日が明ければ蝉ががらんどうの体を震わせ、強く照り付ける陽射しが弱まれば色づいた葉が地面に身を任せる。 手土産ひとつ、が供え物代わりとして定着する頃には月日は遠く過ぎてひどく冷え込むようになっていた。 ちらほら雪が舞う。手土産の蜜柑を篭に抱えて幼子は毎日飽きもせず山を登ってくる。寒さが厳しくなってからはわざわざ山に来るものも少なくなっていたが、この子だけは別だった。 「護法童子さま、護法童子さま」 呼ばれるのもすっかり慣れっこになっていた名前に、読経を止めて振り向いてやるとにこにことした子供の姿がある。もうすぐ数えで六つになる子だ。歳神の近づく晦日の頃だというのにどうしたと問うてみる。家では歳神を迎える準備で忙しかろう、晦日の行事で忙しかろう。だというのにこんなところまで来てどうしたと。 幼子はお堂の階段によいしょと腰掛けると、足をぶらぶらさせながら法衣の男に向かってやっぱりにこにこと笑うと、誇らしげに胸を張って口を開いた。 「お寺の和尚さまがね、お前は仏門に入ったらどうかって言うてくれた」 和尚というのは先日のそそっかしいやかん頭のことだろう。あれでもここら一帯では一番の僧位持ちらしいから、男は本人の名誉のためにも口を閉ざしておく。 「跡取りするでもない小作人の生まれなら、その方がよかろうと」 こどもはにこにことしている。裏表なくにこにこと。雪のちらつく年の瀬に、寒さで赤くなった手を擦って。男はといえばその笑顔に僅か不快感を覚えて顔を顰めた。あれほど必死になって父親の命をと言ったのはなんだったのか。 「家族と今生の別れになるだろうが、よいのか」 仏門に入るのであれば俗世の縁を切らねばならない。とりもなおさずあれほど縋りついた父親とも離れなければならないということだ。 幼子はさみしげにこっくり頷いた。なんとも哀れな姿であった。それでいて確かに人間の姿であった。 俺のせいだろうか、と男は一人幼子もいなくなった冷たいお堂の中で項垂れる。あの和尚が幼子を仏門に誘ったのには多かれ少なかれ自分が関わっているだろう。その企みに見て見ぬふりをしながら、男はひとりまた宵闇に向き合った。 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり」 阿弥陀如来が気が遠くなるほどの時間をかけてお考えになった本願をよく噛みしめてみれば、その永劫とも思われる時間は親鸞一人のためであった。親鸞聖人自らが口にした言葉を繰り返してみる。阿弥陀如来の深い慈悲は全て一人のために向けられているのだ、誰もを大衆のうちに閉じ込めず、そのお力に縋る一人のためにと本願をかけてくださっているのだ。 正しく仏徒であった時分にはほんの少しも理解せず胸の内を通り過ぎるだけだった言葉が、御仏に背を向ける身になってようやく解せるようになっている。なんという矛盾であることか。 「自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず」 自力作善に自惚れた自分には弥陀の掌から零れ落ちたも同じで、本願他力など願うらくもない。煩悩具足の我が身はこうして地に縫いとめられ、御仏の教えを捨てて身軽にならぬ限り再び六道の輪に戻ることもできない。 「……どだい無理な話だ」 首の傷跡はまだ引き攣れて、無残なぎざぎざを晒している。じきに、蛍火の魂が現れるだろう。自らに救えるなどとはもうこれっぽっちも思っておらず、ただ本願他力の功徳が彼らにあるようにと。 百八の珠をじゃらりと鳴らして男はそれらの炎を迎えた。 年が明けて、歳神が人々の戸を叩く。誰もがひとつずつ歳を貰う日に、しかし歳神は男の元を訪ねはしなかった。 去る年と変わらぬ姿で男はひっそりお堂にある。山にうっすら化粧をした雪が解け、虫らが地から湧き出し、また蝉が鳴きはじめる。それを十も二十も繰り返すと、はじめこそ毎日のようにやってきていた人々の姿もまばらになりだした。 どこそこの爺様が亡くなったから、だれだれの子は商売に忙しくて、そうやって一人、また一人と参る者がいなくなっていく。男はそれにもなんら口出しをしなかった。 山にあるものは山にそっとしておく。それと同じように人の中にあるものは人に任せるのが道理だとよくよく知っていたせいだ。十年、二十年、三十年と月日を繰り返せば人は変わる。神も変わる。変わらぬ神は作られた神である、とは誰かの言であるが、まったくもってその通りだ。変わらぬものはない。 男は日が出れば沢に水を汲みに行って、お堂の中を掃き清めてから、薬師如来に経を上げる前に小さな錫でできた器を囲炉裏の火にかけた。 水がふつふつと泡を吐き出し始める。それに蜜蜂からいただいたやわらかな巣を千切ってはぽとりと水の中に落としていった。匙でかき混ぜると水は黄金の糖蜜色になっていく。巣の塊がなくなったら火から下ろして、そのまま灰の隅に錫の器をどけておいた。 どけたままにしておいてから本堂に向かう。埃の積もった青銅の御仏に経を上げて、終わった頃には日がすっかり真上に上っていた。心がおろそかになっているつもりはない。だが、昔に比べればいささか移り気であるのかもしれない。 端に退けておいた錫の器を見れば、冷たく固まった黄金色が上澄み液のように浮かんでいる。やれ蜜蝋が固まった、と一度水を捨てる。布で軽く表面を撫ぜれば、つるりとした塊が手の上に収まっている。 ようし、とまた錫の器に戻す。それに亜麻の油を足す。それからよもぎの、濃く煮詰めておいた汁を上から注いでまた燻る日にかけた。蜜蝋と油とが溶けはじめる。半ば溶けたところで火から下ろして木の器に注ぐと、とろけた透明の液体が器の内側を満たしていった。 男は日々こうして軟膏であったり、またはどくだみの苦い葉を影に干してはくちゃくちゃに乾燥したものを丁寧に懐紙に包んで薬箱に入れておいたりしていた。 だれそれが熱を出したから見てくれと、うっかり怪我しちまったから治してくれと言ってくる、そのための常備だった。 静かに日は暮れていく。ゆるゆる熱を逃がしていく液体が粘り気を出し始めたところでひと掬いすればとろりと白い。べたつく指先にほっと息を吐いた 最後に人が訪問してから、どれだけ経ったろうか。日を数えてなどいないのでよくは覚えていないが、もう一年は過ぎただろう。年老いた爺が、昔にここでいたずらをしたことを懐かしく語っているのを聞いて、それからもう誰もいなくなったと肩を落として力なく歩いていった、その後ろ姿が最後だ。それでも薬を作り続けるのは染みついてしまった習慣といつか来るだろう別れのためだった。 夜も静かだ。あれほど男が一心に御仏の教えを説いていた炎もとうに立ち消えて、おかげで静かな夜を持て余している。 忘れられていく、忘れられている。何十年もの間閉じることのなかった目蓋をようやっと下ろしてみれば、それだけで肩の荷が下りるようだった。 夜の中にまどろむ。ことりと重い頭蓋を本堂の柱に寄りかけてなんにもない暗い庭を眺め、長い長い息を吐き出した。 いずれ朝が来るのだ。それまでは。 背に負う羽を力なく床板に流した男を、埃ですすけた薬師如来が変わらぬ微笑で見ていた。 人が訪れなくなった道はすっかり元のように下草で覆われ、そこに道があったのだということもわからなくなっている。それでも男は変わらず御仏に向かい、少しの飯を食べ、薬になるような山野のものを取りに行く。 また日が長い季節がやってくる。ヨモギの固い葉を抓んで、くるくると裏表を見ると透けた葉脈の緑色がとくとくと波打った。 むっと生温い風が通る。魃の吐息にも似た妙に熱い空気が西から吹いてくる。今年は雨が少ないかもしれない。魃が来た時はどうするんだったか、神よ北へと乞うるのがよいか。 ぬるい溜息を吐きながら、茹った温度をした木々に手を添える。日の射す木肌はひどく熱く、男の手を焼くようだった。どこもかしこも熱い。熱を蓄えて喘いでいるようだ。その熱にちりつく視線が交じっているのを、男は知らない。知らないまま、明るい陽射しの中に身を晒し草木を手折っている。 繁みに身を潜めた暗い羽織の人影を見つけることは、男にはついぞできなかった。 半夏生の仄かに白粉をはたいた花が水辺に涼やかである頃の話である。 かぁ、烏が啼くのを年老いた坊主は目を細めて聞いていた。人よりほんの少しだけ長く生きた体はすっかりくたびれてしまって、病魔に侵され思うさま腕を上げることもままならない。日が暮れるかどうかといった時分にはもう曲がった腰をそのまんまにして床に尻を着く。ごほ、と水っぽい咳が肺をせり上がった。 余命はいくばくもないだろう。次に眠る夜が最後かもしれない。日の落ちた暗い部屋に蝋燭を灯して、重い掻巻を羽織りしょぼしょぼとした目を擦りながら経典を広げる。広げるばかりで中身などちいとも頭に入ってこないのは、寄る年波のせいだけではないだろう。 目蓋を擦り擦り、平閉じされた本の背を撫でさする。ただ眠ることばかりが毎夜毎夜おそろしい。 しだいしだいに夜は更けていく。蝋燭の火がうわんと揺れて、羽を焦がした火取虫がほたりと落ちていった。ごほ、ごほ。肺を絞り出す咳が体を軋ませて、蝋燭の火を強く揺らした。橙の灯りが揺らぐ。強く白い光を受けた壁と、部屋の隅にわだかまった夜の明暗に咳払いをして、ひゅーと喉を鳴らす。 ごとり、夜の暗がりから音がしたようだった。 鼠でも出たか。さして驚くでもなく目を向けた先にいたのは小さな害獣でも、ましてなんにもない闇でもなかった。鬼面をつけた何者かが、誰もいなかったはずの宵闇の中に佇んでいる。 「だ、だ、誰じゃ」 面は沈黙している。男がひどく恐ろしがって床を蹴る間に静けさを湛えたまま蝋燭の灯りの下に歩み出て、背に負う黒羽を床に擦れさせた。 「お前、ああ、お前」 それに見覚えがあるといわんばかりにわななく指を目の前まで持ち上げた坊主は、目をかっと見開いて「護法童子さまじゃあないか」そう呼んだ。 正体がわかってしまえば何もおそろしいことなどない。幼い時分の曖昧な記憶がよみがえってきては坊主を懐かしがらせる。 「どんくらいぶりだったかねえ。忙しさにかまけてな、そうだなあもう五十か、もっとか」 しゃがれた声が答えも待たずに続いていく。俗世と縁を断って、毎日毎日御仏のためにと経を読み、気付けばこんな年になっていた。 それで、今日はどんな用向きであるのか。 「死に目でも見に来たんかい」 ごほ、と咳をする。重い咳だ。男はそれには答えずに、動きもしない鬼面の口からごくごく当たり前のように声を発した。 「もうすぐ俺はいなくなる」 ぎぃ、板戸の外で虫が鳴いた。 「いなくなる前にこれを託そうと」 男が鬼の面に手をかける。きっちり編み込まれた朱房が黒髪を滑って解けていく。鬼面はなんら表情を変えず男から引き離されるを是として、やがて俯いた顔が上げられた。坊主が子供の頃に見たっきりの蒼い目が下から現れて、ほうと感嘆の息を吐く。幼い時分にはようっとわかりゃしなかったが、ずいぶん端正な顔立ちをした鬼だ。人でないものの見目とはこうも美しいものか。 蒼い目を伏せた男は何も言わず坊主に鬼面を差し出す。昔からそうだった、この護法童子はひどく口数を少なくして、周りの思うがままにさせていたのだ。坊主は面を受け取って、こっくりこっくり頷いた。 「あんたは、まっこと護法童子さまだのう」 いなくなっても尚村を守りたいというか。鬼面を愛おしげに撫でる。また、咳が出た。そろそろ目蓋が落ちていく。目覚めぬ眠りがもう間際まで来ている。それでもなんらおそろしいとは感じなくなって、老人はこの眠りに身を任せる気になったのだ。 「まっこと」 それから禿頭の老人は大きく大きく最後の呼吸を堪能するように肺を膨らませて、長い時間をかけてそれを吐き出しきった。それで男は、この老人がすっかり生を終わらせてしまったことを悟ったのだ。 結局最初から最後まで彼らはこの鬼面をつけた男の名前すら知らなかったし、どれだけ恩恵を受けようとも顧みることはなかった。 冷たくなったしわくちゃの手を撫ぜながら男は今更のように 「俺は護法童子じゃないよ」と呟いた。 |