Novel
狐はひどく驚いた。目を瞬かせて、その男が為すことを草陰から息をひそめて見ておった。 まだ年若い頃合いだっただろう。自慢の尻尾もようやく二本になったところで、名を名乗ることだってついぞ最近覚えたばかりである。琥珀、と自らの毛並みの色を例えた名を狐は大層気に入って、事あるごとに吹聴しては得意がっていた。 人里から少し遠い開けた地は、山中に作られた墓地であるらしかった。卒塔婆だとか言う細長い木札があちらこちらに立てられて、そこに墨でぐねぐねと何か書き連ねておる。 琥珀は特にその場所に思い入れがあるというわけでもなかったが、時折通りがかるのに、妙に木のない地があるとの認識はしておった。そうしてたった今通りかかってみれば、見たこともない男らが三人、四人ばかり集い手に鍬やら鋤やら持って地面を掘り返しておる。 琥珀は繁みの中で立ち止まった。好奇心が勝った結果といえよう。 そうして深い藤色の瞳で、男らが何か話しながら土を掘り起こすのを見ておった。 男らは汗をかきながら、それでも一心不乱に土を掘っている。時折土くれに交じって木の欠片が落ち、ひどく腐って茶けた木切れをぼろぼろと地面に零している。ざくり、ざくり。ざくり、ざくり。 男らの密やかな呼吸が辺りに落ちる。誰一人として口を開かぬそのさまはなにかおそろしい秘密めいたものを抱いているようで、それが更に琥珀の好奇心を掻きたてた。鋤を振り上げる。下ろして、土くれがぱっと舞う。その中に白いものを見つけて、琥珀はおやと首を傾げた。石ころにしては細長いように見えたのだ。 男もその白さに気が付いたらしい。折り曲げていた腰を大儀そうに持ち上げるとその白いものを拾い上げて、やれやれと言わんばかりに息を吐いた。 骨だった。 墓場だから当然であると言われればそれまでだが、男らはめいめい墓を掘り返して骨を拾っておるらしい。盗掘だろうか、ならば脅して追い払ってやろうか。好戦的にも琥珀はそう考えて、しかし盗掘にしては墓がみすぼらしいと思いとどまった。ここにはどうあったって貴人が埋葬されているわけもない。せいぜいが村の名主止まりであろう。 盗掘ではないなら骨をどうするつもりなのだろうか。狐にはさっぱり見当もつかない。見当もつかないので、そのまま見ている。その視線に気づくこともなく、男らは骨をいくつも掘り出し、そのたんびに開けた場所の真ん中に寄せて集めた。 ごろ、転がる頭骨はかたちをそのまま残しており、虚空を抱く眼窩が繁みの奥に潜む琥珀をじっと見つめている。大も小も、ばらばらと積み重ねられた骨はいずれも白く石のように固まっておる。肉も皮も一片だってひっついてはおらぬそれは、長い年月埋められていたのだと感じさせる。 ようやく掘り出し終わったのか、男らがぞろぞろと集まって骨の周りに陣取った。そうして腰を落ち着けると、めいめいにしんどかった、だのお疲れさん、だの言い合いながら竹の葉でくるんだ粟や稗やらの握り飯をぱくつきはじめた。 まだ日も高い。高いうちにすっかり白くなった骨を山と積み上げて、その周りでがやがや飯を食う男という一種異様な光景に狐はすっかり目が離せなくなった。 日にあてられぬ土の匂いがする。清らな水の匂いがする。いずれも、人の死んだ匂いだ。 ぴぃ、鳥が呑気に鳴いた。ぴゅうるるるるる、高く遠く鳴いて、その声に男らもあれはなんの鳥だったか、さて里では聞かぬ声、と言っては笑っている。ひどく和やかに、死の傍で。 そろそろ始めっど、言ってがりがりに痩せた白髪混じりの男が立ち上がれば他の誰もが重い腰を地面から持ち上げて両手に持てるだけの骨を抱え込んでよいせと墓の中、一度掘り返した地面にそれらを丁寧に並べて置いていった。 山ほどの骨が、しだいしだいに埋められていく。掘り起こして、埋めて。なるほど小さな墓地に多くの人を埋葬するのにはこれが最も適した形であるらしかった。 ははあ、狐は頷いてなるほど人とは面白いことをするものだと納得した。地面の奥深くに積み重なるようにして並べられたそれは、恐らくその上にまた棺桶でも埋めて墓とするのだろう。 面白いものが見れたと狐が立ち去りかけた時、ふと最も若い男が重ねられた骨の傍にうずくまっているのが目についた。 自分に由来のある故人であったのだろうか。丁寧に泥を落としながら持ち上げいくつかを手に取って、その中でも指の隙間から零れてしまうほどに小さな欠片を抓んだ。 なにをするのだろう、離れかけた興味をそそる奇妙な行動。 欠片は指の骨であるようにも、またはどこかの骨が砕けたもののようにも見えた。他のいずれとも同じ白く角のとれた、大本の形を見ていなければ石にしか見えないであろうそれ。若い男はそうして横に置いてあった清水の満ちる桶で骨片をゆすぐと、そうするのがいかにも自然であるとばかりに白い骨片を口に放り込んだ。 ごり、がり、ぼり。 決して軽くはない音が響く。骨を噛む音だ。砕いて、咀嚼する音だ。 狐はひどく驚いた。目を瞬かせて、その男が為すことを草陰から息をひそめて見ておった。 一瞬だけ目を閉じ両手を合わせた若い男は平然として、変わらず他の骨を墓に埋め戻しておる。それをはっきりと見ておった年寄りもさほど驚いた様子も見せず、さっさと鋤を持って土饅頭の土を平らにならしはじめた。 驚いているのは狐だけのようだった。 鳥がひょーうと鳴いておる。足元には黄金虫のきらきらとした羽が朽ちかけてすかすかとした腹を見せておる。 狐が茫然とその場に立ちすくんでいるうちに男らはすっかり骨を埋め戻してしまって、やれやれといいながら日常へ戻っていってしまう。 日がしだいに暮れはじめた。なんでもないような日は橙にその身を焦がし死んでいって、雀色の空気が墓地に沈んでいる。こそり、微かな音を立てて狐は繁みからその身を滑らせた。くしゃり、空っぽの黄金虫を踏めば輝く羽はぱらぱらと乾燥した音をたててただの粒になる。 掘り返された地面がまだ乾ききらないくろぐろとした中身を出している。混ぜっ返された草はかわいそうに夏日の暑さで萎れ、狐の視線の先にむっと熱気を立ち上げている。 人が下って行った道を見、掘り返された墓を見、狐は焦げ茶の手をついて卒塔婆の立てられ、短い草の生えた地面に鼻をつけた。なんの匂いもしない。 地面を引っ掻いてみる。ほろ、とあまり根付いていない草は簡単にほつれて抜けて、水を含んだ暗い土が顔を覗かせる。光に驚いた地虫が慌てて逃げ出すのにも頓着せず、琥珀は前足をやわらかい地面に差し込んでは引っ掻いた。 日はだんだん暮れてゆく。鳥すら鳴き声を顰めた夜に、狐はひたすら墓を掘り返している。 やがてまだ形を留めた木の蓋が顔を見せ、ぶよぶよとしたそれに手をかければあっという間にぼろりと腐って崩れていく。 中には、小さな骨があった。 ぐずぐずに腐った木片が散らばる、辛うじてできた空洞の中に子供の細かな姿がある。 琥珀は、ふと獣の瞳から言いようのない感情が競り上がってくるのを感じた。生まれてこのかた手にしたことのない思いが喉の奥につっかえて、それがくるると声になる。 こどもの細い腕を、狐の牙が咥えた。 肉も皮もない細っこく白いそれはあっという間に自身を離れ、狐の口に収まってしまう。 土から引き揚げた、枯れ枝より尚細い白い子供。特に美味しそうとも思えない。肉のついていない、ただの骨。しかし狐は迷いなくそれに齧りついた。 ごり、がり、こどもの細い骨はあっという間に砕かれて、すっかり胃の腑に落ち込んでしまう。そうしてなんにもなくなった地面を見て、なんでもない空を見て、狐の瞳からほろり、涙が零れた。 けぇん、鳴く。けぇん。 まだ人になれない狐の声は、か細い銀月にいつまでも響いていた。 |